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「晨」作品鑑賞・大峯あきら

   遠くきて日高に着きぬ花の宿      草深昌子

 はるばるとやって来た花の名所である。予定していたよりも早く宿に着いたので、日はまだ高々と花の空に懸っている。まるで別世界に来たようでもあり、白昼の桜の無類の明るさにとりまかれて高揚した気分がよく出ている。

(2009年7月号「晨」第152号所収)

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by masakokusa | 2009-06-30 12:26 | 昌子作品の論評 | Comments(0)
「晨」作品鑑賞・山本洋子

   大いなる亭午の鐘や花の山      草深昌子

 花満開の山に正午の鐘が鳴り響く。
「亭午」という古めかしい言葉が似つかわしくひびく花の山。大いなる鐘の響きわたる花の山の大きさも出ている。

(2009年7月号「晨」第152号所収)
by masakokusa | 2009-06-30 12:25 | 昌子作品の論評 | Comments(0)
新刊書評・藤本安騎生句集『高見山』         草深昌子

      いのち崇める       
      
   日々太る廂の氷柱受賞せり
   寒禽に頒つよろこび林檎置く 
   大雪となりし深吉野よき知らせ

 俳人協会賞受賞時の作品は生気にあふれている。「よき知らせ」は受賞の意味にとどまらない、深吉野の地霊へ祝詞のごとき雪はしんしんと舞い降りる、作家はその雪片のひとひらとなるまで佇んでおられる。

   高龗神御遷座の山鷹渡る
   岩頭に立ち輝ける裸の子
   ののさまと崇め宇陀野の春の月
   小豆干す筵に晴れて高見山

 『高見山』一集に行き渡っているのは「崇める」こころではないだろうか。人であれ神であれ自然であれ、なにものをも崇める、いのち一つを崇めるこころ。まこと「観自在」に物と心と言葉がひびきあう。

   来世も深吉野がよしお元日
   炮烙に蜂の子炒りし火照りかな 
   わが庭の蟇も顔出せ鳥の恋
   行きずりの焚火に呼ばれあたたかし

 『古事記』伝来の風土を終の住処と定めて十数年、今や深吉野の風土の魂そのものが俳人の魂であるかのように感じられる。それは、俳人一個もまた自然物としての実感に生きておられるからであろう。

   継ぐ子息あり宇陀紙の天日干し 
   この児らは在所の力地蔵盆
   生むために死ぬために鮭遡る
   妻病めば終にほたるを見に行かず
   松取れて妻を死なせてしまひけり
   これからは汝も独り雪降りつむ

 生きること、死ぬこと、そのことがごく自然に、天然そのものの生死となって風土に溶け込んでいることに気づかされる。
 伝統を引き継いで今ある命、子孫へ引き継いで消えゆく命、巡り巡って今ここに在る命の尊さ。だからこそ淡々としかも執着してあらねばならない日々の充足、芯にある勁い思いが一句一句を際やかにしている。
晨同人会が東吉野で開催された折、多くの同人が藤本邸にお邪魔した。ご夫妻に迎えられ、母郷に帰ったような安らぎをいただいたひとときを忘れることはできない。 
 「汝も独り」とは何と深い愛情であろう、「崇める」作家の真骨頂のように思われる。
 深吉野の雪は天地さかしまに透き通る。

   ちよろくさきことは言ふまじ瀧氷柱
   平明は暮石の訓へ冬至粥   
   わたくしは日本人ですお元日

 松瀬青々に〈正月にちよろくさい事お言やるな〉がある。青々、右城暮石の俳句の訓えは、生き方に染みわたっている。
 「私は日本人です」、かくなることを率直に詠えるのは俳人藤本安騎生をおいてほかにはいないであろう。
 原初のなつかしさにあふれた高見山、その初御空へ胸をひろげて見せる、かの端正な顔立ちがふっとほころぶ瞬間である。


(2009年7月号「晨」 第152号所収)
by masakokusa | 2009-06-30 12:06 | 俳論・鑑賞(2)NEW! | Comments(0)
モーツァルトを聴く                       
   
