![]() 「夏草」の系譜――山口青邨を師として 祖母山も傾山も夕立かな 青邨 「青邨は単純で一本調子で質実で感情の襞がおおまかである。風生が女性的なのに対して、青邨は男性的である」、山本健吉の言だが、はたしてそうであろうか。 みちのくの雪深ければ雪女郎 青邨 初富士のかなしきまでに遠きかな 〃 紅粉の花おはんの使来れば剪る 〃 初花の紅粉花をいとしみ人に秘す 〃 山口青邨は、明治三十年五月、五歳になったばかりで母に死に別れ、叔父夫妻の下に育った。いとしみこそ母への思い。青邨には自然をいとおしむ句が多い。かなしさもまた自分の力ではとても及ばないと感じるいとおしさである。恋の句が多いのも、母恋であろう。 唖蝉も鳴く蝉ほどはゐるならむ 青邨 雪の野のふたりの人のつひにあふ 〃 感情の襞がこまやかで、内部に愛憐の情を隠し持っている。こういう抒情があればこそ、いかにも一本調子のようでありながら質実剛健の句が成せるのである。 雪深く南部曲屋とぞ言へる 青邨 調べそのものに強い心情、詠嘆が打ち出されている。雪深くの凄み。この省略。みちのく出身、青邨のもっとも特徴的な一句と思う。 青邨は、大正十一年高浜虚子に師事し、秋櫻子、風生、誓子らと東大俳句会を興した。昭和三年、ホトトギス講演会で「どこか実のある話」と題して虚子の前で、秋櫻子・素十・青畝・誓子のイニシャルから四S提唱をしたことはあまりに有名である。秋櫻子と素十の確執に対しその両立を叫んだ青邨であったが、虚子は素十に軍配をあげたのであった。折しも昭和四年、虚子は「花鳥諷詠」を明快に、完成された俳句観として世に示した。 青邨は、昭和五年、盛岡で「夏草」を創刊。ドイツ留学を経て昭和十四年東大教授に就任した。 銀杏散るまつただ中に法科あり 青邨 こほろぎのこの一徹の貌を見よ 〃 東大の正門を入ったら俳句のハの字も言わず、昼飯抜きで研究室にこもった青邨は、独自の心の躍動を抑えることなく果敢に実直に俳句に立ち向かった近代俳人である。 山本健吉の「青邨は男性的である」は、けだし至言に違いない。 ☆ 深見けん二氏の『日月』(平成十七年二月十日刊行)は、 氏の第六句集で、詩歌文学館賞を受賞。昭和十六年、高浜虚子に師事。昭和十七年、東京大学に入学、山口青邨に師事。平成三年季刊誌「花鳥来」創刊主宰。 先生は大きなお方龍の玉 けん二氏が十九歳で入門した時、虚子はすでに六十七歳、ほぼ半世紀の年齢差がある。まさに雲上人でありながら、「俳句座談会」での面授を通じて師弟間の心理的距離を縮められたのであろう。昭和十六年の虚子の句に、 <之を斯く龍の玉とぞ人は呼ぶ>、〈燭を継ぐ孫弟子もある子規忌かな〉、昭和十四年に〈龍の玉深く蔵すといふことを〉がある。 龍の玉は文字通り画竜点睛の光りである。 俳諧もこの世のさまも青邨忌 青邨忌までのしばらく十二月 「俳句も年々進歩している。時代と共に進んでいる。ただその動きは極めて徐々で、氷河の動きみたいなものだ。俳句は、十年も百年も先走りできる詩ではないようだ」というのが青邨の俳句観である。ダイナミズムを感知する俳人をしみじみと偲んでいる。青邨は昭和六十三年十二月、九十六歳で長逝。 野遊の弁当赤き紐ほどく 真ん中の捧となりつつ滝落つる 朝顔の大輪風に浮くとなく 覚めて又いつからとなく浮寝鳥 メリハリが利いてかつ悠々としている。目に見えて、音に聞えて、感触があって、美しくゆかしく臨場感そのものである。ゆえに、一瞬これなら私にも出来そうだと思わせる。これこそが名句の条件である。だが金輪際できない。どこが違うのであろうか。「平凡な表現に深い心を湛へる句。それは授かる句である」は昭和二十四年のけん二氏の言葉である。 ゆるむことなき秋晴の一日かな パーンと張った帆布の如き清涼感はどうだろう。作者の風貌そのもののようである。句歴六十有余年をかけて、花鳥諷詠とは季題の文学、俳句とシノニムであると繰り返し巻き返し虚子から直伝されたことを、一心に磨いてきた光と力強さにあふれている。まさにゆるむことのない確固たる信念の人にして授かり得た名句である。 流燈を置きて放さず川流れ 糸瓜忌や虚子に聞きたる子規のこと 虚子が子規から「自らを恃む」ことを感化されたように、けん二氏もまた虚子から信念を曲げぬことを引き継いだ。俳句の選手を作るよりも、人間としての完成を望んだ子規に『日月』は応えるものであろう。 「川流れ」は日月であり、代々継がれてゆくこころざしの光陰でもある。 家訓とてなくて集まる二日かな 社運かけ二十数名初詣 はるばると通ふ効能土用灸 ユーモラスな句にも気品がただよう。 人はみななにかにはげみ初桜 俳人協会賞を受賞した『花鳥来』の中の、愛唱してやまない句である。私に俳句を勧めた母は初めにこう言った、「主観を客観で言うのが俳句ですわ」。その一言以来、私は客観という即物具象の裏には、何か伏せたものがあらねばならないと考えた。主観と客観にこだわりすぎたかもしれない。ここには「客観を主観で言う」ともいえる俳句がある。主観も客観もない、自他一如。季題に何を見たか、読者にかくまで伝わるのは言葉が言葉だけのものではないからだ。胸の底からこみあげてきた一瞬のひらめき。人と初桜のあざやかな出会いが花鳥諷詠の恩寵にほかならない。 今日に如く冬麗はなし友来り 一面識もないにもかかわらず、存じ上げているような錯覚に陥るのはけん二氏の俳句からは、けん二氏がたちのぼってくるからであろう。まるで、花鳥諷詠は、深見けん二氏その人とシノニムであるかのように。 ☆ 斎藤夏風氏の『禾』(平成十七年六月刊行)は、 氏の第五句集。職場吟行会の機縁で山口青邨に師事。昭和二十八年「夏草」入会、昭和四十年同人、以来平成三年終刊まで「夏草」編集を担当。昭和六十年「屋根」創刊主宰。 霜晴や津々浦々といふ言葉 霜晴がすばらしい。何物にも置き換えられないと思われる。何故そう思うのか。その答えは夏風氏自身が語られている言葉に尽きる。 「頭で考えただけで表現された言葉と、思いがけず出くわした事実から表現された言葉とでは同じことばでも読み手の方で、つくりものか、事実としてのものか自然に判ってしまう。そうした本能を人間は本来的に生得して生まれてきた」、だから少ない言葉で眼に見えぬ感情すら感得できるのだという。この発言は、『禾』であきらかに立証されている。 六十の春は運動靴履いて フットワークのよろしさは格別である。 