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師系燦燦10
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「若葉」の系譜(2)――清崎敏郎を師として


 富安風生は、その著『俳句読本』(昭和四十八年刊行)の中で「鑑賞」について、次のように述べている。
 「――何かが加わるという、その何かを考えてみますと、まず第一に、対象を経験や智識で理解する前に、空想を馳せたり連想を辿ったりして彷徨する過程があり、その間の楽しさというものがある。つぎにまた知ること、理解することと結びついて感性が働いて、後味、余韻、余情に遊ぶ過程の楽しさというものがあります。私の単純、素朴な分析によりますと、この知ること、理解することの前の模索と、後の反芻というプラスする何かではないかと思われます。味わうという本当の意味がそこにあるのではないでしょうか――」 
 即ち、考証したり解説したりという客観的な面の上に更に主観的な面の何かが加わらないと鑑賞にならない、味わうという言葉があたらないということである。短小な俳句の表現は象徴的、暗示的であり、言い残した余韻に強くよりかからざるを得ないという性格から、ことに作品を味わうということが喧しく言われるのは故あることである。
 この風生の言葉にぴったりよりそった鑑賞文に先ごろ出会った。それは、行方克巳・西村和子共著による『秀句散策』(ふらんす堂)である。両氏が代表を務める「知音」の十年来の秀句選評を集成したものである。

 二人の師である清崎敏郎は国文学の専門家であり、虚子―風生の系譜を貫徹した作家である。敏郎は、虚子を語って、「若いちんぴらを相手にしても俳句を作る。虚子本来の句でないと思うものも作る、そういう意欲がある。革新性が新人を見つける。若いのともひとつ渡り合ってみましょうという意欲」を称えていたように記憶しているが、自身もまたそういう作家であった。
 いかなる評論もどう読むかという鑑賞が基本になければならないことを敏郎から繰り返し説かれたという。実作への意欲同様に、他人の秀作を味わい、その特性を伸ばすことによって選者もまた磨かれるという精神のありようは、着実に引き継がれている。

 清崎敏郎の第一句集『安房上総』(昭和二十九年刊行)は著者十八歳から三十一歳までの作品。題字は虚子、長文の序は風生である。 

  コスモスの押しよせてゐる厨口  敏郎
  下りてきし坂がうしろに蝉時雨
  人をらぬ時の春の炉うつくしく
  短日のかゝるところにふとをりて
  かなかなのかなかなとなく夕かな


 〈かなかな〉の句は、秋櫻子が「どうしてこのような句が読まれるのか、全くわからない」と評したそうだが、名句であってもなくても、私には、かなかなが鳴きだすと決まってこの句が口に出て気持が楽になってゆく。
 虚子に〈蜘蛛に生れ網をかけねばならぬかな〉の句がある。虚子は、このような宿命をうべない、宿命に開き直って自在であったが、敏郎もまた師にならって、もっともシンプルな精神、自然随順の詩精神を二十代にしてすでに養っていたように思われてならない。

             
                       ☆


 西村和子の『心音』(平成十八年五月刊行)は氏の第四句集で俳人協会賞を受賞。氏は、昭和四十一年、慶大俳句会に入会。

  紙風船息吹き入れてかへしやる
  蓮見舟声をひそめて乗り合はす
  くべ足して暗みたりけり花篝


 一句目、小さな手にポンポンしたかと思うとすぐに鷲掴みにして、ぺしゃんこになる紙風船が楽しい。「かへしやる」ところに、あたたかな空間を共有しながら子供の成長を見守っている気持がこもる。何より、まんまるい紙風船の球形がたしかにそっと保たれている。
 二句目、船頭の竿が頼りの蓮見舟は、バランスよく慎重に坐らないとぐらぐらと危うい。まさに「声をひそめて」、蓮見の情景へ一気にいざなわれる。そして極楽に咲く花のさなかに「乗り合わせた」静けさに息を呑む。平明な言葉の連係が、水上をなめらかに漂う。
 三句目、この暗みこそは妖艶に燃えさかる炎の序奏である。速水御舟の〈炎舞〉の如くほむらのゆらめきが瞬時に浮かび上がった。
 花篝は祗園夜桜のものであろうか。和子は著書『虚子の京都』の中で、〈花篝衰へつゝも人出かな 虚子〉等から、自我を全面に押し出さない、ワキの心のありようを論じている。シテの本音を導き出すことは、対象の本質を導き出すことにほかならない。俳人協会評論賞受賞の著書は虚子のあとを徹底して辿った体験の積み重ねが感動的である。掲句は、その論じたことが自分のものになっている証しのように実作に反映されたものである。
 速水御舟もこう語っている。「無駄を省くと真実が残る。しかしそれは単に無駄を省くという観念だけでは得られない。多くの無駄を経験したあとでなければ得られない。所謂無駄の尊さを味読する境地を経験したあとでなければ得られない。」

