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Hanamori・はるもにあ集を読む・第5号より ⑤草深昌子 (晨・ににん)
 『はるもにあ』のアルファベヅトを並び替えたら『花守』になりました。毎回お客様をお招きして、前号を散策していただきます。

  岩間よリニ寸に満たぬ蓬かな    杉田朋子

 「岩間」「より」「二寸」「満たぬ」・と言葉の連携プレーは、蓬に焦点をしぼって確かな映像を結んでいる。どの言葉も揺るぎないが、ことに「満たぬ」は「足らぬ」とは別種の上品な香りが立ちのぼってくる。客観的な描写ながら清流のつめたさまで感じさせてくれるのは言葉の選択に作者の感性が働いているからである。

  亀鳴いて独座に雨の上がりけり   中島葱男

 「独座」というもったいぶった物言いがすばらしい。これぐらい芝居がからないと亀鳴くという季語はまさに嘘っぽくなる。もちろん一期一会に思いをめぐらす作者は大真面目である。だからこそ俳諧味がかもしだされる。

  影割れてふたりのごとし夜業人   牧タカシ

 「影割れて」が言えるようで言えない。「割れて」というところに、「働けど働けど楽にならざり」とも言うべきペーソスが滲むのである。夜業とか夜なべは時代を背負う季語であろうが、〈夜業人に調帯(ベルト)たわたわたわたわす 阿波野青畝〉を思い起こすとき、その心情は現代も案外変わらないもののようである。

  昔ならとうに老人秋刀魚焼く    大木明子
 
秋刀魚焼く煙はもくもくとして、浦島太郎の玉手箱のそれのようでどこか年寄りくさい。苦いか塩っぱいか、その味もまた孤愁の味わいのようである。だが、作者の秋刀魚は、俳句を楽しむエネルギーのみなもとになっているらしい。とびきり生きがよい。

  ななかまど一人飲む茶の冷めやすし 春田のりこ

一読してななかまどが見えてくる。紅葉でも桐の実でもなく、ななかまどであることに理屈はいらない。ナナカマドというぎこちない発音も一句の情感である。

  炊きたての飯結びをり霜柱      鬼野海渡

 霜柱のざっくりと立つ朝、てのひらを真っ赤にしていのちの糧を握っているのである。あつあつの湯気は背筋の通った生活感、厳冬の季節感そのものである。

  えき前はとてもさむいねいなかだね  菅野拓夢

都心などの出先から帰って駅前に降り立ったとき、思わずコートの襟を立ててしまう。丹沢山系の麓に住んで、何千回も感じたことを、そうよ、そうよと頷くばかり。拓夢ちゃんの、「いなかだね」っていう言い方はとてもやさしいね、いなかもうれしくなりました。
 
  人のこゑ海に吸はるる施餓鬼かな   満田春日

「人のこゑ海に吸はるる」は他の季語にもつきそうである。だが施餓鬼というありようを心にしたとき、このフレーズは絶対のものとして動かない。つまり「施餓鬼」という季題の実体をまるごと把握した、靜かにもダイナミックな佳品である。不滅の水を湛える海を前にして、生者死者の別無く、阿鼻叫喚の何としんかんたるものであろうか。

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 (2007年5月6日満田春日主宰「はるもにあ」第6号p11~12所収)
by masakokusa | 2007-04-27 16:43 | 俳論・鑑賞(1) | Comments(0)
櫂 未知子著 『言葉の歳時記』

【東風(こち)、西風、南風、北風】

 菅原道真の和歌で有名なこともあり、「東風」は早春を告げる風の代表である。暖かさの一歩手前、春の気を含んだ冷たい風の感覚を持つ。ただ、地方によって意味の異なる場合もあり、慎重に用いるべきである。「朝東風」「夕東風」「雨東風」「桜東風」「椿東風」
「雲雀(ひばり)東風」など、とにかく種類が多い。

  東風吹くや耳現はるゝうなゐ髪   杉田久女

 面白いことに「西風」だけでは季語になりにくい。「涅槃西風(ねはんにし)」「彼岸西風」(共に春季)など、時季をあらわす言葉と結び付いて季語になっている場合がある。
「南風」は夏の代表的な風。どこか華やぎもある。梅雨の初め頃に黒雲の下を吹く南風は「黒南風(くろはえ)」、梅雨明け頃に吹く南風を「白南風(しらはえ)」と呼ぶ。すぐれて視覚的な名でもある。

