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句句燦燦 (第八回)         草深昌子

     「指」

 「月を指せば指を認む」ということわざがある。
 月を指で指し示して教えると、その月を見ないで指の方を見る。つまり、物事の筋道を説明しても、その文字や言葉にこだわって、肝心な点をいっこうに理解しないことのたとえである。
 このことわざではないが、今回は「指」がテーマということで、指にとらわれて、一句の雰囲気や主題を見失しなうことをおそれつつ、「指」を認めさせていただきたい。

  春昼の指とどまれば琴も止む    野澤節子
  さよならと梅雨の車窓に指で書く  長谷川素逝

  雪の日の浴身一指一趾愛し     橋本多佳子
  指入れて齢の沁みる山泉       秋元不死男

  噴水や戦後の男指やさし        寺田京子
  はつなつのひとさしゆびをもちゐんか 三橋敏雄

  
 覚えある句を思いつくまま一対にして比べてみると、すでに、男らしさ、女らしさが感じられる。あるいは、男女の観点の違いと言った方がいいのかもしれないが、指にあらわれる性差を考えさせられた。  
 そこで、現代の指もまた、女性作家、男性作家の句を、交互に味わってみたい。

  わが十指われにかしづく寒の入    岡本眸
 
 米を研ぐ、雑巾を絞る、そんな水仕事を一つ一つ丁寧にこなしてゆく日常がなければ、このような指の真実は詠えないだろう。かしづくは、寒の入りと切実にかかわっている。
氏のかつて書かれた言葉を今もよく反芻する。
「俳句で忙しいというのは恥ずかしい」
「俳句には、どこかに救いが欲しい」

  ゆびきりの指が落ちてる春の空   坪内捻典
 
えっ、指が?思わず足留め。小休止あって、見上げれば真青な春の空、なーんだ、うふふふふ、である。指切りげんまん指切った!、
 シャレではないが、まこと切れ味がいい。
〈悔恨という語のあたり春の雪 捻典〉 
 春の空は一転、滋味ある雪を降らすことも。

  月光の指より洩れ出づる悩み   櫂 未知子
 
 韻律が魔訶悩ましく、破調が憂愁を奏でる。だが、あくまで潔癖である。指は作者の内面を象徴しているのであろうが、むしろ一句は作者から突き放された一個のかたまりのように存在している。それは、月そのもののやるせなさを発光している。
 「指もろともに月を見よ」と言いたい。

  ハープよりこぼれし指の冷じき  四ツ谷龍 

 瞬息にも、一句からハープの、高雅な音色を聴きとめない人はいないだろう。むろん、こぼれし音の冷まじき、とは言っていない。指の一語こそが詩眼であろうか。凄烈な演奏家の様相も想像されて、その余韻はしんかんとして、美しい。

  手袋の五指恍惚と広げおく    対馬康子
 
 さっきまで己と一体であった手袋を脱いだ。その残像を、客観的にうち眺めているまなざしが恍惚としている。五指ということばが挿入されて、手袋は生き物になった、あたりの空気まで描かれた。はっとするほどになまなましいが、恍惚は意思的でしなだれない。

  水飲んであしゆびひらく朧かな  小川軽舟 

 朧がいい、理屈抜きにいい。一読した瞬間に、男の立ち姿が際立って清潔に見えた。ああいいなあと感じ入った。この、輪郭がはっきり見えて感じるという感覚こそが、とりもなおさず朧夜の情感であろう。気持ちのよさが、読者に乗り移ってしまった。

  この指にとまれ夕日も綿虫も   大石悦子
 
 この指はまた透明感に溢れている。指が詩的な役割を果たしながら、ことさらに目立たないのは即興の韻律が美しいからであろう。読者は余情たっぷりに夕日の世界に浮遊させていただくばかり。ときに綿虫をクローズアップさせて。

  ゆびさきに移植うぐひすもちの皮 谷口智行 

 何と言っても移植がユニーク。だが、作者が医師であることを知ると、なるほどと思う。無意識に蔵していることばと、意識的に選択することばが、このようにぶつかると感触が生まれる。医師の眼と俳人の眼がぺったりくっついた一片の皮がやさしい。

  草紅葉大きな指を近づけて    石田郷子
 
 足下の千草の色づきに、立ち止まったよろこびをかくも素直に表出できるであろうか。作者の関心はむろん草紅葉にあるのだけれど、大きな指が頼もしくも嬉しい。にゅと突き出された指先は、可憐な草紅葉と磁石のように引き合って、その空間が澄んでいる。

  椿落つ指鉄砲で父撃てば     柳生正名

 指鉄砲とはいえ、屈折した少年の一撃は気迫のこもったものであったろう。音を立てて落ちる椿のつややかさ。その鮮烈な色彩は母を匂わせる。こんなほほえましい父子の相克があってこそ健やかな男子の成長があることを、落椿は物語っている。

  鱚ひらくことためらはず君が指  岩田由美 

 うるわしい指である。男らしい指である。釣ってきたばかりの鱚をひらく、その手際のよさがいかにも鱚という淡白な味の小さな魚にかなっている。読み下した語調にもためらいがない。初々しさが鱚の鮮度を高めている。
 壮健の指に乾杯、ご馳走さま・・。
 
  詩の神のやはらかな指秋の水   田中裕明 

 最後に・・いっそう美しい男の指。
 昨年、晨二十周年記念大会で、中上哲男さんの『エルビスが死んだ日の夜』という詩集を愛で、「ああ詩人になりたいなあ」と羨ましがったら、小学生のお嬢さんが「人生は一度きりだよ」とおっしゃったと、にこやかにご挨拶された。詩の神の指は、裕明氏その人のもの。永久に生きて、読者の胸を潤すであろう。
〈人生に小鳥来ることすくなしや  裕明〉
 
 (2005年4月1日発行「ににん」第18号p50所収)

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by masakokusa | 2006-12-04 09:25 | 句句燦燦 | Comments(0)
句句燦燦(第七回)         草深昌子

     「骨」 

 「ずいぶん一生懸命やっているようだが、ホネが折れるだろうね」
 「はい、二年前に骨折したんですけど・・」
 昭和天皇と柔道の金メダリスト山下泰裕選手の園遊会でのやりとり。
 そんな、なつかしい「骨」が今回のテーマ。
 「骨を埋むるも名を埋めず」、先ずは故人を偲びつつ、骨を拾わせていただいた。