 朝、夫を送り出したあと、ひとりモーツァルトを聴いている。
 ピアノコンチェルトハ短調第二十四番、演奏はクララハスキル。そしていま、音楽の流れのままに、真っ白なページにペンを走らせている。

 庭の紅梅は、寒気のなかを咲ききって散った。名残の二三輪に雨の雫が光っている。
 隣に咲き始めているのは八重椿。椿の花はどれも天上に背を向けてひらく。俯いて咲くことを身上としているのだろう。どういうわけか、今年は蕾のときから元気がなかった。案の定開き始めると、花びらのどの先も縮れて味気ない枯れの色を見せている。まるで青年のみだらな茶髪のようで眼を背けたくなる。だが小鳥たちは嬉々としてやって来る。

 第一楽章から一変して第二楽章のすべりだしは大海原のうねりをおもわせる。ピアノはさみしがりやの私に、とつとつと語りかけてくれる。胸のなかの混沌とした物思いの一つ一つを丁寧にすくい取って洗い上げてくれるようだ。ときには木綿の感触に、ときには粗い麻布で、仕上げはシルクで包み込むようにして、湯上がりの心地になっていく。
 フォションのアップルティをふたたび注ぐ。こんどはためしにレモンをしぼってみる。口中にレモンとアップルがミックスされて溶け合う。舌の奥の方ではレモンはレモン、アップルはアップルと別々の声をあげているのがはっきりと認められる。
 ピアノと木管は風のように絶えず呼び交わしている。二物の交歓はからみつつ、混じりつつ、分離しつつ、やがて一体となっていく。

 ハスキルはたぐいまれなるメロディーを奏でる。一音一音が孤高に独立して、しかも威張らず、はにかんだようにはなやぐ音色だ。人間の音声もこうでありたいと思う。人のことばはゆっくりと間をおいて聞こう。自分のことばは、ひと呼吸おいて発したいと思う。
 小鳥の声はどこまでも透き通る。「やあ、椿さん、おはよう!」と、先ず小首をかしげる。椿は昨夜の雫を払うようにしてふっさりと揺れて答える。やがて小鳥は全身を捩らせて椿の奥へ吸われていく。美しく切ないような、しあわせな時が黙って流れている。

 モーツァルトの鼓動は私のそれとなって、私もまたいつしかしみじみと歌い上げている。
 そう、今日こそ、美しい声を発しよう。たれかれに心をこめて「おはよう!」と呼びかけよう。きっと気持ちのよい「おはよう!」がかえってくるだろう。

 目覚ましい展開を見せてピアノコンチェルトは終わった。一頁も尽きた。 

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by masakokusa | 2009-06-25 11:39 | エッセー3 | Comments(0)
秀句月旦・平成21年6月
   ゆるやかに着てひとと逢ふ蛍の夜     桂信子
   ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき      〃
   衣をぬぎし闇のあなたにあやめ咲く      〃
   女ざかりといふ語かなしや油照り       〃
   ビールほろ苦し女傑となりきれず       〃


 一句目は処女句集『月光抄』(34歳刊行)、以下は第二句集『女身』(40歳刊行)にある。
 エロスがよかったのか、抒情がよかったのか、潔さがよかったのか、訳もなくあこがれて愛誦してやまなかった若き日々。そんな遠い日々が昨日のことのようになつかしい句々である。
 大正8年、一家中スペイン風邪にかかり、4歳の信子は医師二人より匙を投げられたものの奇蹟的に快復したという。このことが以後の精力的な活動のバネになったのではないだろうか。  
 88歳には第10句集『草影』を刊行。<蟇鳴くやいよいよ太き土性骨>、<人の言ふ老とは何よ大金魚>等。数え年90歳で没する最後の最後まで、ゆるがぬ意思を揺るがぬ俳句に投影して生き切った女傑であった。
 未収録作品に、<大花火何といつてもこの世佳し>

