<   2010年 02月 ( 3 )   > この月の画像一覧
石鼎俳句鑑賞・2月                  草深昌子

   我を見て一声なきぬ孕猫        大正12年

 石鼎の「猫の恋」なら何と言っても、

   山国の暗(やみ)すさまじや猫の恋  大正2年

であろうか。

   星々をよぶかに猫の恋はげし     大正8年
   恋猫のごうごうとして藪の月        〃

という清新なる句もある。
 宇宙空間を大きく取り入れたこれらの句に見るように、妻恋いの猫が旺盛になき叫ぶ声は、早春の夜を徹してすさまじいものがある。

 掲句は、そんな獲得合戦も終了して、しかと子を宿した妙齢の猫にちかぢかと対面した句である。この至近距離がユニークである。
 ニヤオ―と少々甘ったれて鳴かれた石鼎の心情は、孕み猫そのものの心情にいたく入り込んでいるようである。
 だからといって、この心情を読み解く事はできないし、読み解いても仕方ない。
 孕み猫から石鼎に通じた何とはなきものが、今度は読者に何とはなく入ってくる、その何とはなき雰囲気が、一声という措辞に尽きている。人の気持ち、いや猫の気持ちなんて、全てが分かるわけはないのだもの、一声で充分、というところである。
 気持ちというより猫は威嚇したのかもしれないが、ここはやっぱり生きもの同類として何かを訴えたように受け止めたい。しかるに、石鼎は男である。
 やがて、〈孕み猫われをみつめて去りにけり〉となる。

 昭和11年、石鼎全句集には恋猫を主題とする句が18句連なっている。一連のせいもあろうが、掲句よりむしろこっちの方が力強い。

   窓にきて夜半いみじさや猫の恋
   孕猫いたくよごれてねむり居り   
   春日猫いときよらかにねむり居り
   濃(こまやか)にのどしろたへや春女猫
   まひる来てのど白妙や春女猫
   白たへの雪をあざむく春女猫
   白妙の雪をわたりぬ猫の恋
   耳かいてまたねむりけり孕み猫
   孕み猫よごれてほそるはうしろ脚
   虻にさめてはまぶしみ寝ねぬ孕み猫
   三だんに落ちし音あり猫の恋
   夜半の地に二声ばかり猫の恋
   恋猫に大地の春をしりにけり
   この谷に恋猫見たり家やあらん
   通ひ猫塀をまがらふ尾と脚と
   青木の実かぶりのぞきぬ大牝猫
   苔深く通へる猫に青木の実
   庭に来て若き虎斑の春女猫

 つぎつぎと展開する恋猫の様相には、まるで紙芝居に見とれる子供のように眼が爛爛としてくるのが自分でもわかる、ついには、おもしろーって独り言をもらしてしまう。
 石鼎は、少しも硬くならないで、ただ一人、じっと恋猫のありように目を据えている。
 作者が猫になりきってしまうから、猫もまた生きて命を得ているのである。

 吉野時代の格調高き句も無論好きであるが、この些事細部に徹した、何でも無い俳句もまた石鼎の面目に違いないと喝采する。
 ふと思い出したが、高野素十の〈風吹いて蝶々迅く飛びにけり〉をおもしろいと言ったら、高名な詩人にそんな俳句のどこがいいのか全くわからないと一笑に付されたことがある。
 それと同様、石鼎のタダゴト俳句も、わかる人にはわかるが、わからない人にはわからない無力な句であろう。そのあたりも、俳句という詩型の魅力かもしれない。

 かにかく、石鼎ほど無私なる俳人はいないと思うが、一方、私としてのものの見方を明確に打ち出す俳人でもある。
 石鼎の面目はむしろ主情の濃い句の方にあるだろう。その主情は表にどんと出たり、裏に潜んでいたり、横に逸れていたり、さまざまであるが、全く自由自在である。
 人とは違う物の見方があって、何を言いたいのか中心がはっきりしている、そこが至芸というものであろうか。
 石鼎の主観は、客観として現れる。てのひらに表と裏があるごとく、主観も客観も離しがたく一枚である。

 たまたま恋猫が並んだ句々から、そんな石鼎の「われ」が客観写生と矛盾しないことを感じさせてもらえた。 猫の喉の白妙がいつしか、白妙の雪に変貌しているのも納得されるし、散々写生したあとで〈恋猫に大地の春をしりにけり〉が引き出されることにも同感である。
 ただ春を知ったというのなら観念であろうが、「大地の春」とくると、ここはやっぱり「三だんに落ちし音」まで聞きとめた石鼎ならではのものである。

