カテゴリ:俳論・鑑賞(1)( 23 )
史上の一句・高野素十                    草深昌子
       
  大榾をかへせば裏は一面火   高野素十

 三十年ほど前、俳句を始めたばかりの頃、〈廿草の芽のとびとびのひとならび〉というような句は、「草の芽俳句」と言って作ってはいけない、と教えられた。(と思い込んでいただけかもしれない)
 ともかく、素十の大方の句は、私にとって、それがどうしたの?って感じ、まさに「猫に小判」だったのである。だが今は素十の句に憧れてやまない。
真正面に真面目に無心に切り取った自然の相が、一句とするに最も的確な言葉で最も的確な場所に置かれていることに気付かされる。なべて、リズムと内容がぴたりと一致している。

  風吹いて喋蝶迅く飛びにけり

 はっとして、やがていじらしくなる句である。
 何でもない当たり前こそが、ドラマチックなのである。喋々は風に吹き飛ばされたのではない。従順ながらにも意思をもって飛んでいるという気合いを込めた見方が、人間味をにじませる。こんな、素十の男らしさのやさしさが面白くてたまらない。

  雷魚殖ゆ公魚などは悲しからん
  苗床にをる子にどこの子かときく
  歩み来し人麦踏をはじめけり
  紫の袷袖口濃紫
 

 どうしてこのようなことが俳句になるのであろうかと、思わず微笑まされる。ごく自然のなりゆきのままに叙したようにみえて、誰もが持ってる過去の体験を思い起こされるのである。まさに梵鐘一打、響きはいつまでも伝わってくる。
 ところで、素十は、私の句はすべて大なり小なり虚子先生の句の模倣である、と言う。又、随分とつまらぬ句迄も先生に採られてそれに依ってある方へある方へと導かれて来た、と言う。あくまで謙虚である。
 秋桜子の、素十の句は芸術の領域に入らないとする非難にも、「自然の真といふものを僕は知らない。又これに大切なるエツキスといふものを附け加へたという文芸上の真といふものも知らない。それを私は少しも恥と思はない。私はただ自然の種々なる相を見ただけである。(中略)私一個の卑見を述べたまでである」とまこと淡々としている。かえって超然たる素十の凄味をおもわないではいられない。

  大榾をかへせば裏は一面火

 一句の凄味は、まさに素十その人ではないだろうか。
大榾の大の一字は、一面をぱっと広げて、ぎょっとするほど真つ赤な炎を目に焼き付けてしまう。
 どう謙虚に下手に出ても、裏返せば壮絶なる信念に支えられている人であつたのだろう。
「三千年の齢をくれても自然の真など知ることはできない」と言う通り、自然に包容された小さな一個を知る人の、一心の営みを絶やさぬ命のありようを、はからずも見せた感がある。

(平成17年5月1日発行・「晨」第127号p70所収)

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by masakokusa | 2007-01-03 20:48 | 俳論・鑑賞(1) | Comments(0)
史上の一句・原石鼎          草深昌子
                          

  雪に来て美事な鳥のだまり居る    原 石鼎
 
 石鼎が存命なら数え年百歳にあたる年に、私は「鹿火屋」に入会した。
翌、昭和六十一年、石鼎生誕百年のお祝い会で、原コウ子先生にまみえることが出来たのは今もって胸の熱くなる思い出である。
 『原石鼎全句集』のあとがきに、原裕主宰は、漸くまとめた第一本を今は亡き原コウ子(昭和六十三歿)の霊前に献ずることを許されたい。コウ子夫人の内助がなかったら、石鼎の闘病延命はなく、この本の後半の句は生まれていなかったろうから、と記されている。裕主宰も、その生涯を石鼎顕彰に尽くして、すでに亡くなられた。
 石鼎を思うと今はなぜかしみじみするばかりである。

 さて、石鼎の俳句は、初学から印象鮮明でよく口誦した。後年、飯田蛇笏が、石鼎の作品は、捉えた光景がはっきりしていて誰にも合点がゆく、常に大衆性を具備した強みがある、と述べていることを知って、それこそ合点がいったものである。
 石鼎生前唯一の自選句集『花影』の中では、最終章の昭和九年から十一年あたり(四十八歳から五十歳)の作品が一番好きである。
 掲句も昭和九年作。一句は、華麗なる一幅の絵として一寸の狂いもなく静止している。真っ自な雪は、あたかも鳥の念力がもたらすかのように降りしきっているのだが・・・何鳥とも言わないで、美事な鳥と大胆にも言い放った見事さ、一句を支配しているのはミゴトナトリに及くものはない鳥のひびきである。また、だまり居ると、擬人化したことの凄み。睨み据えている鳥の眼光から、背後から、なぜか絢爛たる極彩色が立ち上ってくるような光景を覚える。この不思議を解明してくれたのは、永田耕衣の言葉である。
 「〈雪に来て美事な鳥の黙り居る〉といった句も、どこか神性というものがないと出てこない句といえるだろうな。神の出てくる句も神サマっぽくはない、どこかおおらかなんだ。子供のときに神の放射能を受けとったんだろうなア、郷里で、たっぷりと。」

