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平成21年6月~昌子週詠 
  
     6月29日(月)
       
          あぢさゐに女の首をまはしたる
          涼しさはほつたて小屋の箒かな
          大寺の塀に沿ひたる梅雨の路地
          うすものにはおるうすもの寺詣
          傘をさすほどにはあらぬ野萱草
          蜜豆に色の三つ四つ五つ六つ
          黴の宿もたれどころのなくはなき


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   6月22日(月)
       
          赤ん坊に足袋はかせたる祭かな   
          サーフアーに御輿の遠くありにけり
          凧となく鳶となく梅雨暗みけり
          虫呑んでほたる袋のぶるぶると
          こゑごゑのあぢさゐの崖下りてきし
          アマリリスしまひの茎をそらしけり
          アカシアの花のどこまで北京かな

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     6月15日(月)

          太宰忌の海へまつすぐ行けと言ふ
          男の手ひらくや一個青胡桃
          にはとりののんど挙げたる実梅かな
          さみだるる動物園のなにもかも
          あふむけに亀の落ちたる清水かな
          ことごとく土間に吊らるるもの涼し
          どくだみは底無きごとく生ふるかな


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       6月8日(月)

          人力車こゑして過ぎぬ立葵
          にはとりのこゑもなかなかさみだるる
          青梅にしづく鶏冠に雫かな
          五月雨やサヨナラグードバイ虚子の文
          立ち姿うつくしかりし梅雨の人
          明るさも暗さも少し花あふち
          戸袋に今し鳥入る明易き


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      6月1日(月)

          晶子忌のみなとは雨の匂ひけり
          どくだみにフランス山の雨の降る
          紅薔薇に降って白薔薇に止んで
          青蔦や道を挟んで女学院
          マフラーを巻く年寄やすひかづら
          梅雨のこゑイギリス館にひびきけり
          老鶯に烏は節をはづしけり


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by masakokusa | 2009-05-31 19:31 | 昌子週詠 | Comments(0)
『週刊俳句』・「週俳4月の俳句を読む」        草深昌子

二物から第三の何かが
       
                           
   花札の裏は真黒田螺和へ         山口昭男

 田螺和といえば、蕪村の〈なつかしき津守の里や田螺あへ〉をなつかしく思い出す。子供の頃、大阪津守の渡し場あたりは一面の田んぼで田螺はどこにでもころがっていた。のん兵衛は難波の一杯飲屋で、田螺のむき身に青ネギを刻んで酢味噌和えにしたものを肴にしては気炎をあげた。その泥臭さが、庶民感覚にたまらなかったという。ここ丹沢山系の麓、厚木市では田螺の佃煮が名産として珍重されたが、いつのまにか見かけなくなった。

 そして花札、これまた子供のころは大人に打ち交じって興じたものでなつかしい。我が家の花札の裏は真茶色であったように記憶しているが、ここは真黒である方が、表の多彩をいっそう偲ばせる。猪に萩、鹿に紅葉、蝶に牡丹等、定番の絵柄が何やら見え隠れする。

 「田螺和」と「花札の裏は真黒」の二物の透き間からは、寂光とでもいうような鈍い光りが射しこむかのように感じられる。季節感が鮮やかであった時代の郷愁の香りといったものも洩れてくる。これは瞬時的なもので、斯く斯くしかじかと鑑賞をかみ砕くことは難しい、また下手に書いては文字通り味わいを損ねそうである。

 「季題」と「季題でないもの」が大きくかけ離れている、それでいて、二物は離しようもなく背中でくっついているという作風は、波多野爽波、田中裕明に師事された作者ならではの個性であると思う。
 個性は要らない、個性なんて単なるクセにしか過ぎない、と教えられてきた私であったが、数年前のある日、田中裕明が、「個性のない俳句はつまらない。個性的な作品をつくってつくって、やがて澄んだ非個性の俳句が生れればよしと考えます」と書かれたことに甚く納得した。爽波の多作多捨の裏打ちがあっての発言であろうが、「つくってつくって」に気が楽になったのを覚えている。


   鳥の恋革の手帳の角潰る          小川軽舟
   仕事場の二階の朝湯初桜           〃
    

 仕事師の二句は表情を異にしているが、その彫はどちらも深い。読んで即巧いと唸らされながら、その巧さが鼻に付かない、潔癖さが際立っている。

 前句、手帳を繰ろうとしてはたと気づかされた、角の潰れ。書き込みに溢れる手帳は当然ポケットの出し入れも頻繁、傷みも早い。革の手帳という強固なものにしてあれば、ふと自己憐憫の思いが湧いてこなくもない。おりしも天上では鳥どちの恋愛合戦が始まっている。その熱気に押しつぶされたような気配でもある。だが、この多忙こそがわが生きがいとばかり作者は一息入れて、又新たにアポを加えたに違いない。

