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晨創刊25周年記念祝賀・同人挨拶     草深昌子           

 神奈川県厚木市から参りました草深昌子と申します。
 20周年の時の記憶がまだ昨日のように思われます。
 早くも5年が経ったことにひどく驚いています。その時は田中裕明さんもご一緒でした。
 さきほど読売新聞の浪川さまがいいお話をされました。最近、文学に対する心が薄れて来ているとおっしゃり、そんな中で俳句が元気なのは何故かと問いかけられました。「俳句研究」の石井さまがおっしゃいましたが、私は俳句は座の文学だからだと思います。座の文学ということは、選句をすることが大変大事なことだと思っています。
 大峯あきら、山本洋子という選者を擁する「晨」はすごい同人誌だなと思い、日頃からとても感謝しています。このことを一言申し上げたいと思っていました。

(2009年6月28日 晨創刊25周年記念大会 於・ウエスティン都ホテル京都  
 挨拶・代表同人大峯あきら 
 来賓祝辞・文芸ジャーナリスト酒井佐忠、角川SSコミニュケーションズ俳句研究編集長石井隆二、 
 毎日新聞学芸部大井浩一、角川書店俳句編集長河合誠、読売新聞社文化部浪川知子)
 
by masakokusa | 2009-08-31 11:51 | 挨拶文・書簡・他 | Comments(0)
「晨」作品鑑賞・大峯あきら


   余花朗にはたして夕立来たりけり       草深昌子


 堅田の「余花朗」は湖を一望にできる趣きのある宿である。
 夕立が来そうにしていたが、案の定、大夕立に包まれてしまった。この句のよさは、何といっても、「余花朗」という固有名詞がいきいきとはたらいているところにある。
 今回この作者の句作は実感にもとづいていることを納得させた。
 <赤ん坊に足袋はかせたる祭かな>、<門入ると襖外してゐるところ>

(2009年9月号「晨」第153号所収)
by masakokusa | 2009-08-31 00:31 | 昌子作品の論評 | Comments(0)
晨作品鑑賞・山本洋子


   門入ると襖外してゐるところ     草深昌子


 その門を入ると、主は客のために今や襖をはずしている所であった。座敷に庭からのここちよい風がふきとおる。「襖をはずす」という季語の発見が生きている。
 <赤ん坊に足袋はかせたる祭かな>、祭を迎える華やぎと赤ン坊まで祭に参加させる敬虔な思いがあらわれている。

(2009年9月号「晨」第153号所収)
by masakokusa | 2009-08-31 00:28 | 昌子作品の論評 | Comments(0)
題詠特選・中島鬼谷

   
   百歳の目つぶる秋の扇かな       草深昌子


 ゆるやかに揺れる秋の扇から送られるすずやかな風に、瞑目する百歳の温顔。
「長生きは得でっせ」は青畝の名台詞。

(2009年9月号「晨」第153号所収)
by masakokusa | 2009-08-31 00:24 | 昌子作品の論評 | Comments(0)
晨集散策・大槻一郎


   初桜一字一句に子規は生き       草深昌子


 子規の桜の句。<花十日五日は雨に降られけり>は二十四歳の時の句で、じりじりとして落着かない健全な青年時代の句である。
<夕桜何がさはって散りはじめ>は、三十四歳で亡くなる一年前の句である。
 「一字一句」が短い子規の永遠を詠んでいる。

(2009年9月号「晨」第153号所収)
by masakokusa | 2009-08-31 00:20 | 昌子作品の論評 | Comments(0)
石鼎俳句鑑賞・8月                  
                                                              
    新涼の朝ほどなりし地震かな    石鼎
 
 立秋を過ぎた涼しさを地震もろとも一と掴みにして詠いあげた。
 突出したことばはどこにもなく、さらっと読み下して、どの一字一句も全体になじんでいる。一句丸ごとが新涼たる季感そのものである。
 何でもなさそうな言葉こそは磨かれてあるのだと思う。
 たとえば「朝ほど」。おり、ころ、を表す「ほど」が、ころあいのよい「ほど」をも感じさせて、地震は新涼と一体になっている。リズムと内容が調和しているのである。

 掲句は昭和2年、この句に続いて、
  
    新涼やはたとわすれし事一つ
    新涼の庭に下り立ち今日もあり   
    新涼やなほ咲いてちるおいらん草 
    新涼やうすじめりしてくるる庭

 『原石鼎全句集』によると「新涼」の句は大正6年の〈新涼や団扇重ねて卓の上〉から昭和10年の〈新涼や二度の午寝も恣〉まで、合計23句あった。

 大正11年は、6句が連なっている。
   
    新涼や子とつれあそぶ大山蟻
    新涼や蕾してゐる庭菫
    新涼や実をむすび居る庭菫
    新涼や菫かかげし実と蕾
    新涼や菫は措いて苔けづる
    新涼や日に影うつる鳳仙花
 