 ところで、この麻布本村町時代の石鼎の姿を、子供の頃、隣に住んでいた須賀敦子が、その著『遠い朝の本たち』の中で触れている。
――「原さんて憶えてる?おとなりの」、妹は遠い記憶をたぐるようにうーんといった。「うん、あの麻布の家のとなりで、いつも庭に立って、空を見てた、じじむさいおじいさんでしょう」――
 病身の石鼎にとって、言いたいこと泣きたいことは山ほどあったに違いない。だが、只黙って、自然と同化することのみに一心であったのだろう。いつも空を仰いでいた俳人の孤独な姿は、内なる自信に支えられて耐えて立っていた孤高の姿でもある。だまり居る鳥の重量感や貫禄の風姿は、石鼎そのものに思えてならない。

  こくめいに生きて句に住む寒椿   石鼎

 これからも、石鼎に、勇気付けられ、癒されることであろう。

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(平成16年5月1日発行・「晨」第121号p57所収)
by masakokusa | 2007-01-03 20:09 | 俳論・鑑賞(1) | Comments(0)
史上の一句・加舎白雄          草深昌子
 
  
   人恋し火ともしころをさくらちる      加舎白雄

 「夕桜を見ませんか?」と、句会の後、男性にさそわれた。
 桜の並木通りは、勤めを終えて家路を急ぐ人々の靴音が響くばかり。花は咲き満ちながら、一とひら、二ひら絶え間なく散りかかって、まさに満目の落花だった。黄昏の薄墨とさくらの淡い色合いが渾然一体となって胸にかむさってきた。過ぎ行くもの、流れ行くものに、何かとどめをささねばならないようなもの思いにふけりながらついていつた。二人はただ黙って、大きな桜の木の下に佇んだ。
 ふいに眼前の背中に孤愁を覚えた。奥様を亡くされ、一人暮らしをされている背中は、不幸ではないことを自覚している倖せというものが滲み出ていた。今はもう八十何歳であろうか、その方の過去が栄光に彩られたものであったことを仄聞している。男性の胸に去来した思いはどのようなものであったろうか。探るべくもないが、振り返った眼がなつかしかった。ゆるい坂道をもう一度来たように引き返して駅につくと軽く礼をして別れた。
 灯のともる頃の感傷が、桜の散る頃の感傷と重なった、数年前の静謐の時間を忘れることは出来ない。今思えば、白雄の一句の世界を私なりの世界に再現してみたかのようないっときだった。
 どう幸せに生きたとしても、どう苦しみぬいたとしても一人に一回きりの人生はたそがれる。やがて真っ暗闇となる。あるがままの現在を惜しまずして何があるだろう。その日たしかにそう認識したらしい。

  くらき夜はくらきかぎりの寒哉   白雄

 この句の実感を得たのもその後のことである。

 掲句は、二百数十年も前の作品であるが、市井に生きた人間の視点が、そのまま今を生きる人問の視点となって切実に蘇ってくる。
 「姿を先に情を後にすといふも初学の事也。情を先に姿を後にすといふはもつともいはれなき事也。姿情は天地のごとし。姿情の論にまどはず、例のよく万物に応ずる事をおもふべし」
まこと、「よく万物に応ずる」一句となっている。
 人間が感じるように花も感じる心をもっている。人間が花を美しい、いとしいと感じることによって花はいっそう美しくなる。ものを写し取るということは、感じるこころの往還である。物恋しいのは、作者、人間自身でありながら、さくら自身でもある。灯ともしころを散りゆく桜は、ふっくらと香気を放っている。まるで意思をもってこの世を別れてゆくかのように。
 白雄の死に際し、親交のあった榎本星布の嘆きは尋常ではなかった。
  
   白雄翁のなつかしき此の夜
  長き夜や思ひあまりし泣寝入り   星布

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(平成15年1月1日発行・「晨」第113号p59所収)
by masakokusa | 2007-01-03 17:16 | 俳論・鑑賞(1) | Comments(0)
晨集散策・俳句鑑賞        草深昌子
          愛欲生死


  初空の下に愛欲生死あり    大峯あきら

 どーんと胸に響いた二〇〇二年一月号晨集第一頁の一句。あらゆる俳句を包括するようなスケールの大きさに思わず額ずいてしまった。まことの「愛欲生死」とは如何なるものや。図書館に出向いたり、歎異抄を読み直したりしていた。  
 折しも一月十七日。阪神大震災で子を亡くした一家が放映された。母親は、生き残った双子のもう一人の女の子に芯から愛情を注ぐことが出来なかった。死んだ子が一歳のまま成長しないことがつらかったのだ。亡き子のために何か残したい母親と、静かに心に抱いていこうという父親と、亀裂が生じた。
 夫は、生きてある妻も娘も護っていかなければならないことに苦悩した。やがて夫は妻のために、亡き子のホームページを作り、同じ悲しみを持つ人々に癒されるようになった。母娘に笑顔が戻った旧臘のクリスマス、七年ぶりに封じ込めてあったおもちゃのピアノを取り出した。当時赤ちゃんだった二人が揃って平手で鳴らしていた音は、女の子の指でもって愛らしいメロデイーを奏でた。音はそのままなのに、それだけの歳月が経っていたのである。ひしと子を抱きしめる妻……夫は泪した。  
 ああ、「愛欲生死あり!」、この世に生きる意義がそこにあるのだと、ふいに実感されて涙が零れてやまなかった。
 作者の句に、〈人は死に竹は皮脱ぐまひるかな〉、また、〈国境の冬日まいにち沈みけり〉がある。これらは、人は生き、冬日まいにち昇りけり、を暗示している。愛欲生死は流転する。
 一年、三百六十五日が過ぎて、いま一切合切の我執を放棄して、まっさらな天空を仰ぐ。初御空は原初のいろを湛えて、人間界ヘエールを送ってくれる。
 高僧であられる俳人大峯あきら先生ならではの十七音に、生きてここにあることを認識し、感謝し、勇気付けられた。