 鉄骨といふは梅の枝を写す書法なり
  
  寒梅や火の迸るまがねより    与謝蕪村

 「蕪村全句集」所収。前書きの鉄骨は、建造物の鉄材を思わせて、万全の呼吸。

  白骨の手足が戦ぐ落葉季    三橋鷹女
 
 「白骨」所収。落葉は降る降る、かくも迅速の歳月。幻想的にして真に迫るわたくし。
最晩年に、〈枯木山枯木を折れば骨の匂ひ〉

  鮟鱇の骨まで凍ててぶちきらる  加藤楸邨
 
 「起伏」所収。ぶちきらる、このすさまじい気迫。骨のある句の標本の如し。

  老骨をばさと包むや革羽織  芥川竜之介
 
「我鬼窟句抄」所収。老骨は、革のマントを光らせる。何故か、竜之介の自画像めいて。

  蓮の骨日日夜夜に減りにけり  青木月斗 

 「時雨」所収。枯蓮のがくりと頭を垂れたところを撮って、「リストラ」と題して入選した人がいる。写真家はなお、茎の残骸すらとどめない景を狙うという。写真は生々しいが、俳句の表現世界は高貴な感覚が漂う。

  餅を焼く花鳥諷詠骨頂漢    山口青邨
 
 「花宰相」所収。表返し裏返しこんがり丁寧に焼く。餅を焼くにも一途の意地、気合。

  鶏頭の大頭蓋骨枯れにけり  野見山朱鳥 

 「曼珠沙華」所収。鶏頭はなかなかに考える植物である。頭の鉢の堅牢ぶりも枯れゆく。

  きさらぎの骨ぬくめをる風呂の中 飴山實
 
 「辛酉小雪」所収。何とも気持ちよい湯加減。体の芯まで透き通る心境であろう。

  河骨の花起き直るさでのあと  正岡子規
 
 越智二良著「子規歳時」六月四日に収載。子規二十八歳の折、従軍の帰途に喀血、一時は危篤に陥ったが、日を追って快方に向った。

  ちびた鐘のまわり跳ねては骨となる魚  赤尾兜子 

 「蛇」所収。禿びる、といえば、ちびた鉛筆、ちびた筆。だが掲句は何と、鐘である。ちびた鐘とは、思いも付かぬ虚無への発想。虚空を掴む魚のさまが、あはれでをかしい。

  鯛の骨たたみにひろふ夜寒かな 室生犀星

 「魚眠洞発句集」所収。明かりの畳に、ひやりと跣をとどめて、しみじみと美しい感触。

  欠伸して鳴る頬骨や秋の風   内田百閒
 
 岸本尚毅著「名句十二か月」より。沈思黙考の末の欠伸であろう、秋風の機微に鳴る。

 以上、伝統的な骨法、骨格を正した句、等など、俳句の核心は骨であると教えられる。では、現代俳句の骨組みはいかがであろうか。

  枝炭の骨の音して山あかり  大木あまり
 
 「雲の塔」所収。胡粉を塗った白い枝炭は、茶道に用いられる。漆黒の炭のなかに白いラインを引いたように細い枝炭を景色として添えるときの静寂。視覚的にも聴覚的にも、枯淡の境地である。

  凧の骨刺さりし春の渚かな   中村和弘 

 「蝋涙」所収。一巻の終わりとみえて、実は一巻の始まりが嬉しい。凧の骨に目覚めた砂浜のきらめきが限りなくひろがってゆく。

  骨の音からんと春のなかにゐる あざ蓉子
 
 「夢数へ」所収。国破れて山河在り・・茫然自失の感覚であろうか。つかみがたき春の風色そのものが骨の音をひびかせる。

  花に暮れて肩胛骨を動かしぬ  五島高資
 
 「雷光」所収。ケン・コウ・コツの韻律の作用が、えも言われぬ実感をもたらす。
堂々たる体躯のみずみずしい花疲れ。

  背骨よりずっしりと黒田掻牛  鷹羽狩行
 
 「平遠」所収。村上鬼城の〈生きかはり死にかはりして打つ田かな〉の農事をまるごと引き受けた、強情の剛堅の特牛(こっていうし)を活写する。一句そのものがずっしりと梃子でも動かぬさまにある。

  形代にうすうす骨の見え来たる 大木孝子
 
 俳句研究の「俳句手帖」より。作者独自の透視感覚だが、紛うことなく読者の目にも映し出されてくる。禊祓のまことが尊い。

  昼顔を吾が白骨の咲かすべし  和田耕三郎 

 「午餐」所収。昼顔に死の新生を託した。ふとした憩いを与えて負担を強いらない昼顔は、白地にほのと紅いろをさして蘇る。

  わが骨のありどをさぐり竹婦人 山上樹実雄 

 「四時抄」所収。痩身の男性に、竹婦人をどう宛がえれば、清々しくなるのであろうか。
〈天にあらば比翼の籠や竹夫人 蕪村〉も思われて、まこと竹婦人とは妙なるネーミング。

  骨細を知られてよりの秋の蛇  寺井谷子
 
 「街・物語」所収。腹部の鱗を起伏させながら体をくねらせて進む蛇。冬眠に入らんとする蛇は獲物を丸呑みにして、いっそうくねくねと、なにやら腰細の女身めく。掲句からあらためて夏の蛇は骨太の印象をもつ。

  かなかなが骨身に沁みてくる疲れ 植村通草 

 「粧」所収。理知的でいて、情感を忍ばせる。俳句初学の時代、骨身に沁みた句である。

  かりかりと猫が骨食ふ聖夜かな  金子敦
 
 「砂糖壺」所収。いかにもあり得る日常の光景が、聖夜かな、でもってかけがえのない詩的空間に生まれ変わった。

 骨の句を探していると、「駈け廻っている犬は何時かは骨を手に入れる」という英国の諺を、友人が教えてくれた。だが、図らずも遭遇した骨で、すでに紙面が切れてしまった。
 最後にそこらを駆けて掌中にした骨がある。

  陽炎の正体骨と見つけたり   八島静水 

 永田耕衣著「二句勘瓣」に収載。
 うらうらと立ち上る陽炎に潜んでいたのは、なんと骨であったのか、その骨を掴んで見せようといわんばかりの語調だ。陽炎は、はかなきもの、ほのかなるものの譬えでもある。そして骨は、現し世の人間が、生きて、死んで、焔をあげて、最後にしろじろと遺すもの。


