<   2007年 05月 ( 6 )   > この月の画像一覧
○春夏秋冬帖① 君は僕を愛している    草深昌子

 <愛には愛で感じ合おうよ 硝子ケースに並ばないように> 二階から娘の歌声が軽快に降りてくる。そして、<何度も言うよ 残さず言うよ 君があふれている> 娘の歌声はカッブのティーをこぽさぬようにゆらゆら階を上っていく。 寒日和もとろけそうなその歌は「101回目のプロポーズ」という昨年の人気ドラマの主題歌だそうだ。目下恋に夢中の娘の歌に耳を傾けていると、恋ならぬ俳句に夢中の私の胸にもじんとひびくフレーズがあった。

 <言葉は心を超えない とても伝えたがるけど心に勝てない> 俳句を作るために、野山や旧跡を歩くことが多い。目差しや風が新鮮に感じられたり、いつも見ている花や虫に驚かされたりする。その印象を打座即刻に言い止めたい。しかし1の印象を1の言葉に表現するのは至難の技だ。言葉は心を表わすが、言葉と心は同一ではあり得ないからだ。
  そこで1の印象を0.5から0.6へさらに0.8へとできるだけ1に近づける努力をする。自分の印象を正直に写生しようとする。言葉を心に近づけていくのである。自分の胸に手を置いて、深く自分の印象をさぐっていくといつしか対象と一体となって突き上げられるように十七音にのせられることがある。
 私はここで小さな息を漏らすことになる。こんな風にして生まれた一句は同行の方々の共感を得ることが多い。あなたの気持は明るかったのですねとか、寂しかったのですね、とか評してくださる。読み手に私の心のありようをうつし出されることになる。作り手と読み手の間に等しく親しく心が通い合う時ほど嬉しく幸せな時はない。
 しかし実際には、なかなかそう幸せにはゆかない。こう感じましたよと言うまえに、こう思いましたよ、と作っている時の方が多いからだ。心より言葉を先に探っているのである。すばらしい言葉が躍るように見つかることがある。われながらうまくいったと膝を打ったとたん、するりと逃げて読み手の心にとどかない句となってしまう。まさに歌詞のとおり、<とても伝えたがるけど心に勝てない>のである。1の印象が2や3にふくれるのをおさえて、即ち伝えたがる言葉をおさえて謙虚に言葉を心に従わせていかなければ、心は通い合わない。

 さらに娘は歌う。<何度も言うよ 君は確かに僕を愛している> ここで私はあれっと首をかしげた。愛の歌なら相場は「僕は君を愛している」ではなかったかしら。
「君は僕を愛している」---―この君は正直な人ゆえに誇張や増幅のない言葉を発しているに違いない。相手にわかってもらおうとして発しているのでなく、発せずにはおれずに発した言葉から知らずに相手に受けとめられている――ということになる。「僕は君を愛している」は眉唾物だけれど、「君は僕を愛している」というのは紛れもなく君の心を僕が掴んでいるということにな る。
 私も「あなたを愛していますよ」などと言わなくても、「あなたは私を愛しているのでしょ」と、私の胸のうちを言いあてられるような俳句を作りたい。もちろんこの場合、言いあてることのできる人はこの世でたった一人ということになるのだが・・・・・・
 <何度も言うよ 君は確かに僕を愛している> 弾みやまない恋する娘の声は、いつの間にやら私の声にすりかわっている。

f0118324_911197.jpg

 (「鹿火屋」1992年1月号所収)
by masakokusa | 2007-05-31 13:29 | エッセー1 | Comments(0)
『俳句研究』・テーマ競詠8句             草深昌子
     〈新年を植物で詠む〉
           
     すずしろ                         

    去年今年岩のあたまに蘚載りし
  
    初国旗いささむらたけふくかぜの  
  
    娘は万両母は千両のこころばせ
  
    楪や我鬼にたっぷり水やつて
  
    人のゐるところに開く寒牡丹
  
    水仙の匂ひのストラヴィンスキー
  
    すずしろのほわんとしたる葉っぱかな
  
    一塩の七草粥にまはりけり


 (平成16年2月1日発行「俳句研究」2月号所収)