 後句、メリハリとともに、澱みなく読み下ろして、いかにも清々しい。
 初桜にして朝桜の透明感や淡い色調、ちょっと冷ややかな感覚など、すべては「朝湯」のもたらすものであろう。その上「二階」とくると、少々高みにあって、雑多な日常を切り離した仕事ぶりのよろしさが思われ、いっそう初々しく桜を輝かせるのである。

 軽舟氏の俳句も、ただ置いただけではない二物があって、二物から第三の何かが現れるという詩法がとられている。第三のあたりから立ち上ってくるのは、作者の熱い気息である。
 眼力の働き、つまりは精神の緊張が、季語の世界をあきらかに見せていることに気づかされる。


   誰彼の朧となれば繋がつて         麻里伊

 朧夜の公園あたりであろうか、実景を下敷きにして、その表現は「おぼろ」仕立てである。
 曖昧模糊たるものはそのまま曖昧模糊に詠いあげる、だが「繋がって」いるところに朧ならではの趣があることをしかと捉えている。「て止め」は一句を循環させるものであるが、作者の嘆息めいた小休止のようでもある。

 朧を大きく包み込んだ掲句の一隅にふと浮かび上がるのは、かの池内友次郎の〈くちづけの動かぬ男女朧月〉である。人なつかしい朧夜である。


   ゆふづきの夜を待つ白さ春の風邪    川嶋一美

 春の風邪は女に似合う。冬の風邪ほどの悲壮感もなく、一種の春愁のようなとりとめもないもの。眼も潤んで、水洟をすすりあげる仕草にもどことなく女らしさがただよう。「ゆふづきの夜を待つ白さ」にはそんな春風邪の風情がよく通っている。

 あたかも季節に敏感な感受性が春風邪の一因であるかのようである。
 「白さ」は写実であると同時に、作者の心象もこめられているのであろう。


   たんぽぽに小さき虻ゐる頑張らう     南 十二国

 「たんぽぽに小さき虻ゐる」とまでは詠えたとして、もう逆立ちしても「頑張らう」とは置かないであろう。若さが眩しい句である。
 小さきものに尚小さきものを配合して、「頑張らう」とささやかくことの力強さ。「頑張らう」という呂律からは虻そのものの飛翔の所作が浮かびあがって、取ってつけた言葉のようには思えない。

 ときとして俳句実作者は、自身で気づかぬうちにこの世の自然のありように大きく励まされていることをあらためて気づかされる句である。

 〈温みたる水に寄りがち自転車も〉も動きがあって楽しい。動き、つまり表現が作者の意図的なものでないところが、心地よさの原点。


(2009年5月3日「週刊俳句」)

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by masakokusa | 2009-05-10 17:28 | 俳論・鑑賞(2)NEW! | Comments(0)
平成21年5月~昌子週詠 

     5月25日(月)

          切つさきを風に立てたる早苗かな
          船下りて人のにぎはふ木下闇
          風薫る松は寿命をのばしけり
          涼しさは離宮の水のみどりかな
          一擲の波紋を蕗の広葉まで
          年寄は夏たんぽぽに噎せにけり
          金雀枝のこぼるる夕べつめたかり


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     5月18日(月)

          牡丹見の帽子に落つるものや何
          ぼうたんにぴん札の艶ありにけり
          牡丹見て女の髪をくしけづる
          水亭のさびしき八十八夜かな
          かすみとももやとも若葉ぐもりとも
          はつなつや松に鋏をつかふ音
          川柳は青葉俳句は若葉かな


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     5月11日(月)

          橋見えて沖の見えざる日傘(ひからかさ)
          母と子は傘を一つにさくらの実
          茎に葉にさらに葉裏に天道虫
          かくまでも冷ゆる五月や覚えある
          まへに雨うしろに雨や夏衣
          二階から手の出る枇杷の青きこと
          ナマケモノゐるぞと新樹仰がるる


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     5月4日(月)

          人骨は沈み海月は浮きにけり
          薔薇親しチャールストンといふからに
          うたごゑの聖歌と知れる薔薇真つ赤
          何もかも池に散り込む青あらし
          風向きのよろしき干潟遊びかな  
          汐干より帰りしばかり句会かな 
          銀髪を刈上げにけり更衣  
          