 (2004年6月30日発行「ににん」第15号p42所収)
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by masakokusa | 2006-12-04 09:20 | 句句燦燦 | Comments(0)
句句燦燦 (第六回)          草深昌子

  掃きあつめ思はぬ嵩の桜蘂    棚山波朗 

 『料峭』所収。一読、こんもりと小高く積み重なった砂塵交じりの桜蕊がクローズアップされる。ただそれだけの景に読者はたちどまる。その映像の奥から浮かび上がってくるのは、爛漫と咲き、絢爛と散っていった桜花である。あわただしかった時の移ろいにふと息をもらした詠み手の情の静けさが、そっけなく突き放したような表現の中に図らずもうかがわれるのである。
 映画監督の小津安二郎は、土砂降りの雨を撮らないで、雨後の水溜りだけを提示したように覚えている。掲句もまたそのような芸を思わせる。
〈さくら咲くそこより朝の雨上がる〉
〈山上へせり上がりたる桜かな〉

  わらうて呑みこむ山盛り飯か夜櫻は   竹中宏
 
 『アナモルフオーズ』所収。天こ盛りの白いご飯は、桜の旺盛な生命力を暗示している。わらうて呑みこむのは死者なのか生者なのか、声なき笑いを響かせるパントマイムのようである。まさに喉が詰まりそうになって読み下すほかないのは、字余りを定型に押さえ込もうとする勢いでもある。その勢いが有無を言わせず一句を肯定させる。「か」は控えめにみえて断定をいざない、強迫する。夜桜の本態を暴いて見せたかのように。あらためて夜桜とは妖しい闇に満たされていると想う。
〈ものの裾ものの隅など櫻さく〉

  みどりごをたひらに抱けるさくらかな   きちせあや
 
 『消息』所収。まるで桜花の精のような新生の命のういういしさがゆきわたっていて一句そのものが発光している。息をするのもはばかれるような深閑たる清浄無垢の世界にただうっとりとひきこまれるばかりである。「たひらに抱ける」は、なにげない形象のようでいて内包するものが深い。
〈花守の白手袋に迎へられ〉
〈めいめいの膳に火を置くさくらかな〉
 作者の桜花には、敬虔な思いが自ずとにじみ出ている。

  身をかたくして長田区の桜さく  室生幸太郎 

 『夕景』所収。開巻劈頭〈皇国少年禿頭となり花に酔う〉に始まり、巻尾ちかくには、〈老年はばんざいが好き桜が好き〉を置く。
 掲句は思わず粛然と襟を正さずにはおれない桜の姿である。震災の一瞬に命を奪われた凄惨の長田区、そこにあっても、桜は確実にすきなく開く。あの世この世の境目を埋めるように。
〈さくら咲き死者の凹みのある布団〉

  今日といふたっぷりの時花巡る  木暮陶句郎
 
 『陶然』所収。とめどなく流れる時間の中に私たちは生きている。死んでいようと時は流れる。川の流れのように悠然と流れる時間の情景を見ることができるのは、桜のときをおいてほかにないようにおもう。花は咲きやがて花は散るというこの世の恒常性の中にあってたっぷりの時間を把握した羨ましいばかりの贅沢な一日である。
まさに、陶然たる心持であろう。
〈花茶屋の椅子温めてゐるばかり〉

  花筏深川めしといふがあり    平石和美 

 『桜炭』所収。作者は大阪の方だが、常住には表現し得ない東京下町の風情がやんわりと伝わってくる。あの浅蜊の剥き身を炊き込んだご飯の湯気は桜の花びらが川面に連鎖するころがもっともかぐわしい。隅田川沿いに芭蕉記念館がある。個人的な郷愁だが、ここには初学時代何年も月々通いつめた。句会のあと奥の細道を読む会、昏れてより深川めしで一献ありて席題など・・濃密な時間だった。
「深川めしといふがあり」、まことウマイ!

  水底のまづたそがるる桜狩    橋本榮治 

 『逆旅』所収。そういえば桜ほど自然体の花はないように思う。自己主張しない花だなあと思う。人は花に酔いしれるけれど、花そのものはいかにもさりげない。朝には朝のように咲き、夕べには夕べのように咲く。桜がそうあるのでなく、我々見る側が朝桜、夕桜と意識してみる、つまり人もまたうつろうのである。桜狩の今日一日、桜から見られている自分を感じつづけた作者ではないだろうか。
 ふとたそがれの視線を水底に落とした。その水底の透明感が切なきまでやさしい。
下五が桜かな、でなく桜狩であるところに感じ入った読み手の鑑賞である。
〈上座とも下座とも桜見ゆる席〉

  花筵をみなばかりにして平ら   茂惠一郎
 
 『雪座』所収。谷崎潤一郎の典雅な女の世界を垣間見ないでもないが、むしろ手近な花筵が印象されて親しみを覚える。下五の「して平ら」ととぼけたような切れが案外のおかしみをさそいだしているからであろう。「平ら」とは、高低のないさま、傾斜のないさま、凸凹のないさまである。かりに男ばかりだと平らにならないかというとそうでもない。「平ら」は言えるようで言えない視点である。作者の女に寄せる心遣いがどのようなものであるのかと関心を誘われるのは、つまりはこの花筵がどのようなものであるのかを想像しているのである。味わいのある句である。
〈人立てば人を巻き上げ花吹雪〉落花は、深山幽谷にかぎらないし、絢爛の傾城に限らない。その辺に立ち上がったその辺の人の所作にもきらめきを惜しまない美しさがあるのである。自然は人ともろともに輝くことを読み取る眼にはっとさせられる。

 座右にある句集を二読三読するうちに、いつしか桜の燦燦をいただいていた。
句集には、写実的であれ抽象的であれ、自然に順応して生きるしなやかな作者の命が横溢しているが、なかでも桂信子句集『草影』には格別の感慨がわきあがった。
〈一心に生きてさくらのころとなる〉
〈花のなか魂遊びはじめけり〉
 そこで、今まで生きた私の日数を数えたら二万余日、五弁の花びらを持つ桜の花にして四千余個分ほど。大樹の桜なら一木で足りる花びらの数に過ぎない。あと、数千日生きられたとしても花びらを両の手で掬い取ってはらはらと指の間からこぼしてみるとあっという間に終わってしまう日数ではある。
 ならば尚のこと、胸中の桜を大切にしたい。