前書きをみると、尾瀬、黒羽、琵琶湖、福井、遠野、最上川、比叡、奈良、北上、花巻、見沼、山寺、淡路、阿波、備前、熊本、阿蘇山、富山、伊勢、五島、釜石等など、まさに津々浦々。「現場立ち」なる理論の実践である。 赤米の禾のさやかを露に見し 出穂といふひたに縮みてゐたるもの すこやかな種は沈みぬ種浸し 田植機に豊かに乗りて名もなけれ わけても稲に関わる「現場立ち」の句群は、瑞穂の国の瑞穂の尊さをひそめて『禾』の味わいを豊かに醸し出している。〈さやか〉〈ひたに〉〈すこやか〉〈豊か〉、噛むほどにうまみを増し、飽きることのないお米の味わいである。ことに田植機の句は斬新、農に携わる人の颯爽たる姿に感動する。 鴨鍋のたぎりの渦といふがあり 御宿帳埃もあらず黴びにけり 夕蝉や泣きしおつるの朱が綺麗 阿波をどりの手のつき出しの猛稽古 旅という非日常にあっても夏風氏は常住の如く落ち着いている。行き届いた観察は寂寞として風土への郷愁をさそう。 この子まだ襁褓はとれぬお年玉 初花や魚を描いてベビーカー 水羊羹この子食べ方うつくしく 非日常の句群のところどころに句読点のように打ち込まれた日常吟に心からやすらぐ。それらは初々しい透明な光を放っている。 北上 雑草園 師の居間といふ気安さに春障子 盛岡 紅粉花の盛りを挿して師のお墓 杉並区にあった青邨宅「三艸書屋」は、紅粉花も栽培した「雑草園」と共に北上市の日本現代詩歌文学館に移築された。「三艸書屋」は、青邨の選鉱学である固体・液体・気体の三つの相を研究する書斎、つまり三相書屋を文学的に三艸と称したものである。夏風氏もまた「屋根」一号から三艸文の掲載を継続、すでに『三艸春秋』一書にまとめられている。 ☆ 黒田杏子氏の『花下草上』(平成十七年十月刊行)は、 氏の第四句集。山口青邨に師事。平成二年、「藍生」創刊主宰。第一句集『木の椅子』は、現代俳句女流賞、俳人協会新人賞。第三句集『一木一草』は俳人協会賞。 一介の老女一塊の山櫻 青邨に〈一茎の水仙一塊の冬菜かな〉がある。絵に見るような静謐な世界が描かれている。杏子氏の句は、見えるというより気息を固体に凝縮したようなかたまりが感じられる。並列でなく重層的である。表現から訴えてくる実在感の強みは共通しているが、その表情は全く別仕立である。青邨のオブザベーションは、杏子氏の自己観照でもある。 おへんろのわれ花の下草の上 濡るるともなき花冷の山河かな 杏子氏は、大学入学と同時に青邨に指導を受けたが、卒業、就職を機に俳句とは縁を切った。二十代にして、自分の一生を貫くに足る表現形式は何であるかと自らに問い掛け、十年の中断の後に再び俳句を選びとったのである。以来多年にわたる桜花巡礼、遍路吟行等ゆっくり・じっくり・焦らず・のんびり、自己発見の「行」はいま尚続いている。 なほ染めぬさみだれ髪でありにけり 原稿は手で書くゆふべ水打つて 五十九のわれにおどろく菊根分 右顧左眄することなく私流の生き方を貫く姿勢は清々しい。髪を染めないのは、精神性の高いおしゃれ。打水は書き物にひと息が付いた実感であり、水茎がいかにも涼しい。そして、〈初老とは四十のをんな浮寝鳥〉の衝撃的な一句からはや還暦へ、「私」はより切実に、より美しく自身の手を土に汚している。 三光鳥大瑠璃小瑠璃閑古鳥 阿彌陀経山水鳥語蓬餅 女書生老婆山姥飛花落花 氏のもんぺスーツはつとに有名である。その直線裁ちの装飾をほどこさない機能的なスタイルは、そのまま杏子俳句のスタイルでもある。「俳句は人なり」あらためてその文体の潔さに感じ入った。名詞尽くしの名吟は枚挙にいとまがない。読者に感動を投げ打ったようなところが愉快、爽快である。 隠岐にありやがて散りゆく花にあり はるかなる火の音はるか大文字 栗ごはんぎんなんごはん流れ星 ときに流麗、ときに悠久、ときに明快、絵巻風に展開してみせるリフレーンの絶妙。 瀧落ちて月光那智にあふれしむ 瀧音の秀衡櫻とぞ申す 螢火のひらいづみとはなつかしき これらの固有名詞の一句全体にしみ通る主情の冴えは、無機質のようで豊かな詩情を蓄えている。感覚の冷たさが上質の情緒。 水澄んでこの世永しとおもひけり 真清水の音のあはれを汲みて去る 一集は出会いと別れを宝物とする一途さに貫かれている。〈水澄む〉、〈真清水〉の透明感は、昨日今日に始まったことではなくて、二十代からの人生への思いの深さの延長線上、ひたすら継続して感受されたもの。 古舘曹人大兄は 亀鳴くと孤りの筆を折られけり 杏子氏が聞き手となった『証言・昭和の俳句』には読むたびに感動がある。これによると、曹人氏は昭和二十九年、三十四歳にして「夏草」編集長に抜擢され、平成六年、句作の筆を折って小説に取り組まれた。 曹人氏は、その編書『山口青邨の世界』に青邨文学一代論の章をこう締めくくられた。 ――青邨の生きざまがまさに西行の「蹤跡なし」ということで、足跡を残さない青邨のことが私は最近になってわかってきた。世の毀誉褒貶の中で、死後に備えず、死後を考えずに生きることが、最も潔い生涯なのである。「文台引き下ろせば即ち反古なり」芭蕉の一期一会がまさに「蹤跡なし」なのであるー― 青邨につながる人々の感慨は深い、まこと「師弟は三世」を思わないではいられない。 (2006年10月5日発行、「ににん」第24号p64~67所収、文頭の山口青邨の写真は日本現代詩歌文学館(盛岡市)提供) ![]() 「ホトトギス」の系譜――高浜虚子直系 高浜虚子が帝国大学生であった正岡子規に交友を求めたのは、明治二十四年五月であった。子規からの「請ふ国家の為に有用の人となり給へかまへて無用の人となり給ふな」等としたためた返書について、後年虚子は「余をして心を傾倒せしめる程美しい文字立派な文章であった」と述べている。まさに虚子が文学にのめりこむ決定的瞬間となったこの書状は、今も墨痕鮮やかに虚子記念文学館に見ることができる。 松山版「ほとゝぎす」を虚子が継承し、東京から第二巻第一号を発行したのは明治三十一年十月、一、五〇〇部は即日完売し五〇〇部を再版している。 虚子は昭和三十四年四月に大往生をとげたが、六十年余にわたり虚子と共にあった「ホトトギス」は、長男年尾へ、その次女稲畑汀子氏へと三代にわたって継承され、日本最古最大の俳誌となった。一五、〇〇〇部発行。平成十八年七月号で、通巻一三一五号。 ☆ 坊城俊樹氏の『あめふらし』(平成十七年十二月刊行)は、 氏の第二句集。「花鳥」編集長、「ホトトギス」同人。虚子を曽祖父にもち、祖父高浜年尾のもとで俳句を始めた。