  白南風のよき友来る日なりけり   草深昌子

  黒南風や沖へ向きみる魔除獅子  高崎武義


 「南風」は、「みなみ」「みなみかぜ」「なんぷう」「はえ」など、読み方がさまざまある。また、冬の「北風」の読み方も「きたかぜ」「きた」「ならい」など多数ある。地方により、呼び方が違うので注意されたい。

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(2007年2月20日、日本放送出版協会発行、櫂未知子著「言葉の歳時記―36のテーマで俳句力アップ」p92所収)

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【老年】…初老 老人 晩年 老いらく 老後 老夫婦 老境 爺(じじ) 婆(ばば) 老婆

 定義するのが難しく、かつ詠みにくい「中年」に比べ、老いの時期を作品にすることは容易に見える。中年期は、若さの残照と老いの序章とを日々繰り返しているのに対して、老年期は、それなりにはっきりと衰退を自覚できるときだから。記憶力の減退や体の機能の著しい低下などを、本人も周囲の者も感じ取ることができる時期、それが老いに突入したときである。

  忘年の少女と婆と向ひ合ふ   草深昌子

  晩年の素顔さらしぬ落椿(おちつばき) 新谷ひろし


 老年期を静かに心を養うときとして生きるのか、もしくは老いを吹き飛ばすようなエネルギーをもって生きるのか、それは個人の選択による。なぜなら、これほどまでの高齢化社会は今までに無かったのだから。手本のない「老い」を生きつつ、俳句作品の中で人生の後半期をどう描くか、これから老いに突入する人々、そして今、老いの真つただ中にいる人達の力量に期待したい。

(2007年2月20日、日本放送出版協会発行、櫂未知子著「言葉の歳時記―36のテーマで俳句力アップ」p70~71所収)
by masakokusa | 2007-04-27 16:40 | 昌子作品の論評 | Comments(0)
『俳句研究』・招待席                  草深昌子
   鎌倉

         
  寒晴や鼈甲飴は立てて売る

  日当たれる廊下づたひの氷かな

  舞殿にふぐりおとしは上りけり

  焼べたしてふぐり落しの破魔矢かな

  また夫とぶつかる豆を撒きにけり

  春愁の達磨おとしを落したる

  春潮や貝殻微塵砂微塵

  黒猫は白猫よりも恋をする

             
        
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 (2007年5月1日富士見書房発行「俳句研究」第74巻第6号・2007年5月号 p185所収)

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『俳句』・現代女流作品特集

      開眼の一句

 狂ふかもしれぬ手を挙げ踊るなり


 
      

  身より鬱剥がれてゆくや今年竹

  応援歌泰山木を咲かせけり

  ほたる来よわが白妙の胸乳まで

  あら粒の雨の中より初蛍

  何待つとなく生きて蛍の闇にあり

  鉈彫りの柱かげなる蛍籠

  あしをどりのおかめはぢらふ夜の短か

  幹といふたのもしきもの七月来


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 (「俳句」平成5年9月号・ 現代女流俳人作品大特集p106所収)
by masakokusa | 2007-04-27 16:34 | 昌子作品抄 | Comments(0)
『はるもにあ』 客人居・まらうどゐ   草深昌子
      

    祝・『はるもにあ』一周年
    ゆくほどにはなのひらけるはるもにあ

   衝立の裏をかへすや立子の忌

   うぐひすの二階に虚子の机かな

   あたたかに枯山水の掃かれあり

   花虻や松の空から松の空


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(2007年5月6日満田春日主宰「はるもにあ」第6号p10所収)
by masakokusa | 2007-04-27 16:24 | 昌子作品抄 | Comments(0)
師系燦燦 七         草深昌子
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飯田蛇笏「雲母」の系譜ーー飯田龍太を師として(1)


  竈火赫とただ秋風の妻を見る     蛇笏
  つぶらなる汝が眼吻はなん露の秋
  秋鶏が見てゐる陶の卵かな
  月光のしたゝりかゝる鵜籠かな
  なまなまと白紙の遺髪秋の風 

