<   2009年 01月 ( 6 )   > この月の画像一覧
小兵衛さんの日記

   草深先生の「かなたこなた」

 文心3号に草深昌子先生の句が10句掲載されている中から二句私のお気に入りを。

  清少納言に白花菖蒲ほどな恋      昌子
  白百合をかなたこなたや小石川     昌子


 白菖蒲でなく白い花菖蒲
 想いのレベルは白花菖蒲ほど
 清少納言のイメージを彷彿とさせる

 小石川というところは
 私の好きなチャンバラ知識では
 療養所とやらがあったところ・・・
 おそらく小石川植物園での
 白百合や白菖蒲なのだろう

 べたに詠むと
 小石川で白百合があちこちに咲いていた
 ということなのだが

 私なら
 「白百合をみるほどに酔ふ小石川」
 なんて具合になってしまうのだが

 「白百合をかなたこなたや小石川」
 となるとムードが一変 艶っぽくなる

 「白花菖蒲ほどな」といい
 「かなたこなたや」といい
 このフレーズの
 おしゃれな艶っぽいところが好もしく感じられる

 もう一句 『朴の花』夏号掲載から

  七夕の傘を真つ赤に開きけり     昌子

 夕立でもあったのか、日除けなのか
 七夕の笹飾りの前でぱっと開いた赤い花・・・

 「真っ赤に・・」のフレーズが
 これも艶っぽい

 艶やかでおしゃれな句を拝見できて嬉しかった
 真夏の清涼剤だ

(2007年8月16日mixiミクシイより)
by masakokusa | 2009-01-26 12:07 | 昌子作品の論評 | Comments(0)
追悼二編                       草深昌子


追悼・原裕先生

 厚木句会に欠かさずご出席下さっていたころ、裕先生の睡眠時間は二、三時間であると伺っていた。そのせいか、選句の間についコックリされることがあって、新参の私ははらはらさせられた。ところが選句は、目の覚めるような鮮やかさで、どの一句も洩らすことなく、講評にはたっぷり愛情がこめられていた。その度に私はハハアーツとひれ伏すのだった。まるで神様の御前にいるように。
 ある日、「今日は昌子、昌子って何遍も名乗りましたね。私まで嬉しくなりましたよ」と、笑ってくださった。主宰にこんな一言をかけていただいてのぼせあがらない者がいようか。たちまち俳句の虜になった。その含羞と憂愁の入り交じった笑顔は、慈父のようになつかしかった。裕先生は、神になり父になりして、平凡な私の日常を輝かせてくださったのである。
 その頃、「若い間は大いに暴れてください。自在に冒険しなさい。五十歳になったら自然といい味が出てきますよ。」と仰った。その五十歳をもうとっくに過ぎてしまった。先生のご指導に俳句をもってお答えすることが出来なかったことが哀しくてならない。
 本葬の日、腰抜けの身となった私は、立っているのがやっとだった。翌日はもう動けなくなった。漸く杖をついて歩けるようになると一歩を運ぶことがいかに切実なものか思い知らされた。初めて、路傍の野菊の美しさが身にしみたことであった。
 いつだったか、「本当に具合が悪くなると足が出ませんよ。一歩でも前に出るうちは大丈夫」と、非常なお疲れを押してご出席下さったことがある。師の強靱な精神に頭を垂れたのを覚えている。引き返すことの出来ない俳句一筋の道を求道者のごとく歩みを貫かれた鹿火屋主宰であった。
 思いがけない杖は、裕先生が私に遣わせて下さったのに違いない。「俳句は一人の道ですよ。最後はたった一人の道ですよ」と怠け心を戒めてくださるために・・・。
 俳句を放さなければ、いつでも裕先生にお会いすることができると信じている。合掌。

(鹿火屋厚木勉強会会報「谿声」平成11年10月号・通算182号所収)


f0118324_21234650.jpg

f0118324_20513976.jpg
 

追悼・森田美枝子様           

 「昌子さんはご飯の支度もしないで、顔も洗わないで俳句ばっかりしてるんじゃないのオ」と、美枝子さんはお会いする度にそう言って、いたずらっぽく身をよじるようにして笑われるのだった。
 平成4年の厚木句会の席上でした。美枝子さんの、<冬海の波慕ひ寄る余生かな>の句を一番にいただいた。苦労してきた方の、そしてこれからの苦労もいとわぬ覚悟のできているかたのやさしさに打たれた。句評を求められて、その感動を少し興奮気味に話したのを覚えている。そのあと期せずして拍手が起こった。むろん拍手は、作者の美枝子さんに向けられたものである。
 あの日私は、美枝子さんから日常をおろそかにしないこと、生活実感を裏打ちにした句作りが大切であることを教えられたのだった。
 美枝子さんの胸中にはいつも蝦夷の海が湛えられていた。その胸に寄らせていただくと、大船に乗ったように気持が安らいだ。「昌子さんのことは命をかけて守ってあげる」、そんな嬉しい、尊い一言を遺して下さった。
 美枝子さんは、大寒の真澄の空へまっすぐに上っていかれた。合掌。