 石鼎にならって庭に下り立ち、あらためて、ひともとの菫を観察したら、確かに蕾のようなものができている。さらに目をこらすと、蕾状のものはその中に種を持っていて、なかには大きくはじけているものもある。
 どう詠えば新涼らしくあるか、どう細工すれば新涼となり得るかではなく、石鼎にとってどの一つ一つも新涼にほかならなかった。新涼は石鼎の趣くままにある。時も心も当然うつろう、移ろったそこへまた新涼がやってくるという具合である。
 作者の一挙手一投足がそのまま俳句になっていく。
 一連の句を読むと、
〈こくめいに生きて句に住む寒椿 石鼎〉がまこと納得させられる。

 「新涼」23句中、最も好きな句は次の2句である。

   新涼の大雨とこそ思ひけり
   新涼の笹に生れて露ひとつ

 ところで、「笹に生れて露ひとつ」というフレーズによく似た句がある。
 高橋淡路女の、〈短夜や笹の葉先にとめし露〉である。淡路女の「短夜」には女性ならではのやるせない感受が光っている。
 片や、石鼎の句は、世俗にまみれることのない男のロマンだと思う。たしかに、「こくめいに生きて」いる石鼎ではあるが、生活に齷齪するよしもない純然たる男の句だと思う。だからこそ、女の私は石鼎に癒されるのかもしれない。

 石鼎の吉野時代の作品はいつ読んでも圧倒される名吟ではあるが、ある日、ある時、ふとみかけた深吉野時代以外の石鼎の句によほどかなぐさめられることがある。
 それらはことごとく、「なるほどねー」というただそれだけの実感、臨場感にほかならない。雲の上の石鼎でなく、私の隣にいる石鼎である。石鼎が、そこにそのように見たもの、感じたものが、今も手に取るようにわが眼前に繰り広げられることのなつかしさ。

 どこから引用したものか定かではないが、石鼎の言葉を、句帳に書きうつして持ち歩いている。
 「心持を出来るだけ低めて、即ち親しみて物を見る。その時きっと、見らるる方のものに、一種の輝きが認められる」

(ブログ「原石鼎」・平成21年8月10日UP)
by masakokusa | 2009-08-10 20:51 | 原石鼎俳句鑑賞 | Comments(0)
秀句月旦・平成21年8月
 
   一鳥の掃苔終るまで去らぬ        村越化石
 
 村越化石はハンセン病のため、草津楽泉園、多摩全生園に治療するも、ついには両眼を失明した。
〈どこ見ても青嶺来世は馬にならむ〉、〈蛇穴に入り湖の青しりへにす〉、〈黍に吹かれ心遠出をしてゐたり〉、〈水走る音の五月の夜なりけり〉など、その心眼は透けて明るい。
 掲句も、よき鳥の声をこころに、墓を浄めてやまない姿が美しい。
 〈泉より転生の鳥翔てりけり〉、〈ところ得ておのれを得たり蕗のたう〉、〈地に片手つけば惜春おのづから〉、〈涙また涼しよ生きてありにけり〉
 蛇笏賞、紫綬褒章他種々を受賞された。

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   ひととゐて落暉栄あり避暑期去る     石田波郷

 林間であろうか、海浜であろうか、避暑期も去ってしまった。しかしここには離れがたいわが友人が居て共に燦々たる落日を浴びている。
 俳句は非文学的なまでに「私」的なものである、私小説であると言い切った波郷であったが、波郷には生れてからこの方避暑というものを体験したことはない。
 よって掲句には波郷の自註がある。
 「持論のために言えば、この句は、その事実は自分のものでなくともこの青春は間違いなく、かって自分のものであったと言ふ事ができる。更に放言すれば、俳句は斯く斯くであらねばならぬいふことは言えない。俳句を畏れなければならない。又俳句は無類に無法であっていいと思う」と。


   雨雲の月をかすめし踊哉          子規

 幼い時、祖母がヒキガエルを可愛がり、毎晩縁側で見ていたので、今もヒキガエルを床しく感じる。読書、労働、昼寝、飲酒、「何でも子供の時に親しく見聞したことは習慣となる」と子規は書いている。

 半世紀以上前、朝日新聞愛媛版に、越智二良によって、子規の一日一句が一年間連載された。
 掲句は、8月16日の一句とそれに添えられた短文である。
 子規の一句もさることながら、子規の発する言葉にはいつ読んでも、納得させられる。