母、坊城中子氏は「花鳥」主宰、年尾の長女である。 「花鳥」は昭和二十年、虚子が伊藤柏翠に任せた虚子直系の結社で、平成十一年坊城中子主宰に引き継がれた。平成十八年七月号で、第五〇四号。 風車ひとつかなしやもひとつも 金閣寺よりひらひらとかげろへる 鯉の口より一片の花浄土 典雅な調べにのせて、花鳥たる感覚は透き通った品位に満ちている。 一方で、「天才ある一人も来れ、天才なき九百九十九人も来れ」と虚子が普及せしめた俳句の大衆性をとりもどそうとする意欲に満ちている。新鮮なアマチュアリズムの回復である。 すたこらと寒明けてをり猿股も 敬老の日の喉仏喉仏 セントバレンタインデイと独り言 雪女くるべをのごら泣ぐなべや 月並みから解放されて本来のおどけを無邪気に発揮しようとする。こんなアイロニーやウイットにも艶なる感性は隠しようもなく現れている。 その中にもっとも白き夏帽子 花鳥諷詠の士は、謙虚なたたずまいながら、もっとも秀でて純白である。 雨のまた饐えて立夏となりにけり この句はかつて安部完市氏が新聞紙上で、降る雨に饐えた匂いを直感した個性の一句であると褒めたことで印象に残っている。紙上での俳句討論の後、俊樹氏は「即物と物の霊性」を俳句創作の手段とすることを確認している。 やはらかく鯛と西日を煮てをりぬ 夕焼を堕ちてしまひし夕陽かな 散る花のなほ薄墨となりきれず 滅びへの美学、死生観というものが根底に強くある氏であろうか。立夏の「饐えて」の把握にもその情念はつながっているようである。氏の言う霊性、スピリチュアリティとは、あくまで実体に即してこそ、想念の魂をこめてこそもたらされるもの、インスピレーションあるいはひらめきと解してよいだろう。どの句も、物と心と言葉が渾然とやわらかに煮含められて、季題そのものがその人に乗り移ったようである。 蟻穴を出て二匹となりにけり 丑三つの厨のバナナ曲るなり ―人生とは何か。私は唯日月の運行、花の開落、鳥の去来、それらの如く人も亦生死して行くということだけを承知しています。私は自然と共に在るということだけを承知していますーそんな虚子の天地が彷彿としてよみがえる。 一句目、二匹の単純さに笑ったあと、背後につながっている天地有情の深みを思わないではいられない。二句目、草木も眠る丑三つ時のバナナは生きている。ややに身を折ってそこに存在する意思が生きることのあわれでもあるかのように。虚子に〈川を見るバナナの皮は手より落ち〉がある。同じバナナでもこれだけ顔が違う。だがこの世の法則につながっているバナナは一つ。 虚子の忌の極楽行の人ばかり 読経いま歌のやうなる西虚子忌 虚子忌法要は四月八日に鎌倉の寿福寺と、もう一つ、虚子の遺志により亡くなった年の十月十四日、十三夜に比叡山横川の虚子之塔に分骨がなされたその日を記念して行われる。立子の〈この後は西の虚子忌と申さばや〉の句以後、西の虚子忌と呼ばれる法要である。 虚子逝ってはや半世紀が経とうとしているが、しのぶほどに虚子は新しく、その俳句は、はんなりとなつかしい。 ☆ 山田弘子氏の『残心』(平成十八年二月刊行)は、 氏の第六句集。「円虹」主宰、「ホトトギス」同人。小学生時代から俳句に親しみ、京極杞陽、高浜虚子、稲畑汀子氏に師事。平成七年創刊の「円虹」は阪神淡路大震災に遭遇という大事を乗り越えて十一年を迎えた。平成十八年七月号で、第一三九号。 汀子先生ご来駕 月の客招く一途といへるもの 虚子は星野立子の句に対して、景三情七と評していたが、稲畑汀子の句は景八情二位に評することができるのではないかと高浜年尾が「汀子句集」(昭和五十一年刊行)の序で述べている。 今日何も彼もなにもかも春らしく 汀子 摩周湖の神秘なる蚊に喰はれけり 汀子 汀子氏の単刀直入の確かさや大らかさに襟を正されるような句風は、弘子氏のそれに通うものである。 ことばなど貧しくていい落花浴ぶ 作者は一度だって言葉など貧しくていいと思ったことはないだろう、言葉こそが命の日々ではなかったか。この無我の境地は、吉野山の落花を浴びて得られたのではないだろうか。あの谿深きところから天地さかしまに吸い込まれるような花吹雪の劇しさがしのばれる。この年の秋、夫君に先立たれた氏は翌年の花の句、 みよし野の花の残心辿らばや から一集のタイトルを得られた。 来よといふ電話松茸料理とは 露しぐれ夫亡き朝の暁けてゆく〉の少しあとにある。褻を晴れに引き出してくれる連衆が電話の向かうに居るからには、泪をふりはらって出かけねばならない。悲しみのどん底にあっても俳人はすかさず一句に仕立てる。花鳥なる松茸の働きはまことに大きい。 氏は、「俳句は極楽の文学である」という虚子の理念の真髄をゆく作家である。この世がいっそう複雑になり悲惨になるにつれて、「極楽の文学」は卓抜した理念として輝きを増すに違いない。 来る来ないいつも来ないのマーガレット 水中花水装ふはさびしからむ リハビリのメニューの昼寝怠らず あたたかや現れさうなとき現れぬ 鮟鱇のあんの唇かうの顎 唐辛子ひと筋縄でいかぬ赤 白玉やメリーウイドウとはいかず さびしさの中の明るさはどこからもたらされるのであろう。写生のつかみどころをつかんだ気色は、作者の心情をのぞかせる切り口でもある。 京の底冷とはこんなものじゃない 東京はクリスピー、煎餅みたいにカリッとした冷たさだが、湿気の多い京都の底冷えはまるで違う。盆地特有の深深たる底冷えを、手掴みにしてあきらかな実体にあらわす言葉の魔力。俳句の空間を求めてやまない心延えが一句に直結したようである。 京都といえば老舗の街でもある。老舗の饅頭は「昔からここの味は変わらへんえ、美味しいねえ」と褒められる。ところがそう褒められる饅頭にかぎって、昔より甘さが控えめであったり、製法が以前とは微妙に違っていたりするものである。時代と共に変化する嗜好を読み取って変わっているから「変わらへん」味が醸し出される。 「ホトトギス」という長寿企業の秘訣も、新しいものに挑戦してゆく諸氏の姿勢に継承されていることにある。安住をせず、日々新しさを追いかけてこそ百年以上続く老舗なのである。 ☆ 星野高士氏の『無尽蔵』(平成十八年三月刊行)は、 氏の第三句集。「玉藻」副主宰・編集長、「ホトトギス」同人。祖母星野立子に師事し十代より作句した。 立子忌の初音はそれとなく淋し 立子を知り尽くした人ならではの、息を呑むような初音を聞きとめた。 