  殺戮は遠くまんさくもみぢかな    岩城 久治

 まんさくもみぢは、鮮やかにして哀切である.
一句は、今は亡き歌人上田三四二の声を髣髴させる。
・・・閑居の無事に居る私に出来ることといえば「ほら、みづひきが咲きましたよ」、
 この声を、殺と争へのきよめとして世間に送りつづけること、この一事である。・・・

  母亡くて裏山に降る木の実かな    山本洋子

 母の死に対して何も言わない。ただ黙って、全霊をこめて「裏山に降る木の実」を呈示しただけである。わかってもらおうと思わない句が、万人の胸に届く句になる。
〈母が家は初松籟のあるところ 洋子〉、ご母堂は、作者のみならず読者の胸に清らかに生き続けてくださるであろう。

 (平成14年3月1日発行・「晨」第108号p57所収)
by masakokusa | 2007-01-03 15:42 | 俳論・鑑賞(1) | Comments(0)
私の愛する二十世紀の俳人 ~ 芝不器男・俳句鑑賞           草深昌子

  
  永き日のにはとり柵を越えにけり     芝 不器男

 鶏が柵を越えたというだけである。その徒事の、何とただ事でないことか。
 「にはとり柵を越えにけり」という小事象でもって、俄かに「永き日」たる詩的空間がリアルに、スケール豊かに現出したのである。又、切れ字「けり」は、騎蕩たる気分を余情たっぷりに伝えてくれる。存在を存在たらしめるのが言葉の力であることを、教えられる一句である。
 のっぺらぼうの時空を一閃のうちに切り取って、その断面をまざと映像化して見せたのは、写生の目の確かさに加え、弛み無い生への思索がもたらしたものであろう。
 何かに倦んだとき、掲句を口誦すると、ふと光芒の差し込む思いがしないだろうか。小さないのちの所作が、まるで天空へ突破口を開かんとした意識的なもののようにも感じられるのである。力限りの跳躍は、切なくも鮮やかにまなうらに残る。
 昭和のはじめ、俳句界に彗星のごとく現れた不器男は、二十六歳にして彼方へ逝ってしまった。

  卒業の兄と来てゐる堤かな
  あなたなる夜雨の葛のあなたかな
  野分してしづかにも熱いでにけり


 どの句も読後にしんと美しい時間がある。ときに、たまらなく人懐かしくなる。不器男の抒情は、永遠に清冽である。

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(平成13年5月1日発行・「晨」第103号p56所収)
by masakokusa | 2007-01-03 15:01 | 俳論・鑑賞(1) | Comments(0)
現代の俳人・私の一句                草深昌子

     水替の鯉を盥に山桜     茨木和生
 
  鯉は、暫時の水にすっと身をひきしめたであろうか。ひそやかな姿が鮮明に透き通って見える。やがて新しい水に放たれ、新天地にその命を謳歌するのであろう。
  山桜は生きとし生けるものに永遠の微笑を投げかけているようだ。「水替の鯉を盥に」と「山桜」の照応がすばらしい。
 人の世の営みは自然の恩寵によって輝くことができるが、自然の風光も人を容れて輝きを増すように思われる。
 透明な色彩感を湛えた一句から、「自然」とは人問をふくめ山川、草木、動物など天地間の万物共生をさす意味であることをあらためて思い起こされるのである。
 体当たりで季語の本意、本情を引き出される作家であるが、さんざん歩き回ってふと立ち止まった息づかいには静けさが漂っている。眼光の鋭さのゆきつくところに潜んでいるのは命をいとおしむやさしさであろう。茨木和生氏の俳句は、どれも、古典的でなお現代的なまなざしがゆきわたっている。
 去る四月二十二日の明け方、東吉野村の天好園で、図らずも掲句の句碑に出会った。折しもさくらは満開。あたりは一句の情景そのままに、静謐な明るさに包まれていた。朝日がほんのりと身に染みわたって、至福のひとときだった。新たに俳句の道を辿りはじめた私にとって、洗心の出会いの一句となった。

