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秀句月旦・平成20年2月            草深昌子

 二もとの梅に遅速を愛す哉   与謝蕪村

 「遅速」は『和漢朗詠集』の慶滋保胤(よししげのやすたね)の「東岸西岸の柳 遅速同じからず 南枝北枝の梅 開落已に異なり」という詩句によっているそうである。だが、「遅速」という措辞ほど梅の花の特質をいいあてているものはないように思われる。掲句は草庵の二本の梅、紅梅と白梅であろうか。早く咲いてよし、遅く咲いてよし、梅を寵愛している蕪村には、〈しら梅や誰むかしより垣の外〉、〈宿の梅折取るほどになりにけり〉、〈隅々に残る寒さやうめの花〉、〈梅咲て帯買ふ室の遊女かな〉、〈梅遠近南すべく北すべく〉などの句がある。
 〈梅が香にのっと日の出る山路かな 芭蕉〉、芭蕉が死んだ元禄7年から数えて22年後に蕪村は生まれた。生年において72年のひらきである。蕪村が只一人師と仰いだ巴人は、芭蕉の弟子基角・嵐雪を師とした人である。
芭蕉の孫弟子ともいえる蕪村は常に芭蕉を見据えて、芭蕉の中興、芭蕉の復古という時代を俳諧師のみならす画家としても一流に生き抜いた。
 〈しら梅に明る夜ばかりとなりにけり〉、清冽な香気を放ちながらほのぼのと明るい心象はいかにも蕪村の末期のように思われる。

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  恋猫の恋する猫で押し通す  永田耕衣

 いつだったかネットで、「恋猫の恋する猫で押し通す」という俳句の意味を教えてください、という質問があって、そのベストアンサーに選ばれた答えは、「初めはあなたに熱烈な恋をして、今はその熱も少しさめかかっているけれど、彼の稼ぎも悪くないし結婚するまではこのまま恋する乙女を演じよう」ま、そんな感じに受け取りましたが、というものであった。
 私の回答は全く逆である。「僕はもう君が欲しくて欲しくてどうしようもない、君をわが掌中にできなくて何の一生であろう、僕の事業なんて何とでもなるのだ、僕は君の奴隷になることをも辞さない。」、ここには意味というものはない。生理的本能のままに、生き物としての純粋性のままに徹底して愛を獲得しようとする熱情以外なにもない。なんでこうするのか、なんでこうなるのか、恋して恋して恋しきることにわけはない、ただ僕のいのちがそうさせるだけだ。
 夜を徹して鳴きたてる恋猫を描ききって、この句の右に出るものはない。あのイヤーナ声もこの句を思い浮かべると、むしろ後押ししたいぐらいになる。それにしても「押し通す」という言葉の凄みはどうだろう、今となっては、俳句一徹に「押し通した」永田耕衣その人の生き方そのものであった。

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  冴返るも糞もなく寒き信濃かな     浜人

 昭和13年に出版された『ホトトギス雑詠選集・春の部』は、明治41年10月号から昭和12年9月号迄のホトトギス雑詠を春夏秋冬の4季に分類して、その春の総句数約4万の中から再度虚子が厳選して三千余句を選んだものである。これの復刊である朝日文庫版を開くと、「冴返る」の例句は掲句の一句のみ。
 「冴返るも糞もなく」、この怒り口調にはグーの音もでない、信濃ってそうなんだ、歯の根も合わぬような寒さにどすーんと放り込まれてしまう。「・・も糞もないー」は問題外であるという言い回しであるが、字面の「糞」は文字通りフンまで凍るような風土のありようをしのばせる。同時に作者はホクソ笑んでいるようなゆとりすら感じられて俳諧味たっぷりである。
 ところで「冴返る」とは、立春も過ぎて少しあたたかくなりかけたかと思うとまたぶりかえす寒さをいうのであるが、この冴返るという季題自体が論外といわんばかりにはねつけたあたり今なお新しいと思う。
 ちなみに近刊の歳時記から拾うと〈古井戸の蓋は青竹冴返る〉、〈冴返る虚無僧のごと鷺一羽〉、〈珈琲の豆挽く音の冴返る〉、等いかにも季題の解説の範疇におさまって優等生的である。現代の俳句がヤワで、むしろ古めかしいと思ってしまうのも、掲句のインパクトが強すぎるからかもしれない。


  用もなく乗る渡舟なり猫柳    石田波郷

 昭和41年発刊の『江東歳時記』は波郷の俳句と随想と写真が三位一体の魅力となって、手に取るたびになつかしい。
 掲句は江戸川矢切渡しである。――向こう岸に渡舟番の小屋があって旗が揚がり、二、三本の低く光る木は猫柳だ。犬を抱いた若妻、自転車を押した娘、臨月も近いような腹を風呂敷包みで隠すように抱いた女、それぞれカメラをさげた青年群、そういう人々のわきから飛び移る子供達。中には渡しにのって向こう岸についても上陸せずにそのままひきかえす者もあるようだ。――
 矢切りの渡しは寛永8年(1631年)に幕府が始めたそうだが、今も東京唯一の観光「渡し」として健在である。当時も、東京都内で手漕ぎの渡し場はここくらいのものであったらしい。旗が揚がっていると運航していて、大人10円子供5円のところ、大人100円子供50円になったけれども、二月の中ごろ、猫柳がその紅がらをぬいでかがやき初めている風景は少しも変わらない。
 ゆっくりとしてあわてない渡舟の気分は、猫柳のおっとりした風情にもっともよく通っている。