(鹿火屋厚木勉強会会報「谿声」平成11年1月号・通算173号所収)
by masakokusa | 2009-01-18 11:01 | 挨拶文・書簡・他 | Comments(0)
「晨」作品鑑賞・ 大峯あきら
 
f0118324_214122100.jpg
  
   大晴の報恩講に出くはしぬ        草深昌子

 親鸞聖人の報恩講がおこなわれる時期は、「御講凪」という季語もあるように、ぽかぽかした小春日和の晴天がつづくことが多い。この句の作者は旅の途中で、たまたまそんな報恩講の門徒寺に出合ったのだろう。
 長い伝統のある浄土真宗のこの仏事も、現代社会の風潮に洗われて、昔とは大分様変わりしてきたが、それでも地域によっては、まだまだその宗教的な香りが相続されている。
 この句の「大晴」は、まさにその香りをつかんだ言葉。「出くわしぬ」にも強い力がある。

(平成21年1月発行、「晨」第149号所収)
by masakokusa | 2009-01-05 11:43 | 昌子作品の論評 | Comments(0)
「晨」作品鑑賞・ 山本洋子
 
f0118324_12181995.jpg
  
   大晴の報恩講に出くはしぬ       草深昌子

 旅に出た先は、よく晴れきって、心たのしく歩いていたら報恩講の法会を行う寺があった。村の人々は連れ立ってきて寺に入っていく。普段は静かなお寺に、今日は人声があがり、本堂の前には多くの履物がぬがれていく。
 「出くはしぬ」にも、「大晴れ」にも、たまたま出会った、という驚きと共に、出会いの喜びが感じ取られる。

(平成21年1月発行、「晨」第149号所収)
by masakokusa | 2009-01-05 11:41 | 昌子作品の論評 | Comments(0)
平成21年1月~昌子週詠
     1月26日(月) 

          落ち合うて緋寒桜に歩み寄る
          樹の太く社の古く冴えにけり
          赤ん坊の額に皺寄る四温光
          眉よりも髭濃くありぬ寒日和
          サーフアーのしたたりやまぬ寒九郎
          波に靴濡らさぬやうに日脚伸ぶ
          をみなごも腹減ることよ寒紅梅


f0118324_2154875.jpg



      1月19日(月)

          冴え冴えと見晴らす限り三原山
          黒髪も耳も隠しぬ寒椿
          着ぶくれて溶岩(ラバ)の一つをたなごころ
          白息や溶岩を拾うて溶岩捨てて
          行くほどに溶岩の嵩張る寒波かな
          寒波急溶岩のちぎれんばかりなる
          大寒の溶岩のかぎりを投げ出せる


f0118324_1984238.jpg


     1月12日(月)

          探梅の展望台に上がりけり
          空にして鳶の喧嘩や冬ぬくし
          散ることをおもはぬ冬の桜かな
          しはぶくや今は石なる龍之介
          欄干に脚すべらするゆりかもめ
          不忍池ぞ名に負ふ枯はちす
          橋の名は橋に彫りある春隣


f0118324_010837.jpg

    1月5日(月)

          あらたまの年の始めのキャッチボール
          太陽と崖のはざまに御慶かな
          笹鳴や崖に懸けたる段梯子
          山路行くほどに寒さのやはらぎぬ
          藁敷いてありし山路や笹子鳴く
          葉は照りて花ひそかなる三日かな
          惚けそめしうれひを笹子鳴きにけり


f0118324_19534115.jpg

by masakokusa | 2009-01-04 19:16 | 昌子週詠 | Comments(0)
秀句月旦・平成21年1月                草深昌子
   大いなる初日据りぬのぼるなり    原 石鼎