  さまざまの事思ひ出す桜かな    芭蕉
       
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(2004年3月20日発行「ににん」第14号p30所収) 
by masakokusa | 2006-12-04 09:15 | 句句燦燦 | Comments(0)
句句燦燦 (第五回)          草深昌子

 「雲母」が終刊して十一年が経つ。「月々二万の選句の限界」のほかに、主宰者交代と世襲の多い俳壇に対し「安易な継承は俳句の質の向上を望むとき、好ましい流行ではない」と、終刊の辞にあった。「結社の時代」という命題が掲げられていた頃の決断であった。
飯田龍太氏の初心に従おうとする俳人の潔さに、強くうたれたのを覚えている。
 いまや、インターネットの時代、情勢も一変して、どの分野にしても、群雄割拠である。これの是非は一概にはいえないが、無秩序の時代ながら、それなりに秩序がとれていなくもなく、その現象は発展的と肯定したい。
 俳壇も然り。同志としてお互いを尊重しつつ、おのおのが初心を貫き優れた作品を残したいという作家のありかたが、同人誌の増加を生んでいるのではないだろうか。
今回は、そんな同人誌の一部から句々燦燦をいただいた。括弧内は総合誌年鑑に掲載の〈特徴ないし信条〉である。

  むつかしき漢字の国や半夏生   和田悟朗

 「白燕」三九一号 隔月刊
〈純然たる同人誌。俳句連句随筆の三本立て〉
 むつかしき漢字の国や、と大きく発想を広げた。そこまで言い切ってさてどうするか・・半夏生とは、脱帽。はぐらかされたような微苦笑とともに味わいが深くなった。
漢字の様相に寄せる人々の感受性は古今より込み入ってさまざま。漢字は、日本のみならず中国、朝鮮も使う。その交流もまた複雑。それらのむつかしいありようを、半夏生という風土性豊かな季語に物語らせた。字面も、いかにも坐りのよい半夏生ではある。

  文鎮と窓にせまれる夏の木と   小宅容義

 「雷魚」 五五号 季刊
〈一人一派のリベラルな純同人誌〉
 「せまれる」に臨場感がある。文鎮のぽつねんたる重みと、青葉若葉の繁り盛んな木のさまが文字通り机辺に迫ってくる。
芭蕉の、〈先づたのむ椎の木もあり夏木立〉、も脳裏を掠めて、ひねもすものを書き、言葉について考えやまない作者の境地が伺われる。作者の内なる重厚さが、健康的に明るく表出されていてスマートだ。

   「もりソバのおつゆが足りぬ高濱家」好評なれば二匹目の泥鰌を狙ふ。
  
  水原君もすこし花鳥うまければ  筑紫磐井「

 「豈」 三六号 季刊
〈騒然たる昭和俳句を懐しむ〉
進むべき俳句の道、と題する二十四句は、掲句に始まり、
  
  高浜は濱と書くべし手を拍つべし
  虹立てり、ああ新興の虹立てり
  『五百句』は余りに易き名づけかな
  虚子の子は女がよけれ春鎌倉
  書くよりも語って楽し虚子俳話
  守旧派の藝とは何ぞ烏賊素麺
  みんな幸せ芋の煮たのも定型に
  月並は遠くにあらず我が句より


等など。ヘタな鑑賞休むに似たり、さりながら、進むべき俳句の道は、リズミカルにも慈悲の道とは覚えたり。月並みは、の句、甚く共鳴。言葉は送り手だけのものでなく受け手があって息づくのであろう。

  夏茶碗ちちの一徹いま恋し    児玉輝代

 「家」 二三号 月刊
〈俳句という静謐と向き合って過ごす日々〉
ちちの一徹いま恋し、という濃密な情感を喚起したのは、ほととぎすでも、桔梗でもなかった。夏茶碗という、いのち無き季語にいのちを吹き込んだところに作者の真実がある。
夏茶碗を作法正しく高みにもたげた、そのしんとした涼気。この夏茶碗はあくまで透けて金剛の如し、と私には想われる。

  踊子草ひとふでまいらせ候(そろ)と蘂 澁谷 道

 「紫薇」 二一号 年三回刊
〈俳句連句、俳人及俳文学者の文の三部構成〉
 ヒトフデマイラセソロトシベ、まるで踊子草の踊りの科(しな)を思わせる。調べの典雅さ、愛らしさに思わず踊子草にしゃがみ込んで頬摺りしたくなった。ソロトシベなんてとどめは、茶目っ気たっぷりの振り付けである。踊りの余情のまた上品上質なこと。観察眼には、渾身の愛情がこもっているからこそ、ここまで個性的に輝く句となるのであろう。

  北上の烏大きく夏暁       森田智子

 「樫」一九号 隔月刊
〈信念と勇気をもって元気を発信する〉
眼前にすこぶる雄大な流れが引き伸ばされる。烏の目になって北上川を俯瞰するかのように。夏のくろぐろとした闇は、やがて燦燦と明けてゆくのであろう。人々の生業もまた健やかに開けるであろう。
北上川畔に滞在の句であるが、冷夏にあって、「自然相手の生活の厳しさを思い、人と自然のすべての平穏を祈った」という心情がまぎれなく投影されている。

  闇といふ艶見とどけて門火焚く 復本鬼ケ城

 「鬼」 一一号 年二回刊
〈実験的超結社俳句集団。「新しみ」をめざしてあらゆる方法を模索する〉
裏畑から麻を刈って、茎の皮をむいて干しあげた。その苧殻の火は、十億万土のかなたから精霊さまをお迎えする門火になる。永永、日は暮れる。だが、お盆の今日、日暮れを待つおもいは、ひとしなみではない。
 苧殻を焚かんとする心に、闇の艶をこの眼でしかとたしかめねばならない。闇には、かつてこの世に生きてあった先祖の声があり姿があり、味わいがある。それが闇の艶である。

 追記として。「晨」(隔月刊)は、同人総数百七十二名、来年創刊二十周年を迎える。
私も属するので言挙げは慎みつつ、総会における大峯あきら代表の言葉を伝えたい。
「この同人誌がこのように長く続くとは思わなかった。三つに分かれるだろうなどといわれたものであった。近頃では俳壇のステイタスを得るために晨同人になりたい人も出てきたように仄聞するが、俳句の道は、それとは別のものであると思う」

(2003年10月5日発行「ににん」第12号p36所収)
                                      
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by masakokusa | 2006-12-04 08:58 | 句句燦燦 | Comments(0)
句句燦燦(第四回)          草深昌子