     
     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


     『俳句』・俳人スポットライト

     莟のやうな

    犬ふぐり垣根も塀もなかりけり
  
    沈丁の莟のやうな芽のやうな
  
    蝌蚪の紐その先端のふはふはす
  
    啼き方をかへても鴉風光る
  
    春の滝四角四面でありにけり
  
    白梅や小さく深くお弁当
  
    蝶生るあたたかすぎてありしかな 
  
    
    幾億のいのちの末に生れたる
             二つの心そと並びけり 白蓮

 
 好きな一首である。
 こんな巡り合いの心になぞらえるのは唐突かもしれないが、俳句の詠み手と読み手の遭遇も又、喜びとともに敬虔な気持ちに立ち返らせてくれるものである。
 第二句集『邂逅』に寄せて、いくたびもはっとするようなご鑑賞をいただいて有り難かった。

f0118324_21253569.jpg

 (平成16年5月1日発行「俳句」5月号p287所収) 
by masakokusa | 2007-05-25 22:59 | 昌子作品抄 | Comments(0)
『俳句朝日』・現代の俳句・この頃思うこと    草深昌子
  
     腰越


    早梅は咲くといふより枝に載る
  
    和布干す匂ひのまぎれなくありし
  
    その中に一つラジカセ和布干す
  
    首筋の燃ゆる和布を干しにけり
  
    三椏の花は巌に咲くごとし
  
    恋猫や一本松の影長き
  
    和布干す腰越状のかすれたる


 マルセル・デュシャンは、二十世紀芸術における最大の巨匠とも言われるが、既製の男性用便器を、「泉」と題して美術展に出品、芸術の既成概念を打ち破ろうとしたことで知られている。
先日その「泉」に、横浜で出会った。陶器はてらてらと光って、流線の影を落していた。小さな泉はニヒルに笑っている。
 「泉」はもとよりデュシャンの芸術への挑戦である。アートとは、作るものでなく、在るものの中から選び取るもの、それを見る人がどう感じるか、鑑賞者の答えが全てであると言っているように思える。アートとは何かを、俳句とは何かに置き換えながら、デュシャンの謎めいた作品の一つ一つを楽しんだ。

f0118324_2163499.jpg

 (平成17年5月1日発行「俳句朝日」五月号所収)

     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  『俳句朝日』・現代の俳句・この頃思うこと


     東京タワー


    虫出しの東京タワー細りたる
  
    苗札にかがめば背骨鳴りにけり
  
    つんのめるそこに背中やあたたかや
  
    花冷えの白波走りきたりけり
  
    もの食うて手のひら熱き鳥雲に
  
    一鳥の日永のとんとん歩きかな
  
    つばくらめかはらけ投げをしてゐたり



  積年の坐骨神経痛の強烈な痛みは、「脊柱管狭窄症です。手術以外に治りません。将来必ず歩けなくなります」と即座に断定する医師を前にたじろいだ。再三手術を渋る私に、「あなたは逃げている。日常生活が困難になっていることはあなたが一番知っているはず、自分に賭けなくてどうする」と、ついに医師の顔が赤らんだ。その唾の飛んできそうな叱声に後退りながら、 医師の絶対的な自信と思いやりに引き寄せられた。 
 気がついたら手術は終わっていた。折しもオリンピック、フィギュアの荒川静香選手は金メダルに輝いた。「逃げてはいけない」は、私にとって忘れることの出来ない金の言葉である。
 
f0118324_2185764.jpg



 (平成18年7月1日発行「俳句朝日」七月号p120所収)
by masakokusa | 2007-05-25 21:18 | 昌子作品抄 | Comments(0)
白浜海女まつり・海女夜泳     草深昌子          
                                          
 「うみはなほゆゆしと思ふに、まいて海女のかづきしに入るは憂きわざなり」ーー今から一千年の昔、清少納言が「枕草子」に記している。古語「憂き」は、「浮き」に通じ、なにがなしはかなさを覚えることばである。
 その海女の仕事は、四月に花畑を鋤き返して田んぼに作り変えるころから始まる。従って「海女」は、春の季題となっている。ところが、千葉の俳人たちの間ではもう一つ別に、安房白浜の海まつりのイベント「海女夜泳」を夏の季語として定着させていることを知って俄かに旅心が湧いた。
 東京から、ビューさざなみ特急に乗ると二時間で館山に着く。そこからバスで三十分行けば、安房白浜である。白浜町は、房総半島の最南端にあり、日本ではもっとも古い洋式灯台である野島埼灯台を中心に、峨峨とした礁が、太平洋の白波を迎え撃つかのように拡がっている。椰子の木がとびとびにそびえ、トロ箱に咲かせたカンナの黄はもえさかり、ここにもそこにも浜木綿の白が眩しい。