 ここで、「晨」創刊25周年記念大会における大峯あきらの講演「季節と言葉」の一部が思い出された。

 石鼎の俳句に、〈空山へ板一枚を荻の橋〉があるが、その「荻の橋」という題で鹿火屋に発表された石鼎の文章に触れて、本当の言葉が生れるのはどのようにしてかということを考えさせられたというのである。長くなるが引用させていただきたい。

 月夜の晩に高見川の激流の上にかかっている橋の真ん中に立って尺八を吹く時の話であるが、はじめはいくら力を入れて吹いても、尺八の音はごうごうたる激流の音に消されてしまって聞こえない。そういう時「目をつぶったまま胸一杯に吹きこむ」そしてなおいろいろと工夫しているうちに、少しずつ尺八の音が戻ってくる。そのことを石鼎がこう書いている。
 「さうするうちに不思議にもだんだんと音が調って聞え出して来る。耳を蔽ふ程の水音も次第々々に低くなって、只自分の吹く尺八の音色のみが冴えて聞える。その音色こそ、實に一切の物音のほかにたってゐるやうである。」(「鹿火屋」S3・2)

 以上のことを大峯あきらは述べながら、次のように総括している。
 「石鼎は尺八のことを言っているのですけれど、尺八のことはまた俳句のことでもあるわけです。本当の俳句の言葉は、自分の主観的な思いをただ外へ叫んでいる言葉じゃないのです。そんな思いが、自然の中をくぐり抜けて、いったん否定されてもう一回息を吹き返してくる、死んで甦ってくる、それが本当の詩の言葉です。
 私は石鼎の俳句方法論の秘密がここにあるように思います。石鼎は尺八のことを言いながら、俳句の言葉とは生(なま)の言葉ではなく、生の言葉が一度自然の音の中へかき消されて、そこから再び生き返ってきた言葉、これが詩的言語というものだと言っているのです。石鼎の秀句はどれもそんな構造をもっています。
そうするとどうも、現代俳句はあまりにも生の言葉が多すぎるようです。自分の言いたいことを言ってるだけで、自分の主観的な情緒の表出に過ぎない言葉は一度自然にかき消されなければ駄目なんです。自然の言葉というものの中にいったんかき消されて、そこからもう一度生れた言葉、自然の言葉と交響している言葉が本当の詩の言葉です」
 このあと芭蕉に触れ、詩的経験とは自我が破れるということであると諄々と説かれている。

 孕み猫が、図らずもこんな言葉のあるところへ誘い込んでくれた。
 あらためて、石鼎の詩的言語に心をおきながら、今後とも石鼎の俳句を読み込んでいきたいと、願っている。

(ブログ「原石鼎」・2010年2月10日UP)
by masakokusa | 2010-02-11 00:09 | 原石鼎俳句鑑賞 | Comments(0)
花野                           草深昌子

         
   母と娘に生まれあはせし花野かな   正木ゆう子

 
 母は平成21年10月、100年と2カ月を生きて永眠した。
 満百歳の誕生日に、「待ってましたーっ」とばかり孫たちは喜んで、薔薇百本を贈呈したのであったが、むしろ母の方が点滴に繋がれながらも頑張って、私たちに達成感をプレゼントしてくれたのだろう。
 明治、大正、昭和、平成と四つの世に渡った百年であった。

 母は燃える太陽そのもので、蝶よ花よと私達姉妹にありあまる愛情を注いでくれた。
 同じ屋根の下に住んだのは23年でしかなかったが、結婚後も何度も里帰りをして、甘えの限りをつくした。だが、私自身が孫を持つ身になった頃からであろうか、いつしか立場は逆転した。ことにここ数年、年相応の呆け症状が現れると、母の全てが魅力的で、世界一大好きと言ってはばからなかった私も少しずつ、母離れが出来てきたように思う。
 天寿とはいえ、別れは一度きりの事であって、私は一体どうなってしまうのかと怖れていたが、不思議なほどに冷静である。
 一時は深い鬱状態に陥ったが、やがて、母はいつも私の右肩あたりにくっついていて、一緒にいるような気がしてきた。死んだという実感がないまま私の身近に生きているのである。甘えん坊の末っ子が取り乱さないように、母は二段階に、徐々に徐々に、この世を去っていってくれたのだった。