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(平成12年7月1日発行・「晨」第98号 p54所収)
by masakokusa | 2007-01-03 14:24 | 俳論・鑑賞(1) | Comments(0)
ひらかずに傘持ち歸る~北野高校からの出発・田中裕明小論    草深昌子
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     紫雲英草まるく敷きつめ子が二人
    今年竹指につめたし雲流る
    菜の花や河原に足のやはらかき
    梅雨に入り藤棚の下人もなく


 田中裕明の処女句集『山信』の冒頭四句である。まるく、つめたし、やはらかき、人もなく、これらの主調が生涯の作品に貫くものであることに不思議を覚える。

 『山信』(昭和五十四年刊行)は、十八歳から二十歳までの百句を自ら筆写した十部限定の私家版であったが、師の波多野爽波をして、自身の若書きに比して「勝負あった」の一言に尽きると言わしめたほどのものである。
 裕明は、大阪府立の名門である北野高校の時代、短詩型同人誌「獏」に参加の後、昭和五十二年、三年生になって波多野爽波主宰の「青」に入会した。「青」の学生メンバーによる「がきの会」は、島田牙城を発行人として同年九月季刊誌「東雲」を創刊している。図らずも、「東雲」を五号まで、連衆の方から拝借することが出来たことを契機に学生俳人裕明の俳句をたどってみたい。
 創刊号はてのひら大のガリ版刷りであったが、二号からは、タイプオフセットA5版となった。平均年齢十八歳全国一若い結社の誌代は三百円(高校生は半額)であった。高校生裕明は、第一次石油ショック後漸く落ち着いた高度成長下にあって、素うどん一杯分ほどの誌代を払って実作に打ち込んでいたのである。

  菜の花や河原に足のやはらかき
  水眼鏡とらず少年走り去る
  放たれし犬の速さの枯野かな


 手元の「東雲」では、〈菜の花や河原の足にやはらかき〉、〈水眼鏡とらず少年走り来る〉、〈放たれた犬の速さの枯野かな〉、であった。『山信』への登載にあたり推敲されたのはこの三句だけである。俳句は助詞の一字で印象が一変すること、俳句は平面でなく奥行きがほしいこと等、すでに俳句の基本を知悉している。そして、「詩の中心を言葉で射抜く」と言った裕明の詩情は青春そのものであった。

  炎天下起重機少し傾いて

 掲句に対して、上野一孝(裕明より一年上、当時東大生)が、問題提起をしている。「炎天下」では読者の視線は始めから下を向いている、「炎天や」で上を向かせてそれからドスンと傾くに視線を一気に落すのはどうか、「傾いて」も口語で音便形を採るより「傾きて」と音の硬さをそのままにしておいたほうがいいのではないか、と。早速『山信』を確かめたが、この批評を容れての変更はなかった。
 ここに裕明の周到の句作りと、誰よりも自らに問い掛ける姿勢がよく現れている。俳句に、少しでも裕明らしくないポーズが入るのを嫌ったのであろう。「炎天下」は炎天に密着した、炎天に抗しきれない起重機がイメージされ、対象への愛憐さえ感じさせるものがある。尚、上野一孝は、再考を促した後、「掲出句の方がいいというなら文句はない」と述べている。学生同士の研鑚の場は爽やかである。

 裕明による会員作品評もある。「批評を依頼されるとは何たる身の不運」にはじまって、筆致はすこぶる伸びやかで、的確さには舌を巻くばかり。
 「〈神主は藁屋に住まふ薺かな〉、〈寺の庭蛇口が硬し初桜〉、この二句、上十二と下五の結びつきが勝負。いや結びついてしまっては負けになってしまいます。所謂、季語を大切にする勉強とは、このあたりの事だと思います。二句とも成功していると思いますが、寺の庭の方は、上五中七下五とぶちぶちっと切れてしまっているような感じがします」
 大勢の作品を批評した後は、「読み返してみると、日頃の選句の下手さがそのまま出ています。誉めてあるのも、けなしてあるのもあまり気にしないで下さい。結局自分の句を方向づけるのは自分なんですから。」と締めくくる。
 この文章はそのまま当時の裕明の作句姿勢を語っているといえよう。

  口笛や沈む木に蝌蚪のりてゐし
  えんどうや網戸が水に浸りをり
  水澄むや梯子の影が草の中


 「や」を媒介にして、イメージの繋ぎ合わせに成功している。裕明は現実から詩の断片を絶えずゲットしている。それらは季語と輻輳してジグソーパズルめくのだが、はぐれた一片がピシッとはまり込んだ瞬時にある物語的な世界、無心の世界を垣間見てほほえむのであろう。意味のない世界の心地よさといったものが伝わってくる。
 一生が長くあれ短くあれ、自分の仕事をきっちりと仕上げた作家はスタートから違うのだった。自分にあるものを自分の言葉で書く、この態度こそが生き方として追求するものであった。俳句に対する謙虚と自負がこの時期すでに定まっていることは驚きである。
 後年の句である〈萬人の好む句いらず朴の花〉に通じるものである。朴の花は下から見ても広葉にさえぎられてよく見えない、だが高みに上って見えるべきところに出ると初めて大輪の花が見える。朴の花は清浄感そのものである。