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   近松の恋の淵より冷房音        植村通草

 わが初学の師、植村通草の第二句集『粧』にある一句。
 あとがきに、幸か不幸か弟子と称する取り巻き雀に「きじゅ」「きじゅ」と囀られてみると何やらお目出度いやうな気分になり漸く重い腰をあげてまとめてみることになった、と書かれている、喜寿の節目の刊行である。
 飯田龍太染筆による題字「粧」は、観音のひねり腰を思わせるような姿に品がある。
 ところで掲句は恋の淵に引き込まれるどころか、なかなかに冷めている。
 他に、<大寒の仏身すっとおん素足>、<寒苺ゆたかに試験地獄の灯>、<嬰留守の揺りかごのぞく初句会>、<深追ひはすまじくビールこぼすまじ>など、情もさることながら知性の塊のような女流俳人であった。


  花柘榴燃ゆるラスコリニコフの瞳    京極杞陽

 梅雨時の鬱陶しい中に燃えるような緋色をちりばめる柘榴の花。そんな柘榴の花をざっくりとつかみきって、有無を言わさず納得させられるものがある。
 柘榴の花を知らなくても、「ラスコリニコフの瞳」で想像されるものがあるだろうし、ラスコリニコフを知らなくても「花柘榴燃ゆる」で想像されるものがあるだろう、「モユル」と「ラスコリニコフ」との接点がスーッと当然のように結びついて意味でなく韻律からも盛り上がってくるような一種独特の印象がいかにも鮮明である。
 杞陽はヨーロッパに遊学していた昭和11年、ベルリンに来遊した虚子歓迎の日本人会主催の俳句会に出席し、<美しく木の芽のごとくつつましく 杞陽>が虚子選に入った。この出会いが、虚子との師弟関係の始まりであった。

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   鉄線の初花雨にあそぶなり      飴山 実

 何と言っても「初花」がいい。動きもあって清々しい雰囲気が漂う。晴の日でなく雨の日の鉄線であるところも紫の色彩を引きたてて美しい。
 鉄線の花といえばすぐに思い浮かぶのはもう一句、<忘らるるものに父の日鉄線花  神蔵器>がある。
二句共々共鳴しつつ、鉄線の花の持ち味が醸し出される。地味ではあるが自在な花のありよう。


   新緑や人の少き貴船村       波多野爽波

 一読、清流の貴船道にいざなわれる。「新緑や」、このさりげなさの鮮やかさが一句のすべて。
 こんな簡潔な句を読むと、やはり長い俳句より短い俳句の方が本流であることを確信する。


   病人に鯛の見舞や五月雨      正岡子規

 「病人に鯛の見舞や」という悠然たる詠いぶり、病人子規の静けさが「五月雨」によく出ている。鬱陶しい雨にも、滋養が身にしみいるような有難みが感じられる。
 この翌年、明治35年6月2日の『病床六尺』には、
「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった」、と記している。

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   紫のはげて咲きゐる菖蒲かな     星野立子
   花びらの吹かれまがりて杜若       〃
   あぢさゐの毬の日に日に登校す      〃
   今朝咲きし山梔子の又白きこと      〃
   橘の花や従ふ葉三枚            〃


 高濱虚子編の『ホトトギス雑詠選集』夏の部(六月)を読み始めるとたちまち立子の作品に惹かれる。
 あまりにもそのまんまというか率直な詠いぶりで、夫々の花が紛れもなく立ちあがってくるのだが、やはり立子ならではの発見があっていきいきしている。
 橘といえば京都御所の紫宸殿の右近の橘を思い出すが、花は見たのか見なかったのか定かではない。でも、立子の簡潔明瞭な俳句を読むと、たしかにその通りの花を見たような気がしてくる。
 花橘は彦根藩井伊家の家紋であったり、文化勲章のデザインでもあることを知ると、いっそう「したがふ葉三枚」が印象的である。

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by masakokusa | 2009-06-01 00:33 | 秀句月旦(2) | Comments(0)