  憂き我に大阪ことばあつたかし
  骨切も聞かせてこれの祭鱧
  うち連れて今日は御室の桜見に
  夷切よってたかってさは売れぬ
  どうでもいいやうに踊りて手練なる


 関西系の味付けは弾みがあっておもしろい。アホな大阪、イケズな京都のようでその根底にある文化レベルの高さ、人間としての情味の濃さを伺わせているあたり、大阪生れの読み手には何より嬉しい。

  肌脱の末子に男匂ひけり
  長子あるひは読むやも知れぬ書を曝す
  五月幟男の子は家をはなれゆけ
  初桜立ち出でて子はふり向かず


 我が子を詠って普遍的である。
 一、二句目、末子と長子が動かない。ためしに、長子と末子を入れ替えてみるとたちまち俳句の放つ不思議な光は消えてしまう。
 三句目、「はなれゆけ」は五月幟そのものの声のようである。幟は伊達にはためいているのではない、その祝意は大らかである。
 四句目、子がふりむいたのでは一句にならない、ふりむかないところに詩情が生まれた。待ち焦がれた初花は匂い立つばかり。初花をそっと称えてやまない作者に、初花もまたその真価を発揮することができるのである。

  運命に安んずるとは木々冬へ
  十年をとり戻さなむ燗熱く
  水音と虫の音と我が心音と

 
 虚子が立子に宛てて、「皆それぞれの運命がある。運命に安んずるか安んぜないかが其人の幸不幸の歧るるところである。運命に安んずるといふのは安心して眠ってをるといふ意味ではない。其境遇に立って其境遇より来る幸福を出来るだけ意識することだ」と、諄々と書いたくだりは立子ならずとも勇気付けられるものであった。冬へ突入する木々はやがて萌え出づるその日まで新芽を大事に養っていることと、ごく自然に照応している。
 俳人協会新人賞の第一句集『夏帽子』に、〈熱燗の夫にも捨てし夢あらむ〉の代表句がある。燗を付けては自分と向き合い、自分を鼓舞してきた、それは夫婦共々であったろう。幸せな時間の凝集した充実の熱燗である。
 一集を拝誦し終わるとなぜかしみじみと作者の心音がわが心音のようにひびいてくるのもこの熱燗の味わいを反芻するからかもしれない。人生のたどり方そのもののように。

  紅梅に佇ちて師系といふことを
  継ぐといふことを尊び初蹴鞠


 和子は、昭和五十四年「若葉」六百号記念論文に「岡本眸論」を書いて入選している。その掉尾に、岡本眸が三十年近く、風生という大作家にして卓越した指導者について作句活動を続けてきたことは作家として稀に見る幸せだった記しているが、和子も又、稀に見る幸せを体得した作家ではないだろうか。
 敏郎に三十三年間師事し、花鳥諷詠を徹底的に学ぶなかで、季題が明確であれば、我を詠うことが客観写生に何ら矛盾しないことを認められ独自の文体をうちたててきた。
 和子の鑑賞眼は鋭い、作者の眼差しのありようを理解してあたたかさにあふれている。評論もまた明晰にして平明、いつどこで読んでも説得力がある。『心音』の一字一句が共感させられるのは自身の中にあるものでしか勝負しない、静かにも勁い自覚であろう。


                           ☆

 
 