  末枯に屈みゐる人大きな穴
  試験場裏の窓より冬の墓地
  冬ばらや荷の鉄材を投げあげる


 三句とも、受験勉強も追い込み中の心境が窺われる。
 二句目、生きて今ある風景に遠からずある死後の風景。後年の〈生年と歿年の閒露けしや〉という抽象画の下地になるようなスケッチである。
 三句目、たとえば〈冬薔薇石の天使に石の羽根 草田男〉のピタッと決まった句と比べてどうであろう。裕明の方は冬ばらでなくてもよさそうな雰囲気を漂わせながら、やはり冬薔薇ならではの戦ぎが見えてくる。ここにも裕明その人がいるというほかない。どの句も、理屈なしに信じた構図はすばやく言葉にのせるのが裕明のリリシズムである。

  ひらかずに傘持ち歸る花あやめ
  朝顔やよべは裸で寝てしまひ
  この橋は父が作りし蝉しぐれ
  泳ぎ女のすぐに上がりし芋の秋
  寢かせある根釣の竿を跨ぎけり
  ラグビーの選手あつまる櫻の木


 昭和五十三年、京都大学工学部電気系学科に入学した。真空管がトランジスタに代わって、ミクロンやナノ単位の微小世界を追求するようになっていた当時、この研究分野は工学部の中でも最難関の花形学科ではなかったろうか。理数系出身が俳句に傑出するのはよくあることであるが、観察眼の鋭さに加え、理数系であるがゆえに尚更理屈で割り切れないこの世の真理を信じている人なのであろう。
 掲句のどれも、息遣いや体温が季題に溶け込んでみずみずしい。私など、俳句は瞬時の断面をみせるものという初学の教えに執着して、未だに、時間や空間さえもひろげて見せるという芸には難航するばかりであるが、裕明はそんなセオリーにこだわることなく、悠悠迫らぬリズムをもって描ききる。絵画にも音楽にも置き換えられない「ことば」による芸術とはこういうものであろう。
 一句目、〈ひらかずに傘持ち歸る〉はいやがうえにも花あやめを浮かび上がらせる。俳句自体は堂々たるものでありながら、一歩引いた物言いにこそ情趣の深さがしのばれるのである。〈忍ぶれど色に出でにけりわが恋は物や思ふと人の問ふまで 平兼盛〉、の如きふところ深い息遣いが現代青年のものであったことにためいきが洩れるほどである。
 二句目、『山信』には登載されなかったが好きな句である。「よべ」の巧みさ「裸」の美しさ。深い闇を湛えながら、今し、ひやっとした清涼を感じさせてくれる。青年は朝顔になりきっている、若気の至りという俳句ではない。かにかくに裕明の俳句はなべて垢にまみれなかった。どこかしらはにかんだユーモアと共に明瞭簡潔であった。

 思い出されるのは「守破離」という言葉である。人間が成長していく上での基本的態度として初めは師匠の教えや価値観を頑なに「守り」、やがてその教えを少し「破り」、最後は自分の型を目指して師匠から「離れ」ていく。創作するものの王道である。花あやめの存在感は、そんなオリジナリティーへの萌芽のようでもある。
 やがて裕明は京大を卒業したばかりの昭和五十七年、最年少で角川俳句賞を受賞する。受賞時の感想を述べた「夜の形式」の次の言葉は忘れることができない。
 「(前略)芸術における形式と内容について思いをこらしていたある夜に、ふと夜の形式という言葉が浮かんでしばらくの間頭を離れなかった。(中略)夜は次第に明けてゆくのだけれども、時間がそちらの方向にだけ流れていると思うのはおかしなことで、今日見た朝の空と昔見た空が寸分かわらぬ顔をしているのは時間が逆流していることの証にほかならない。こう言えば夜の形式というのはかなり複雑なもので、それは時間と非常にふかい関わりをもっている。(後略)ほんとうにずいぶん前にも考えていたことなのだが、いま手にしているのは夜の形式ではないようだ」
 その思考や精神をおもんばかるに、早熟な裕明はすでに「離」の段階に達している気配である。裕明の最後の句集名が『夜の客人』であったことを思うと胸が詰まるようである。ついには夜の形式を手にしたというのであろうか。詩人はスタートから運命的な死を意識するのであろうか。裕明は今も、あの漆黒の眼をくるくる回しながら「夜の形式」と「昼の形式」を眠れぬまま思いをこらしているだろう。いつか逆流して帰ってくるように思われてならない。

  大學も葵祭のきのふけふ

 昭和五十四年、二十歳の句である。葵祭ならでは絢爛たる若葉の季節に照応して「大学」はいっそう清新である。「も」は荘厳におさえて華麗にくりひろげる要の一字である。「きのふけふ」、その解き放ったような時間の表出にも一流の風格がただよう。京都の大学生はアルバイトとしてこぞって祭りに参加する。古式ゆかしい装束にこめてたっぷり京都を体得した感性は、その後の裕明俳句の京風を交響させてやまない。