 元旦の日の出のめでたさは、「大いなる初日据りぬ」、もうそれだけで十分である。だが、そこでとどまらないのが石鼎独特の艶やかさに思われる。いったん水平線上に深く息をついで、「のぼるなり」でさらに引き伸ばして読ませるあたりさすがに太陽を生きものの如くゆらめかしてダイナミックである。
 昭和18年1月、掲句の他、<やや高く見えてまどかの初日かな>、<不平消して永久に明るし初日影>の三句を発表して以降、四年間俳句はない。戦争を憂慮しての「句断ち」であったという。やがて、戦争と病苦を乗り越えて、昭和23年には句作を復活した。
 <屠蘇雑煮二日も妻と二人かな>、<昼は日に夜は月星に松の内>

f0118324_22504445.jpg


   元日も二日も暮れてしまひけり    正岡子規

 明治28年作。ただごとを述べただけのようでいて、詩情は深く漂っている。
子規の新年の句は、29年<元日の人通りとはなりにけり>、<今年はと思ふことなきにしもあらず>、 
30年<元日や朝からものの不平なる>、<初夢の何も見ずして明けにけり>、
33年<初夢に尾のある者を見たりけり>、34年<大三十日愚なり元日猶愚なり>、などがある。 
 子規の短い生涯を思えば少々切ないものがあるが、どの句も子規に限らなくとも思い当たる、あらたまの年の初めの心情、情景ではないだろうか。

   古きよき俳句を読めり寝正月    田中裕明

 もろもろから解放されてのんびりするのが最高のお正月であろう。かといって怠けているわけではない、新年こそ古き佳き俳句の世界に身を浸したいという俳人の静けさがさりげなく表出される。
 <春著の子古き言葉をつかひけり 裕明>も「古き言葉」が晴れ着の美しさにかよっている。
 日本の伝統詩としての俳句を大切にした作者である。

 
   大空に羽子(はね)の白妙とどまれり      高浜虚子
   羽子板の重きが嬉し突かで立つ        長谷川かな女
   焼跡に遺る三和土(たたき)や手毬つく    中村草田男
   座を挙げて恋ほのめくや歌かるた       高浜虚子
   歌留多読む恋はをみなのいのちにて     野見山朱鳥
   うばはれし紺の裏おく歌留多かな       皆吉爽雨
   双六に負けまじとして末子かな         上野 泰


 戦後の子供時代、お正月の遊びはご近所、親戚、老若男女うちまじって楽しかった。ことに「小倉百人一首」を源平ふた手にわかれて競い合ったことはもっともなつかしい。母の朗々たる読みが今も耳に残っている。子供心には知るよしもなかったが、当時の親の思い、大人の思いはいかばかりであったろうか、今さらに様々がしのばれるお正月である。

f0118324_2245392.jpg


   笹鳴や学習院を通り抜け      川崎展宏

 鶯は冬にはすっかり成鳥になっているが、まだ鳴き声は整わないでチャ、チャと舌鼓を打つように鳴いている。そんな単純な地鳴きを笹鳴という。そのひそやかな音色は、「学習院」なるひと言でたちまち読者の耳にいかにも清楚に聞こえてくるから不思議である。ガクシュウインがもたらす韻律のひびきに加えて、一種独特の瀟洒な感覚が引き出されるのであろう。
 学習院大学には略称がなく学習院と呼ばれるのが一般的で、JR目白駅を降りてすぐのところにある。都会の喧騒にありながら正門を入るとたちまち閑寂な趣である。
 皇族の通う学校として知られ、昔は華族など上流階級による閉鎖的なエリート教育というイメージであったが今は一般市民のものである。それでも欝蒼と茂る木々のほとりや、「血洗いの池」あたりを散策すると、厳粛な歴史がしのばれ、癒されるような雰囲気がある。吟行の折など何度か通り抜けをした経験があるが、近ごろはどうであろうか、笹鳴を聴きとめに行きたくなった。

   その冬木誰もみつめては去りぬ     加藤楸邨

 冬木は常緑樹でも落葉樹でも冬の木を総称するものだが、私にはやはり葉を落としきった裸木が思われる。
 庭か広場か、たった一本の特定のその木。何かしら歴史ありそうな直立のその幹の光りを人はみな見遁しにしない。だが、人は一木をよぎるばかりである。冬木はそこにあって、人間の弱さをどこまでも支えてくれる、不動のものとして立っている。
 楸邨といえば、この冬木ともう一句、<鰯雲ひとに告ぐべきことならず>が好きで、十代のころよく口ずさんだ。
 二句とも、口をきかないのがいい、「沈黙は金なり」という印象があって、内向的なものにとってはその密やかさは救いのように思われたのかもしれない。楸邨ならではのセンチメンタル。