 行方克巳の『祭』(平成十六年六月刊行)は、氏の第四句集。氏は、昭和三十八年、慶大俳句会に入会。第二句集『知音』は俳人協会新人賞受賞。西村和子と共に「知音」代表。

  鉾建の結び目ひとつ一仕事
  さと払ひたりし一画大文字
  顔見世の昼の部はねし騒きかな
  欲得も喜捨もなかなか初大師
  竿燈を横たへたれば月の船
  武者ねぶた瞋恚も恋も真赤ぞよ


 行事や祭を詠った句は、どれも韻律に抑揚があって、伝統ある内容を際立てている。
祇園祭は祭事の長さからも日本最大の祭である。山鉾を組み立てるだけでも三日も四日もかかる。古材を縄結びするのは荘厳にして気合い充分に引き締めなければならない。大文字の呼吸のよろしさ、一画に一念がこもっている。昼の部のはねた興奮を「騒き」と言い、初大師の賑わいを「なかなか」と言い、「横たへたれば」、「真赤ぞよ」という措辞は、皮膚感覚でもって迫真する。

  父の背ナより降り立ちて七五三
  手をつなぎをり遠足の最後尾
  卒業す一面識もなき如く
  組み込める機械ぎっしり天道虫


 一句目、「父の背ナより降り立ちて」というさりげない表現が世界をひろげている。いつしか子供は親の庇護から離れて一人で歩んでゆく、親の背中を見て育つということ等も念頭にするとき、父の温みから降り立った瞬間は永遠に意義あるものに思われる。
 二句目、小学校の遠足であろう。しんがりという不安な心持がおのずから手を繋ぐという行為に至らしめているところほほえましい。これが中学生あたりであると「チャッカリしとるなー」と教師が首をすくめるという男女一対の風景かもしれない。
 三句目、卒業という儀式において、生徒は否応なく教師と縁を切るようなよそよそしさと緊張を強いられるのであろうか。教師は面食らいながらも、これを是としなければならない。まこと印象的な顔立ち、感慨である。 
 四句目、天道虫は巧緻な電子仕掛だという。コドモの心を失わない大人の眼が輝いている。

  つはるてふこと怠らず冬桜
  鮟鱇といふ死に恥をさらしけり
  椎の実や見えざる轍われを轢く
  秋の蝉われはも何に口ごもる
  死ぬ日まで自分で飛んで百合鴎
  熱燗の徳利をすぐに倒したがる


 一転して、重厚。さびしさを漂わせながら、腰の砕けない力を感じる。それはこれらの句群が、生活者としての自己そのものを正直に語っているからではない。季題発想という作句方法、つまり正攻法でもって詠いあげたからである。季題を通して詠う態度が、はからずも、作者自身の発見につながっているのはなんとも不思議な魅力である。
 初冬の頃、一輪一輪小さな白い花をつける冬桜は倦まずたゆまず芽ぐむ気力を充実させているという。冬桜に愛情を寄せなければ気付かない発見である。自身にそのような資質があるからこそ見出したものであろう。
 鮟鱇も、椎の実も、秋の蝉も、生きとし生ける物はみな我と一如である。
百合鴎の句からはもう一度、さっきの七五三の句を味わい直すことになるだろう。
 ことに熱燗の句は、生きている鼓動の聞き取れるような人生の機微が詠われる。真面目に生きれば生きるほど不真面目にならねばならない生のありようがいとおしい。

  踊りけり募る思ひといふことを
  踊らねば只のししむら踊りけり


 精神のすべてをかけてこそ、肉体は肉感的になる。作家の本領が発揮された踊りである。

 行方克巳・西村和子共著『名句鑑賞読本』には富安風生他、姉妹編『名句鑑賞読本藍の巻』には清崎敏郎他が鑑賞されている。

  蹤いてくるその足音も落葉踏む 敏郎

 敏郎の第四句集『系譜』の掉尾に置かれた句である。風生を引き継ぐ覚悟に詠われた句であるが、弟子もまた一人一人の覚悟に味わっている。ここには確かな道筋が見える。

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 (2008年1月5日発行「ににん」冬号№29所収)
by masakokusa | 2007-12-29 21:59 | 師系燦燦 | Comments(0)
師系燦燦 九
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 「若葉」の系譜
 ―――富安風生を師として(一)