下萌えぬ人間それに従ひぬ 立子 久闊や秋水となり流れゐし 立子 立子は、主観描写を加えてはじめてその景色を写し得るという客観写生の一分野を開拓した俳人である。 蝦蛄つつき人間嫌ひともいへず 水中花人を忘れてゐる時間 氏は冷静に自己を内省する。そして自己をいつくしむ。氏の主観もまた写生という強い眼力に端を発していることはいうまでもない。蝦蛄の無気味な姿の美味は食べるのではなく、まこと「つつく」が適っている。そこには味わいの濃い時間が漂っている。 ときにはひっそり水中花に恋をする。童心にかえる時間あるいは詩人に徹する時間であろう。 白桃や人と人間とは違ふ 千両と万両に対立のなし 物への集中力はついにこのような分析をあきらかに引き出す。 冬の鵙一気呵成といふ言葉 立子に〈文章の下手のなげきを鵙によせ〉があるが、そんな秋意そのもののような鵙の猛りも、冬になるとピタリと鳴き納めるのが鵙の身上らしい。 氏の作品も思惟深きところから一気呵成に立ち上がってくるようだ。 引鶴の雲に紛れて無尽蔵 あめんぼのぶつかる水と水の壁 木犀の香の中心といふところ 秋声は限りなく風尽くるなく 冬鳥として渡来した鶴は春には又北へ帰ってゆく、群なす鶴の姿はかぎりなく虚空へしのび隠れてゆくのである。あめんぼは水に当ってことごとくその壁を押し返している。どこからとなく漂ってくる木犀の、あの甘い香りの源はどこにあるのだろう。流れる時間の中で、刻々変化してやまないものが永遠であろうか。この世の刹那のありようを五感をもって聞きとめている。 セーターを買ひて幸せさうにして 一転してソフトなまなざし。あたたかさが光っている。 糸瓜棚高浜虚子正岡子規 文章も俳句も写生漱石忌 金風忌やさしき人に囲まれて 虚子はもとより子規も漱石も、高野素十も追慕してやまない真摯な姿勢。 皆に逢ふまでのコスモス畑かな 待つ人の来て鶏頭を離れたる はぐれてもどぜう屋で逢ふ一の酉 氏は月に二十回を越える俳句会をもっているという。最善かどうかと自問しながらも出会いを尊重している。 虚子がまだ乳飲み子のいる立子に初の女性主宰誌「玉藻」をもたせた時、最善ではないが次善であるといった。立子も、「目的の在る仕事は苦しくても随分楽しいもの、忙しい方が暢気だった以前より過ごしやすい」と応えている。昭和五年「玉藻」創刊の年に生れた長女、星野椿氏が立子没後を継承した。平成十八年七月号で、第九〇四号。 黴させてならじと思ふ虚子屏風 椿 拓本をとりに那智まで秋高し 椿 椿主宰は鎌倉虚子立子記念館を設立、代表となり、高士氏は館長を務める。 ☆ 「批評とは、人を褒める特殊な技術だ」と言ったのは小林秀雄であったろうか。虚子は全く他者の気付いていない良い点をほめることができる人であった。虚子はまた対立する他者によって、自己を新しくしていった人である。他者への信頼を梃子にそこから自己を見出すことのできる人であった。 ホトトギス雑詠選を介して数多の新人を発見し育成に努めた虚子は、自らは花鳥諷詠をつらぬき、その思想を存問から極楽の文学へと発展させていった。その営みは現俳壇を形成する大方の門流に及んでいるのである。たとえアンチホトトギスであっても、底流に虚子が生きていないことはないだろう。 去る五月、芦屋にある虚子記念文学館を訪れた。投句箱の前で少女がしきりに指を折っていた。「孫は五歳から俳句をやってまして、今二年生です」と金沢から来られたという祖父が傍らで目を細められた。「できた!」 まんまるくまっかにゆうひうつくしい 虚子がいたら、なんと褒めたであろう。 ![]() (2006年7月5日発行、「ににん」第23号p48~51所収,文頭の高濱虚子の写真は虚子記念館、芦屋保存の「壮年の虚子」) ![]() 「天狼」の系譜――三橋敏雄を師として 昭和十年、十五歳の少年三橋敏雄は、山口誓子の第一句集『凍港』と第二句集『黄旗』を読んで、これまでの俳句とは違う新しさを直感した。敏雄は新興俳句の中でも、渡辺白泉にひかれて、昭和十二年に私淑、翌年には白泉の橋渡しで三鬼に師事した。「師事するといったって、その俳句を読んでこの人はいいとこっちが発見したんで、三鬼だって俳句を始めて何年も経ってない」と敏雄が語っているように、三鬼は、二十歳年長ではあるが、俳歴では二年しか違わなかった。敏雄の夢は、三鬼を主宰にして自分が編集長を務めることであったが、昭和二十三年、誓子が「天狼」を主宰すると三鬼は初代編集長になってしまった。敏雄には、昭和十三年、〈戦争〉と題する無季俳句を誓子に激賞されたという経緯があったが、「天狼」には参加せず以降六年沈黙を続け俳句を発表しなかった。やがて、三鬼主宰の「断崖」によったが、昭和三十七年三鬼の長逝により終刊。その直前、三鬼の推薦によって「天狼」同人になっている。敏雄の第一句集『まぼろしの鱶』は、三鬼師の死後四年の祥月命日付けで発刊されている。 面白い俳句を作る、そういう人物の側近にいるということ自体の充足感がすばらしかった、と語る敏雄からは三鬼の無頼性にもまして、男の信念や誠実が感じられて魅力的である。 ☆ 池田澄子氏の『たましいの話』(平成十七年七月七日刊行)は、 平成十二年から十七年までの作品による第四句集。平成十三年に師の三橋敏雄と永訣した。 七夕の伝承に託された刊行の日付そのものが、師への思いの丈でもあろう。 池田氏もまた自ら師を発見した。三橋敏雄句集の『まぼろしの鱶』と『真神』を読んで、同じ人でこれだけタイプの違うものを書くことに驚きを隠し切れず、自ら手紙を出した。第一句集のあとがきに際し、私淑という言葉をつかったら、「私淑、のち師事だね」と敏雄が言ったという。師を越えなければ弟子とはいえないと語っていた敏雄の内なる喜びが伺える言葉である。 煮凝やなんとかするとはどうするか 二者択一を迫られたこの際、何とかしなければならない。だが、煮汁に閉じ込められた魚の気持ちは、ニコゴリの語感そのままに窮屈でどうしようもない。 花に嵐ねむりぐすりを二分の一 横たえた体に、心は大波をたてて揺らいでいる。残した半分はまだ社会に覚めていたい気分の現われでもある。 目覚めるといつも私が居て遺憾 イテイカン、まさに投げ出したくなるイテイカンのひびき。遺憾という言葉のなんと斬新なことだろう。誰も私を何処へも運んでくれはしない、私は私をもって対処するしかないのである。 春菊が咲いてともかく妻で母 菠薐草でも水菜でもない、春の一字をかむったシュン菊が嬉しい。妻として母として資格があろうとなかろうとその色、その香気はしおらしい。 