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秀句月旦・平成20年12月                草深昌子
 
   葉はとびて蔓ののこりし御講凪    柏村貞子

 親鸞忌(陰暦11月28日)を前後に、親鸞聖人の遺徳をしのんで報恩講が行われる。この御講の頃は、おだやかな冬日和が続く。日差しの中に、葉っぱは北風に吹きとんで、蔓は尚りゅうりゅうと伸びている。明日に花を咲かす草木の自然の姿そのままである。
 親鸞聖人は「弟子一人ももたず」であった。「なぜなら自分の努力で他人に念仏をさせたというのであれば、その人はわが弟子であるということもできましょうが、そうでなく阿弥陀如来のお蔭で念仏している人を自分の弟子というなどははなはだ不遠慮のことです」と。
 作者はだてに御講凪を据えたのではない。個人のはからいを越えた自然の道理をありがたいと思うこと、すべての人は宇宙(自然)から教えられているという親鸞の心を常日頃から素直に受けとめておられたのであろう。


   桜の木ひかりそめたり十二月    加藤喜代子

 ここ数年、12月が来ると口ずさまれる句である。「ゆう」が創刊されたばかりの頃の作品であるが、田中裕明主宰は選評でこう述べている。「この句などは上質のポエジーが感じられます。あらためて俳句における詩情とは何かを考えました。雰囲気や感情に流れるのではなく、季語が広げる世界を具体的に描き出すこと」。
 「ゆう」終刊号のおしまいの頁にはこんな言葉が。
 <思はざる道に出でけり年の暮  裕明>を素十の句の形に似ているところから句集に入れなかったが、その素十の、<真直ぐな道に出でけり秋の暮 素十>という作品は、<この道や行く人なしに秋の暮 芭蕉>の本歌取りだという仁平勝の「秋の暮論」に驚かされたこと、王朝和歌から現代俳句に続く連綿たる系譜を述べた評論を讃えて、「読んでいて気持ちがいい。それは、その系譜の末流に自分もまた連なっていることを想像する快感でもあります」と結ばれている。
 とまれ12月、一年の最後の月はかくも透明感にあふれているものか。心洗われるような一句の光りは、かの裕明のくるくるっとした黒目、ほんのり頬を染められた初々しい笑顔そのもののようでもある。4年前の12月30日に永遠へ旅立った裕明はここにもあきらかに生きている。

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   顔見世へ黄檗山のほとりより    波多野爽波

 先日このようなルートで京都を旅したばかり、この句に出会って自分のことを言い当てられたようでびっくりした。自身の体験や思いが他者の俳句を通して現出される喜びは、俳句という文芸の庶民性のたまものである。
 黄檗山は京都宇治市にある黄檗宗の大本山、萬福寺の山号。開山は中国出身の僧隠元、本尊は釈迦如来。黄檗料理(普茶料理)でも有名である。ここでは12月1日から8日までは蠟八接心という不眠不休の坐禅が行われる。 そのような場所から想像されるある種の雰囲気をもって(これは私のような行きずりの旅人ではないだろう)、師走の南座吉例顔見世興行へ足を運んだというのである。その人の面輪は何とも京都らしい、渋みと華やぎをもって感じられる、文化の深さがうかがわれるというものである。さりげなくも味わいのある一句、季節感の美しい一句である。
 ところで、南座には「まねき」が揚がっている。大きな看板には「すき間なく客が入るように」と役者の名は「勘亭流」と呼ばれる独特の丸みのある書体で板の表面いっぱいに書かれていた。その有り様も曰く言い難く黄檗山あるいは隠元和尚に通うところがあるように私には思える。

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   鴨とほく泛けり睫毛に風おぼゆ    西垣脩

 作者は伊東静雄の愛弟子。詩人、俳人、国文学者である。遠くの鴨とわが身の交歓が睫毛に捉えられた繊細な抒情は読者にも気持よく受け止められる。
<海くれて鴨の声ほのかに白し 芭蕉>、<遠干潟沖はしら波鴨の声 鬼貫>、<水底を見てきた顔の小鴨かな 丈草>、<萍に何を喰ふやら池の鴨 嵐雪>等、鴨そのものを描写した俳句の興趣は尽きないが、時にこの句のように作者の皮膚感覚に結び付けて鴨を浮かび上がらせるのも素敵である。その遠近のきいた二者の距離感がそのまま俳句の奥行きになっている。

