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超結社句会 ~出たとこ勝負の真剣12番切り    WEP俳句通信

出席者
草深昌子 高崎登喜子
鳥居真理子 村中嬁子


ホスト
小宅容義 永方裕子




編集長 「真剣12番斬り・番外編」第1回目です。本日のゲストは、「晨」同人の草深昌子さん、「泉」同人の村中嬁子さん、「門」同人の鳥居真理子さん、「遠矢」同人の高崎登喜子さん。ホストは「雷魚」代表の小宅容義さん、「梛」主宰の永方裕子さんです。いつものとおり5句投句、7句選でお願いします。(投句された句を編集部で清記、そのあと選句、点盛りを終了。以下の句の下にあるのは容義、裕子などその句を選んだ人の名前です)

容義 「12番勝負」の番外編です。4点句が2つあります。さっそくまいりましょう。

  雪を煮るごとく旦暮の葛湯かな    昌、登、嬁、裕

登喜子 葛湯の句はけっこうあるんですが、「雪を煮るごとく」という表現が新鮮だったので頂きました。はじめて聞くことばです。

嬁子 わたしもこの「雪を煮る」がいいと思って頂きました。

容義 この言葉に集中しそうだね。昌子さんどうですか?

昌子 この比喩ですね。雪という煮ないものを煮るといったところ。見たものを感覚的に詠ったところが、意表をついているというか……。葛湯がとろとろとしていて、それでいて清潔感があり、いい暮らしをしていらっしゃるんだな、というふうに思いました。

裕子 みなさんがおっしゃったことに、もうひとつ加えるとすると、実際に葛湯を煮ている感覚が手にとるように分かるんです。ただ、頭で作っただけではないと思った。

容義 採っていないのはわたしと、真理子さんです。真理子さんどうですか?

真理子 ごとくの俳句は、ごとくが本当に適していないかぎり避けようと思っているんです。葛粉は雪っぽいですから、それほど離れていない。近すぎるぶん分かる感じはある。

容義 みなさんのおっしゃったことを踏まえていうんですが、採らなかった理由は2つあります。
まず「旦暮」ということば。朝晩ですから、作者は一日中風邪でも引いて休んでいるのかな、という解釈をわたしはしました。
 それから「雪を煮るごとく」だと、みぞれ汁のような感じがした。雪はまつ白で、火にかけると、あっというまに解けてきれいになりますからね。葛湯の出来上がりはくもっている。だから、このごとくは似つかわしくないかな、と考えていて、この句を採る機会を失したわけです。

裕子 採りましたけど、確かに「旦暮」が気にはなりましたね。

真理子 「旦暮」は朝から夕方という意味と、ある一瞬という意味がありますよね。それが紛らわしくなる。たとえば、「薄暮」なり「日暮れ」にすれば時間的なことは明確になると思います。

裕子 あまり夕暮れとか決めないほうがいいと思います。

容義 時間の表現はいらないね。作者は、真理子さんですね。

真理子 真理子です。

容義 次の句いきます。

 水底にある日溜りや若菜摘む    登、真、容、裕

真理子 「水底にある日溜り」が一句からキラキラキラキラ浮き上がるように輝いてみえるんですね。そこに「若菜摘む」といわれますと、温かくて、これから春がくる、未来があるというようなところまで、人の気持ちを引っ張っていってくれる。そんな快い俳句でした。

登喜子 わたしはそこまで深読みはできなかったんですが、写生句としてこれだけきれいに写生ができたらいいなと思って頂きました。情景が目に浮かびました。

裕子 「水底にある日溜り」というのは現実に見たことはあるんですが、句にまとめようと思ってもこうはできない。自然を写生する力がすごくある方だなと思いました。「若菜摘む」という季語に疑問がないわけではないんです。「若菜摘む」が上五の自然の描写にあうかな、という気はしたんですが、そうは思いながらもこの句は頂きました。

容義 わたしも頂きました。真理子さんがいったように水底の日溜りはキラキラ動くんですよね。日溜りの句は結構つくるんですが、「水底にある日溜り」は意表をかれて、いいな、と思いました。それから中七の「や」が効いている。この切れによって真理子さんがおっしゃった景が出てくる。ただ、完壁な句にするとしたら「摘む」という動詞はどうかな、と思った。水溜りみたいな浅い水底を考えたら、「芹」
 とかをスポッとおいただけでも十分に鑑賞に値するんではないかな、と思った。「摘む」という動作がこの旬の完全性をそいでいるんではないかな、と生意気な口をきかせていただきたくなるような感じで採りました。
 動詞はどうしても行為の説明になってしまうんですね。どなたの句でしょうか?