 一方で姉は電話のたびに泣き声を出している。思えば姉は後継ぎとして婿養子縁組であったから、生まれて69歳の今日まで、一日たりとも母と離れたことがない。最後の最後まで姉は手厚く看取ってくれた。それでももっと何かしてやれることがあったのではないかと悔やまれてならないという。その喪失感は察してあまりあるものである。

 葬儀は内々で、ただ花が大好きだった母のために花だけは惜しみなく飾りましょうと決めていた。ところが偶然の連鎖によって誰彼に知れるところとなり、驚くほど大勢の方々が参列してくださった。
 私はこれが友人知人にすっかり先立たれた百歳の葬儀かと眼をみはった。人さまが好きだった母が、心から礼を言いたくて、手繰り寄せた糸であったのかもしれない。
 胸を打たれたのは、柩に花を納めるとき、若い女性が十人ばかり母に取りすがって、泣いて泣いて、声にならない声をかけながらいつまでも別れを惜しんで下さったことである。二年間お世話になった老人ホームの介護士の方々であった。
 母の人生最後の友人はこんなにも若いこころやさしいお嬢さん方であったのかと、姉と二人で喜びあった。 
 思えばこれも母の子孝行であったのかもしれない。自分を責めて嘆いてばかりいる姉に、「ほらね、うんと楽しかったよ」と納得させてくれたのだった。
 この齢まで共に暮らせたなんて贅沢なことでした、と姉は取り直している。
 私もまた、よき母とあった一と世が花野のように華やいで、いつまでも余韻を引いている。
by masakokusa | 2010-02-01 09:59 | 俳句はめぐる | Comments(0)
秀句月旦・平成22年2月
   門前の花売切れし涅槃哉        西田幾多郎

 『西田幾多郎歌集』岩波文庫(2009年11月刊行)に見出した、哲学者西田幾多郎の俳句は89句。
 他に、<春寒き雨が降るなり勝手口>、<草餅や桃の花咲く浄土寺>、<摘草や木の根にはたく下駄の土>など。
 掲句は明治37年、34才の作品。
 陰暦2月15日は釈迦が入滅した日。この日各寺院では涅槃図を掲げ、涅槃会を営む。涅槃図や涅槃会そのものには触れず、「門前の花売切れし」ところに目を投じたところ、かえってあたりに清々しさが漂う。

 哲学者の実人生は苦難の連続であった。大正12年、53歳、すでに長男を亡くし、妻は病み、子も病んでいた頃の短歌に次のようなものがある。
 追い詰められながら、いっそう深くなる心というものが不思議に思われる。

  詩や歌や哲理の玩具くさぐさとわれとわが身をなだめても見る
  われ未だ此人生を恋ゆるらし死にたくもあり死にたくもなし
  わが心深き底あり喜(よろこび)も憂(うれひ)の波もとどかじと思ふ
  夜もすがら争ひあひし鬼と仏あくれば同じ兄弟(はらから)の中

f0118324_1341285.jpg


  
   この堂のとどめし雪崩とぞ見ゆる    皆吉爽雨

 雪崩は春先の気候の激変によって山岳地帯などの積雪が山腹を崩れ落ちる現象であるが、掲句の雪崩もまた眼前に辷り来るような勢いがある。
 爽雨は福井市の出身で、<天懸かる雪崩の跡や永平寺>もあるから、この堂というのは永平寺であろう。 霊験あらたかなる大寺をもって雪崩を食い止めているのだという感慨が、「とぞ見ゆる」であって、読者もまたはるけき光景に思いを致すのである。


   ふろしきの紫たたむ梅の頃       大峯あきら
 
 紫が早春の空気感を伝えて、文字通り手に取るように清潔な一句である。
ふろしきをたたむという、少し威儀を正した趣きも、人々の鋭い季節感の感受をあらわしているようである。
 「梅の頃」は、例えば「梅の花」でもよさそうなものであるが、この一字の違いは大きい。詩情が生れるか生れないかというわかれめ。このことを作者自身も次のように述べられたことがある。
 「―<ふろしきの紫たたむ梅の花>といったら、紫のふろしきがあって、そこに梅の花が咲いているというだけの取り合わせの句に過ぎないが、<梅の頃>というと村人たちのくらしについてもいろんな連想がひろがってくる―
 そういうところに季語のはたらきの不思議があるわけです。では、どうして<梅の頃>なんですか?と質問されても、これは教えたり説明したりできません、その人が感じなきゃならんので、感じることまで教えられないですから、ご本人が感じなければそれまででしょう」