  大文字夏山にしてよまれけり 風生
  蛍火や山のやうなる百姓家
  蝶低し葵の花の低ければ

   
 富安風生の処女句集『草の花』は昭和八年、四十八歳にして上梓された。
福岡為替貯金支局長として赴任中の三十四歳の折、巡遊してきた虚子の謦咳に接したのが俳句の皮切り。この頃のことを「福岡でひとたび俳句の針を咽元深くのみこんだ私は、俳句が面白くてたまらず」と記している。

  街の雨鶯餅がもう出たか    風生
  一生の楽しきころのソーダ水  
  秋晴の運動会をしてゐるよ

   
 風生の句はもとより軽妙瀟洒だが、一字一句もゆるがせにしない洗練された新味は、口誦するほどに鮮やかである。

  夕顔の一つの花に夫婦かな  風生
  古稀といふ春風にをる齢かな
  生くることやうやく楽し老の春 
  死ぬまでは生きねばならぬ手毬手に
  わが齢わが愛しくて冬菫
  春惜しむ心と別に命愛し
  九十五齢とは後生極楽春の風


 夕べに開く「夕顔」に重ねて、老を意識しはじめた五十九歳から、辞世に至るまで流麗なる風生俳句の一条にして長い道筋は「命」を肯定的に詠いあげることにあった。
「ー― 所詮この一つの小さい俳句の虫は死ぬまで同じ小さい俳句の虫、というわけであろう」とは、第十二句集『傘寿以後』のあとがきである。

  風生と死の話して涼しさよ  虚子

 虚子八十三歳の作品である。この時風生は七十二歳。虚子の風生たる人間への心の預け方と共に「風生」という語意や語感もまた自ずから涼しいその人を印象づけるものである。

  藻の花やわが生き方をわが生きて 風生

 生前に十五冊の句集、一冊の遺句集が出版された。人口に膾炙された名句は数知れないが、風生ほど俳句に謙譲なる人はいない、風生ほど自身を信じて疑うことの無かった俳人はいないのではないだろうか。まこと名にし負う風生の風格に驚くばかりである。  


         ☆

 岡本眸の『午後の椅子』(平成十八年十二月刊行)は、氏の第十句集で第四十一回蛇笏賞を受賞した。
昭和二十五年職場句会を通じて富安風生に師事、「若葉」入会。昭和三十二年より「若葉」編集長であった岸風三樓の指導を併せて受け、「春嶺」同人。風生逝去の後、昭和五十五年「朝」を創刊・主宰。因みに、氏は昭和三年「若葉」創刊の年に誕生している。

  温めるも冷ますも息や日々の冬
  花種を蒔き常の日を新たにす
  初電車待つといつもの位置に立つ


 一句目、こんな大いなる発見さえも、これどうだ、という顔はしない。下五の「日々の冬」は普通の顔をしている。その平生なありようが命を養うしずけさを漂わせている。
 二句目、花種を蒔くという行為はあたかも俳句を生み出すそれに似て、切なる祈り。 
 三句目、常の日の常の出来事はたとえお正月であっても同じこと。定位置に足を揃えたとき、いじらしいまでの真面目さに思わず笑みがこぼれた。その瞬時こそが、命を新たにするめでたさの確認である。

  ひかり飛ぶ時間のひまの更衣
  浮氷見てゐる自由時間かな
  石蕗咲いて午後の時間のひと握り


 「俳句で忙しいというのは恥ずかしい。俳句は自分の歩みの少し後ろにあるのが良いと思っている」、肝に銘じている眸語録である。
 一句目、更衣という光陰の通過点、一瞬にして身を軽くしたような感覚が光っている。俳句の意匠も少しもモタモタしない。
 二句目、冬の間張り詰めていた氷が春になって解けてきた。「自由時間」の語感には、氷の硬い感覚と体まで解けていきそうな緩やかな思いがこめられている。
 三句目、風生に〈石蕗黄なり文学の血を画才に承け〉がある。文才を画才に承けたのは、むろん人のことであるが石蕗の花自体にある輝かしさのようにも思われる。そんな好ましい石蕗の花を目の当たりにしながら、束の間の日差しに心してペンを走らせている。