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by masakokusa | 2009-05-02 23:12 | 昌子週詠 | Comments(0)
晨集散策・俳句鑑賞                   草深昌子

     俳句の生れるとき
                         

  凍る夜の星辰めぐる音すなり       大峯あきら


 上五の凍る強さが読み下すほどに包み込まれるようにやさしく美しく移りゆく。「俳句は自我の詩ではなく存在の詩である」という「晨」創刊号の大峯あきら代表の発言がしのばれる。
 そして百五十号、芭蕉を見つめて、「(前略)実作者には、悪戦苦闘の修羅場があるだけだ。それにもかかわらず、その修羅場の只中に、時として自分を忘れた不思議な瞬間が訪れる。詩作とは、われわれが言葉をつかむのではなく、言葉がわれわれをつかむ経験のことである。」という凄烈なる言葉は圧巻であった。
 全くとばかり胸をうたれながら、果して、この言葉の本当がわが身に染み入るようにやってくる日はあるのだろうか、道のはるけさに立ちすくむ思いもするが、なぜが奮い立たされている。

  極月の人來る塔のうしろより       大峯あきら

 一字一句がゆるぎなくかかわって、決まり方は厳粛でさえある。それでいてごく自然にごく伸びらかに、すっと背骨を正されるように入ってくる。十二月でも師走でもない極月という月のすがた。

  冬の川ひかり流さず流れけり      浅井陽子

 大いなる発見がかくも静かに流れるように詠われている。冬の川ならではのきらめきに思い当たらない読者はいないだろう。

  いま少しすこしと時雨やり過す     大槻一郎

 もの言い、表現そのものでもって時雨の速度や量感をいい止める。楽しげな表情は時雨の京都を知る作者ならではの余裕である。

  飛ぶものに飛ばざるものに冬山河   加藤いろは

 鳥だとか人間だとか区別はすまい、なべて巡り巡っているリズム感が大らか。〈阿蘇谷の有無を言はさぬ寒さかな〉に呼応する。

  いてふ散りぬ舞のかたちがいとほしや  清沢冽太

 「いとほしや」とまで言い切るほかなかった心情がよく伝わってくる。愛惜の時のたゆたい、ついには作者も舞いはじめられた。

  父母がわが木の葉髪をかしがり     中村雅樹

 率直にして衒いない木の葉髪はいきいきとしている。それでも「父母」が裏打ちとなって愛憐の情は隠しようもなく滲み出てくる。

  目高にも餌を与へてきぬさらぎ      藤本安騎生

 自然を愛してやまぬ作者のまなざしほど、分け隔てなく優しいものはない。淡くも小さい命へ注がれる情は、きぬさらぎの情と一つ。

  鴨鍋の看板立てる城の前         堀江爽青

 野趣に富んだ味覚を「城」でもって美味そうにお膳立てする。看板には徳利も。酒を飲んでも飲まなくても俳句のみ考えておられる。

  元日の赤子の声の両隣り         本村 蠻

 はち切れんばかりの赤子の泣き声に挟まれた年の始。老木の周囲に苗木を挿せば蘇るという、天然更新のめでたさに気づかされる。

  雪吊の小さき松や石道寺         山本洋子

 慎ましやかにも芯の通った一句は、石道寺や十一面観音までも「見せて」くれる。声高でなくてもよく聞こえるのが俳句である。

(2009年5月号「晨」 第151号所収)
by masakokusa | 2009-05-01 19:23 | 俳論・鑑賞(2)NEW! | Comments(0)
新刊書評・黛執句集『畦の木』             草深昌子
      夕日燦燦  

              
   夕日とびつく出来立ての藁塚に
   一陽来復夕雲に金の縁
   山の端に夕月にじむ寒念仏
   日が暮れてよりの明るさ茶の花に
   春障子すこし開きたるまま暮るる


 『畦の木』の全編にゆき渡っているのはたっぷりとした日差しである。わけても、夕日、夕暮に呼応する作者の思いは深い。 一集に「夕」の一字は単純に数えても三十数個はあるだろうか。
 今の今までここにあったものが、もうここに無くなるという時の移ろい、生きることのなつかしさを知る作家は刻々に心を込めずにはおれない。
 藁塚に射す夕日はまるで生きもののように華やいでいる。夕映えの雲は明日への願い、自然と交流して生きる人々の暮らしは祈りに満ちている。農事から帰ると、茶の花は金色の蕊をかがやかせてくれる。障子は陰影に富んでいる、よし春の倦怠があろうとも、少しの風通しに慰められる。
 
