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特別作品                   草深昌子
 
      あとがき
    
    相模屋の角折れてゆく梅見かな
    
    煎餅に丸と真四角梅含む
  
    一族のつめて一枚梅見茣蓙
  
    寒さうな温かさうな梅見茣蓙
  
    鴛鴛といふがまさしき梅の花
  
    梅の花首すつ込めてゐたりけり
  
    トルソーの乳房あふむく雪解光
  
    引けば鳴る鈴の音色の辛夷かな
  
    おぼろ夜や旅の鞄の口開いて
  
    あとがきの如し夕日の斑雪



 ケイタイをかけてくれる友人がいる。会いたいねと言ってくれる友人がいる。なのに、なぜか心沈むときがある。親しい人に近くいても、淋しいときは淋しい。
 俳句を作るこころになっているのは、そんなときだ。雑木に降りかかる冬日を感じながら、得心のゆくまで独りぼっちになっている。

  (2003年5月号・「晨」第115号所収)
by masakokusa | 2007-08-25 19:26 | 昌子作品抄 | Comments(0)
特別作品             草深昌子 
     
      水平線

     晶子忌の記録破りの気温なる
  
    白波のうらがへりては朴の散る  
  
    海開き水平線をひきなほす
  
    海側の部屋の夏闇深きかな
  
    初潮や鳥は一族毎に飛び  
  
    銀杏の匂ひのどつと鯨塚
  
    秋燈を暗しと頭寄せ合へる
  
    柱抱くやうに嬰抱き日短か
  
    浮寝鳥胸突き合はせ申しけり
  
    一点を見つめてゐたり帰り花


  明治34年、まさに20世紀の黎明を告げる年、与謝野鉄幹と晶子は再遊を果たした。
 
   春みじかし何に不滅の命ぞと
          ちからある乳を手にさぐらせぬ   晶子

 
 晶子の『乱れ髪』が発刊されてちょうど百年になる。生涯に4万とも5万ともいわれる歌を作り、11人の子供を育てたエネルギーは溢れるばかり。
  21世紀を少しく生かされる日々はまた、晶子の歌の瑞々しさに励まされることになるだろう。

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  (2001年1月号・「晨」第101号所収)
by masakokusa | 2007-08-25 19:08 | 昌子作品抄 | Comments(0)
高山麋塒(たかやま・びじ)の一句鑑賞       草深昌子

   胡草垣穂に胡瓜もむ屋かな    麋塒
                  

 「深川の草庵急火にかこまれ、潮にひたり、苫をかづきて、煙のうちに生きのびけん、これぞ玉の緒のはかなき初めなり」、大火を逃れた芭蕉は三十九歳であった。翌年、高山麋塒のもとに逗留中に巻いた歌仙の発句である。
 「胡」は胡椒、胡麻等中国の周辺外地のものを意味するというから、胡(へぼち)草もまた胡瓜の葉をさしているのではないだろうか。増補「俳諧歳時記栞草」には「時珍日、胡瓜、張騫、西域に使ひして種を得。故に胡瓜と名づく」とある。インド原産の胡瓜が中国を経て渡来したのはいつ頃であったろうか、いずれにしても掲句の胡瓜は今のキュウリとは別格の夏ならではの緑色。 
 竹などの粗朶に苗をからませていたのが垣根そのものの如くワンサと成っているのであろう。次々と捥いでは塩で揉んで香気を放ちながらいただく、涼味満点の佇まいである。平穏な暮らしに大火の痛手を癒している芭蕉と麋塒の交流もまた清々しくしのばれるものである。


   (2007年7月5日発行・ににん夏号№27所収)
by masakokusa | 2007-08-22 11:32 | 俳論・鑑賞(1) | Comments(0)
『俳句四季』句会拝見・「ににん」句会      草深昌子 
                                      

 同人誌「ににん」の句会は、高田馬場駅近くにある会場で毎月第一水曜日を定例としている。
 ときに最寄りの早稲田や下落合あたりを吟行することもあれば、句会後たちまち校正や編集の場に取って代わるなど、そのスタイルは岩淵喜代子代表の目指す、自由な風の出入りする公園のような同人誌のありようをおのずから反映している。
 「ににん」の創刊はちょうど七年前の秋であった。以来、会員と購読会員が両々相俟って着実に号を重ねてきたが、両者十数人による定例句会もまた粛々と歩み続けている。
 午前十時半に持ち寄り五句の句会。昼食後は席題十句による句会、誰からともなく「もう一回やりましょうよ」とさらに十句などということもしばしば。とにかく俳句が好きで好きでたまらない集団である。大方が結社に属しながら尚つとめて別種の批評にも耳を傾けようとする自立したメンバーは、適宜進行役を引き受け、互選の講評も打打発止かつ藹々である。
 俳句の立脚地がさまざまであっても、「主人が客をもてなすように、俳句の作者は受け手に対して敬愛の慎みを忘れてはならない」、そんな清々しい風を確認しあっているのである。
             
   (2007年9月1日発行『俳句四季』9月号所収)
by masakokusa | 2007-08-22 11:31 | 挨拶文・書簡・他 | Comments(0)
秀句月旦・平成19年8月            草深昌子