   自転車に大き足ヒレ夏休み    あき子

 海女まつりは、海の日の七月二十日と、翌二十一日の二日間にわたって行われる。海女の 安全と豊漁を祈るものである。
 会場までの磯伝いの舗装路には、浜砂がどっと吹き混じってスニーカーでさえシャクシャックと涼しげな音をたてる。まして月見草のあたりで、打ち鳴らす宿下駄の音は涼味満点である。
午後7時半、白浜音頭の総踊りが佳境に入る頃、海女がいっせいにバスから降りるところに出くわした。急ぎ駆け寄ったものの、その足運びの速いこと、ついぞ追いつけなかった。
 タルに腰かけて広場で出番を待つ海女に皆さんはめっぽう明るい。神輿担ぎの青年に、「浜ちゃん、ねえ、どう、かわいい?」と、ポーズをとっている。白ずくめの潜り着はすんなり伸びた足も、むっちりした胴体も包み隠さない。「白浜にこんな人出ははじめてじゃ」、答えにならない答えを言って青年は照れている。
 海女夜泳がお目当ての百数十人は、漁港に向かって傾斜になった地べたを桟敷席にして、ただひたすらになって海女の出番を待っている。待つほどに、星の数が増え、地べたの温もりが熱くなってきた。
 八時五十五分、いよいよ祭りのハイライト、海女の大夜泳の始まりが告げられると、見物客は一瞬どよめいて、すぐさましんと鎮まった。総立ちになった百名の海女の勢ぞろいは思わず息を飲み込んでしまう。圧巻である。海女の潜り着は闇の中では、いっそう蒼白になって炎のひらめきにあぶられていてこる。年齢など不詳のことである。
さっきまでの間延びした盆唄ももう耳に入らない。どこからか、板戸を叩くような音がひびくばかりである。
 松明を手に手に筵を敷き詰めた花道を確かな足取りで一人また一人、海へ降りてゆく。頭巾をすっぽり被った隙間から覗いている眼も口も、肝っ玉母さんのように笑っていた。

  討ち入りのごとし夜泳の海女の群  喜代子

 底に足をつけてしゃがみ歩きをしているように見えたのは、波が半ば固形のようにつるつるとうねって松明の炎が何ともなめらかに海面を滑ったからだ。「泳いでる!」、揃って叫んだ。タルの上に腹ばいになって泳いでいる。まるで純白の翼をひらめかすがごとき典雅さは、女神そのものである。
 何周をしたのか、時を忘れていた。吸い込まれるようにわが身のたましいも、真っ暗闇の海に浮遊していたのだった。
 海近く七色の花火が炸裂して、まつりはフィナーレである。海女の濡れ身から滴り落ちる雫がピカピカ光った。
 テレビ局の青年が、マイクをむけた。「明日から豊漁になりますか?」「別に・・」「水に潜っている間は何を考えていますか」「さあ・・」「来年も泳ぎますか?」「ずうっといつまでも」この問いにだけはきっぱりと答えられた。泳ぎ終わったばかりの数人の海女は、寡黙であったが、受け答えの間中、お仲間同志眼と眼を合わせ、微笑んではうなずきあって、海女小屋に喜びも悲しみも共有している絆の深さをうかがわせた。海女は、青芝にぐいっと火をもみ消して去っていった。名残を惜しむかに打ち上げ花火が何度も開いた。素朴な花火の美しさが、なつかしい。

  灯台へ行きて戻りし髪洗ふ     昌子

 夜、寝床でふと、引き上げ際に足を滑らせた海女の瞬時の痛みがわが身のそれのように身を走った。習い出しの海女だったのだろうか。
 海女は浮上して苦しい胸の息を吐き出すとき、ヒユーと口笛を鳴らす。その磯笛を、磯嘆きという地方があることを思い出していた。

 海女まつりの明けた朝は、蒸し暑かった。はるかに海女の浮き沈みを発見。すぐに少しでも海女の潜りに近づこうと試みたが、礁は、あまりに難所であった。一行は、思い思いの岩に腰をおろして黙って沖を見つめた。ゆうべの祭りの姿とは違う、真剣な海女の姿を思いやっていたのである。

(2001年7月25日 吟行記)
f0118324_820221.jpg

by masakokusa | 2007-05-25 20:34 | エッセー2 | Comments(0)
秀句月旦・平成19年5月          草深昌子

