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石鼎俳句鑑賞・9月                   草深昌子    
               
                               
     一もとの芭蕉につどふ子規忌かな      石鼎


 それとなく集まった日がたまたま子規忌であったということも考えられるが、ここはやはり子規忌を修するために句会か何か集いをもったのであろう。それにしても、「一もとの芭蕉につどふ」は、あまりにも淡泊な詠いぶりではある。
 だが、と思う。「一もと」には石鼎の心が入っている。先月にも触れたが、語感というものは不思議で、これが「一本の」であったらそれこそそっけないが、「一もと」には対象へのぬくもり、一木を包み込むようなまなざしが感じられる。一もとの芭蕉がまるで必然であるかのように戦いでいたことに石鼎の感慨がこめられている。
 また「つどふ」がいい。子規の病床には絶えず人が集った、また蕪村忌の集いは何より子規の楽しみであったことも偲ばれる。

     芭蕉破れて雨風多き夜となりぬ      鳴雪
 に見るように、その裂けて破れやすいところが芭蕉の本情とあって「芭蕉」は秋の季語となっている。
 「芭蕉」からは同時に、松尾芭蕉を思い起こさせる。芭蕉ははじめ桃青を名乗っていたが深川の庵に芭蕉を植え、破れやすい芭蕉に自分の姿を重ねて、やがて自らも芭蕉と名乗ったのである。
 その俳聖たる芭蕉の批判者として子規は俳壇に登場した。子規の主張は芭蕉を神格化する宗匠への批判であったが、勇気ある芭蕉批判、蕪村称揚、写生の手法等、子規の俳句革新のおかげで俳句は生き残った。
 かにかくに、読者もいつしか子規忌の輪の中に参入してしまった。余計なことを語らずして念力ある一句は、やはり石鼎ならではのものと思われる。

 石鼎は、大正10年に「鹿火屋」創刊を果たしている。この年、内藤鳴雪が石鼎の家を訪問していることを、岩淵喜代子氏の『石鼎評伝』によって知った。同じ麻布に住んでいた縁であるが、「その日、75歳の鳴雪を、笄町の自宅まで送った石鼎は35歳だった。帰ってきても、部屋の中に甲高い楽しそうな声が残っているような興奮を感じていた」と、臨場感たっぷりに書かれている。
 鳴雪は子規派の重鎮である。この翌年の一句は鳴雪との出会いの余韻を引くように思われて興味深い。
 石鼎の生涯に子規忌の句はこの一句のみである。

 (ブログ「原石鼎」・平成21年9月8日UP)
by masakokusa | 2009-09-08 23:04 | 原石鼎俳句鑑賞 | Comments(0)
平成21年9月~昌子週詠

     9月28日(月)

          秋深きところ薬用植物園
          蛇瓜のへびとなるまで秋日濃き
          スカートの地べたに触るる木の実かな
          鳥渡る土俵になにやかや被せ
          井戸水を汲んで眼の澄みにけり
          煮しめたるものの匂ひの秋日かな
          ロッキングチェアーに見たる草の花    


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     9月21日(月)

          カステラの喉越し子規の忌なりけり
          どこそこの蚊となく喰はれ獺祭忌
          葛の花へりくだるなくゐばるなく
          鶏頭に君おもはざることはなき
          くらがりに光る畳や萩の風
          小鳥来る堰の大きく曲がりけり
          難所とふしきりに水の澄むところ


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    9月14日(月)
      
          水澄みて七面鳥は鳴きにけり
          佐渡のどの軒も錆びたり野紺菊
          石ころも貝も木つ端も澄みにけり
          色変へぬ松を戸毎に祭かな
          人の手に触れてつめたき秋の空
          打首のやうなるこれも案山子かな
          豊の秋鴨居に頭あたりけり

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     9月7日(月)

          お砂場の外も砂地や秋の風
          蜘蛛の尾か頭かいづれ澄みにけり
          木は朽ちて鉄は錆びたる薄かな
          秋の蟻手のおもてから手のうらへ
          おもふこと口に出てゐる秋の風
          二人して破れ蓮に濡れにけり
          てのひらにこぼれていのこづち稚き


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by masakokusa | 2009-09-06 22:33 | 昌子週詠 | Comments(0)
秀句月旦・平成21年9月
   刻々に大秋晴となる如し     皆吉爽雨

 「コクコクに」、ここには作者のときめきが聞こえるようである。また、「大秋晴」は、どこまでもスケールの大きい秋晴を打ち出して、いやがうえにも晴れやかである。
 こんな気持ちのいい一句をものにした作者の爽快感はいかばかりであったろうかと察すると同時に、その気分が率直に伝わってくるものである。
 爽雨は写生一途の作家であった。
<返り花きらりと人を引きとどめ>、<さわやかにおのが濁りをぬけし鯉>等々、明快にして人品高き句は、読むほどに清々しく、新しい。



   桔梗や子の踝をつよく拭き     山西雅子

 母と子が向き合った情景ながら、ほのぼのというような甘いものでなく、凛々しい純潔な心性を感じる。
 一読して身の引き締まるような美しさは、突き放した距離感がもたらすものであろう。この子は男の子の印象が強い。母親は背中を見せているだけで、母よりも子供に焦点が絞られている。賢い子に育っているのであろう、その透き通った眼の表情が愛くるしい。
 秋の草花は大方は群れて咲いている風情が感じられるが、桔梗といえばくっきりと一輪紫濃き色が目に浮かぶ。「桔梗」は他の何ものともとりかえられない、つまりは作者の愛情は桔梗の本情に凝縮されてあるのだろう。
 ここで<桔梗や男も汚れてはならず  波郷>を持ちだすのは不注意かもしれないが、「桔梗」といえば思い浮かぶ波郷の一句に、あらたに雅子の一句が私の胸中に並んだのである。