   朝がほや一輪深き淵の色         蕪村

 もうこれ以上の朝顔はないと思わせるほど、簡潔明瞭、圧倒的に「朝顔」そのものの句である。
 <朝顔の紺の彼方の月日かな  波郷>、 <朝顔の双葉のどこか濡れゐたる  素十>、<朝顔の裂けてゆゆしや濃紫  石鼎>、思いつく大好きな名句はいくつもあるけれど、どう描いても、どう語っても、結局は蕪村の一句に総括されるような気がする。
 「一輪深き淵の色」と畳みかけて手短におさめた自然体。だが、断定の凄みや勁さを言外にもたらしてるのはなぜだろうか。たった一文字「淵」の効用に違いない。淵という深み、深淵という思いの奥深さは、どまでも余韻をひいている。
 さらっと涼しげに表現して、ぎゅっと濃い印象を残す句である。

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   待つ位置に扉のあく電車今朝の秋     辻田克巳

 電車が、止まるべきところに止まらなければ大変なことになる。止まって当然、日々それを信じて、停車位置の印し通りに電車を待っている作者であるが、立秋の今朝、一部も狂わずにきっちりと体の前に開いたドアに乗り込んだ瞬間、はっと気付かされた節目たる日のたしかさ、気持ちよさ。
 〈秋来ると目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる   藤原敏行〉にあるように、目には見えない秋の到来を、日常茶飯の中に見届けた。


   捕虫網持たせておけば歩く子よ      後藤比奈夫

 夏休み真っ最中、あちこちで捕虫網を持った子供たちに出会う。昨日も「むじな池」では、ザリガニやホトケドジョウを掬いとろうと親子が楽しげに捕虫網を振りまわしてるのに出会って、その和やかで若々しい風景に見惚れてしまった。
 掲句は、小学生より小さい子供のように思う。「持たせておけば歩く子よ」という、まるでゼンマイジカケで動いているかのような表現の仕方がほほえましい。幼子のおさえきれない喜びを感じさせて、いかにも愛らしい。


   前にゐてうしろへゆきし蜻蛉かな     今井杏太郎

 「前にゐてうしろへゆきし」とは全くその通り、それ以外の蜻蛉の飛びようはないようにまで思わせる。
 クリアに場面を言葉に置き換えることのできる俳句の不思議な力に惹きつけられる。写真ではここまで蜻蛉を見せる事はできない。リズムの間合いが空間をも見せてくれるのである。
 かの捕虫網を持ってゆく子の前後にも、こんな蜻蛉が飛んでいることであろう。

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   炎天へ打って出るべく茶漬飯       川崎展宏

 「エンテンヘウッテデルベク」と、大見得を切った出だしが、威圧してやまない燃えるような日盛りへの身構えである。
 さあ、そこでどうするか?と思いきや何と「茶漬飯」と来た。脂ぎったビフテキでも鰻でもない、そっけなくもさらさらのものであった、このはぐらかされたような意外性がおもしろくも切ない。
 意外といったが、案外人間ってこの程度のものである。人間の卑小を描いて、いっそう天然の力を浮き上がらせるあたり、さすがに老練である。
by masakokusa | 2009-08-02 22:08 | 秀句月旦(2) | Comments(0)
平成21年8月~昌子週詠               

     8月31日(月)

          川細く川原まひろく昼の虫
          朝顔の紺ひらきたる地震かな
          温室の天窓ひらく盆休み
          温室の硝子穢き芭蕉かな
          パパイアやホースの水をぶつかけて
          蟷螂のはづかしきまで肢長き
          背に肩に両手に荷物流れ星


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     8月24日(月)
      
          原爆忌庭木透くまで刈り込みぬ
          酒蔵は初秋風の向かう岸
          遠くゐる人のこゑ来る稲の花
          山百合は走り去る子の方を見る
          鳳仙花押せばかたかた鳴るくるま
          百歳のめつぶる秋の扇かな
          玉虫の飛んで上寿の眼なる


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    8月17日(月)

          田を右に森を左に端居せる
          土用芽のすらつと枇杷の木でありし
          夏了る森の色して森の池
          マレーシア帰りの小倉アイスかな
          くびれたるへうたん池や氷水
          熱引いてほとけどぢやうをすくひけり
          三人に蜩の席一つづつ


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     8月11日(月)

          今朝秋の地球の色や空の色
          秋に入る石に座れば石硬く
          吟行は初めて同士草の笛
          密生のけふ秋草となりにけり
          おむすびのほろほろしたる赤とんぼ
          木の工房陶の工房涼新た
          立秋のあめんぼの丈伸ばしけり


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    8月3日(月)
      
          不忍池の虹の高さとなりにけり
          二人子を引き連れてゐる日焼かな
          兄の籠弟の籠夏逝くか
          蝉落ちて目の玉二つ赤くしぬ
          夏の風邪蛙の声を嫌ひけり
          勉強が足りぬと思ふ夕立かな
          夏やせや波打際の波すくひ


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by masakokusa | 2009-08-02 21:41 | 昌子週詠 | Comments(0)