 「ににん」発行所にご恵投いただいた俳句誌を、拝読させていただいた。標榜する俳句は各誌様々であるが、どの頁からも、俳句への熱い恋ごころがひしと伝わってきた。

  昭和の子食うても食うても空豆  川崎展宏

 (貂一〇四号二月) 下五のソラマメ!は、一字足らずにしり切れた如き空間となって、腑に納まるような納まらないような空虚感として残る。だが、指折ればきっちり十七音である。この定型でありながら、言い足らざるようなひびきそのものが一句として切ない。
氏は、「昭和二年生まれで、サイタ サイタで始まる国語読本で学んだ者として、昭和とは一体何だったのかという思いがある」と、自作について俳人協会講座で語られている。
  
  箸置に箸八月十五日  展宏

も、戦時中の飢餓をしんと心にとめた句として、印象に残っている。
ところで、クウテモクウテモソラマメ、クウテモクウテモソラマメと立て続けに口誦したあと、ややあって、
〈そら豆はまことに青き味したり 細見綾子〉が、掲句に重なるように思い出された。蚕豆の莢は空を向いて直立する恰好なので、「そらまめ」なのらしいが、その名とともに、空豆はなかなか人生的な味わいである。

  返り花ときどき妻が解りけり   鈴木鷹夫

 (門三月号) 長年夫婦をしていると、お互い日常のありようは欠点も含めて肯定しているものである。掲句は、そんな日常を賄う妻をいうのではないだろう。詩精神旺盛な妻の内奥のかがやきをふと眩しむ作者ではないだろうか。充分解っていても、ときどき解りけり、と控えめにしか表出しない含羞を「返り花」が美しく物語っている。
 小春日和のある日、春咲きの花が一輪、また一輪開いた、日常には受け入れ難いような非日常の純粋な感性を愛している。幸せな句である。

  菰巻を終へたる幹をひと叩き   鈴木節子

 (門三月号) ひと叩き、が何と気持ちのよい措辞であろう。その仕草は、さり気なくも濃い愛情の裏打ちである。菰巻とは、霜よけとか雪吊とかいうようなしっかりしたものでなく、いたって大ざっぱなものであるらしいが、ひと叩きされて、この菰巻は完璧なものとなった。

  温突や立膝といふ正座して   山崎ひさを

 (青山三月号) オンドルは、床下に煙道を設け、これに燃焼空気を通して室内をあたためる、朝鮮の暖房装置をいうが、この季語を使った俳句に初めて出会った。そういえば、掲句の風景は古い映画を見るようになつかしい。温突なる暖房は、親しみのあるあたたかみであろうことが、片膝を立てたスタイルそのものにイメージされてくる。

  まだ人間やる気の水着試着せり 山元志津香

 (八千草季刊如月) 「まだ人間やる気の水着」、「試着せり」と詠みたい。一見散文的に見えて、さすがにこの十二音プラス下五「試着せり」には、定型という俳句のいのちが生きている。もとよりやる気は作者自身であるが、あたかも水着そのものがはち切れんばかりにやる気を漲らせているという感覚にも読み取れて、なかなか手ごわいのである。全く、そんな水着の試着には気合が要る。(チョー若い女性にとっては、ルンルンなのだろうが・・)
試着せり、と表現はとどめているものの、氏にぴったりフイットした水しぶきの眩しさは想像に難くない。

  カツサンド五箱差入日脚伸ぶ   川上弘美

 (澤三月号) 何ともおいしく、且つ五箱とは申し分ない量のカツサンドであることよ、と近頃ではめずらしい垂涎の俳句を味わった。何故おいしいと決められるのか・・言わずとも「日脚伸ぶ」においしい、がこもっているからである。つまり、「日脚伸ぶ」という季語にたっぷり愛情がこもっているということである。春待つこころがいきいきとしている。
先月号の、氏の〈爪切って耳さうぢして六日けふ〉も、好きだった。掲句ともども実感がのびやかである。

   天満宮
  古き絵馬はづされ宮の年用意   塩川雄三

 (築港二月号) 当たり前と言えばこれほど当たり前のことはないかもしれない。だが、忘れていたことを、はっと気付かされ立ち止まらされるというのが俳句の凄みだ。そんな掲句に出会えて嬉しかった。がさっとはづされた絵馬の行方や如何に・・、人生の首尾も不首尾もともかく一年は終わる。絵馬をはづすという締め括りは非情にみえて実はありがたい。山と積もった情念の嵩が、きれいさっぱり取り払われる、だからこそ、人はまた清しく新年を生きられる。

  聖堂の楷の大樹の枯盛り     和田順子

 (繪硝子三月号) 花盛りとか、育ち盛りとかいうように、勢いが盛んで、気力や体力が充実しているときに使われる「盛り」の語を枯れという衰退の状況に用いた効果は大きい。いかに立派な枯れざまであることか、聖廟の庭にある、孔子そのものような楷の大樹ならば、枯れもまた雄々しく仰ぎ見られるのである。枯盛り、と言わずにおれぬ感動が読者に率直に伝わる。

  葉桜や寺のはざまの佃煮屋    田中水桜

 (さいかち三月号) 桜の花が散ったあとの瑞々しい若葉が葉桜であるが、桜の名所のあとに漂う落ち着きや少しの物憂さもまた葉桜の表情であろう。「寺のはざまの佃煮屋」が、その情景をいかんなく伝える。佃煮はもともと江戸佃島で製造したからこの名があるというが、寺町の路地に、葉桜の木蔭に、佃煮の匂いの風がそこはか吹き抜けるようだ。 
 
  年惜しむ芭蕉の像の足に触れ  藤本安騎生

 (運河三月号) 芭蕉像を拝むように、身を屈められたのではないだろうか。氏の姿、心のありようが清しく美しい。年惜しむ情は、過ぎ行く歳を惜しむ情でもあろうことが、他でもない「足」の一語に凝縮されている。
 〈夕時雨ますほの小貝探し得ず〉、〈極月の潮の色さす種の浜〉も同時発表。
「踏跡の文学」ともいわれる「奥の細道」の行脚の日々をしのび、その一歩一歩への思いを、ご自身にも重ねられたに違いない。

 (2003年4月10日発行「ににん」第10号p36所収)

                                      
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by masakokusa | 2006-12-04 08:53 | 句句燦燦 | Comments(0)
句句燦燦 (第三回)          草深昌子