  春暁のダイヤモンドでも落ちてをらぬか 爽波

 爽波三十歳の句は、ダンディーな軽みと諧謔が東京風である。爽波から裕明流へ「離」たらんと勉学にいそしんだ裕明の品性の句といかにも対照的で楽しい。

 裕明の詠う対象がいついかなるときも〈ひらかずに傘持ち歸る〉如く、一身にあたたかく包み込むものであったことに思いをいたす時、一続きの一つの生きた命が発した言葉に生涯一貫するものがあることには何の不思議もない。

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  (2007年1月5日発行・「ににん」第25号「ににん六周年記念特集」 p36~39所収
   文頭写真は平成16年6月27日「晨」20周年記念大会に於ける田中裕明)
by masakokusa | 2007-01-01 09:54 | 俳論・鑑賞(1) | Comments(0)
新刊書鑑賞・小堀紀子句集『夏木立』      草深昌子
      
     夏木立の彼方へ


 小堀さんの俳句は、まこと軽快で、ウイットに富んでいる。
  
  でで虫に後姿といふがあり
  頸の下隠さうべしや羽抜鶏
  さへづりや鵯は蜜吸ふばかりにて
  ふくろふの番いつまで横並び
 

小さな生き物が人間と寸分変わらぬおかしさやいたいけさにあふれていて、何やら原初的ななつかしさを覚えてしまうほど。

  十漕げば十若返る半仙戯
 
半仙戯という字面が一句の妙である。不老不死なる仙人を思わせながら、さっそうと身をよじらせる濁世のブランコが楽しい。

  押し込めしからだいきいき裘
 
まさに皮肉である。皮肉とは、遠まわしに意地悪をいうのではない。文字通り皮と肉である。からだである。はちきれそうな命を寿いでいる。寿ぐといえば、
  
  やれはすが見え媒酌人控室 

 寿ぐべき場に破蓮なんて、そんなものが見えていいのかと思うけれど見えたのだから仕方ない。言うべきことは言っちゃう、奥歯にもののはさまった言い方はしない。
 この世の皮肉を超然と詠いあげて物怖じをしないのが紀子さんの真骨頂のようである。

 一方、超然たる思いの中にひそかにひそむ暖かな情感がもたらした佳句も多い。
   
  梅園や石を噛ませて乳母車
 
 「噛ませて」という語勢が一句を引き締めている。赤子にも、梅の花にもかよう寒気のいのちを「噛ませて」いるのである。
  
  赤ん坊は赤ん坊が好き春の雲
 
 まだ声を発しない赤ん坊同志が全身で交信している。イナイイナイバー、なんて賑やかしはいらない。青空には静かにもおおどかな雲が流れているばかり。
夕すげや子はすこしだけ親おもふ
 吉田松陰の「親思ふ心にまさる親心」をふとよぎらせながら、暮れかたに灯のともったような色調は救われるように明るい。
 
  すぐ帰れさうな姨捨山草茂る
  香水やなかなか死なぬ殺しの場
  山紫水明にしてこの蝿叩 
  八十のひとに老後や葛の花

 
 紀子さんの心情の洩らしかたは、ドラマチックでありながら、至って自然でもある。あたかも季題そのものが語っているような曰く言いがたい趣きを浮かべて比類がない。     
 これら一気貫通の俳句は、まこと「腹の据わった」凄みに違いない。だが、その凄みが凄みとも知れぬまでに透き通ったものへ浄化されてほしいと祈るばかりである。

  巫女が行き花嫁が行く夏木立 

 一集のタイトルを得た一句である。夏の木立をよぎる白装束そして白無垢、そこには強靭な丹の色も鮮やかに浮き立ってくる。
 生気盛んに、尚且つ静けさのそよぎにある『夏木立』の一巻は、小堀紀子さんその人の世界を明らかに見せている。

 (平成18年7月号「晨」第134号・p77所収)
by masakokusa | 2006-12-11 10:37 | 俳論・鑑賞(1) | Comments(0)
今、同人誌とは   ににん五周年特集          草深昌子  
                   
   平行線の交り

  お前と俺、俺とお前、
  めぐり逢ひの秘密、戀の反律。―中略―
  不思議ぢゃないか平行線の交り、
  これが偶然性、―後略―
   (九鬼周造著「巴里心景」より)