 12月10日、ストックホルムにてノーベル化学賞を受賞された下村脩(おさむ)さんは、西垣脩(しゅう)より9歳下の高校の同窓である。
 下村さんは、クラゲから緑色の蛍光たんぱく質を発見した。この二者の関係もまた「風おぼゆ」思いである。


   年の瀬やまつげにとまる街の塵     中村真一郎

 中村真一郎は未知の世界との出会いに際して、その感動を「出会いの風景」として俳句に詠んで記録してきた。俳句とエッセーでもって綴った「樹上豚句抄」(平成5年刊行)は限定1000部サイン入りという小さな本であるが、愛読の書である。
 「塵労」という小見出しの文章は、以下のようにはじまる。
 「最初の妻が不意に世を去った後の半年ほどのあいだの心の荒廃と、生活の乱れとは、梶を失って、荒波のなかを漂流する舟のような有り様で、それまで喜びも苦しみも、常に新しい経験として、私の感覚に刺戟をあたえてくれていた人生が、私には妙に灰色の、無感動な、埃くさい、疲れきったものに感じられるようになっていた。
 街でボロを引きずって歩いている浮浪者を見ると、その男の心のなかに、自分が感情移入されて、私自身も世の中に適応できない落ちこぼれの生き方に、いつ失墜して行くかと惧れながら、投げやりの日々を送っていた」
 三十歳代で老人の心境にあった作者を見兼ねて、中学の先輩で、文学座の俳優中村伸郎が年末の句会に誘ってくれたという。そこには文壇の大先輩、久保田万太郎先生がどっしり坐っていて、参ってしまった。
 そこで一句、「年の瀬」が詠われたというものである。


   腰ぬけの妻うつくしき炬燵かな    与謝野蕪村

 「腰抜け」とは、腰が抜けて立つことのできないこと、臆病なこと意気地のないこと、という二つの意味がある。
 ここは、実際に腰の立たない妻でなければ「うつくしき」が生きてこないだろう。虚子に、この句を評して蕪村に、「醜いものを捉えてこれを美化する大技量を見る」という発言があることを知ったが、妻を美化するというよりは「炬燵」なるものを大いに重宝している句ではある。
 腰ぬけの妻を動かしがたく据えて、一家の中心に納まった冬の炬燵はどこまでもあたたかく、ありがたい。炭か炭団か赤い火の色の美しさがしのばれる。
 高橋治の著書「蕪村春秋」によると、萩原朔太郎が面白いことを書いている、という。
 蕪村の俳句は総て魂の故郷を求めるものであり、母の懐を恋い慕い、暖かな火が燃える炉辺に惹かれる。芭蕉は「漂白の詩人」であり、蕪村は炬燵にもぐりこむ「炉辺の詩人」であったと。

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   仏壇の菓子うつくしき冬至哉      正岡子規

 冬至は二十四節気の一。北半球では太陽の高度は最も低く、昼が最も短い。寒さはいよいよ厳しくなってくるのだが、冬至のことを「一陽来復」と称されるが如く、陰がきわまって陽がかえってくるということ、つまり、この日を境に日が長くなってくることが心の底に意識されるものである。そんな冬至の日の仏壇にふと目を遣ると、そこには色鮮やかなお菓子が供えられていたというのである。
 「菓子うつくしき」は事実であると同時に、冬至の季節感が心象的にも「うつくしく」感じられるものである。
 私事だが、戦没した父の祥月命日はほぼ毎年、冬至の日にあたる。仏壇と冬至の結びつきがありがたく肯えて「うつくしき」にはこころ慰められるものがある。

 子規は蕪村を徹底して賞揚し、その評論でもって近代俳句界における蕪村の評価は定まった。
前掲の「腰ぬけの妻うつくしき」蕪村は、「仏壇の菓子うつくしき」子規に生きている。

   風雲の少しく遊ぶ冬至かな      石田波郷

 風雲とは風と雲、自然のことであるが、風雲急を告げる、風雲児、風雲の志など、ときに勢いのある印象をもたらす言葉ではある。冬至の今日12月21日の気象はまさに「風雲の少しく遊ぶ」というものであった。青空に真っ白な雲と真っ黒な雲が二分にしてあらわれたかと思うといきなり突風が南の方から吹き付けたりした。大歳時記にこれを見つけた時、風雲という象徴的な語句の深さなど全く吹き払われて、「そう、その通り」と感嘆させられた。
 確かなる俳句は、ある日、ある時、ある人に、寸分違わず実感されるものである。