 飯田蛇笏は山梨県の土豪に生れた。大正四年に発刊された「キララ」を「雲母」と改めて主宰。俳壇の巨匠として大正時代に一世を風靡した。長男はレイテ島にて玉砕、次男は病死、三男までもが戦地に亡くなるという痛恨の生涯であったが、その逆境への対峙こそが蛇笏俳句の格調の高さであった。昭和三十七年、七十八歳で孤高の俳句一生を閉じた。
 「雲母」主宰を継承したのは四男、飯田龍太である。龍太は、昭和二十九年より「雲母」編集にあたっていた。

  いきいきと三月生る雲の奧   龍太
  雪山のどこも動かず花にほふ
  春暁の竹筒にある筆二本 
  一月の川一月の谷の中
  白梅のあと紅梅の深空あり

 血肉の燃え立つような俳句、高潔にして精気ある俳句、いずれも生きとし生けるものへの賛歌に違いない。その気骨において、蛇笏は動物的、龍太は植物的というのが俳句からうける私の印象である。さらにその色調は、蛇笏は晩秋、龍太は早春そのものである。

 ――「彼の句は正しく古格の句だ。だが、その中に新鮮な感受性が、みずみずしく流れていた。その後蛇笏より新しい試みをした俳人はいくらも現われた。だが、それらの多くも短い一時期の賞玩を博することはできても、その時期が過ぎると、たちまち色あせた。そして、相変らず彼の句だけが新しかったのである」、さる新聞の匿名記事の一節である。そして独善的な現代俳句の相貌を眺めやる時、病床の蛇笏は、「名利を断って、この一筋に賭けた仕事の、すさまじい崩壊のさまを、眼前にする思いではなかったか」と結んでいる。ここにもまた、故人の深い共感のうべないを私は見る。平穏刻明な晩年の病床にあって、おそらくその希求は衰えることがなかったに違いない。――これは、蛇笏の訃報記事を引用して龍太が「雲母」昭和三十七年十一月号に書いたものである。
 龍太は昭和四十年、蛇笏死後はじめて開かれた雲母全国大会で、「人間が偉くあろうとなかろうと、すぐれた俳句作品に敬意を表する以外のことは考えない」「その点蛇笏より露骨である。悪しからず諒承願いたい」と、雲母主宰の姿勢を披瀝している。
 龍太はかねて、「秀品には作者の一番大事なものが秘められている」と記す。
一番大事なものは偶然の様相を示しながら必然的に現れてくるもの。自分さえそれと知らない直感を、俳句という短詩型は他者、鑑賞者が言い当てるもの。言い当てることが出来る修練こそが実作者のよろこび、そこに「俳句の秘密」があるというのであろう。
事実、龍太は作家として昭和俳壇をリードする一方、主宰としての三十年は秀句を見出すことに命を掛けたと言っても過言ではない。
 「雲母」の掉尾を飾る「秀作について」は今もって感動の鑑賞文、俳句の指針である。
 蛇笏を筆頭に古今の作品を通して作家の生涯、ことに晩年を洞察してやまなかった龍太は、「雲母」九百号かつ蛇笏死後三十年を節目に、平成四年八月終刊を決意した。
 蛇笏を継いだ時点での覚悟が、終刊の覚悟まで一途に貫かれていたことは、明白である。

 「雲母」終刊をうけて平成五年三月、「白露」(広瀬直人主宰)が創刊された。
    
       ☆

 友岡子郷の『雲の賦』(平成十七年十一月刊行)は、氏の第八句集で、俳句四季大賞を受賞。昭和二十九年頃より作句、「ホトトギス」「青」同人の後、昭和四十三年より飯田龍太に師事。「雲母」「白露」同人を経て、現在「椰子」代表。「柚」同人。昭和五十三年現代俳句協会賞受賞。

  白南風や船みづからの波を浴び
  漁舟にも人にも齢きりぎりす
  返り花舟路に舟のあらはるる
  難船のごとくに朴の落葉あり
  黄水仙毳だつほどに舟磨き

 『雲の賦』に「雲」の文字は単純に数えて四十余。それにも増して圧倒的に多いのは「船」の一字であった。船また雲は、人また人生であろう、一集の基調になっている。
 一句目、作者は自らの姿勢に恥じることのない胸を南風に突き出している。舳は波を存分に被って速度を上げてゆくのである。