  涼しかり力尽きるといふことも 後藤比奈夫

 (諷詠 七月号)  夏は暑い。故にさまざまに工夫して涼しく在らんとするのが人の世である。涼気を覚えるのは、気持ちの持ちようによるところが大きい。
そこで、比奈夫氏は、力尽きるということ、つまり、人生の負、それさえも涼しという境地を見出したのである。それは悟ったというより、人事を尽くして天命を待った、その結果として来たるものから感得した、ふと息をもらしたような涼しさである。
高校野球の敗者にもこの爽やかな涼しさは通じる。
ところで、〈じだらくにねれば涼しき夕べかな〉は、宗次の句。ときに肩の力をぬくことが身の涼しさであるとは、芭蕉から教えられた生き方であり、俳句の作り方でもあった。

  河骨の金杯ぐいと掲げたる   片山由美子

 (狩 八月号) 一読、明るさとめでたさに満たされる。目立たない水草にも、いきいきと血のめぐりがあることを気付かされる。
川端茅舎の句、〈河骨の金鈴ふるふ流れかな〉と相対しても同種の趣が通い合って清々しい。透き通った山気も賛歌されて、作者の心意気がそれこそぐいと伝わってくる。
河骨の骨という一字の印象が、「金杯ぐいと掲げたる」をしかと支えている。

  揺るるにも難儀さうなる萩の花  檜 紀代

 (遠矢 八月号) 大阪での子供時代、粗々の多い私は、よく祖母に「ナンギな子やなあ」と叱られた。そのひびきにはなぜか、愛されている実感があって、ナンギな子でありつづけた。難儀にはそんな懐かしい語感がある。
 掲句の難儀もまた、萩の花に寄せる愛情を微苦笑でもってさらりと詠われている。地を這うようにしだるる萩に、吹く風はもつれるばかり、いっせいになびかないところが可憐であり、萩の咲く頃の季節感でもある。
 紀代氏には、〈風が吹き分けをとこへしをみなへし〉という忘れ難い句がある。

  禅寺の宙へこぞれる松の蕊    加藤耕子

 (耕 十六周年記念号) 京都の妙心寺あたりが思い出される。 広い境内の一体は、松の古木ばかりで四月ともなると、松の花粉でむせかえるようになる。
 「宙へこぞれる」が、まことに的確で、豊かな空間を描き出している。禅寺の深さを思えば、いっせいに伸ばした松の新芽の強さや美しさは、リアルに迫ってくるし、宙は、上昇への果てしないイメージをあたえる。

  みちのくのここらとばくち栗の花 向田貴子

 (暦路 八月号) 「奥の細道」で、白河の関を過ぎた芭蕉は須賀川に滞在している。「栗の木蔭をたのみて世をいとふ僧」可伸を訪ねて歌仙が興行され、〈世の人の見付けぬ花や軒の栗〉が、書き留められている。
 この可伸庵址は、須賀川NTTの通用門の裏手あたりだっただろうか、なかなか探し当てられなかった旅の思い出が残っている。
さて作者は、このあたりの栗の花に佇まれたのであろうか。その感懐が、「みちのくのここらとばくち」とは、唸らされた。
 俳句の道を追求する作者の一途なる思いが、大胆かつ謙虚に、我知らず出てしまったような措辞に、思わず感応させられたのである。

  経験の多さうな白靴だこと    櫂未知子

 (銀化 七月号) 経験の多さうな、には、一瞬ニヤッとさせられる。だが、一句は紛うことなき潔白の俳句である。「白靴だこと」で受けてたって、見事に着地が決まった。そう、足が地に付いた経験が実証されたのだ。
 山あり谷ありのコースを相当酷使したようなしろもの。靴の汚れよりも、身のしなやかさがクローズアップされた。
 わが足を思わず引っ込めさせられもしたのは、表現方法が直接読者に語りかける力をもっているからだろう。

  香水の体を脱いで夜のジムへ   今井 聖

 (街 八―九月号)  香水も汗も、もろとも匂う男の体臭。その、生活臭のしみた一個の体が、一個の人間でもってそのベールを強引に剥ぎ落とされたような、不思議な感覚が、なんとも魅力的だ。夜のジムへ、も意思的で潔い。
 香水といえば直接、間接に女を浮かび上がらせる俳句の世界にあって、この香水はエネルギッシュである。現代風景としては女であってもいいのかもしれないが、男と直感したのは、女という性は、服を脱いでも、体は脱がない・・・からだ。いや、体を脱ぐ、と表現するのが省略の名手というべきか、いずれにしても古い女は、脱帽。
  
  風呂敷の結び目高くさくら餅   小堀紀子

 (天頂 八月号)  近頃、風呂敷は使われなくなったから、一句の風呂敷はいよよ貴重に思える。外から見ただけで、それはもう桜餅ではないか、と期待感を抱かれそうな心弾みと勿体を「結び目高く」に表した。名のある老舗の桜餅、ハレの日の桜餅を一点の過なく足なく言いとめて、匂ひたつばかり。
 紀子氏は、〈すぐ帰れさうな姨捨山草茂る〉ほか三十句をもって、本年四月、「俳句朝日賞」を受賞された。

  木下闇硬き落葉を踏みながら   木村定生

 (ゆう 九月号) 「硬き落葉を踏みながら」は、木下闇という語感の強い季語の本情をよく伝える。明るい木蔭の緑陰とは別種の、もっと鬱蒼とした大樹のくらやみをしたたかに印象させる。人はそこに踏みとどまっておのれの内面の暗がりを覗きもするだろう。
飄々とした詠いぶりが、かえって読者にもの思いをさせるという、上質の写生句。

  禅僧の口の中から夏の霧     小澤克己
  考へてみよと真紅の薔薇届く    〃


 (遠嶺 八月号) 一句目、清浄感にあふれたひやりとした霧がたちこめる。そんな霧が、まるで禅僧から口うつしに享受されるよな感覚を覚える。
 二句目、誕生日に届いた薔薇の花束であろうか。一群の薔薇は、人に向けて伸び上がるように真紅を発光し、また、発奮させる香気がある。こんな薔薇との交歓を「考えてみよ」、と冷静にうけとめる。
 二句いずれも、自然と人間の融合が美しい。

