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平成21年7月~昌子週詠 

     7月26日(月)

          汗の眼の皆既日食とらへたり
          喉もとの撫づるほかなき汗疹かな
          木槿咲くその一角は蒸しにけり
          うすものや菊坂ながくなだらかな
          金魚屋に音の涼しくありにけり
          水底に貝の口開く大暑かな
          大川に水無月の橋尽くしたり


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     7月20日(月)
      
          蓮の葉の深き翳りに花ひらく
          あどけなくありける蓮の蕾かな
          日盛の真顔となつてきたりけり
          東京のここはチベットは蓮の風
          水底の水に屈める日からかさ
          落したるものは何処ぞ汗しづく
          水亭へ額の花から入りにけり
     
          
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    7月13日(月)

          時深むことの四万六千日
          川蟹の爪の白さや深ぐもり
          六千日さまの下駄屋に来てゐたる
          手拭ひに四万六千日の雨
          霍乱や雷門をそこにして
          梵鐘の余韻の清水掬みにけり
          ぼうふらの甕や女のひとたむろ


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     7月6日(月)
       
          夏木立井伊直弼を祖としたる
          南風や否といふほど招き猫
          十薬の花のひそけく目立たしく
          大湖から水ひく湖の真菰かな
          湖の奥もみづうみ田草取
          田草取る風の余呉湖をうしろかな
          幸せは三個いただくさくらんぼ


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by masakokusa | 2009-07-05 19:13 | 昌子週詠 | Comments(0)
秀句月旦・平成21年7月
   大き鳥さみだれうををくはへ飛ぶ     田中裕明

 日本一の大湖、琵琶湖の上空が思われる。大らかな息づかいがおのずから大きな場面を設定させるのである。
 さみだれ魚という作者の造語は一読するやいなや、鳥も魚も、五月雨ともろともに雫して、したたりやまない印象をもたらす。しかも銜えて離さない、鋭いくちばしまでクローズアップさせることのすごみ。
 <さみだれのあまだればかり浮御堂  青畝>の句も呼び込んで、読者はかがやかしい五月雨を目の当たりにするばかり。
 第二句集『花問一壺』所収、作者20歳代前半の句。さすがに瑞々しくも、エネルギッシュである。


   月見草見えなくなれば来る夜かな     大峯あきら

 この句の月見草は夕方に咲き、朝しぼむ待宵草のことであろう。
 咲き初めた月見草が思われ、月見草の存在を秘めた夜の真闇が思われる。たった17文字の中に込められた広やかな時間と空間。月見という言葉の印象、余韻というものの静けさに引き込まれるものである。
 学生時代に高濱虚子に師事した大峯あきらは、このほど出版された『高浜虚子の世界』(角川学芸出版)の中で、虚子を回想している。
 「(前略)平明と平凡とを感じ分けるという点において、虚子は誰よりも敏感であった。これはとりもなおさず、虚子が本当の詩と詩まがいとを容赦なくふるい分ける力量の持主であったことを意味する。詩というものは、当り前のことを言葉で彩色して当り前でないかのように見せる技巧のことではないと思う。当りまえのことが当たりまえでないことに驚き、その驚きが我れ知らず言葉になったものが本当の詩である(後略)」
 大峯あきら代表による同人誌「晨」はこのたび創刊25周年記念大会を京都にて開催した。折しも代表は傘寿を迎え、その記念として自選句集『星雲』を刊行された。
 掲句は第一句集に所収のもの、20歳代の若さにしてすでに、当りまえのことが当たりまえでないことを知る鋭敏な詩精神を宿していたことの証にほかならない。

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   雪食ひに行くとて人の富士詣      正岡子規

 7月1日、子規庵を訪れた。子規の机上に置かれた日めくりカレンダーにある今日の一句が掲句であった。 富士詣とは「近世、陰暦6月1日から21日までの間に富士山に登り、山頂の富士権現社に参詣すること」。今も富士山の山開きは7月1日である。
 「雪食ひに行く」には思わず顔が綻んだ。一生に一度は富士詣をしたいという庶民の願望が、そう深い信仰心によるものではないことを見抜いて面白がっている子規、そして食い気も好奇心も旺盛なる子規の羨望がうかがえる。だが、富士詣は当時いかに困難であったろうか。  
 折しもテレビで、山開きのために富士登山道の凍りついた残雪除去に必死の山小屋の主人やボランティアの人々の姿が放映された。
 子規の一句も、軽く言い流したようにみえて、「雪」の背後に六根清浄が思われ、「富士詣」たるものの有り様をよく詠いあげていることにあらためて感じ入った。

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   ごきぶりの扁平なるを憎みけり      坂口匡夫

 虫という虫は全て怖くて、出会えばギャッっと逃げ去る。ところがゴキブリは女にとって出会う確率が高い上に、逃げ場がなくて、心臓に悪い思いを重ねてきた。掲句は20年前、結社で大評判となった秀句だが、私はこの句からさえ逃げ腰だった。
 ところが年の功で、掲句に真向えるようになってみると、あらためて面白いと思う。その冷静な観察眼は男性ならではの勁さであると同時に、やさしさにほかならないことに気付かされている。「憎みけり」といいながら、無様ないのちをさらさずには生きておれないものへの憐憫の情あればこその「扁平なる」の発見であったことも今にしてわかることである。
 今年、同じ作者が<ごきぶりやかつて謳ひて誉められし 匡夫>を詠われたことを知って快哉を叫んだ。
 何と矍鑠たるお姿であろうか、俳句精神であろうか。涸れることのない詩情が光っている。ごきぶりに会うのも悪くはないナ、と思う昨今である。



   いなり寿司百個のにほふ海の家     中西夕紀
   水貝の小鉢の氷ぐもりかな         綾部仁喜   
   七夕の飲食雨となりにけり         松林朝蒼   
   さらしくじら人類すでに黄昏れて      小澤  實

 2005年7月1日初版発行の『食の一句』、7月から抄出した。一冊には365日、日替りで美味しい俳句が満載されている。著者の櫂未知子のあとがきは何より美味しい。
――「食」は、自分がどこで誰とどんなものを食べたか、その時、自分はどんな状況だったかによって印象が異なってくる。砂を噛むような思いで食べたものもあるだろう。幸福感いっぱいで喉を通らなかったこともあるだろう。食べることは生きること、それを実感しつつ本書をご一読頂ければ幸いである。

 「いなり寿司」の開放感、「水貝」のひんやり感、あるべきところに盛られる食のよろしさ。
 3句目は新暦の7月7日。落ちついた梅雨時の飲食が質素にも贅沢なものに感じられる。
 4句目の「晒鯨」は、鯨の脂肪層を薄く切り、熱湯で脂肪を除き冷水でさらしたもので、いかにも涼しげな食品。飲兵衛には酢味噌で食べて、その歯触りもこたえられないものらしいが、「おばけ」という別名もあって、食わず嫌いの私には不明の味である。だが一句の飛躍した想像力の味の方は納得させられる。
 さらしくじらの「晒し」からは真っ白と同時に、罪人などを「曝す」という語感もひびいて、喧騒の消え去った夕べの海辺が思われる。酌むほどに、わが身をむなしくして、どっぷりとその乙なる味わいにひたっておられる作者であろう。

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by masakokusa | 2009-07-01 00:00 | 秀句月旦(2) | Comments(0)