  菖蒲の日父子のごとくに舟を寄せ
  鯔がとび鰡とび父の日なりけり

 一句目、「寄せ」が優しい。菖蒲の日は男の尚武的な気性を養う日であることをふと意識させれた現代の含羞のようである。
 二句目、ボラは出世魚とされ、その幼魚がイナである。たまたま生きる時期をだぶらせて飛び交う魚どちのかがやきを父の日の感慨に受け止めている。釣果は二の次。

  海底に砂かむる魚日脚のぶ
  加齢とは落葉のうへに春落葉
  黒電話も鴨も昔のころのまま
  寒紅梅縁と契とは別ぞ

 作者は、写実の上に感情をすばやく載せる芸に比類が無い。
 一句目、冷たい季感に透き通る日差し。ふっと洩らした笑みが日脚伸ぶの情感である。 
 二句目、木々は春であれ夏であれ人知れず落葉して成長を続けている。人の年齢も又、まったなしの積み重ねである。物事が一つ、また一つ片付いていくのが人生というもの。俳諧の「軽み」を思わせる句である。
 三句目、たまたま田舎などで見かけた関係のない二物であろうが、何がなし因果を考えさせられる。夕闇せまるノスタルジー。
 四句目、人知れぬ火種を隠しもった人ならではの「別ぞ」、「違ふ」ではなまぬるいのだ。同時に、寒紅梅の気品にかかる「ぞ」である。

  日が出でて日の沈むまで桜貝
  澄むものはたやすく濁り青ぶだう

 子郷俳句は、手垢がつかない。宇宙的視野からとらえた透明感溢れる色彩は作者の胸中に失うことのない光彩であろう。

  鰯雲孜々とはたらく生は過ぎし
  天に同じ雲はなけれど銀芒
  うしろから雲ながれくる寒卵
  行雲はあとをとどめずきりぎりす
  けふ咲きし梅けふの雲ながれをり

 『雲の賦』からは、庄野潤三の小説『夕べの雲』が髣髴としてよみがえった。夕映えの雲が、ちょっと目を離すと、もうさっきの色と違っている、今の今迄あったものが、次の瞬間にはこの世から無くなっている。二度と帰らぬ「いま」を書いてみようと庄野は新聞連載を決めた。子郷の書きたかった雲の詩賦もまた、そんな「今」であろう。
 みるみる形を変えながらも、鰯雲のはるけさは、「孜々と働いた生」が未来へ無縁でないことを約束してくれる。さびしさをさびしさとして感受する勁さが雲をかがやかす。
あの世から見ているような銀芒、起上り小法師のような寒卵、しのびやかな螽蟖、それぞれが雲のありように深く結びついている。
 「ゆくりなく己が耳目にふれたものは、必ず己が内なる求めに関りがあるにちがいない」とあとがきにある通り、作者の念いと季題は切っても切れない縁につながっている。

  松は知の謐けさに冬来たりけり

 〈跳箱の突き手一瞬冬が来る『日の径』〉、氏の代表作から茫々三十年。「松は知の謐けさ」は子郷の如し。松の緑には不動の信念がある、覚悟の決まった謐けさである。子郷四十代の時代であったろうか「雲母」誌における鋭敏な俳句理論は強く印象に残っている。

        ☆

 廣瀬町子の『山明り』(平成十八年五月刊行)は、氏の第三句集。昭和三十年「雲母」入会。蛇笏、龍太に師事。「白露」創刊同人。

  湯ざめしてすこし早寝の山明り
  父の音子の音葡萄剪定す
  家々に山の寄り添ふ桃の花
  初氷甲斐は足元より晴るる
  落し文富士に大きな雲を吊り
     師に
  山住みの秋暑き日々いかばかり