  室咲や姪来て何かして呉れる

 〈姪来て何かして呉れる〉は一見、日記に書き付ける日常語のようであるが、「姪来て」といい、「何か」といい、俳句的処理の技術が格段に違う。「室咲」でもって一気に詩情あふれる俳句に仕立てあげた。他のなにものにも置き換えられない室の花は清らかで透明な空気感や会話までをも伝えてくれる。
 氏の代表作〈雲の峰一人の家を一人発つ〉、と共に「俳句は日記」の本領をもっとも発揮している句であろう。「雲の峰」の緊張感、「室咲」の安堵感、共に日常を生きる独りの人間の表裏を普遍的に描き出している。

  きのふより今日枯深し飯白し
  暖かし人帰したるそのあとも
  パセリ青し癒えねば何も片づかぬ
  まつ白な息が言葉に今日はじまる
  一生の残り時間の夜干梅
  さみしくてならぬと水の温みだす
  星空へハンカチ貼って生きむかな
  帰れば孤り赤い冬服脱ぎおとし

  
 作家の「俳句は日記」という信条はいかにも俳句を取り組みやすく思わせる。だが謙虚なもの言いほどにたわやすいものではない。
 リルケの『若き詩人への手紙』の一節が思い出される。「もしあなたが書くことを止めたら、死ななければならないかどうか、自分自身に告白してください・・あなたの夜の最もしずかな時刻に、自分自身に尋ねてごらんなさい、私は書かなければならないかと」。
 作家に存在しているのは常に今だけ。日記とは今を書き付けるもの、明日は知れない、今しかない命の「俳句は日記」なのである。必然から生れた詩情にこそ読者はうたれる。 

  幼きへ木の実わかちて富むごとし
  きんぽうげハモニカは子を俯向かす
  やうやくに齢重たし落し文


 一句目、お金があるとかないとか格差社会の嘆きの何と虚しいことだろう。〈並べある木の実に吾子の心思ふ 虚子〉、〈よろこべばしきりに落つる木の実かな 風生〉、いつの世の木の実もいきいきと生きている。
 二句目、子供をいつくしむ眼差しがやさしい。きんぽうげはハモニカの金と大の仲良し。
 三句目、風生をしのぶ〈やうやく〉である。「落し文」はペーソスにしてユーモラス。
丁寧に生きてかつ朗らかさがあるのは、作者が若くして癌を病まれたことと無縁ではないだろう。第一句集『朝』のあとがきに、手術を控えた母親が、気丈にも平静に、わが子に「・・寒くなったから冬の下着出しなさい。お父さんのは箪笥の下の抽斗よ。お母さんは大丈夫、あんた達風邪をひかないで・・」という電話をしている、誰とも知らない女性の声を病床に聞き止め、女とはなんと素晴らしい生き物なのだろう、人間は死ぬまで社会の担い手の地位を棄ててはいけない、と気付かされたことを感動的に書きとどめている。この出来事は後々まで眸俳句に通底している。
 風生はその序文で、どこまでも女流俳句というベースに立っていることを称えている。師の示唆を深く受け止めて、処女句集の時代からその方向性を見定めた。それは虚子が勧めた台所俳句の延長にも似て粛々たるものであったが、風生の教えの通り〈わが生き方をわが生きて〉来たのである。
 今や岡本眸俳句は目の覚めるような鮮やかな一つの現代女流俳人の典型を現している。


           ☆ 

 鈴木貞雄の『遠野』(平成十八年九月刊行)は氏の第三句集。昭和三十九年慶應大学俳句研究会に入り、清崎敏郎に師事。平成十一年、三十五年間師事した師の亡き後を承け「若葉」の三代目主宰を継承した。

 「若葉」は初め風生一代と考えていたが、誌友が拠り所を失ってはいけないという気持から後継者に清崎敏郎を指名した。

   敏郎君へ二句
  潺々と虚子より承けし水の秋  風生
  二た流れ和して同ぜず水の秋
  
 
 敏郎は昭和五十四年風生没後を継承した。昭和十五年風生に師事、昭和十八年からは虚子にも師事をした、花鳥諷詠の徒である。
貞雄も又敏郎の遺志に従って、その継承はスムーズに行われた。

   敏郎先生御逝去 二句
  大いなる泰山木の花散華    
  胸奧の一滝に耳傾けむ     
  初刷や一誌承け継ぐこと重し
   主宰就任
  迷ひなきこの道をゆく石蕗の花