   雪嶺の目の高さなる小正月    阿部みどり女

 小正月は旧暦の正月15日(現在は新暦1月15日にも行われる)、あるいは正月14日から16日までの称で、元日を大正月と呼ぶのに対して小正月という。かつて元服の儀を小正月に行っていたことから、1月15日は成人の日として国民の祝日であったから、成人の日の華やぎがそのまま小正月の気分でもあった。ところが、今は成人の日は一月第二月曜日に変更されて、祭日として寛ぐという気分も失せてしまった。もっとも農業に関連した行事であるから、今も農村などではさまざまに伝えられてはいるのであろう。子供の頃、祖母や母がこの日に松飾りを取り払って、やれやれお正月も終わりましたよと一段落していたことはよく覚えている。
 阿部みどり女は、大正2年の「ホトトギス」に開設された「婦人十句集」時代から93歳で没するまで活躍した女流俳人である。さすがにきりっとして、なおやさしさがある。
 今年の小正月も、この句の通り、ここ丹沢の麓から青々と晴れわたった空に雪を被った大山がくっきりと見渡され、何とも清々しい日和であった。「目の高さなる」が言えそうで言えない、透明感にあふれた距離感が読者の目線となって実感され、文字通り大地に足をつけた俳人の描写力であると感じ入った。
 <九十の端(はした)を忘れ春を待つ   みどり女> 

   一片のパセリ掃かるる暖炉かな     芝不器男

 パセリと言えば、かの鷹羽狩行の<摩天楼より新緑がパセリほど>がつとに有名であるが、不器男のパセリも勝るとも劣らない。まして狩行が生まれたころの、昭和初年の句であれば、一片のパセリはいかにも新鮮であり、明るく近代的な感覚に横溢している。
 <あなたなる夜雨の葛のあなたかな>、<白藤や揺りやみしかばうすみどり>など万葉調と言われる代表句を生んだあと、発病し、28歳で世を去った不器男の最後の句会のもの。
 病床吟ではあるが、万葉調をはなれて新しい。


f0118324_107876.jpg



  厳寒や夜の間に萎えし草の花      杉田久女

 昼間に摘んで瓶に挿してあった草の花であろうか、しんしんと更けゆく夜の間にもう萎びてしまったというのである。外は氷点下の寒さのようである、久女はあかあかと燃える暖炉のもとで俳句に余念がないのであろう。
 抗うことのできない自然の強さ「厳寒」に対して、いかにもか弱い自然のいのち「草の花」が見事に照応されているが、この厳寒も久女なら、草の花も久女その人のように、なまなましくも手掴みに迫ってくるものがあって、あらためて久女は俳句に命を賭した女流俳人であったと思う。
 杉田久女全集によると、掲句の数句うしろに、<色褪せしコートなれども好み着る>、<句会にも着つつなれにし古コート>、<アイロンをあてて着なせり古コート>、<身にまとふ黒きショールも古りにけり>が並んでいる。
 愛着の古コートが少しもよれよれしないで、むしろ艶やかにいきいきしているのは、コートに身を包んだ久女の矜持がもたらすものであろうか。この頃、久女はもっとも才気を発揮していたであろうが、内には慎ましやかな気立てが湛えられていたことがしのばれる。だからこそ久女は、「男子の模倣を許さぬ女の句」と虚子に絶賛されたのである。
 昭和11年、突然「ホトトギス」同人を除籍された久女は、その後終生笑いを失ったまま、昭和21年1月21日56歳で死去した。
 1月21日久女忌は、まさに厳寒の頃である。

  待春のほとりに木々をあつめたる       田中裕明

 一読して、たちまち春を待つ気分が清涼にイメージされる。この調べは短歌的で、読者はおのおの胸のうちにあと七七をつけたくなるのではないだろうか。一句のシンとした切れのあとに、めっぽう明るい炎が立ち上がりそうな予感がする。表現はシンプルにして雅(みやび)であるが、内容は広やかでどこか原始的でもある。
 この平明な言葉にひかれて、ふと思う。「待春のほとり」ってどこ?どういうこと?そう、この仕掛けに魅了されるのである。「待春の」はむろんここでひとまず切れるのだが、、、例えば「待春や河原に木々をあつめたる」とやってみると誰にでもわかるが、これではただの日常語、実用語を連ねただけであって、詩の言葉にはなっていない。
 何気なくも詩人のこころが行き渡っている句である。
 裕明は第二句集『花間一壺』のあとがきに、「俳句が伝統詩であること。これからも日本の詩歌の伝統につらなっていきたい。そう、それも言葉によって。」と力強く宣言している。このとき、裕明26歳であった。

f0118324_10231153.jpg

by masakokusa | 2009-01-01 00:35 | 秀句月旦(2) | Comments(0)