  夏はじめ五臓六腑を水平に        宇多喜代子

 桜の開花をピークに、なだるるように咲き競う花々の季節、人々の五臓六腑も冬の眠りからあわただしく目覚めると、にわかに波立ってくる。春は生きとし生けるもののエネルギーを新たにする季節である。やがて立夏を過ぎると、あたり一面緑一色である。早いところではもう水の張られた田んぼ等もあってしみじみと心落ち着く。めまぐるしかった日々の暮らしに、ほっと人心地がつくのである。「五臓六腑」というのは即ち生き身のこと、「水平に」というのは即ち清清しいということである。
f0118324_22294.jpg


  母の日の母にだらだらしてもらふ    正木ゆう子
 
 母の日は、100年前にアメリカに始まった母へ感謝をささげる日であるが、昨今はハンドバッグやブラウスをプレゼントしておしまいと割り切ってしまうむきもある。母のことをよく理解し、感謝の気持ちをこめている作者でないと、だらだらしてもらうなんてことは言えない。それだけまたこの母上は、日ごろ家族のため誠心誠意働く心身ともに素敵で、健康なお母さんに違いない。せめて今日ぐらい「私にまかせて」と、娘は、母のエプロンをきゅと締めたのであろう。母娘の情の通った和やかな一家の様子まで浮き彫りにする。              
 数年前、母の日にちなんで、お母さんのイメージを四文字熟語で例えてみたら?という、アンケート調査をした結果、一位「良妻賢母」二位「天真爛漫」また、「一生懸命」「喜怒哀楽」「年中無休」がベスト5に入った、という。この結果からみても、だらだらしてもらうのは、まさに現代の健やかなお母さんへの最上の贈り物である。俳句そのもののすがたは少しもだらだらしていない、むしろ、毅然としている。

  母の日や逆立ちをして崩れたる      五島高資

 いかにも初々しい母の日の青年の気分が表出されている。母へ甘えの限りを尽くした少年の日々、成長するほどに距離をおくようになった今日この頃。でもこころの片隅にはいつだって母が濃く棲んでいるのだ。逆立ちはピッシと決まらないで崩れた。いや、あえて決めなかった、へらへらと崩した、そのはにかみが母への甘えの郷愁なのである。大好きな母に崩れることで甘えたのである。

  月日とは目に見えねども夏落葉      岸本尚毅

 落葉するのは自然の摂理である。しかし常緑樹が、初夏から新葉がととのうにつれて去年の古葉を落とすことは、冬の落葉とは別の感慨をもたらす。月日のめぐりは、ゆるぎなくあるのだが、ある日ふと足下の落葉の嵩にそのことをはっと気付かされるのである。夏の落葉は、人知れず降り積もっている。目に見えねどもという措辞は、観念ではない、写生という心の眼がよく働いている。

  日本が端にある地図麦の秋        山口昭男

 ヨーロッパで作られた世界地図は当然のことながらヨーロッパが中心に位置し、日本はまさに極東(Far East)にある。米国で作られた地図は米国中心で、日本は逆に西の端にある。日本で作られるものだけが、日本が中心に位置しているわけである。当たり前といえば当たり前だが、こんなところにも国威発揚がなきにしもあらずではないだろうか。
 さて掲句の作者はフランクフルトに赴任していたというから、麦を主食とするドイツの光景であろう。見渡す限り熟した黄金色には目を見張るばかり。グローバルな観点に立つ作者の視線は遠く故国にも思いを馳せて、文字通り面積の広大な麦秋である。

  許されしごとくに蛇の消えゆけり     今井聖
 
 真昼の畦道で蛇に出くわした。瞬間ギャーと叫んで、時が止まったかのような対決後、蛇はもんどりうって小溝に消え去った。その夜、掲句に会って、「許されしごとくに」とは恐れ入った。まことおもむろな去りようであった。無気味この上ない蛇ではあるが、田畑に害を与える小動物を食べてくれるという人間にとって益のあることも思い直されると、あの奇声はあまりに失礼だったかもしれない。
 さすがに男性の眼力は鋭い、そして一と呼吸置いた気息にやさしさがある。

  たてよこに冨士伸びてゐる夏野かな    桂信子

 たしか坪内捻典と正木ゆう子の「女性俳句の現在」なる対談のなかであったと思うが、女性は動物に近い、それに度を越す、という話が出た。掲句はその動物的なカンと度を越すということで引き合いにだされたように記憶している。大雑把な捉え方こそが女性的というのであろう。実感と詩情と、その清々しさがまさしく縦横に配合されていて、スケールが大きい。なにより裾広がりに美しいところはやはり母性本能そのもののようである。