 継承にあたって思い起こされるのは〈滝落したり落したり落したり〉、〈石蕗咲くや心魅かるる人とゐて〉等、師の実作と理念である。

  熱し熱しと虫送る火を掲げゆく
  火達磨のぶつかり落つるどんどかな
  水揚げの間も日は昇る鰹船
  嬰児籠に猫のねむれる炉火明り
  囀りを共にす縄文杉と吾
  祭獅子綿を噛ませて休めあり
  たなごころ月にひらきて踊るかな
  ほっかりとかまくらの灯の世界かな


 掲句の前書きは順に、越谷虫送り、大磯どんど、御前崎、遠野、屋久島、佃祭、西馬音内盆踊、横手、である。ほぼ千二百句を収めた持ち重りする一書は、これらの民俗行事や祭事の自然詠が何より圧巻である。
 他に、郡上八幡、小川百八灯、瑞厳寺、遊行寺芒念仏、浪江、中之条鳥追祭、秋山郷、旭川、霧積、松山・尾道、八尾、三峰神社、出水荒崎、三春、三崎、裏磐梯等など、津々浦々の旅吟は静謐な情熱に満ちている。

  天地のはじめの嗚呼を初鴉
  つばくらの嘴に藁しべ一文字
  子雀といふに凛々しき頬の紋
  まくなぎの暫くばらけ遊びをり


 耳目に触れなければそれまでというような小さな命の小さな現象が、ときに人間の懈怠を叱咤激励してくれるものである。
 一句目、最も卑近な鴉声をして元朝薄明の宇宙を力強く大きくひろげきった。氏の処女句集にある〈捕虫網まだ使はれぬ白さもて〉が思い出される、新品の清浄感。
 二句目の一文字、三句目の頬の紋は、まるで燕や子雀の意志の如くにいじらしい。
 四句目、「ばらけ」を捉えて、むしろ顔面を離れないまくなぎの密集を感じさせる。 

  横顔にして咲きそめぬ沙羅の花
  なかぞらに滝の背骨の顕ちにけり
  峰づくりしてはをれども秋の雲
  ひよん吹けば絮のごときが飛びゆけり

 
 一句目、「横顔にして」とのみに沙羅の花を詠って作者の情感が滲み出てくる不思議。
 二句目、「滝の背骨」というメタフアーは、ダイナミックな一瀑を描ききっている。「なかぞら」もまた一切の邪念を払拭している。
 三句目、夏から秋へ移行する自然のありようを見落とさない。「してはをれども」というゆったりとした呼吸があたりを見渡すかのような広がりを見せて爽快である。
 四句目、「絮のごとき」がすでに切ない。正直な具象は図らずも作者の思惟を伝える。
どの句も、季題そのものへ直截に迫りながら、余白を大きく描いている。

  羽子板に今も青年裕次郎
  初夢の師と問答を交しけり
  右顧左眄せずひたゆくが恵方道
  老梅のくれなゐの艶風生忌
  師を憶ひをれば前山しぐれくる


 敏郎に〈ポスターに裕次郎ゐる氷店〉がある。師が素材としたものはいつも心にかかっているものである。「今も青年」がいとおしい。 
 初夢の中なる師弟の俳句問答、これほどの吉夢はないだろう。 
風生にも敏郎にも右顧左眄はなかった。師の信じた道、人間の命もろとも自然の命をいとおしむ道こそが吉方である。師への思いの深さが継承をゆるぎないものにしている。
 「若葉」は平成十九年九月号で通巻九百三十五号を迎えた。

(2007年10月5日発行「ににん」秋号№28所収)

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by masakokusa | 2007-10-03 22:59 | 師系燦燦 | Comments(0)
師系燦燦 八                  草深昌子
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  飯田蛇笏「雲母」の系譜
    ―――飯田龍太を師として(二)



   ――戦後の俳壇をリードした俳人で、日本芸術院会員の飯田龍太さんが二十五日午後八時三十五分、肺炎のため甲府市内の病院で死去した。八十六歳だった。(中略)代表句に「紺絣春月重く出でしかな」「一月の川一月の谷の中」「大寒の一戸もかくれなき故郷」など――(二月二十八日付朝日新聞朝刊)