   ふんはりと峠をのせて春の村
   泥んこの道をあつめて春祭
   畦の木に風のあつまる穀雨かな
   五月くる小さな村の大きな木
   雪婆ふはりと村が透きとほる
   川音の夜に入りたる蚊遣かな
   火吹竹吹いてはふやす山の星


 「ふんはりと」、一句全体を包み込んで、一村はあたたかい。修飾語が卑近なものでなく、スケールの大きなものに及んでいるのは体験のゆたかさにほかならない。通り一遍の体験ではなく、作者のものになりきるまでのゆるぎない時間の集積が思われる。 
 春泥にまみれて笑い転げる村人の元気。穀雨のもたらすめでたさの平穏。満目みどりの到来は童話のように明るい。そして初冬、青白い光を曳く雪婆の命は、村の年寄のそれのように透明である。まこと風土の四季を詠いあげて間然するところがない。 
 ことに蚊遣の闇の艶やかさ、火吹竹の煌めくなつかしさは余情たっぷりである。

 俳人協会賞を受賞された第四句集『野面積』、それに続く『畦の木』も又、飯田龍太の「俳句は野面積に似ている」という名言を思い起こさせる。
 かの謀将、直江兼続も自ら指揮をとって築き上げたという石積の工法。天然石のみをバランスよく組んだ素樸と堅牢は一集の真髄にかよっている。

   鳥の糞まみれに涅槃したまへる
   滝壺の中より滝の立ち上がる
   十一面もて秋惜しみ給へるや
   月明のわけても猪のぬた場かな


 「涅槃」、「滝」の雄々しさに加えて、「秋惜しむ」の繊細。「わけても」は龍太の散文の口癖であった。
ふと、〈涼風の一塊として男来る  龍太〉が口を衝いて出た。
 涼しさの男は、黛執氏その人ではないだろうか。

(2009年5月号「晨」 第151号所収)

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by masakokusa | 2009-05-01 19:02 | 俳論・鑑賞(2)NEW! | Comments(0)
秀句月旦・平成21年5月
  
   お金あるときの嬉しさいちご掌に    原コウ子

 作者自註によると、「戦時中戦後は凌げるだけのお金より持てなかったのが、時に不意に私を喜ばせるお宝が入ると、私は早速飢えている欲しいものを買った。」という。昭和24年の作品。
 戦後60余年、百年に一度の不況という今日の事情としても大いに共鳴できる句である。さしずめ、不意に私を喜ばせるお宝というのは、定額給付金のようなものかもしれない。いや、そんな平俗的なことではないだろう。こころまで貧乏であればこうは詠えない。
 つつましい生活にあっても誇り高き女流俳人の詩情。それは豊麗なる苺に仮託した「いちご掌に」によく出ている。

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   摩天楼より新緑がパセリほど    鷹羽狩行

 「摩天楼」と「パセリ」の落差の大きさが、高所恐怖症の私にはドキッとさせられて、目の眩むような句であった。ニューヨークでの作品は、海外俳句の草分けとして一躍有名になったが、以来40年経ったことの方に今は驚いている。
 かのエンパイアー・ステート・ビルは、テロの標的にもなりながらが無事ではあったが、往時の颯爽たるすがたは失せて、すでに歴史的モニュメントとしての意味合いに堕しているようである。「エンパイア・ステート・ビル」を避けて、「摩天楼」としたことは、先見の明であった。
 「摩天楼より」の調べや字面がどこまでも手堅く、パセリのツマの如き新緑は今もって鮮やかにも、愉快である。


   幹高く大緑陰を支へたり     松本たかし

 初夏の木立の陰ほど美しいものはない。緑の木漏れ日はどこからも飛びこんでめっぽう明るい。そんな気持ちのよい緑陰であっても、その翳りにしばらくいると、ついついうつむきがちに心象的に詠おうとしてしまいがちだが、「幹高く」という真正面からの描写には、意表をつかれる。
 先の「摩天楼」は見下ろし、「大緑陰」は見上げる、共に逆転の発想が新しい。
 そして、「支へたり」、紛れなく松本たかしの精神のありようが現れている。