  噴水に真水のひかり海の町       大串章

 海のある町は一見爽やかであるが、しばらく歩きつづけていると、潮風で体中がねとねとしてくるし、その匂いもむんむんとして息苦しくなったりもする。噴水に真水のひかり、は当たり前のようであるが、海の町と置かれたとき俄然一句そのものが真っ青に透き通ってくる。下五でもって、抒情に張りをもたせた。発見の張りである。

  親しき家もにくきも茂りゆたかなり    飯田龍太

 鬱蒼たる茂りのところかまわぬたくましさが、にくきもなどという通俗的なことばさえ覆い隠して、すべては茂りの中に些細なこととして埋没する様がでている。ゆたかなり、に作者のゆとりが感じられる。若くして風格のあった龍太がここに居る。

  十薬の雨にうたれてゐるばかり     久保田万太郎

 十薬は日影の花ながら清楚である。だが雨にうたれているばかりとは、いっそう切ないではないか。そっけない言い方のうらには、作者の愛情ある諦念が滲み出ている。十薬にかくまで心置かねばならなかった日の万太郎の切なさがわが身の切なさに思えてくる。自身の気の弱りが十薬になりきっているのかもしれない。

  夕立もやみたる頃の迎へ傘        高橋淡路女

 迎えられた人、迎えに来た人の涼しげな表情や楽しげな会話まで、情景が目に見えるようである。昔はこんなことがよくあった。便利さを追求するのみの現代にあっては、もうこんな無駄なことはしないであろう。この無駄が夕立の情緒を深め、人間関係を深める。何もかも首尾よく運びすぎると、人間は、切れやすくなる。なんていう私も、傘を持って迎えに行くというようなやさしさを持ち合わせなくなった。なつかしいやさしさ。

  香水の香ぞ鉄壁をなせりける       中村草田男

 イブサンローランの香水はあけぼの色をしている。いましも赤ん坊を産まんとしている産婦の見舞いにこの香水をさしあげたら勇気付けられるのではないかと手にとった。でも断末魔の苦痛にむしろ香りはうとましかもしれないと、結局香水はやめて小さな花かごを持参した。香水は悠々たるときにこそよき香を放つのであろう。「鉄壁」は、気力の充満した美貌の婦人のそれを匂わせる。

  買い物は一人が気楽簾見る        星野立子

 夏の季語すべては涼しさをこそ表出すべきであろう。簾に託したとらわれのない、放心したような心持がさも涼しい。

  夏帽や人の好みの面白く          星野立子
 
 前句同様、こんなことが俳句にすらっと言えるところがすでにして涼しい。何の曇りもない童のような心を持続するのは矢張り並みの資質ではない。なんでもないようでいて、言われてみると相槌を深く打ちたくなる句である。

  あらためてさみしきひとぞ花柘榴     友岡子郷
 
 飯島晴子氏を億ふ、の前書きがある。さみしきひとぞ、作者の歎息は深くまた強い。石榴の花は梅雨時、真紅の花を開く。水に火をつけたような花のすがたに敬愛する晴子氏を重ねている。あらためて、は、死の謎をいくたびも問い掛ける真摯な心の吐露である。

  光陰のあとの光陰夏椿           中岡毅雄
  
 夏椿は、山中に自生する落葉高木であるが庭木にも植栽される。沙羅双樹の花と間違えて、沙羅の花ともいう。白い清楚の花は、同じ作者の、「お澄ましのさっぱりとして夏椿」に感覚が良く出ているが、掲句もまた移りゆく刻の絶えまなき不思議を、咲いてはこぼれ落つ花の情感にぴたりと重ね合わせて表現に無駄がない。きっぱりとしていながら余韻がある。俳句は、写生であると同時に、俳句は韻文である、ことが大切に思われる。

  太陽と泰山木と讃へたり          阿波野青畝
 
 たいよう、たいざんぼく、たたえ、たり、と、た音が頭に揃う。おおらかな響き、きっぱりとした声調、まこと泰山木の花のさまである。思わず天上を仰いで、地上の幸せを賛歌する思いに引き込まれる。一息のリズムでもってその内容を目の当たりにするように言い表せるところは青畝俳句ならではの芸当であろう。