  死に未来あればこそ死ぬ百日紅    宇多喜代子

 未来あればこそ生きる、のではない、〈死に未来あればこそ死ぬ〉というのだ。一体このようなフレーズが生れるとは只ならぬことである。宇多喜代子ならではの切なることば。こういわれてみると百日紅はいっそう真っ青な空に耐えて真っ赤に咲き続ける象徴的な花である。人は必ず死ぬに決まっている、だからこそエネルギーの限りに生きる、生きる限りを生きる、それが自然の命、人間の命というもの。無駄死になんぞあってはならない、あるはずもない、心奥の声が聞こえる。


  惜しみなく妻となりたる浴衣かな   長谷川櫂

 一服の美人図を見るようではないか。初々しさにジェラシーを覚えながら、そんな平俗を避けて、さて「浴衣」という季題を見直すとき、一句はまこと浴衣の浴衣たる本情、つまり素肌感覚を伝えているものである。それゆえに「惜しみなく」は心憎いばかり。

  虚子記念文学館へ帰省かな     稲畑廣太郎

 何ともうらやましい堂々たる一句である。こんな大きなふところに帰省できる幸せは一人血の繋がった曾孫としてのみならず、俳人としてのそれでもあろう。虚子記念文学館は俳句の好きな誰にとっても、とことわに存在する故郷のようなものである。


  いつまでもいつも八月十五日     綾部仁喜

 太平洋戦争が終結して六十余年が経った。この句は何年目であろうと、いつも新しい、いつまでも新しい。何も言わず一切を大きく包括している鎮魂歌である。戦争について何か言えば言うほどに虚しくなる、年々累積する悲しみ、終戦日とさえも言いたくない、だから〈いつまでもいつも〉であり〈八月十五日〉なのである。


  八月の箱から釘の出てきたる    鴇田智哉

 「ものを曲げて見る、ということではないだろう。ものは初めから曲がっているのだから。曲がっているものを曲がっているように見る、ということだろう。そうやって俳句を作るなら、俳句もまた、曲がっている」とは作者の作句信条ともいえる言葉。果して掲句の釘は、もっとも釘のあるべき時、あるべきところから取り出された。その俳句は曲がってあるやいなや。とまれ錆びて曲がった釘がいとおしい。


  鳴きだせば蜩の木のとほざかる    藺草慶子

 一読すっーと風の通るような涼しさとともに、何がなしの感慨が湧き上がってくる。現実でありながら空想のようでもあり、思い出のようでもある。蜩のはるかな声は詠いつくされているが、この句は主体が樹であるところが動かしがたい。作者の第三句集は『遠き木』であったが、その句集名は「私の心象風景に拠る」と記されていたことが思い出された。


  妻にまた母なき日々や魂送     上野一孝

 こんなやさしい夫を持ちえた妻の幸せを思わないではいられない。精霊を見送ったのちも妻の心に母は生きていることを承知しながら、お盆という格別の思いを認識しているのである。京都の大文字送り火はこの世とあの世の往き来を実感させられるものであるが、そんな束の間ながら盂蘭盆会は人の世に欠かすことのできない大きな節目の行事である。


  墓石に映ってゐるは夏蜜柑     岸本尚毅

 墓石と夏蜜柑は全く別個の材質感を持っている。だがひとたび墓石に映ると、夏蜜柑は墓石の材質感そのものになりかわってつるつるすべすべである。もちろん手前には、あの大きくて疣々の分厚い皮、食べれば酸っぱい、そんな無骨な夏蜜柑がドカと坐っている、ただ一個きり、、。
いかにも単純明快、瞬時に映像が浮かび上がるものでありながら、読者を長い時間墓原に立ち止まらせる。「映ってゐるは」の言葉運びがいきおい夏蜜柑をクローズアップさせて、なおかつあたりを払って黙らせるものがある。季題は夏蜜柑であるがむしろ墓石の句、墓参の句として愛唱している。


  底紅や黙ってあがる母の家     千葉皓史

 俳句初学に感応した句がいつしかそれほどのものではなくなることがままある。逆も真なりである。だが掲句は初学以来今もって好きな句である。ある一つの映像が描かれて、何か物語るものがあって、奥行きの深い句でありながら、至ってシンプル。全ては底紅たる季語に仮託されたもの。逆にいえば底紅を鑑賞すればすべてである。庭へまわって裏口から廊下を踏んであがった素足のうらが美しい。静謐な佇まいがなつかしい。古き良き時代がいまに新しい。


  北行きの列車短し稲の花     山本洋子

 稲の花の開花期は短い、ほとんど見落としそうな小さな白い花であるが、その命には収穫を約束する力強さがひそんでいる。地道な稲の花の本情がこの句のすべてにゆきわたっている。〈稲の花〉と言えばイコール〈北行きの列車短し〉とインプットされて、当分稲の花は詠えそうにもない。「松のことは松に習へ」の一心あらばこそもたらされた千載一遇の出合いに違いない、だがその表出のなんと物静かなことであろうか。

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by masakokusa | 2007-08-19 20:43 | 秀句月旦(1) | Comments(0)