嬁子 燈子です。確かにおっしゃるとおりだと思います。

容義 次から3点句。

  大振りの飯椀人の日なりけり    昌、真、裕   

昌子 「大振り」という言葉があるからではないですが、「人日」の捉えかたとしては本当に大振りな、逞しい句だと思いました。多分七草かゆなどをめしあがっているときの実感かもしれませんけど、普段使っている茶椀でもいいんですが、それをふっと大振りだなと思った。「人日」だから何かを作ろうという身構えた感覚がなくて、文字通り大振りに詠われているところが、気持ちのいい句だなと思って頂きました。

容義 いい評ですね。わたしはそういうふうにはまったく考えなかった。「大振り」は「大振り」としか考えなかったものですから。読みの甘さがあるのかなあ。

真理子 「大振り」がうまいなと思った。懐が深くありたいという気持ちがこの一句の中から滲み出てきた。そこまで深読みする必用はないかもしれませんけど。それと余計なことはいっていないすっきりとした省略の形も、いいなと思いました。

裕子 同じです。単純に二つのことを取り合わせて成功している。余計なことをいわない。作者はこういうふうにしたから「人日」に合うだろうとかいう作意がないように見える。本当は作意があるのかもしれないけど(笑い)、出来上がったところがそのように見えないというのがいいですね。

登喜子 わたくしには「大振りの飯椀」が理解できなかったんです。どうして「人日」と結びつくのかが。お話をいま伺っていたら分かるんですがね。短い時間で採るとすると、分かりませんでした。

裕子 この茶椀でご飯を食べようとか思っているのではないんですね。わたしの解釈では。単純に素材がある、というふうにとりました。

容義 わたしもそう思う。その解釈しかできなかった。だから真理子さんのいったような深い読みはできなかった。「大振りの飯椀」は「大振りの飯椀」。「人日」は「人日」。この二つのかち合わせで何か出てくるか、というと、わたしには何も出てこなかった。だから採れませんでした。

真理子 取り合わせとしてはあまり離れてはいません。むしろ付き過ぎだからこそ何か心情的なものを感じてしまった。

容義 ぼくには分かりませんでした。みなさんの意見を聞いて、いかに勉強不足かが分かったような気がいたします。

裕子 俳句には好き嫌いがありますからね。

容義 作者は?

嬁子 嬁子です。

容義 次は、

  万両や踏めば廊下の鳴るところ    登、真、裕

真理子 やや、類想はあると感じました。廊下が鳴るとか、板が鳴るとか。採ろうかどうか迷ったんです。ただ、「万両」が効いていて、長い廊下がバッと見えて来た。その脇に「万両」の赤い花が咲いていて、そこに、「鳴るところ」といわれると、その鳴るところにわたしはエロチシズムを感じてしまった。字面ではそんなことは何もいってないんですがね。類想感はあっても季語との取り合わせで違うイメージが出来るのであればいいなと思った。

登喜子 「踏めば廊下の鳴るところ」は古い自分の家の廊下とかもあるんですが、わたしは京都の古いお寺の長い廊下を想像しました。真理子さんがおっしゃったように真っ赤な万両が古い廊下にマッチしていて、いいなと思いました。スーと心にはいってくる俳句で、すごく好きな旬です。

裕子 頂きましたが、迷った句です。迷ったのは「踏めば」というところ。「踏みて」「踏むと」にしたらどうかな。「踏めば」だと、実際に踏んだという感覚がうすれてくるのではないかと思うんですね、ただ、「万両」が効いている、と思いました。

昌子 実際に即して詠っているかと思いますけど、地味な句だなと思いました。

嬁子 「万両や」が働いていると思いました。作者の素直な発見がよくでていると思ったんですが、やはり類想があるかな、と思いました。

容義 昌子さんはこの句を地味な句とおっしゃいましたけど、僕にいわしたら、派手派手なんですね。なぜかというと、中学生のころ、漢文の先生に「れば即」という言葉をならったんですけど、「…すればすなわち…」ということ。俳句をやるようになってから、俳句の先生からこの「れば即」は絶対に使うな、といわれていて、その言葉が染み込んでいるものですからダメなんですね。

昌子 この場合の「…ば」は踏んだそのときに、ということで、踏んだからこうなったという因果関係ではないと思いますけど。

容義 そうであれば、「鳴るところ」という表現はおかしい。

裕子 そう思います。わたしもそこが迷ったところです。「鳴りにけり」とかだったらいいんだけど。

容義 「れば即」は自分でも結構作るんですけどね。句集にはできるだけ排除するようにしていますが。

登喜子 「踏みて」ではどうですか?