 この「不思議ぢゃないか平行線の交り」というのが、まさしく「晨」の性質ではないかと、大峯あきら代表がかつて引用された詩の一節である。「晨」は大方が結社に所属する人々が集まり、結社でない一つの組織になっているもの、つまり同人誌である。
 「晨」の創刊は、昭和五十九年五月のことである。創刊号は、梅原猛氏と大峯あきら氏の濃密な対談に頁を費やしている。詩と哲学について世界的規模で論じながら、ついには「俳句は自我の詩ではなく、存在の詩である」という大峯あきら氏の発言に至ると、梅原猛氏が「これはすばらしい第二芸術論以来の大理論やで」、と驚嘆されるところで終っている。この対談そのものが創刊にあたっての言挙げといえるのだろう。
 爾来、俳句を俳句の世界だけでなく、短歌、詩、西洋、東洋、古代、近世の詩歌などを多角的かつ包容的に見わたして、俳句を見つめ直すという姿勢を通している。
 今年二十一年を迎えた「晨」の同人数は一七七名、創刊時の二・五倍に増えている。
 さて、「晨」に所属している私自身にとって、大きな魅力は次の三点に要約できる。
第一に、雑詠選があること。俳句の冥利は、尊敬する師、尊敬する作家に選を仰ぐことに尽きるのではないだろうか。もちろん、選を受けるのは任意である。雑詠選があれば、同人誌と見なさないという意見もあるが、「晨」の雑詠選は結社のそれと趣を異にしている。
 「晨」の雑詠選は創刊時より共選である。当時、同人誌の発足自体がユニークであったが、雑詠欄を持つ同人誌は初めてで、すぐれた作家三氏による共選が、何より俳壇の大きな話題となり、高い評価を得ている。現在もそのスタイルは変わらない。共選は、主宰という一人の絶対的な権威につくものではなく、選者の責任をより明確にする面もある。
 選者の一人、大峯あきら氏はこう語られたことがある。
 「『晨』は結社を横断するというか、結社とは別の原理を作りたいというものであった。タテとヨコとがうまく調和して働くなら、作家としての向上にプラスするところがあるのではないか。俳句入門の頃は、結社の先生が一番偉いと思って勉強する、しかし、それだけでは吸収され尽くせないところがある。それは先生との関係ではなくて、美の女神との関係。美の女神の前では先生であろうが弟子であろうがまったく平等、今俳句をつくっている人達は、美の女神の法廷で裁かれるのだという気持ちを持ちたい」、と。
 第二に、同人相互の選句、鑑賞、批評、論評が活発であること。さきの同人総会では、選者二名を選び交替制で題詠選をする、代表もまた選を受けるという提案が決議された。俳句という詩型は、ことさら鑑賞があって実作が成り立つ。誰かがこれよしとしなければ俳句は残らない、俳句がいきいきとしない。誰がなんと言おうと私は私、私はこれでいくのよ、という姿勢は俳句的ではない。俳句に自負は欠かせないが、同時に謙虚でなければならない。その上で俳句は自得の文芸であると言いきれるもの。評論もまた観念でなく作品を正しく評価するところから出発するものであろう。単なる俳句の発表機関でないことを同人誌は身をもって体験させてくれる。
 第三に、交流の気持ちよさである。ピラミッド型の権威に従うものでなく、義理人情の親睦でもない。円陣を組む、円座にいるという感覚が清々しい。誰からも平等に見える同じ地平に、代表も編集長も淡々と存在しておられる。「俳句は存在の詩」であるという信念に裏打ちされたリーダーシップはおのずから強力である。
 歴史ある同人誌を紹介したが、ふりかえって「ににん」もまた、同人誌の理念にそって、小人数ならではの試みに満ち、着実に号を重ねている。
 俳句の実作と鑑賞、この二本の柱にもっと真剣にもっと能動的に拘わっていくことによって、はるかな道のりも地道に燃え続けることができるに違いない。同人誌とは何かを問いながら、私自身への解答が出た思いである。そう、同人誌とは「燃え尽きたら終り」、なのである。
 「ににん」は今年五周年を迎えた。「五年にして一語を得たり、曰く『誠』なり」の感ひとしおである。これは、過日繙いた中国名言録ででくわした箴言であるが、つくづく、この名言どおりであったと思わせる「ににん」の戦うリーダー、戦う連衆に感謝の念を禁じ得ない。

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 (2005年10月1日発行・「ににん」第20号p32所収)
by masakokusa | 2006-12-11 10:33 | 俳論・鑑賞(1) | Comments(0)
宇佐美魚目俳句鑑賞                草深 昌子
     
     なつかしき戸障子


  力いる板戸伊吹は氷りをり

 『天地存問』(昭和五十一年)所収。伊吹というと、「伊吹もぐさ」がなつかしい。よく灸をすえていた祖父母の在所は大津であったから、私にとって、イブキには慈しみの深いはるかな空間というひびきがある。
 掲句の伊吹は、省略の切れ目が大きく男性的である。県下最高峰の伊吹山から吹き降ろす寒風は伊吹颪といわれるほどに、麓にいても滅法寒い。ここで板戸がスムーズにがらがらと開いたら様にならない。力いる板戸は、伊吹の風土を遺憾なく読者に訴える。
 「力いる」、たったこの五音が光景であり、情趣であり、心象であり、どこまでも俳句を味わっていたいという余韻である。いつしか作者が消えて、現場に力んで立っているのは読者のほうである。

  戸から思い浮かぶ魚目氏の句がある。

  重き戸に眉つり上げて秋湯治

 この句は、私の初学の頃、昭和五十五年『雲母』誌上にお目にかかった。日常にもあり得る所作が、秋湯治の季語によって、にわかに情趣ゆたかな表情にとってかわることに驚いた。俳句の描写について初心なりに考えさせられたことで忘れられない句である。
 執筆の神尾久美子氏は、同時発表の、〈寒(さむ)といふ柳の眉の消ゆるほど〉と比べて、どちらも女の柳眉を詠ったものであるが、掲句の方の演技なしの柳眉に、より艶冶なものを感じるとしている。
 そう言えば、わが初学の師、植村通草先生(飯田蛇笏の高弟)は、たれかれの句に、「あっそう。それがどうしたの」と、語気強く返されることが多かった。「俳句には芸がなければならない」が師の持論であったから、芸のない俳句には、それこそ柳眉をつりあげられたのであろう。
 芸とは何ぞや、悶々としていると、時を置かず、また魚目俳句が『雲母』誌上に掲載される。