f0118324_19533913.jpg



   春寒のよりそひ行けば人目ある      高濱虚子
 
 三省堂の虚子編『新歳時記』、手元にあるのは平成13年改訂68刷発行のもの、表紙には大きく「花鳥諷詠」とある。
 季題ごとに、蕪村、太祗、也有、召波、鬼城、水巴、友次郎、等々錚々たる作家の例句が並んであるが、その最後はたいてい虚子の一句に締めくくられる。
 この虚子の句にきて、ぐっと季題の実感が立ち顕れるというか、なるほど!といたく納得、余韻をたっぷり味わうという塩梅である。
 掲句もご多分に洩れぬもの。ちなみに、作者51歳の作。冬の寒さと春の寒さの違いが一目瞭然である。
 この頃の季感の句としては他に、<冴かへるそれも覚悟のことなれど>、<鎌倉を驚かしたる余寒あり>、<化粧して気分すぐれず春の風邪>、<妹が宿春の驟雨に立ち出づる>、どれも唸らせるものである。


   春たつやどこがどこかとも無けれども   松瀬青々

 立春と聞くだけで、何やらこころがなごんでほっとする。そういえば、日脚も伸び、木々の芽生えも盛んである。雲の浮き方も違えば、犬ふぐりだってもう咲いている。 
 子供が枯田道を駆けてゆくさまも、ゴムボールのように何やら弾んでみえる。
 かにかくどことなく春がやってきた、その実感を率直に、大ざっぱに表出する勢いの良さがすでに春到来のよろこびである。
 それにしても、「どこがどこかとも」等という字余りにして舌のもつれそうな言い回しは、大阪人、青々ならではの芸あるところである。
 茨木和生編『松瀬青々』によると、青々の考えの一部にこんな言葉があった。
 「詩人とは何ぞや、ひろく人類に代って囀る鳥である。であるから、その聲が大で、力あって、人類に響かなければならない」
 

   風二月顔よごれきる塞の神         原 裕

 塞の神はサエノカミ、道祖神のことで、集落の外部から侵入してくる疫病や災厄をもたらす悪霊を防ぐため、村境や辻に祀られる。
 ここ厚木市域でも道祖神を祀る地点は200ケ所ほどあって、先年これらの陰陽石や丸石、男女ニ体の石像などさまざまの塞の神を、「厚木の歴史探訪書」を頼りに尋ね歩いたことがあったが、おかげで厚木市の地図が大体のみこめたものである。
 その時の印象が、掲句からなつかしくよみがえってくる。二月のきらめく日差し、風の冷たさに加え、山影の風情など、渺渺とした日本の風土である。
 二月は早々に立春があってすでに春に入っているが、実際は一段と寒気が厳しく、「顔よごれきる」には冬のとどめをさすような趣がある。


   病床の匂袋や浅き春           正岡子規

 日差しは明るくありながら、冴え冴えと冷たい二月。
 病床のたしなみとしてある匂袋は、あるかなしによき香りを清らに漂わせているのであろう。まるで浅き春の空気感そのもののようである。
 うら若い身空を、病床に貼り付けにされたままであるというのに、子規の感受性の健やかさ、鋭敏さ、静けさ、初々しさには驚かされるばかりである。

 子規は、明治34年1月16日から『墨汁一滴』を書き始めた。明治34年と言えば死の前年のことであり、その病状は無残なものであった。

 「人の希望は初め漠然として大きく後漸く小さく確実になるならひなり。我病床における希望は初めより極めて小さく、遠く歩行(あるき)得ずともよし、庭の内だに歩行き得ばといひしは四、五年前の事なり。その後一、二年を経て、歩行き得ずとも立つ事を得ば嬉しからん、と思ひしだに余りに小さき望みかなと人にも言ひて笑ひしが一昨年の夏よりは、立つ事は望まず坐るばかりは病の神も許されたきものぞ、などかこつほどになりぬ。しかも希望の縮小はなほここに止まらず。坐る事はともあれせめて一時間なりとも苦痛なく安らかに臥し得ば如何に嬉しからんとはきのふ今日の我希望なり。最早我望もこの上は小さくなり得ぬほどの極度にまで達したり。この次の時期は希望の零となる時期なり。希望の零となる時期、釈迦はこれを涅槃といひ耶蘇やこれを救ひとやいふらん。」(1月31日)

 子規の随筆にみる精神の凄みに圧倒されながら、掲句の「浅き春」にたちかえると、またほっと救われるのである。


f0118324_011581.jpg

by masakokusa | 2010-02-01 00:56 | 秀句月旦(3) | Comments(0)