  うき巣見て事足りぬれば漕ぎかへる   高浜虚子
 
 自然界の秘密を覗いた愉快さが、ただの報告のように見えて報告に終らない、えも言われぬ詩情を伝えている。コトタリヌレバというもってまわった言い方は、たっぷり情景を味わったという余裕であり、また、漕ぎかへる、と棹をあやつってまでの執心でしたよというもったいぶった言い回しなど、まさに秘中の秘たる浮巣のごとき仕掛けがある。読者は自ずからまだ見ぬ浮巣を頭に描くという按配である。

  白にして大いなるかな花菖蒲       高浜虚子
 
 要は、白菖蒲かな、と言っているだけである。白にして、と一呼吸いれて、悠々迫らぬ口吻がすでにして、見事なるあでやかさを言いえている。感動の要点は、赤でも紫でもない、白そのものの美しさに絞られている。なんでもないようでいて、浮き巣の句と同様、感動の核心をぎゅっとつかみとっている。つまり、きれいごとではない、本当のことを表出しているから、なるほど言われて見ればそのとおりだなあといたく納得するのである。
by masakokusa | 2007-05-12 21:04 | 秀句月旦(1) | Comments(0)
『青葡萄』 草深昌子・論評    森川光郎 「桔槹」代表

 草深昌子は鹿火屋同人。句集『青葡萄』は昭和60年鹿火屋入会以降平成2年までの300句収載。
 句集の昭和63年「回転扉」の章に「原コウ子先生を悼みて」の前詞で四句がある。

  涙ごゑ支へてゐたる梅雨大地
  薔薇散つてあまたの棟をむなしうす
  全うすることのしづけさ蟻の道
  真向へば遺影はにかむ夏座敷


 「青葡萄」を読んだあと、もう一度振り返って見るとき、どうしてもこの四句に突き当ってしまう。この頃からの彼女の打ち込み方を管見すると、この四句は自分のことを表白しているのではないか、コウ子先生と自分を重ね合せて詠んでいるのではあるまいかと思うのである。例えば「全うすることのしづけさ」の句にしても、これはなまなかなフレーズではない。そう簡単にぼっと吐きだされたものと思う訳にはいかない。しっかりと肝に据えて、然る後出て来た言葉と思うのである。
 句集の終りはつぎの句で締め括られている。

  山据ゑて空の動かぬ石鼎忌

 実に堂々たる石鼎忌の句である。このような句に出会うと言葉を失う。私はこの句を終りに据えたことに作者の意志を見る。「原コウ子先生を悼みて」の四句と、地の底で細い根がしっかりと繋がっていると思うのである。
 句集というものが、それを読んだ人の作句欲を、大いに刺激して呉れることもあるし、句集を読んだことに依って作句欲が萎えてしまうものもある。では「青葡萄」はどうかであるが、まあ次の諸作を御覧じろ。

  春暁やわが産声のはるかより

 春暁の原初とも言える清浄たる空気を破って自分の産声が響いてくる。それを耳をすまして受け止める。作者の感動は又読者の感動でもあることを痛切に感じてくれる一句。自分の産声を自分が聴くというレトリック。
 季語が万全であることが、より作者の意中に参入できるのである。

  春陰の首まはし見る地平線

 人は思わぬことをする動物である。この句のように春陰の首をまわして地平線を見ることもする。そのような己れを、或る距離をおいて見ている自分。「春陰」でなけれぱ醸成しない句境と言えるだろう。俳句の面白さはこゝにある。

  どの子にも影ついてゐる春の庭

 さりげない句ではあるが、いやそれだからこそいつまでも気にかかる句と言える。このような句に会うと、佳什は平明さの中に求められるの感を深くせざるを得ない。
 この性向の句がこの作者の本命と見ている。

  夕刊のけものくささよ花ぐもり
  香ぱしき匂ひがしたり月の道
  まだ誰も戻らぬ雛の夜なりけり
  真白なる花火はつひにあがらざる
  湯のやうな日がさしきたり青葡萄


 見えぬものにじっと目をこらす。聴こえぬものに耳を傾げる作者の姿がありありと現出する。一方次ぎのような淡白な句群にも捨て難いものがあることを特記したい。

  美容師の鏡に見たる神輿かな
  まだ朝の眉もひかぬに白牡丹
  超高層ピルの下行く淑気かな


 (『青葡萄』平成五年二月十五日発行・精鋭女流俳句シリーズⅠ・15・牧羊杜刊)

f0118324_737667.jpg

 (「鹿火屋」1993年9月号、俳句の現在 「句集潺潺」 所収)
by masakokusa | 2007-05-08 21:56 | 昌子作品の論評 | Comments(0)