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 (2002年10月10日発行「ににん」第8号p32所収)
                                      
by masakokusa | 2006-12-04 08:49 | 句句燦燦 | Comments(0)
句句燦燦 (第二回)          草深昌子

  穴惑失せまじき眼を向けにけり  綾部仁喜

 (泉 十二月号) 「失せまじき眼」がこの句の生命である。そして、「向けにけり」でもって、抜き差しならぬものとなった。即ち、対象のいのちが、作者のいのちにとってかわったのである。逆にいえば、失せまじき眼は作者自身のそれであったかもしれない。無意識にしろ作者の中に意思的な眼力がなければ写実できない、気合のこもった眼である。
  
  穴惑ひ石のごとくにゐたるかな   楸邨
  蛇穴に入る前すこし遊びけり   登四郎


などと比較しても、客観を描写することが、即ち自己の感情を述べることに他ならないことに気付かされる。
 一句は炯眼の士である綾部仁喜氏の自画像を見るようである。

  山の子や栗も蝗もポケットに    大串章

 (百鳥 十二月号) 旅吟であろうか、いかにも秋の爽やかさに横溢している。
 「蝗も」の付加でもって俄然、輝きを増した。わがもの顔に掴み取った山の幸、田の幸は、隠しようもなくポケットを膨らませる。なんとゆたかな、素朴な、野性味のある山の子であることよ。
「山の子や」の小休止に懐旧の念が湧く。作者は遠いまなざしに我知らず笑みを浮かべておられるのであろう。テレビの俳句講座で拝見する氏の柔和な表情が重なる。何気ない表情なのに、滋味深い。

  冬かすむ膳所に中国料理店   秋山巳之流

 (河 十二月号) 近江、膳所にあって、おやっと、作者の感懐が働いたのは、中国料理店。ちょっと釣り合わないような感覚が、茫洋たる風景に、妙に釣り合う。中国料理店は実景にしてはるけき心象の味わいが醸し出されるのだ。先人の思いを辿る旅にあって、作者の胸中に去来したのは、どのようなものであったろうか。私には掲句から、たちどころに蘇った句がある。・・シルクロードの旅の途中にあった森澄雄氏は、ある夜ふと、芭蕉の〈行春を近江の人とおしみける〉に胸を打たれた。そしてその後、いく度も近江へ旅し〈秋の淡海かすみ誰にもたよりせず〉を成した・・・という印象深い近江の二句である。掲句の、冬のかすみは、人間(作者)のやさしさ包みこんで、いかにも人なつかしい。

  夕顔の顔のやうなる子猫ゐる   長谷川櫂

 (古志 十二月号) 夕顔の顔のやうなるの「顔」が眼目である。
源氏物語・夕顔に、〈・・かの白く咲けるをなん夕顔と申し侍る。花の名は人めきて、かうあやしき垣根になん咲き侍りけると申す・・〉とあり、源氏は、〈寄りてこそそれかとも見めたそがれにほのぼの見つる花の夕顔〉としたためる。
 作者もまた、顔という一字を名に持った、ゆかしい花の趣を薄暗闇の中にしのんでいる。子猫の顔を夕顔にかさねると、ふと抱きしめたくなるような潤んだ花である。子猫の表情を副えて、古風なだけではない現代的なリアリティーのある花の姿を写し取っている。

  秋天の墨田冷凍倉庫かな     中西夕紀

 (岳 十二月号) 墨田冷凍倉庫が如何なるものか知らないが、スミダ・・レイトウ・・ソウコ・・いずれもその音調は清涼である。だが、作者の感動は、「秋天かな」の一事ではなかっただろうか。その感動を伝えるのに「スミダレイトウソウコ」を措いたのではないかと思えるほど、都会の秋天を引き立たせるための大らかな配合の妙がある。
作者にとっては何でもない吟行の一句かもしれないが、持ち前のシャープな感性があきらかに現われている。

  人の世の色なき風の尾に住まう 藤井冨美子

 (群蜂 十二月号) 人の世のあるべき住み方、あるべき生き方として、色無き風の一端に触れている自分でありたいという、まことに慎ましやかな秋風への愛惜である。
あるいは、実際に山裾の延びたあたりに実生活があり、心にしみ入る秋風を味わっておられるということでもあろう。
 いずれにしても、そのような生き方が絵空事でなく、透明感のある清廉な居住空間として実感させられる。
 「尾」の一語が凡常ではない。

  葈耳を勲章として死ぬるかな  福田甲子雄

 (白露 十二月号) 勲章は国家が授与するメダルである。だが、俳人は路傍の雑草である葈耳を胸に飾って、一生を終わろうというのだ。なんと謙虚な感慨であろう。
 甲子雄俳句といえば、〈生誕も死も花冷えの寝間ひとつ〉、〈ふるさとの土に溶けゆく花曇〉〈秋の空馬匂ふまで近づけり〉など、句作五十年以上を終始一貫して自然と一体化することにより人間の思いを表現してこられた。葈耳は自然と人間の接着剤、いかにも俳人にふさわしい。
 掲句は、少年のようなはにかみと、誰に誇るのでもない内なる自信に支えられている精神のありようが窺がわれて頭が下がる。

  火祭の大松明を腰捌き      行方克巳

 (知音 十二月号) 二〇〇一年の鞍馬の火祭は三十年ぶりの雨であったが、火と雨のせめぎあいは荘厳ですらあった。
 去年の火祭で火の粉を浴びて大やけどを負ったという青年は、怖気を吹き払うための酒が過ぎたらしく、はじめ腰が決まらなくて難渋したが、やがて「サイレイーサイリョウ!」と大きな気合を入れなおすと、ぐいっとまたぐいっと腰をひねった。滴る炎は確実に駆け上っていった。伝統の鞍馬祭の雄々しさも、神秘さも、まさしくあの青年の勇気ある「腰捌き」にあったのだった。

  水の底突けば固しや水澄める   岸本尚毅

 (天為 十二月号) 「水の底突けば固しや」といったら、下五は水を離れるかと思いきや「水澄める」とずばり水そのものに迫ってくるところが、尚毅俳句の力量であろう。澄み切った水は当然にして透明であるが、掲句は、その水の堅牢にしてゆるがない質感をあたかも金剛の如くイメージさせる。
 作家にとって季語の本意は既存のうちにあるものでなく、自力でその存在の手触りを掴み取ろうとするもののようである。
 したがって、氏のスタイルは、唯一のテーラーメードに極めているから、若さの魅力に加えて、なかなかに渋い。

 (2002年2月1日発行「ににん」第5号p30所収)                      
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by masakokusa | 2006-12-04 08:45 | 句句燦燦 | Comments(0)
句句燦燦 (第一回)          草深昌子