   飛魚の波に飛びつき沈みけり      松藤夏山

 「飛魚の」、「飛びつき」という「飛び」の追っかけは躍動的である、また「波に」は波をひっぱりあげて海の青さ、海のねりをゆったりと背後に感じさせる。「沈みけり」からは、動画のように、瞬時、瞬時が生きて動いて、滑空する胸鰭のかがやきを目の当たりに見せる。
 結局、一字一句が完璧なのである。
 「飛魚」という小さな季題一つに、邪心も観念もなく、徹底的に描写した、そのことがすでに壮観である。


   地に落ちし葵踏みゆく祭かな     正岡子規

 京都の葵祭は5月15日。平安時代には「祭」といえば葵祭をさしていたという。
 <牛の嗅ぐ舎人が髪や葵草  蝶夢>、<白髪にかけてもそよぐ葵かな  一茶>、<しづしづと馬の足搔や加茂祭  虚子>、<牛の眼のかくるるばかり懸葵  松彩子>、そして、<大學も葵祭のきのふけふ  裕明>等を思い起こしながら、ゆたかに葵祭を想像している。
 ことに子規の一句、「葵踏みゆく」は行列のゆかしさをうかがわせて、明快である。
 子規にはまた、<鉾をひく牛をいたはるまつり哉>がある。いかなるときも子規の句には子規がいる、知的にやさしい子規がいる。
 子規と一緒なら、馬になっても牛になってもいいから葵祭を見に行きたい…ナンテ…夢のような祭を想う。

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   子の皿に塩ふる音もみどりの夜    飯田龍太

 眼の覚めるようなみどりの夜、新緑の静けさに包みこまれる夜である。
 静けさの背後には、幼子への情愛が行き渡っていて、いっそう鮮やかに生きた緑を感じないではいられない。
 「塩ふる音も」の「も」が、一句のすべてではないだろうか。「も」の支配する世界は、ひやりとするまでに繊細で、すみずみに神経が通っている。食卓塩が真っ白な皿に着地する、その間際まで、「見えて」、「聞こえて」、シーンとするほかない夜である。


   電車いままつしぐらなり桐の花    星野立子

 「あっ、桐の花」と桐の花を木々の向こうに見届けて、車窓に身を乗り出すような体験は誰しもが経験するところだろう、これをこんな風に自由にのびやかに詠いあげることができるのものかと驚かされる。
 「いままっしぐらなり」、進行形の気持ち良いスピード感、率直な心のままに言葉を置きかえる才能につくづくほれぼれする。
 遠く咲く桐の花とともにある束の間の喜び。やがて桐の花は過ぎ去っても、その淡い色調は清楚に胸に残っていて、季節のめぐりをしみじみと味わう。


   人にややおくれて更衣へにけり   高橋淡路女 

 旧暦4月1日をもって冬服を夏服に、旧暦10月1日をもって夏服を冬服に着替える日とされているが、要は季節の変化に応じて衣服を着替えるのが更衣である。
 桜の花もすっかり葉になってしまって、世の中は若葉にあふれるこの時期、明るさの反面、結構冷える日も多い。
 若者は季節にさきがけて半袖シャツを着こなすが、寒暖の差についていけない体というものもある。それでも、新緑に促されるように、ある日「エイヤッ」とウールものを脱いで軽快な装いになった淡路女はわが身のように親しく感じられる。
 <すずかけも空もすがしき更衣  波郷>、の如き颯爽たる更衣もあれば、掲句の如き更衣もあるところが人生の哀歓である。


   おそるべき君等の乳房夏来る     西東三鬼

 「オソルベキキミラノチブサ」、内容のインパクトもさることながら、内容に勝るとも劣らない韻律の歯切れの良さが迫力となって、口誦性を高めている。
 「おそるべき乳房」と言いながら、作者にはそれらに立ち向かうような精神の張りが漲っていて、ぶつかり合うような熱気さえ感じられる。そんな斬新なエネルギーが即ち夏のもたらすエネルギーであって、いかにも壮快である。


   牡丹切て気のおとろひし夕かな     蕪村

 花生けのために牡丹に鋏を入れて、切ったのであろう。そののちの何だか知れぬグタッとしたような気の衰えを詠って、牡丹がさも大輪で、妖艶であることを匂わせる。また夕べのもたらす情感がかぶさって、牡丹の色彩に翳りを落とすあたりも情趣である。
 肉感的に実感として感じさせる巧みさに、こちらにまで何やら気の衰えが乗り移ってしまうようである。
<牡丹散てうちかさなりぬ二三片>、と共に、蕪村の牡丹は、絵に描いたように生きている。

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by masakokusa | 2009-05-01 12:55 | 秀句月旦(2) | Comments(0)