 廣瀬町子というと「平成女流俳人」(平成三年刊行)グラビアの端正な着物姿が忘れられない。この度、その頁を開いてはっとした。
「町子俳句は自我をださない。声高でない。真実を詠うという辛抱勁さがかくまでさりげなくできるのは驚きである。解ってもらおうとする気持がどこにもないからであろうか」と、『山明り』の読後すぐにメモに書き留めたが、その印象をしかと裏づけるような町子の文章に出会ったのである。
 ――身の丈以上のことを希ふというのではない。たとえどれほどのことであろうとも、こころに念じていなければ何も生れてこないだろう。ひたむきで、さり気ない、しかも辛抱強い日常の心と言ってもいいだろうか――
 これは日本一の巨木、神代桜の満開の下で、「念ずれば花ひらく」という言葉を念頭にしながら俳句の姿勢を述べている一節である。
 どの句も、そのひたむきの心が風土を浮き彫りにする。
 一句目、下五の「山明り」が鮮やかな展開を見せて美しい。楚々として芯の通った一句は、作者その人の立ち姿である。
 二句目、「日本の内にては甲州上こすなし」と言われる葡萄の産地。親子は豊かな収穫へ怠ってはならぬ鋏の音をひびかせている。父のパキン、息子のパキン、パキンパキンの交響はどこまでもたのもしく着実である。
 六句目、読者をも山盧へいざなってくれる。龍太師への万感の思いは「いかばかり」そのひとことにつきる。

  夏逝くや櫛にしみつく髪油
  ほどほどに豆撒いて古稀過ぎにけり
  一族の顔が旅する薄暑かな
  朝涼の抜いて手に揉む躾糸
  白菜を花のごとくに割つて干す

 素顔にも甲斐の山気が張り付いている。
 一句目、黒髪に欠かせられない黄楊の櫛に椿油。盆地特有の溽暑の倦怠が「しみつく」。
 二句目、「ほどほど」の措辞はいかにも古希らしい興趣をかもしだしている。
 三句目、常日頃見慣れた顔が非日常の旅にあって意識されてならない。「顔が旅する」とひねったところが薄暑の汗ばむような感覚。
 四、五句目、季節感の把握は、指先にまで神経がゆきわたっていて明快である。

  若葉してみな生きてゐる匂ひかな
  いつか死ぬその日は知らず初湯かな
  人生きて墓あり桜咲いて散り
  たかだかといのちのあり処桐の花

 生死を心に、「みな生きている」と実感できる自然との共存。気品も香気も艶めきも、自然は人と渾然一体となって匂い立っている。

    福田甲子雄様蛇笏賞受賞
  花吹雪ひたすらに来し道定か  
    病中の福田さんに
  日脚伸ぶいま食べること眠ること
    追悼 福田甲子雄様
  思ひ起こせば夕焼の八ヶ嶽
 
 広瀬直人と共にあった甲子雄への祈りはあまりにも切ない。『山明り』は、他者への心寄せのゆきわたった一集であった。

       ☆

 ここで結びに、福田甲子雄の『師の掌』(平成十七年六月刊行)から、一句を掲げたい。

  わが額に師の掌おかるる小春かな 甲子雄

 氏は、昭和二十二年「雲母」入会、昭和三十八年から終刊まで「雲母」編集部に拠り、終刊後は「白露」創刊に尽力。平成十六年、第六句集『草虱』で蛇笏賞受賞の後、病臥。平成十七年四月長逝、七十七歳であった。

 師の掌を額に、「主人は悦びと畏れのなかで、どんなことをしても元気になって先生のお気持にお応えしたいと強く思ったに相違ありません。そのことに思いを致すとき、今でも胸が潰れる想いでございます」、亮子奥様のあとがきである。その言葉と共に一句は師弟の最高のありようを物語って、私も又泣けてならない。だが、蛇笏龍太父子に渾身師事した俳人の最期は、なんと至福の表情であっただろうか。龍太に、甲子雄に、敬意を表するばかりである。

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※編集後記※

 飯田龍太先生が亡くなられた。私の初学の師であった。何故だか先生はいつまでも山盧に生き続けてくださるものと思い込んでいた。今回の「雲母の系譜」はご逝去の前日に書き上げたもので、只々驚きと悲しみでいっぱいである。
  山川のとどろく梅を手折るかな  蛇笏
  白梅のあと紅梅の深空あり    龍太
 龍太俳句は、蛇笏の情熱が裏打ちとなっていた。蛇笏を抱きしめて甲斐の風土もろともにその生涯を全うした俳人は、早春のイメージに違わず、梅明りの深空を昇っていかれた。
 合掌。 (草深昌子)

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  (2007年4月5日発行、「ににん」春号第26号・p48~51所収)                   
by masakokusa | 2007-04-14 18:20 | 師系燦燦 | Comments(0)