  水掃くや鳥の渡りを天上に

 掃くというからには箒を使う、埃も舞い立つであろう。だが、水を掃くとなると、埃どころか、清めるという感覚。日常を一寸(いっすん)浮き上がって、潔斎の気がただよう。水の一文字が一句全体に透明感と品位をもたらすという芸にほかならない。芸とはもとより細部の技巧のことではない。芸を磨くということは、作者自身の日常のありようを磨かねばならないことだと気付かされる。
 丸山哲郎氏は、〈東大寺湯屋の空ゆく落花かな〉〈山吹の風吹き入りて能衣装〉とともに、ものの材質描写への肉迫や、飛翔感の把握への努力を称え、太い伝統性の支柱は、書家としての営為行動とも無縁でないように思われると述べている。
 その書家ならではの次の一句は軽妙である。

  顔に墨つけて洋々日永の子

 顔に墨つけて、日永の子、で十分に見える。だが、「洋々」の二文字を挟み込むところが魚目氏の面目である。「天地存問」のあらわれである。
ところで、この『天地存問』(第三句集)に見出される、大気をつかんでかたまりにしてみせたかのような趣はどうであろう。

  白昼を能見て過す蓬かな
  冷えといふまつはるものをかたつむり
  青き葉も落ちくる不思議月のあと

 
 これらの、えも言われぬ雰囲気を鑑賞の言葉にかえるすべを知らない。ひとりで黙って味わうことのできる俳句が俳句であって、十七音がすべて、一句の世界がすべてである。
 めりはりの利いた表現ながら、なめらかな情感。まさしく書家の草書である。名ピアニストの音色である。そう言えばピアニストの珠をころがすような打鍵にうっとりしたあとで、その研鑚の指から血のにじみ出た話を聞いたことがる。一見なにげない風韻をかもし出すために払われた労力はいかばかりであろうか。
 労力、つまり、深い思いの恩寵をもって、読者は涼やかな美しい境地にあそばせてもらえる。
長く鑑賞に耐える作品はただのつぶやきではない。俳句構造への省察が徹底している。諷詠のおもむくままにして、かもし出される風合いの不思議さ。その息遣いこそが、「芸」という頼もしい力であろう。

 あらためて冒頭の掲句をかえりみるとき、板戸をガシッと曳いて、天地存問の躍動を目の当たりにするのは、やはり俳人宇佐美魚目の風貌をおいてほかにはないような思いがする。

  戸障子を美しく住み夏の雲

 『天地存問』(昭和五十年)所収。掲句の季語を、春の雲、秋の雲、寒の雲、等と置き換えてみるまでもなく、夏の雲に対する作者の絶大の信頼が読み取れる。「戸障子を美しく住み」は、概念では、もっとも夏の雲にツカナイであろう。ここにも徹底した審美眼がうかがわれる。
 戸障子の開放的な明るさのかげに、細部にゆきわたった心遣いを作者は見逃さないのである。美というものは唐突に現出するものでない。目を凝らして戸障子の発する声をききとめるのが、画家であり、書家であり、詩人である。そして俳人である。俳人は言葉でもって、その美の発見を映像化して見せる。人の暮らしがあって、自然がかがやく。自然のかがやきがあって人の暮らしが彩られ、慰められる。自然と人間の調和した世界。平明なことばを用いて自然の輪郭、こころの輪郭をくっきりと浮き彫りにしてゐる。
 ある年の夏、俳句のご縁で、東吉野の大きな民家に宿泊させていただいたことがある。蔵の前には杉襖が聳え立ち、土間を裏へ抜けると崖が迫っていた。「傘を差したほどの空ですわ」と物静かに女主人が言われたが、まさしく深空というほかない真っ青な空が高く存在していた。「お姑さんのおかげで今日の私があると思います」と慎ましやかに語られた方のねんごろなお  もてなしは、身にしみて忘れられないものになっている。真実のことばは誰もがたわやすく口に出来ることではない。そう発せられたことばは、子々孫々に功徳をもたらすものであろう。
 こんな思い出そのままに、一句は一幅の絵になっている。白を極めた夏雲に戸障子はしんかんと照応する。人々の立ち居振る舞いの清浄さ、伝統を受け継いでゆこうとする厳粛さ、そんな日々の暮らしを象徴している戸障子だからである。
 ふと、石鼎の句がよぎった。
  
  美しき空と思ひぬ夏もまた  石鼎

 (2005年8月1日発行「宇佐美魚目傘寿記念文集」・p109所収)
by masakokusa | 2006-12-11 10:26 | 俳論・鑑賞(1) | Comments(0)