頑張らざるをえない孔雀の尾の付け根 孔雀ならずともまた頑張らざるを得ない、人間の足の付け根。 救急車さざんか散りますよ散りますよ 道をあけてもらった感触が甦る。 一生のおわりののほうの椎の花 椎の花は悔恨の匂い。そしてまだ生きている濃密なからだの匂い。 この調子で端から個人的な感想を述べていてはきりがない、つまるところ、 あきかぜにいちにちうごくこころかな 絶え間なくもの思うこころこそは秋風という風情になりきっている。今吹いている風は春風では決してない。 恋愛作家の名手が、恋愛というあの悩ましくも甘苦しい心をどう書くか、眠れない夜の煩悶の末に「女が男を好きになった」そんな一文しか書けない。だがそんな色気のない一文に、狂おしく酔うことの出来る読者もいる、つまり恋愛小説は読者が完成させるのだという講演を聞いたことがある。 恋愛感情ならずとも、シンプルが最も伝わるという点においては池田氏の俳句もしかり。作者の情動を超えないことばで書かれているからこそ、読者は、感情という、かたちなきものを感じとることができるのではないだろうか。作者は読者の代弁者のようである。読者としての私の気持ちをわかってもらえたという喜びを言いたいのである。氏の作品を読んで、俳句に癒されるということ、俳句の普遍性ということを実感したからである。 人生の要するに暑くてならぬ 阿部青鞋に〈要するに爪がいちばんよくのびる〉がある。青鞋は、「要するに」をさりげなく流しているが、澄子作品はより、「要するに」に力を置いた表現になっている。やるせなくかつやむなく肯定して、「要するに」とはそういうことかと思わせる。一句に意味無く効果ある用い方、つまり言葉を軽く用いて重くはたらかせる一吟の妙。 この青鞋宅で、昭和十五年頃、敏雄・白泉・青柚子らは芭蕉、蕪村、一茶の文体模写等、古俳諧の追尋にふけった。新興俳句なるものへのおのづからなる問い直しであったという。池田氏もまた独自の文体をもちながら、正統な季題の力を万全にゆきわたらせている。 老人の多くは女性蓼の花 人形の抱かれやつれや青葉風 関に何度行っても冬深し 風向きの今し変わりし氷頭膾 先の「要するに」にもどるが、池田氏は、「要するに」、「つまるところ」を詠う作家ではないだろうか。 夕月やしっかりするとくたびれる 万病のもとなる月の雫かな 舌の根やときに薄氷ときに恋 人が人を愛したりして青菜に虫 一身の内と外なるギャップ、人生のアンバランス、齟齬、それらを含羞をこめてうべなうやさしさ。 ことに一句目は、今後いく度も、なぐさめられ、安らぎを覚えるであろう。氏の〈じゃんけんで負けて蛍に生まれたの〉がまるでいろはガルタのようにいつ口ずさんでも新しいのと同様、口誦性の強みをおもわないではいられない。 肩に手を置かれて腰の懐炉かな 震度2ぐらいかしらと襖ごしに言う お願いを梅のところでしぼりけり フルーツポンチのチエリー可愛いや先ずよける 作者が面白がっているわけではない。むしろ静けさに真面目に書かれた独自の物言いが、読者にとっておかしい。 眞面目さの根底にあるのは、氏の〈産声の途方に暮れていたるなり〉であろうかと思われる。否応もなく生れてきた私、生れて存在している私。気張らない日常のどの断面も、作者だけのものではなくなっている。 茄子焼いて冷してたましいの話 スーパー歌舞伎、三国志の市川猿之助を思い出した。猿之助は棒立ち棒読み(に思えた)、それにひきかえ、新進気鋭の役者は演技の限りをつくして熱演していた。だが、見終わって、その演劇における猿之助の存在感が大きく印象にのこったのである。俳句の形式の中でも、演技は過大に演じないのがいいのだろう。演じすぎるということは俳句が小さくなることだ。言い切ってないようで言い切っている。その断定が澄子俳句の非凡なる演技であろう。 ☆ 遠山陽子氏の『高きに登る』(平成十七年九月発行)は、 平成六年から十七年までの作品による第四句集。「馬酔木」「鶴」「鷹」を経て、昭和五三年、三橋敏雄指導句会「春霜」(後に「檣」)に参加、編集。現代俳句協会賞受賞。 雪月花体言止めはよかりける 燈台の縦汚れして野水仙 狐火や蒟蒻に味染みるころ 一句目、波郷の〈霜柱俳句は切字響きけり〉へ思ひを馳せる。波郷は「鶴」創刊号で好きな俳人として、白泉・三鬼・静塔ら新興俳壇の諸氏をあげ、ホトトギスの草田男の名もあげているが、波郷自身は、新興俳句にもホトトギスにも組せず、生来の抒情性を謳いあげた人間探求派であった。遠山氏もまた、浪漫を求め、なべて簡潔、強固である。 二句目、まざと見える句である。縦汚れの発見が燈台はもとより野水仙をすらりと立たせて匂い立つばかり。 三句目、「王子の狐火」は、関八州の狐が官位を定めるために集まったという大晦日の行事であるが、その幻想的な夜が彷彿としてよみがえった。二物のかねあいの味わいはなんとも渋い。 季語がはたらくということについて、次の二句はどうだろう。 色鳥や皇后様は小さく咳 射精する鯨よ日本は櫻吹雪 一句目の繊細と品位、二句目の大胆と絢爛。色鳥と櫻吹雪は、梃子でも動かないさまに坐っている。 ところで、遠山氏の俳句は、われを探す旅にあるように思われる。 末黒野やまだ逢はぬ我いづくにか 大言海抱へ高きに登りけり 〈焼野の雉夜の鶴〉という諺は、親が子を思う切々たる情のたとえであるが、そんなことが念頭にあっての一句目の末黒野であろう。肩の力を抜きながらも、「いづくにか」には心に決した自立の決意がしのんでいる。〈師の教えを胸に、師とは異なる俳句を作ることが、師恩に報いることであろうと思い定めている〉、そんな厳しい道のりにこそ、自分探しの醍醐味があるのだろう。 遠山氏は、平成十五年に個人誌『弦』を創刊、評伝「三橋敏雄」はすでに十三回を数えている。 タンポポを踏み病院へ老いにゆく 鶴老いて水の深さをおもひをり 藤老いてむらさきなるは苦しからむ タンポポは童心の花、長いようで短い生涯がふと思われたのは病院への途上であった。老いにゆく、に実感がこもる。人は生老病死を免れぬものである。死の瞬間まで老い続ける旅路は女にことに切ないが、鶴に喩え、藤に喩えるその心境にくもりはない。 鬼遊び捕まるならば桃畑で 肩凝りの私は青いアスパラガス 雪女郎玉子をひとつ生みおとす 鬼遊び、肩凝り、雪女郎、このような旅ごころにこそ遠山氏の詩性を際立たせる本領がある。 