容義 いやあ、そういう雰囲気はないです。

真理子 難しいですね。わたしは「鳴るところ」が好きなんですね。

容義 俳句はアバウトなところがいい、という人もいますが、わたしは俳句は断定しなければいけないと思っているんですね。日本人はふにゃふにゃっとしたところに俳味を感じるとか、俳句ではしばしばいわれるけど、僕は好きじゃない。これはぼくの好き嫌いの問題ですけど。作者は?

昌子 可哀相に、嫌われた昌子です。(笑い)

容義 ごめんなさい。次から2点旬です。今回は点が分かれましたね。

  のんびりと上がる遮断機初御空    真、裕

裕子 「初御空」という季題はむずかしい。平凡になりがちというのかな。空のほうをむいていると、空をいいたくなるし、どうしても高いほうに目線がいく。この句は日常的に遮断機があるという生活の匂いがあって、見慣れているものなのですが、正月になると、その遮断機も新鮮に感じる。静かな句ですがいいと思った。

真理子 これも迷った句です。あまりにもそのままのような気がした句。わたしには絶対に作れないし、また作らないと思ったんですが、何か惹かれたんですね。遮断機はいつも同じ速さで上がっているんですけど、お正月だからこそ、「のんびりと」と作者は感じたんですね。凧上げの空とかの風景が立ち上がってきたんですね。気分のいい句でした。

昌子 もう一句と言われたら頂いていました。「のんびりと」したのは作者なんですね。通勤の途上では早く上がらないかと思っている。お正月だから「のんびり」という因果関係が出ているといえば出ているんですが。

嬁子 わたしが頂かなかったのは遮断機の句はあまり好きじゃないから(笑い)。

容義 遮断機が上がるというのは説明。そのさきに空が見えたというのは、発見とはいえなくて作者のむしろ怠慢という気がした。作者が「初御空」を読み手に教えている。これがいや。

真理子 他の季語を入れてくれてもよかったですね。

容義 作者は?

登喜子 登喜子です。よく分かりました。 (左下のmoreをクリック願います)

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by masakokusa | 2008-04-18 14:39 | 昌子作品抄 | Comments(0)
季節の秀句
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  (2008年4月号「百鳥」所収)
by masakokusa | 2008-04-13 22:16 | 昌子作品抄 | Comments(0)
秀句月旦・平成20年4月               草深昌子

   入学児に鼻紙折りて持たせけり    杉田久女
   栴檀の花散る那覇に入学す       〃


 子供の小学校入学に際し、若き母親はいささかの緊張とともに冷静にやさしく鼻紙をきちんと折って持たせた、頑是ない子もきちんとそれを握りしめた様子である。
 「ハンカチと鼻紙」はセットであるからここは「ハンカチ」でもよかった、だが久女はハンカチでなく「鼻紙」を選び取った。ここに俳句に対する久女の天性の信頼がうかがわれる。鼻紙であればこその入学児のあどけなさ、母親ならではの頬ずりしたくなるような情愛がにじみ出るのである。絶えず鼻をすするのが昔の子供の表情であったが、入学に際し子供の顔もちょとあらたまった感じである。
 
 センダンノハナチルナハニ、このダイナミックな調べは、「入学す」という下五に凝集されて、堂々としている。引き締まった顔立ち、そこには胸を張ってまっすぐに歩みはじめた子供の意志すら感じられてくる。久女ここにありという気がする。
 「花(ハナ)」が「那覇(ナハ)」を尻取りのように誘いだすことも韻律をいっそう弾ませているようである。栴檀の花は本州では5月か6月に咲く薄紫の花であるが、南国那覇では4月にもう咲いて散るのであろう、いかにも温暖な感じの栴檀の花がスケールを大きくしほのぼのとしている。  「栴檀は双葉より芳し」と、大成する人は子供の時から優れているということばを思い出すまでもなく利発な入学児である。

 前句の細やかさ、やさしさ、後句の大きさ、強さ。両方とも久女のものである。表がやわらかであっても裏には強さがあり、表が強くあっても裏にはやさしさが控えている。物を見通す力の凄味とともに、比類なき愛情の深さが思われる。