  死はそこに水を蛍と思ふとき   柿本多映

 (草苑 九月号) 先ごろ、六十一歳の市川猿之助が七十八歳の藤間紫と入籍した折、「紫さんはいかに美しい死を迎えるかということを、いつも真剣に考えている方です。お互いにいつ死ぬかわかりませんのでそれまで幸せに暮らせたらと思い結婚しました」と、語るのを聞いて感動した。それは、和泉式部の、〈もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る〉を思い起こすような、恋の終わりを死とする生の充足である。
 ところで、芝不器男に、〈朝ぼらけ水隠る蛍飛びにけり〉がある。蛍もまた、相聞の果てしは、水のみを吸って十数日を生き継ぎ、あけぼのの中へ消えていくのである。それやこれや、命の仕組みはまことにはかなく思われる。
 命旦夕に迫ったとき、一条の光明を見出すとすれば、「水を蛍と思ふ」が如き透明感であろうか。幽明界を異にするとは、そのように美しい刹那であろうか。

  棹立てて少し沖まで蓮見舟   深見けん二

 (屋根 九月号) 手賀沼で蓮見舟に乗ったことがある。初めの三十分ほどはモーターで、それから先は船頭が一本の長い竹棹を操って蓮華の花園へ分け入った。
 棹立てて、で小休止、少し沖まで、で小休止をとるように読み進むと、小舟の揺れになる。「棹立てて」が、一句の姿になっている。

  鱗立ちゐたり孕める色鯉は    茨木和生

 (運河 九月号) 一読、一瞬、身の毛がよだった。まるでわが身の鱗が、立ち上がったように錯覚したのであろう。一句の凄みである。
 鯉は、側線鱗が三十六枚あるというので、六六魚(りくりくぎょ)とも呼ぶ、と辞書に出ている。はたして、赤い花が咲いたようになるのであろうか。それとも、婚姻色のようにホルモンの作用による幽き現象であろうか。
 いずれにしても、この観察眼はあまた鯉の名句を成している作家ならではの真実を表出しているに違いない。
 子を産まんとするいのちの健気さと同時に、泰然たる風格をもイメージされて、孕み鯉は、しばらく頭からはなれそうにない。

  能筆を解読しかね星の恋    正木ゆう子

 (沖 九月号) 七夕竹に結ばれた願いの文字から発想を得たとしても、私などは、「達筆を判読しかね」で終わってしまう。だが俳人は、牽牛・織女の二星にちなんで古くから恋物語を育み、星の祭を伝承してきた人々の心情に寄り添った一句に仕立てた。
 「能筆」のひびきからは、見目麗しい姿がうかがえる。「解読」からは、曰くありげな古風な文字を解き明かそうとする心がしのばれる。
 あたかも古代人の如く、典雅な相聞の一夜を茶目っ気たっぷりに現出してみせたのである。

  金魚みな死んでのこるや金魚鉢  辻 桃子

 (童子 九月号) 一匹も金魚のいなくなった、ひからびた金魚鉢の底が鮮明に焼き付けられる。やがて思いのなかに蘇るのは、真っ青に透き通った水、おどけたように突き出した金魚の目玉。水を湛え、いのちを湛えてこその金魚鉢。金魚もろとも金魚鉢も死んでしまったかのようである。空っぽの金魚鉢は、夏の去り行く思いに置かれた静謐な空間である。

  庭の木に目のゆくことも厄日かな 木内怜子

 (海原 九月号) 厄日は、農家などで台風の厄難が多いとされる日である。日々見慣れたなんら代わり映えのしない庭の木にふと眼を遣る気分が働いたことに感慨がある。
 あるべきところにあるべきものがきちんとありながら、なお鮮やかにみえるのが、自然の姿であることを心得ている作者である。季節の節目を等閑にしない日常がさりげなく詠われていて、読者をもほっとさせる。

  筆立てにぎしと団扇も挿してあり 辻田克巳

 (幡 九月号) 「ぎしと」が効果抜群。
 京都の蒸し暑さが思われる。涼しく暮らすための工夫をこらした町家のたたずまいはもとより、はんなりとして芯のきつい京言葉まで聞こえてきそうな情景である。掲句が京都であることわりは何もないが、具象の句は背後の世界を読者に委ねてくれるのが楽しい。

  水打つて猪突の性を哀しめり   的場秀恭

 (獅林 九月号) 夏の日ざしに、耐えられなかった一日の日暮れ、一途に水を撒いた。あたりの埃も炎熱も、憤りも次第に鎮まってきた。何事も一直線に進まねば気のすまない性分を水を打つ所作のなかに見出したのである。哀しめり、は自省であるが、ささやかな自負をひそめて清々しい。

  琴の胴抱けばほそし秋はじめ  神尾久美子

(椎の実 九月号) 楚々とした呼吸のよな音調から、「ほそし」が実感として伝わってくる。「琴の胴抱けばほそし」は、即ち、「秋はじめ」の情感そのものでもある。
 琴の胴が、たおやかな女身のそれのように、一抹の哀調を奏でる。
 作者の代表句に、〈雪催ふ琴になる木となれぬ木と〉がある。

  パラソルが三和土の隅に倒れたる 山尾玉藻

 (火星 九月号) パラソルは日よけ用の洋傘である。つまり日傘であるが、これをパラソルといったところに、三和土との配合の妙がある。油絵の日ざしと、日本画の日影がひたと融合した瞬間が鮮明である。

  妬心やまず炎天の道歩ききても   小澤實
  待つは楽しことに鰻の焼けるまで   〃


 (澤 九月号) 一句目、「炎天」と「妬心」との相乗効果によって、天空はいよよ威圧的に焼けつき、人間はいよよ脂汗滲む思いとなって、やるせないまで日盛りの様相を示す。
二句目、美味しそうなにおいがして、思わず生唾を飲み込みそうになった。何より、その場の打ち解けた雰囲気をうかがわせる。
 待つは楽し、で一旦小休止があって、「ことに」と続くあたりに美味しさの秘訣がありそうだ。
二句共に、壮年の気迫が表れているが、同時に、少年のこころをひそめてもいる。
 「人間はいくつになっても、精神の中にゆたかなコドモを胎蔵していなければならない」という、司馬遼太郎の声が思い出される。

 (2001年11月1日発行「ににん」第4号p24所収)  

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by masakokusa | 2006-12-04 08:42 | 句句燦燦 | Comments(0)