自分の信じて疑わない世界、多くの読者を得ようとおもねらない世界の潔さが、かつて見たことのない新鮮な世界となって印象明瞭である。 仏壇に三日ありたる桃食うぶ 鴨居なんだか低すぎる帰省 桃咲くと姉の綺麗な鼻濁音 仏壇、鴨居、鼻濁音、という言葉が季題そのものと表裏一体となっている。郷愁は、既視感をもって新鮮にたち現われてくる。 郷愁とは別種の、忘れがたい日本の過去を強く意識させられる句群にたちどまされることも多かった。 もう誰の墓でもよくて散る櫻 二・二六歩道橋を犬降りてくる 気骨反骨老骨散骨初国旗 畳み癖どほりにたたみ国旗蔵ふ ところで、敏雄は一貫して戦争を詠みつづけた。戦争を詠った新興俳句の秀れた遺産は、今に詠み継がれている。 戦争が廊下の奥に立ってゐた 白泉 玉音を理解せし者前に出よ 寒灯の一つ一つよ国敗れ 三鬼 広島や卵食ふ時口ひらく いつせいに柱の燃ゆる都かな 敏雄 戦争と畳の上の団扇かな 敗戦日銀座は正午を数分過ぐ 陽子 八月六日・晴・外野手好捕せり 前ヘススメ前へススミテ還ラザル 澄子 泉あり子にピカドンを説明す ☆ 三橋敏雄は、最も将来を期待する俳人は誰かと云う自問に対して、其は私自身であると自答し続けて来た。 人間として生涯のありようを俳句という形式で語りつづけた俳人を悼むとき、俳句抜きでは語れない痛切な師弟の絆がみられる。 かもめ来よ天金の書をひらくたび 敏雄 地の果は海のはじまりかもめ来よ 陽子 夏百夜はだけて白き母の恩 敏雄 先生の逝去は一度夏百夜 澄子 (2006年4月1日発行、「ににん」第22号P48~51所収、文頭写真は三橋敏雄氏) ![]() 「鶴」の系譜―――「魚座」の人々 「鶴」は昭和十二年九月、石田波郷が石塚友二とともに創刊。波郷の応召中は代選を務めるなど、一貫して波郷と行動を共にした友二は、昭和四十四年波郷死後「鶴」を継承主宰した。 石塚友二死後は、星野麥丘人氏が主宰を継いでいる。 昭和四十四年以来「鶴」に所属していた今井杏太郎氏は、平成九年一月に俳誌「魚座」を創刊し、主宰となった。 昭和六十一年の友二師の葬儀に際し、今井杏太郎氏は、「鶴」代表として弔辞を述べている。 ―(前略)―船の中で先生は突然私にかう仰言いました。〈杏太郎君、ひとはどうしてねむるのだろうね〉先生のこの唐突とも思へる質問にどぎまぎしながら〈先生……海の上の眠りもいいものですよ〉とやっとの思いで答へたものでした。しばらくして先生は、ぽつんと〈ふしぎなことだねえ〉と、ひとり呟くやうに言はれたのでした。この〈ふしぎなことだねえ〉のひと言ほど胸に食ひこんだ言葉を未だかつて私は知りません。――(中略)――今生の……生のよろこびもかなしびも一切がこの「ふしぎさ」のゆゑなのでありませう。―(後略) 子が病めば百千の虫や唖の虫 友二 百方に借あるごとし秋の暮 友二 石塚友二句集『光塵』(昭和二十九年刊行)は、初学時代よく諳んじた句が多い。当時は濃色かつ暗色のイメージをふくらませていたから、今井杏太郎氏の淡白で透明感のある句群とは対極にあるような気がしてならなかった。今回弔辞に触れる機会があって遅きに失したことではあるが、底流する精神の絆こそが師弟関係であったことを知り、胸をうたれたことであった。 ☆ 今井杏太郎氏の『海の岬』(平成十七年八月刊行)は、 俳人協会賞受賞の『海鳴り星』につぐ第四句集。 一巻は絵巻物をひもとくように緩急自在の呼吸に引き込まれてゆく。一句一句にたっぷりした時空があって立ちどまらされるのであるが、一方で次へ次へと吸い込まれていくような句集の読みの楽しさを堪能した。 「海を見るのが好きであった」氏のモチーフは貴重である。水への関心は大らかさの中にも繊細な感覚が宿っていて、水の秀句は目白押しである。 うすらひといふつかの間の水の色 萍に水のやうなる雨の降る 水の上の暑さが暮れてゐたりけり 夏逝くか水のゆらぎも星に見ゆ 涼しさやむかしは水に影ありぬ 野ざらしの雨降る水鳥は水に 凍滝に水の折れたるところあり どの水も十全にゆきわたって五感がゆさぶられる。水は純粋のものは無色、無味、無臭。常温では液状、摂氏零度で氷結する。そんな水の第一義を一句目ははからずも印象させられるが、思えばどの水の句も、あらためて水の意義を考えさせられものである。 二句目、池であろうか、沼であろうか萍を湛えた水のありようが見えてくる。渾然と降りこむ雨は、憂きことも忍ばせて繊細な雨脚をひくのである。 かたくりの風の揺るるを風といふ 春風に吹かれて貨物船の来る すずかけの木蔭の風の涼しげに 唐辛子畑にて風衰へし 色変へぬ松あり風の吹きにけり 北風はみなみの海へ吹いてゆく 葛の葉のひるがへり風ひるがへり 一句に風を通しただけでさーっと新鮮に見えてくるものがある。ごく自然に淡々と詠いあげて構えたところがまったく無い。その自然体がサマになるという洗練された文体は比類ない。 たとえば葛の葉の翻る句はゴマンとあるかもしれない。だが杏太郎俳句はどこか別物だ。葛の葉は生きて意志あるもの、風もまた葛にうながされて息づく生き物のように思える。風景とはそういうものだといえばそれまでだが、読者は風景そのものよりも、その切り口を見定めている一人の心の景色に惹かれるのかもしれない。 杏太郎俳句はなべて、水も、風も、今ここにあったものが次の瞬間にはもうなくなることを気づかせてくれる。次にやってきたとしてもさっきとはもうちがう形、ちがう手触りでしかない。二度と同じものは帰ってこない。何気ない日常のなかの、自然の一閃を一瞬にして掬い取ってことばに遺した。それは、永遠に掌中に握りしめたかたちなのだ。手のひらをひらけば、あの水、この風に出会える。俳人ってすごいなあ、とあらためて思う。俳人から享受した一閃の光に意味はない。その光のありかをどこまでも想像するそのひとときが読者にとっての安らぎなのである。 てのひらを叩いてをれば日永かな けふであることを忘るる暑さかな いちにちがゆるやかに過ぎ草茂る 芒洋としていながら、季語の本態見たりと思わせるところが妙である。 てふてふのさびしさの雨やどりかな さびしさのつづきに見ゆる麦の秋 梟はさびしくて木になりにけり 颱風の南から来るさびしさよ ときとしてこの世の相は、どこか思惑からはずれたものを宿している。ものの存在への不思議さといとおしさ。さびしさはそれらへの愛惜であろう。 霧をゆく人あり水になりながら さびしさを肯定して生きる。今井杏太郎氏、まさにその人ではなかろうか。 