  菫ほどな小さき人に生れたし   夏目漱石
 
 菫と言えば、<山路来て何やらゆかしすみれ草 芭蕉>がまっさきに思い浮かぶこともあって、掲句ははじめ、文名がいや高くなったころの漱石の述懐とばかり印象していたが、実は明治30年、漱石31歳ごろの作品である。松山の中学を去って熊本の第五高等学校の教師となって赴任していたころであり、この願望こそが漱石の数々の名著を生んだ礎であるようにも思われる。俳句は無名がいい、といわれるがこの句は作者名までを一続きに読んでこそ、あるいは漱石の名を前書にしてこそ、いっそう潔癖にして引きしまった思いで鑑賞されるものであろう。
 同じころに、<人に死し鶴に生まれて冱え返る 漱石>もある。菫になりきり、鶴になりきるのが漱石その人のならではの孤高の精神のあらわれである。
 明治29年、子規は従軍中に喀血して神戸、須磨と療養したのち郷里松山に帰ったのであるが、その折漱石の寓居に引っ越した。「大学を中途で退学して新聞社に這入って不治の病気になっていた子規居士と、真直に大学を出て中学の先生をしていそしみつつあった漱石氏とはよほど色彩の変わった世界を階子段一つ隔てた上と下とに現出せしめて居った訳である。」(高濱虚子)めったに二階から下りてこない漱石もたまには下りてきて句作することもあった、そしてそれらの句の上に子規は無造作に○を付けたという。若き日より漱石は子規直伝のれっきとした俳人であり、虚子とは道後温泉につかりながら俳句論議を交わしあっている仲でもあった。
 明治35年、「倫敦で子規の訃を聞きて」、<霧黄なる市に動くや影法師 漱石>、<筒袖や秋の棺にしたがはず 漱石>などを虚子あてに送っている。

  白魚のいづくともなく苦かりき    田中裕明

 <白魚やさながら動く水の色 来山>、<明ぼのやしら魚白きこと一寸 芭蕉>、<ふるひ寄せて白魚崩れん許りなり 漱石>、<雨に獲し白魚の嵩哀れなり 秋櫻子>、いずれも白魚の情趣を詠いあげて見事である。一方、味に迫った裕明の掲句もまた、そのような白魚の姿がかぶさってきて透明感に満ちている。白魚の踊り食いは旬のご馳走ではあるが、あまりに新鮮なるが故に、どこか残酷で歯ごたえを味わうまでもなく喉を滑り落ちるものである。ことに松山でいただいた生きのいい白魚はいまもって思い出すたび胃袋がむずむずしてくる。無味無臭であったように覚えているが、「いづくともなく苦かりき」と言われてみると、なるほどそうであったと納得させられるのである。繊細な味わいを言葉に置き換えることの何と鮮やかな仕業であろう。甘いと言わずして「苦がかりき」と言い切ったところに、むしろ白魚が生き生きとするし、「いづくともなく」には、小さな目をもった小さな魚のへの愛惜がゆきわたっている。ここには、あの大きな黒眼をつむって、しばし瞑目する裕明が白魚そのものの如くひそんでいるかのようである。


  薄氷の吹かれて端の重なれる   深見けん二

 「虚子先生から学んだ花鳥諷詠は、季題尊重であるが、それは基本的に季題発想である。また客観写生は、季題と心とが一つになるよう対象を観察し、句を案ずることである。それらを重ねることで、自分なりに心が自由になる」、深見けん二の言葉は一字一句無駄がなく、一字一句重大である。「観察する」、「案ずる」、「自由になる」この道程の中から生み出された掲句は、春先の氷のうすうすした質感や光りの加減や空気感までが伝わってくる。
 俳句は自己満足のために作るなら日記帳に控えておけばいい。発表する以上、作者一人が面白がっているのではなく、読者を喜ばせ、楽しませてほしいと思う。はっと驚くのは、奇抜なものでも何でもなく、幾度となく見ながら、ついぞ表現しきれなかった光景を目の当たりにするときである。このような純粋な句に出会うと、「俳句っていいなあ」としみじみする。


  春の鳶寄りわかれては高みつつ   飯田龍太

 飯田龍太が亡くなって早や一年が経つ。鳶は鎌倉の海辺などに群れをなしているのはことに親しく思われるが、いつどこであっても悠々たる鳶を仰ぎ見るとき、その大空のどこかに龍太の眼があるように思われてならない。
 掲句は、昭和21年龍太26歳の作品。原句は、<春の鳶寄りては別れ高みつつ>であったが、唯一蛇笏が加筆訂正したものとして知られている。中七の滑らかさはそのまま流暢な鳶の飛翔となって、ぐんぐん高くなってゆくさまが現出する。
 自句自解に、「しばらく甲府にいたことのある野尻抱影氏が、この句を見て、明治のころは甲州に鳶をみかけなかったが、、、と、どこかに記していた。いまも数は少ないようだ。それでも早春、晴れた日には時折見かけることがある」と述べている。
 蛇笏には<小野の鳶雲に上りて春めきぬ>がある。寒々とした畦に下りている鳶が、春めいたある日、ぴーひょろと笛を鳴らしながら白雲のはるかへ舞っていったというのであろう。鳶の句をとってしても、蛇笏は蛇笏らしく、龍太は龍太らしいところが好ましい。


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by masakokusa | 2008-02-21 08:57 | 秀句月旦(1) | Comments(0)