   さまざまの事おもひ出す桜かな     芭蕉

 先日、満開の桜をくぐりぬけて、百歳にならんとする母を見舞ったが、すでに母はボケていて私が誰だかわからなかった。数年前には姉と二人で両脇を支えながら、きれいな―きれいなーと言いながら、ここ高田川の土手の桜を堪能したというのに。あんな幸せな花見はなかった。そう思いだしながら夢幻のごとく私はやはり母の手をひいて花の下をゆっくりゆっくり歩いているのだった。「さまざまの事おもひ出すさくらやなー」とつぶやいていた。はっとした、あっ、これは芭蕉やったなー。
 なんてすごいことだろう。三百年以上も前の芭蕉の言葉がいま私の気持そのものとなって、私の眼前に繰り広げられている光景そのものとなって〈さまざまの事おもひ出す桜かな〉と反芻してやまないのだ。
 私のことなどわかっても、わからなくても、もうそんなことはどっちでもいい、桜にまみえることの幸せに涙がにじみ出るばかり。
 毎年、標語のように口ずさんでいた芭蕉の一句は、命あることばとなって今年いまここに、しんじつよくわかった。私は、母もろともに本当のことばを泣きたい思いで抱きしめていたのである。

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   大いなる春日の翼垂れてあり   鈴木花蓑

 花蓑というと、〈団栗の葎に落ちてくぐる音〉、が先ず浮かぶ。かにかく緻密に徹底した写実こそが花蓑と思いきや、はたして、「春日の翼垂れてあり」という、この大いなる転換にはあっと驚かされる。発想の転換などというものではない、じっくりと観察する時空の中からある時じわっとつかみ取った実感、自然へのいれこみであろう。
 春の太陽は、燦燦たる陽光でありながら、どこかけだるさ、ものうさを感じさせられることが、「翼垂れてあり」という周到の修辞によく出ている。
 蕪村の〈春の海ひねもすのたりのたりかな〉にどこかかよっている。蕪村の海にしても、花蓑の太陽にしても、紛うことなき大自然の春そのものの色や味わいを悠然とかもしだしているのである。


   その辺の草を歩いて啄木忌    大峯あきら

 一句からは、石川啄木の歌がたちどころに浮かび上がってくる。
〈不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心〉、あるいは〈その昔小学校の柾屋根に我が投げし鞠いかになりけむ〉、だれの胸にも思い出の底にその歌とともに芒洋と存在する天才歌人啄木を彷彿と引き出してくれる。そのなつかしさが一句を気持ちよく清々しく朗誦させる。
 「その辺の」、「草を歩いて」、何でもない平明な言葉の連係が濃密に読者のこころに響いてくるのは、作者その人が本当に心の底から湧きあがってきた啄木を偲ばずにおれない気持ちの濃さにほかならない。
 その辺の草一つにしてもあだやおろそかに見ているのではない、本当の詩人のことばは本当の詩人の胸にいまあきらかに伝わっていることが、なぜだかわかるのである。
 夭逝の啄木になりかわって喜びたい気分である。


   田に人のゐるやすらぎに春の雲   宇佐美魚目
 
 春の雲があるべきところにあるべき姿をして浮かんでいる句である。つまり「春の雲」の本情のままに美しい情景である。広々した空間に一点景として人がいる、そのことがぽっかりと浮かぶ白雲をみるからに春の情趣に包み込んでいるのである。
 風景は不思議なもので人を容れるとふいに輝きはじめる。一句の息遣いからは、人間もまた花鳥同様、自然の中に循環する命を持っていることを気づかされる。
 「やすらぎに」という「に」の助詞のはたらきが美的に静かに作用していることはいうまでもない。


   春の燈や女は持たぬのどぼとけ   日野草城

 女の喉が白いとか、すべすべであるとか、その美しいさまを述べたら平板な事実にすぎない。
「女は持たぬののぼとけ」とわざわざそこに見えない喉仏を引き出してくるあたりが凡手にはできない。喉仏がないとまで言うからには、近々と相寄ったのではないだろうか、肌触りまでも想像させるあたり、俄に奥行きがましてくる。
 男が見つめている女、ここには艶なる何かを感じさせるものがある。それはとりもなおさず「春燈」という朧なる夜のともしびのありようである。