『海の岬』の掉尾は、〈石塚友二先生の墓に雪 杏太郎〉である。「ひとりの人間としてわが師と仰ぐべき人」と決意せしめた石塚友二先生には雪がもっともふさわしいのに違いない。雪が物語る声に耳をすましたい。 石塚友二は小説家でもあったが、波郷同様、俳句は厳しく非散文的である。 方寸に瞋恚息まざり秋の蚊帳 友二 別れ路や虚実かたみに冬帽子 友二 石塚友二句集『方寸虚実』に寄せて、友二の文学の師である横光利一は、「これを明澄とも高雅ともいえず、古撲ともいいがたければ閑雅ともいい難い。また寂寞というには幾らかの騒ぎがあり、清新というにはカスが溜まっている。しかしこのように俳句の持つべきはほとんど何ものもなくしてよく俳句となしえているゆえんは、偽りもなく本能的な生の悲しさがその精神の中に底流し、高雅明澄に対していささか自我を風解してここに飄逸な嘆きを加えている淡白さにあるかと思われる」と、さすがにこの作家の批評眼は冴えている。ここに見出した「淡白さ」の一語は、今にして肯かされる思いである。 金餓鬼となりしか蚊帳につぶやける 友二 金我鬼とはなまなましいが、自己を徹底的に客観視したあげくの踏みとどまるべき諌めであった。下五に「つぶやける」と置いたとき、ふっとわれにかえった安堵に、森閑とした詩情が漂ったのではないだろうか。 この「つぶやき」こそが、今井杏太郎氏の掲げる「呟けば俳句」のつぶやきではないだろうか。つぶやきは自分を持ち直してくれる。つぶやきを俳句に盛ったとき、十七音という小さい器ではあるが自分の生を支えてあまりあるものになってくれるのだ。 つぶやくことは誰にでもできて、誰のものでもない。生きている私でしかない呟き。弔辞の中の「ふしぎだねえ」というつぶやきもしかり。つぶやきは吐息にも似て小声である。その実、人間の内面の思考してやまない大きな叫び、切実な叫びにもなるのである。 「呟けば俳句」を、俳句に行き詰まったときの救いのように考えている限り、上質の俳句には恵まれないであろう。それは、写生を俳句に行き詰まったときの手段と考えるのと同じである。 詠みたいことを思うように詠めばよいという「呟けば俳句」は、波郷の「俳句は文學ではない」の頓悟に迫るもののように思われる。 ☆ 鴇田智哉氏の『こゑふたつ』(平成十七年八月)は、 氏の第一句集。「魚座」には創刊から所属。主宰の『海の岬』と時期を同じくして刊行された。 梟のこゑのうつむきかけてをり 黴のすぐ近くにこゑを漏らしけり 春の蚊にこゑあり息のやうにあり こゑふたつ同じこゑなる竹の秋 初々しくひそやかな声調は、読者をしんとさせる力をもっている。 主宰は序で、「いろいろと胡乱のありそうな俳句ですが、黙って、静かに、この作者の息遣いを読んであげてください」と述べ、鴇田智哉氏が、あとがきで、「息が声になり、声がことばになるーーここから始めたい」と、一巻の気息がぴたりと重なっている。まさにソッタクの『こゑふたつ』である。 干潟とは今を忘れてゆく模様 湯冷めしてもとの形のありにけり 畳から秋の草へとつづく家 十薬にうつろな子供たちが来る たおやかな断定は、常に物思う人のたたずまいがもたらすものであろう。 四句目、うつろな子供たちの来る場所として、十薬をとらえた。その焦点の絞り方が詩情そのもの。星野立子の〈午後の日に十薬花を向けにけり〉が、救いのようにこの句に呼応してくれる。 逃水をちひさな人がとほりけり 障子から風の離るる音のあり 夏いつか鰭のうすれてゆく魚 とほくから子供が風邪をつれてきぬ ひえてきて日付の変はる時報かな 距離をおいたもの、気配を感じるもの、来ては去りゆくもの、それら移ろいゆくものを微妙にとらえる感覚が出色である。 くちもとの蜘蛛の糸とはゆるきもの 目の窪みかけたる山の眠りかな 虫の夜はひとみをあけて帰りけり 水ほどにひらたくなりぬ夕焼けて 鴇田氏は、自身の肉体を通して、詠いたいことを臆せず詠いたいように詠っている。傾倒する師を先ずは徹底的に追随して、その試練のなかから自分を乗り越えて行こうとする覚悟が坐っているのであろう。そのことがとりもなおさず、曰くいいがたく師のふしぎな句風に通ってゆくのであろう。 よく、一流の芸術家は「盗んで」自分のものにするが、二流の芸術家は「借りてくる」だけであると言われる。 炎天の少しとほくを見てゐたり 鴇田氏には、〈てのひらがひらひら二つ日の盛り 杏太郎〉が見えている。 石塚友二が『俳句研究』に、「方寸虚実」八十句を発表して一躍俳壇の注目を浴びたのは、昭和十五年、友二が数え年三十五歳の時であった。 鴇田氏は、平成十三年、俳句研究賞受賞。今年三十六歳である。 ☆ 茅根知子氏の『眠るまで』(平成十六年五月刊行)は、 氏の第一句集。忘れがたい上質の句集であった。茅根氏は、平成十三年、俳壇賞受賞。 夏の灯をともして人を迎へけり 人に背を向けてマスクをはづしたる 北窓を開くと人がとほりけり 人の手がぶつかる金魚掬ひかな 人ってなんだかおかしい。人の仕草は、人に関わって人らしくなるらしい。 あたたかく伸びたる草の背丈かな 草の丈、でなく草の背丈と言った、もうそれだけで嬉しくなる一句である。茅根氏の観察眼は、人へも自然へも等しく注がれて愛情にあふれている。 いつか死ぬ人を愛する涼しさよ 人って何だろうの究極の答えがここにはある。そうだ、そんな涼しさにこれからも生きていこうと思う。 左手に梨のしづくを集めたる 冷蔵庫開けてまばゆき夜になり 歯が痛し十一月の終はるころ どの句も解釈のいらない実感がある。 三句目、穏やかに叙して、インパクトがある。切れの余白に空気のつめたさが染み入るように流れている。 眠るまで祭囃子の中にゐる 子供の頃、寝床で眠れね興奮のなかで体いっぱいに祭を感じていたことがある。大人の興奮が子供に伝わってくる喜びが祭囃子の中にはあった。 喩えて言うなら、この世は祭囃子の中に生きているようなものではなかろうか。眠るまで、そう 永遠に目を瞑るまで、祭囃子を聞いているのである。今生きてあることのなんとなつかしいことであろう。この句を読んで以来、眠らないで起きていると何かよいことがあるようで目を瞑るのがもったいなくなった。そして、石塚友二の「人はどうして眠るのだろうね」を反芻して、いよいよ眠れない。 (2006年1月1日発行、「ににん」第21号p58所収,文頭写真は石塚友二) ![]() 鷹の系譜 去る四月、藤田湘子氏が亡くなられた。 幾つかは遺品とならむ冬帽子 湘子 体臭のしみ込んだ清澄な帽子がしのばれる。