   健啖のせつなき子規の忌なりけり     岸本尚毅 

 全く子規という人物はこの一句に尽きると思う。健啖をおもえば子規、切なさをおもえば子規である。
 「健啖の」「せつなき」という付き方、「せつなき」「子規」という付き方、「健啖のせつなき子規の」「忌なりけり」という付き方、つまりは一句まるごと子規忌以外のなにものでもない、最後までグイーっとひっぱってゆく、そのストレートさが子規そのもの。
 掲句は、岸本尚毅の第三句集『健啖』所収。赤尾兜子主宰「渦」入会後、兜子逝去に伴い退会、波多野爽波に師事。平成3年、爽波死去の後、「自分の俳句を自ら律する必要に迫られた私は、あらためて写生という俳句の基礎を学ぶことに努めた。そうした中から生まれた作品をまとめたのがこの句集だ」。
 『健啖』たるタイトルは作者の健啖ぶりを発揮するものでもある。

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  去来忌の抱きて小さき膝がしら      赤尾兜子

 去来忌は9月10日。芭蕉の弟子、蕉門十哲の一人である向井去来は、1704年9月10日に没した。嵯峨野に「落柿舎」という庵をかまえ、芭蕉もここに滞在して「嵯峨野日記」を書いたことで知られる。この落柿舎の裏側にただ「去来」とのみ彫られた30センチほどの少し先細りの石が、その人の墓である。
 高浜虚子に、<凡そ天下に去来ほどの小さき墓に詣でけり>という、上五が何と13字という字余りの名句があるが、この「小さき」を意識的に兜子は引いたかもしれない。
 同時に墓のかたち、墓のあり様が「抱きて小さき膝がしら」を彷彿とするものでもある。それは又、兜子が去来に心を通わせている姿でもある。そこには芭蕉とのやりとりも当然反芻されたであろう。
 赤尾兜子は前衛俳句を主導した俳人であるが、昭和56年、自宅付近の阪急電車踏切で急逝された。そのショック以後、師を顕彰してやまない木割大雄の「カバトまんだら通信」第三期一号に掲句を見た。
 読者をシンとさせる勁さがやさしい。


   馬追の緑逆立つ萩の上       高野素十

 馬追という虫の貌を見定めないが、その声は「スイッチョン」である。図鑑で見るとまさに掲句の通り、萩のような丸い葉の上に、「緑逆立つ」翅を見せていた。よくぞまあここまで描写一途であることよと思うが、やはり表現の妙手ではある。
 30数年も前の村野四郎著の「現代の俳句50選」の中に採られている。
 ―その合目的で簡素な言語構造の冴え。とくに「緑逆立つ」などの微妙な言葉の機能を、若い俳人諸君も、謙虚に学びとった方がいい。―
 他に選ばれた秋の句では、<トンボとまり直して風がすずしい  井泉水>、<あきかぜやわが胸中のさるをがぜ  楸邨>、<野菊まで行くに四五人斃れけり  枇杷男>、<白露や死んでゆく日も帯しめて  鷹女>、等、前衛を愛しつつ、即物性を尊ぶ。


    秋もはや塩煎餅と渋茶哉     子規

 朝 粥四椀、はぜの佃煮、梅干し砂糖つけ
 昼 粥四椀、鰹のさしみ一人前、南瓜一皿、佃煮
 夕 奈良茶飯四椀、なまり節煮て少し生にても  茄子一皿
 この頃食ひ過ぎて食後いつも吐きかへす。二時過ぎ牛乳一合ココア交ぜて、
 煎餅菓子パンなど十個ばかり
 昼飯後梨二つ、夕飯後梨一つ

 明治34年9月2日、子規は母や妹に支えられながら、かにかく一口一口、秋の味覚を味わっていた。
 子規が、病床日録ともいえる『仰臥漫録』の筆を起こしたのはこの日からである。
 『仰臥漫録』は、生前には親近者にも示されなかったという。文字通り、仰向けのまま命旦夕に迫るまで書き続けて、翌明治35年9月19日午前1時ついに絶命した。



   沈黙のたとへば風の吾亦紅    綾部仁喜

 ぽつねんたる吾亦紅、見過ごしてしまいそうな小さな花だけれど、その存在感は大きい。「風」の一語が一句にさりげなく行き渡っている。吾亦紅のからめとった風はひそかにも語ってやまない言葉のようである。
 芭蕉と石田波郷の俳句観を俳句の原理原則と思い定め、「俳句以外の何ものでもない俳句」を追求する俳人綾部仁喜は、平成16年以来、人工呼吸器によって病院生活を余儀なくされている。
 「わたくしは俳句性の最たるものは沈黙だと思うのです。言葉を使って、沈黙・無言を表現するところに俳句の最大の特徴があると考えています」、平成17年筆談によるインタビューの中で答えておられる。

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by masakokusa | 2009-09-01 00:33 | 秀句月旦(2) | Comments(0)