   永き日や波のなかなる波のいろ  五所平之助

 昭和55年3月発行の月刊誌『太陽』は「俳人とその職業」を特集している。その表紙を飾った写真は今もよく覚えている。富士山を背景にロケ中の俳人・五所平之助の悠然たる姿であった。五所平之助は、昭和期の映画監督として有名であったが、初代「伊豆の踊り子」を撮ったことでよく知られている。
 「僕の映画には必ず季節感をとり入れた」「光と影と、前者が映画監督の道とすれば後者は俳句の道。二つの道は表裏一体だ」、という言葉がそのまま、掲句の印象にかさなってくる。
 春のあたたかな一日、なかなか暮れようともしないのんびりとした感覚を逆にシャープに切り取っているあたり、まさに光と影の陰影をかもしだしている。微妙なところを捉えた鋭敏な感覚もさることながら、「永き」、「波のなかなる波のいろ」と「ナ」音をたたみかけてひっぱってゆくあたりの表現も、永き日という空気感を眼前に打ち出して、まこと映像的である。


   臍の緒を家のどこかに春惜しむ  矢島渚男

 「臍の緒」ということばがすでに懐かしい。赤ちゃんと母胎をつないでいた柔らかな命の管ともいうべき小さな名残り。子を産んだあと真新しい桐の小箱に納められた、それを桐のタンスに大事にしまい込んだ記憶はあるが、さて何十年も経ったいまはどんなふうに眠っているのであろうか。
 掲句の「家のどこかに」が何ともゆかしい言い回しであって、かすかに切なさを漂わせる。はっきりとさせないで、芒洋とさせておいて、なおたしかに存在しているであろう一塊のくらがりを読者に想像させるものである。
 「春惜しむ」ということは、言いかえればこのような、なにかはっきりしないけれど、胸にふっと湧いてくる淡い感傷的な思いに違いない。そして何よりソフトな感覚である。


   ただひとりにも波は来る花ゑんど   友岡子郷

 真鶴半島を歩いてさらに福浦漁港に立ち寄った折、白波を向うに、支柱にワンさと這い上がった白いえんどうの花が揺らいでいた、その時、数人が期せずして掲句を口ずさんだ。
 「いいわねー」とみな目を細めた。一つの風景が一句と結びついて、一人一人の胸にたたみこまれていった浦風の静けさは忘れられない。
 この句は意味的に「ただひとりにも波は来る」と、すっと読み下したくない。ここはやはり五七五の調べを意識し、「ただひとり」であるかなきかの間をおき、「にも波は来る」とすかさず明瞭に続けて、「花ゑんど」とドスンと抑える。あとは余韻余情にたっぷりひたるばかり。
 何でもないように見えて緊密な構成が、寄せては返す波の詩情にかぶさってくる。

 後に知った事であるが、掲句は平成7年、阪神大震災後、安乗岬での作品であった。「青海原から寄せてくる波を見ながら、私は自己の孤心を思い、それから震災死者たちの無念を思った」と作者は記されていた。


  子のくるる何の花びら春の昼   高田正子

 伊東静雄に「春浅き」という詩がある。
―あゝ暗と  まゆひそめ  をさなきものの  室に入りくる   いつ暮れし  机のほとり  ひぢつきてわれ幾刻をありけむ   ひとりして摘みけりと  ほこりがほ子が差しいだす  あはれ野の草の一握り   その花の名をいへといふなり  わが子よかの野の上は  なほひかりありしや   目とむれば  げに花ともいへぬ  花著けり ―
 しみじみと、ああいい詩だな、と思う。
 掲句はまたしみじみと、いい俳句だなーと感じ入る。
 愛らしい幼な子がうら若き母のたなごころにあまやかに触れてくる、そのささやかなスキンシップは、「春の昼」の情感そのものである。
 どこかけだるいような肉感、幸せならばこそのふとした愁いをそっくり季語に包み込んで、ただ寡黙に十七音を提示するのみにとどめている、これが俳句である。


   われもゐし妻の若き日桜貝     大屋達治

 「われもゐし妻の若き日」、何となくそっけない口ぶりだが、「桜貝」に仮託した心情は結構ごちそうさまである。
 古い写真をみると、妻のうしろに写っている脊中、「あら、これあなたじゃない?」なんてことはよくあるだろう、俳人はそんな微妙な郷愁を瞬時にすくいあげる。
 結婚するなんて思いもよらなかったあの頃、でも後ろから見守っていたオレだよ。甘いばかりではない、そこはかなとなき時空の不思議さ。
―ほのぼのと薄紅染むるは  わが燃ゆるさみし血潮よ  はろばろと通う香りは  君恋うる胸のさざなみ―「桜貝の歌」も当然下敷きにあったであろう。


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by masakokusa | 2008-04-01 09:41 | 秀句月旦(1) | Comments(0)