遺品は弟子でもあろう。おりしも、藤田湘子を師とする奥坂まや氏と、かつて師弟であった小澤實氏の句集があいついで刊行された。二句集を拝誦することで、湘子をこころに秋櫻子をこころにするよろこびが付加された。 これを契機に、今後、句集渉猟はアトランダムではなく、師系を同じくする句集を採択し、系譜を念頭に置いて鑑賞することにした。見開きという狭い紙面であるが、(ときには二号にわたって)管見を連載したい。 ☆ 奥坂まや氏の『縄文』(平成十七年三月刊行)は、 四十三歳から五十二歳までの第二句集。昭和六十一年、「鷹」入会。平成七年、第一句集「列柱」で俳人協会新人賞受賞。 万有引力あり馬鈴薯にくぼみあり まや 観念を逆手にとりながら、まことよく物を見つめていると納得させる力がある。武骨な馬鈴薯に、むしろみやびな魅力をかもし出しているのは不思議である。二つのフレーズには深い亀裂がありながら、磁石のように呼び寄せる作用は、バンユウのバ、バレイショのバの頭韻、アリ またアリの繰り返しによる効果である。「ニ物衝撃」と「調べ」を強調する湘子の理想がここに具現している。 にんげんは滅び海鼠は這ひをりぬ まや 月光に少量の毒ありにけり まや お新香のいろどり四万六千日 まや 一句目、未来はなべて原初に還る予感に満ちている。寒天質な海鼠の形態が悠久の思いをさそってリアリティーがある。 二句目、月光にあてられたかのように身動きならぬ思いに浸される女体の心理であろうか。月光は皎々として青みがかっている。〈荒星に授けられたる秋思とも 湘子〉天空を仰ぐ心象にも師弟交歓がゆかしい。 三句目、素朴な充足感に溢れている。 『縄文』は漢語、熟語など総じて重しのきいた言葉に成り立っている。まさに言葉は荒縄、俳句は土器の趣をもって、器に縄を全力で押しつけて一巻を圧している。そんな中で、 そらまめのみんな笑って僧のまへ まや お早うと言ふはつなつのひびきなり まや 現代女性らしい表情がいっそう清新である。師の長い道程を果敢に歩まれる方であろう。 さて「鷹」は小川軽舟新主宰によって漕ぎ出された。軽舟氏の評論集「魅了する詩型」の論旨は、俳句はあくまで抒情詩であると言い切って明快であった。俳句のみならず達意の文章もまた師の薫陶を受けて末弟子に引き継がれていくことに感銘している。 ☆ 小澤實氏の『瞬間』(平成十七年六月刊行)は、 平成七年から平成十二年まで、作者四十代前半の第三句集。十五年間の「鷹」編集長を経て、平成十二年「澤」主宰。平成十年、第二句集「立像」で俳人協会新人賞受賞。 鰻待つ二合半酒となりにけり 實 蜃気楼中のひととなるべし昼酒に 實 小澤氏のキーワードは酒。気風のいい数多の酒の句々に読者は微醺を帯びてしまうほど。 こがね打ちのべしからすみ炙るべし 實 からすみは、最高の肴である。酒は辛口。火加減は、強火の遠火であろう。生臭さを消して香ばしくなる。炭火のほむらをも見せてからすみの黄金を発光させる。べし、の畳み掛けは舌の廻りをよくする。「こがねを打ちのべたる如く成るべし」という一物俳句の真を問いかけて俳句の味も絶品の一献となった。 わが細胞全個大暑となりにけり 實 ゼンコタイショトナリニケリ、経文の如き響きが厳かでかつ朗々としている。極暑に辟易しながらも、大暑たる今日一日を全身全霊でもって感受した、壮年の美学がでている。立ち姿の美しい句である。ウエットな抒情ではない、乾いた感覚が独自のもの。 「わが」一個の存在、充実の精神よるべない肉体もまた小澤氏のキーワードであろう。 わが肉に埋もれて我や旱星 實 肉欲や向日葵の茎膝に折る 實 大川に小名木川出づ月見豆 實 深川芭蕉庵のあるところ、川の合流とするところ、一つの景を大きく切りとって投げ出しただけ、だが切り口が発見でもある。作者の思いの全ては季語、月見豆に託した。しみじみ伝わってくる風景の奥行き。何も言わないで、読者を信頼している句に品格がある。 大川といえば、〈夕東風や海の船ゐる隅田川 秋櫻子〉が浮かび上がってくる。 秋櫻子は、俳句に芸術性を求め、抒情詩たらしめんとして虚子を離脱した。秋櫻子、波郷の系譜を継ぐ「馬酔木」の正嫡として俳壇に登場した湘子は、俳句のあらゆる可能性を試みた。「一日十句」の遂行もその一貫。 秋櫻子は、真の創作家にとっては、「その花が彼にはどう見えたか」ということが問題であるという考え、一方、虚子が是とした素十は、「〈この花を彼が如何に見たか〉という風に〈この花〉を見た事がない。如何に見たかといふ様な考へ方を無くさう無くさうと努力を払ったことはある。私にはただ〈この花〉だけが大切なのである」とする態度であった。 あめんぼと雨とあめんぼと雨と 湘子 は、素十の写生のスタイルだろう。だがこの句の余韻に湘子の内面が映し出されていないだろうか。あめんぼと雨と、つかの間の憩いさえ湘子にかかると泣けてくるのである。〈冬菊のまとふはおのがひかりのみ 秋櫻子〉の哀しみに似ている。「この冬菊」だけ、「このあめんぼ」だけ、そのありようのさびしさ。秋櫻子も一人、湘子も一人。 後年、虚子を見直した。そのことがいっそう秋櫻子へ回帰させたのではないだろうか。 雁ゆきてまた夕空をしたたらす 湘子 天山の夕空も見ず鷹老いぬ 湘子 夕の抒情が湘子の始終であった。 愛されずして沖遠く泳ぐなり 湘子 湯豆腐や死後に褒められようと思ふ 湘子 師弟愛を生涯抱きかかえて湘子は逝かれた。 崖にぶつかれば遍路の曲るのみ 實 遍路という一途の徒はまことそいうものであると思わせる。しかし、遍路のありようだけではないだろう。崖にあたるではなく、ぶつかる、という措辞は、困難にぶつかるという世俗的雰囲気を誘って、自然に逆らわない作者の心情のありようを伝えてもいる。 蜩や男湯にゐて女の子 實 取り合わせから立ち昇ってくる詩情は、やすらぎそのもの。女の子は観世音のようだ。氏は酔うほどに敬虔な面差しを見せるのであろう。あとがきに、「多くの出会いと別離とがあった。さまざまなことがあったが、俳句形式そのものへの信頼は深まることはあっても、褪せることは一切なかった。今にして思うとその時間は一瞬である」と。『瞬間』の掉尾は、 佛諸天かつ雪嶺の加護なせる 實 (2005年10月1日発行、「ににん」第20号p68所収) < 前のページ次のページ >
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