 石田波郷のあとを継いだ「泉」の綾部仁喜主宰の著書『山王林だより』が先ごろ刊行された。人工呼吸器に繋がれて病院生活を送っておられる氏の評論は、「韻文精神徹底」をいっそう追求されて大人の風格が漂っている。
 <ほしいまま旅したまひき西行忌 波郷>に触れて、「 ― 波郷の口惜しさが、腸を絞るような生まの声として聞こえる思いがするのである。そして烏滸がましくも、この句が本当に味わえるのは自分一人だという思いにもなるのである。俳句作品と読者との間には、しばしばこういう関係があると思う。俳句の不思議さ、面白さである。」と述べている。


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   降誕祭シンバルを打つ玩具買ふ      瀧澤 和治

 今どきあまり見かけなくなったが、ネジを巻くと両手のシンバルを打ち鳴らす猿の玩具であろうか。ひやかしに立ち止まって興じることはあっても、やがては行過ぎてしまう、どうってことのないおもちゃである。だが、今宵ついに掌中にしたのである。一句は一読して面白い。それだけで俳句は充分である。
 だが、と思う。神聖なる夜にあって、少々不真面目ではないか。シンバルはそれ自体の振動によって鳴っている、猿は表情一つ変えないでどこまでもひた打ち鳴らす、その摩訶不思議なる世界に引きずり込まれたのは何であったのだろうか。あるべきものはあるべきままにあることのありがたさ、作者は手を合わせて祈る代わりに玩具を手にしたに違いない。
 降誕祭であることが無意識に後押しした瞬時の作用を俳人は見落とさなかった。表面はさりげないが深いところまでもの思われる句である。読者それぞれに思い当たるものがあるのではないだろうか。昔読んだ小説のこと、愛し合ったこと、音楽のこと、信じること、次々と連想をもたらすふとしたことのなつかしさ。
 それでいて最後にはやっぱり、家にはクリスマスプレゼントを待っている子供たちがいるのだろう、ただそれだけのことでいいのだとほほ笑む。
 今生きて一つ物を買う、心を寄せることの幸せ、浮かれない自身を見つめる静けさがここには漂っている。
 クリスマスと言わずして降誕祭と言ったところに、作者の知的な含羞がうかがわれる。
 

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   漱石が来て虚子が来て大三十日      正岡子規

 明治28年、28歳の作。この年、子規は従軍からの帰途喀血、一時は重篤となったが回復し、8月末には郷里松山へ帰って、夏目漱石のもとに52日を寄寓した。漱石も加わって毎日のように句会をしたという。<愚陀仏は主人の名なり冬籠 愚陀仏>、愚陀仏は漱石の俳号である。その後子規は奈良を旅して、<柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 子規>を残した。また、12月には、道灌山で虚子に文学上の後事を託したしたものの断られるという子規にとって涙にくれる出来事があった。
 漱石は、12月28日に上京しお見合い、婚約をしている。そのことを子規に報告に来たのだろう。漱石は子規のことを「彼は僕などより早熟で、いやに哲学などを振り廻すものだから、僕などは恐れを為していた」と語っているが、二人はウマがあって、学生時代からの親友であった。
 こんな背景のある、明治28年の大晦日を子規は眼前のままに詠いあげた。当時の子規の心情が推し量られるものである。
 だが今日我々が掲句を読む時、漱石、虚子、子規という歴史に残る偉大な文学者が膝を突き合わせた印象をそこに重さねて、大晦日という一年最後の一日が何ともどっしりと重しがきいて、豊かに締めくくられることを喜ぶのである。
 先見の明、おそるべき一句である。


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   除夜の鐘このとき見たる星の数     原 石鼎

 大晦日の12時、近くの氏神さまにお参りします。そして一人に一打ずつ除夜の鐘を撞かせていただきます。除夜の鐘とともに今年一年が終わります。
 石鼎の「このとき見たる星の数」は、今、私(草深昌子のブログ)の「このとき見たる星の数」そのものとなってきらめきます。満天の星のもと、感謝の気持ちでいっぱいです。
 多くの皆さまのおかげで、拙くもここまで足取りを運ぶことができました。本当に有難うございました、心よりお礼申しあげます。また来年もご叱正いただけますように。

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by masakokusa | 2008-12-01 00:43 | 秀句月旦(1) | Comments(0)