 前回、冒頭に飯田蛇笏の訃報記事を掲げたが、今回その(二)も、龍太の訃報記事から始めることになるとは、痛恨の極みである。

  一月の川一月の谷の中  龍太

 龍太の四十九歳の作品である。「なんとそっけない」が第一印象であった。地球を真二つに割って見せられたような光景に、あっと息を飲むしかなかった。人間の無力を思い知らされたようなつめたさも覚えた。だが、その韻律は、老師一喝の如く、屈みそうになる背骨を真直ぐに通してくれたのである。 
 さかのぼること二十年、龍太二十九歳の句に、〈春蝉にわが身をしたふものを擁き〉がある。戦死した長兄の遺児を抱きしめている。人間の温もりを詠うことから出発した俳人は、見たものを感じたものにするために、即ち、人間と自然の調和を図るために、この世の無常と必死の格闘を続けてきたことであろう。ついに、見るべきものを見てしまったとでもいう世界が〈一月の川一月の谷の中〉にはあるように思われる。龍太の一途の思念があきらかにここに現われている。
 虚子に〈去年今年貫く捧の如きもの〉があるように、龍太もまた悠久のありようを瞬時に捕まえて十七音に焼き付けたのである。喜びも悲しみも呑み込んでゆく残酷な時間というものに立ち返るとき「一月」は荘厳である。
 「この世はそっけない。そっけないからこそ、一度だけ生きる人生は、情熱を燃やしつづけなければならない。大自然の形相は悠久にして、その輝きを日々新たにするのだから」と力強くメッセージを発信している。

 平成元年、龍太七十歳近くの頃であろうか、赤茶けた朝日新聞の切り抜き「余白を語る」からは、物柔らかな語り口に、覚悟の坐った龍太が偲ばれてならない。――半世紀近く俳句をやっていながらいまだに一度として才能に自信をもったことがない、そういうものとして今思うのは本物の二流になれたらいいなあ、ということです。これは謙遜と受けとめられるかもしれないが、私はむしろ自負と思っている。本物の二流というのは、一流がきちんと見えることなんですから。俳句は作ること自体楽しみだが、本物の俳句を探し出すのがまた非常な楽しみなんです。この詩型の特殊性で、どこで無名のだれかが一流というか本当の上等の句を作っているか、分らないところがありますからねえーー 

  いきいきと三月生る雲の奧  龍太

 私の愛唱句であった。奇しくも訃音の翌朝に三月はやってきた。その空の奥に龍太の顔が覗かれた。先の龍太の語りを裏返せば、死後にこそおのれの評価を求めたいと思い定めていた顔である。龍太が一流の俳人としてよみがえるのは必然の結果に思われる。

     ☆
 
  
瀧澤和治の『衍』(平成十八年九月刊行)は、氏の第三句集。昭和四十五年、高等学校在学中に「雲母」入会。「白露」編集同人。
 
 五年間の作品、二千二百五句を入集する、平均的な句集なら五冊から六冊分はある。
読破する時間は、モーツアルトのオペラを観劇するにも似た趣向であった。悠々迫らずして引き締まったリズム、綾なす調べは一糸乱れず、最後まで貫通していて飽きさせない。
幕間にワインの小休止をとって、ムードは昂揚してやまなかった。

  花辛夷さなきだに水逸りつつ
  闘牛や然れど古りにし椨の幹
  たとふれば利休が肩ぞ柳の芽
  何ぞさやげる七月の竹ばかり
  しばし休まむ駒草に雨ほとび


 切れ味のよい、硬質な表現、いわゆる雲母調を徹底させながら、こんな古典的な表現を折々にちりばめる、和治調とでもいおうか。独自の文体の美しさにこそ、絵巻はくりひろげられる。だが、いざ抄出するとなると、あれもいいこれもいいと迷ってしまう。
 作者が意図した絵巻物のような体裁は、立ち止まり方を少なくして、一幅一幅を真正面にじっくり鑑賞することをおのづから拒むからである。もとより「衍」とは水がゆったりと流れてゆくさまをイメージしたものというから、いちいち解題するより、典雅な流れを堪能することこそが絵巻の醍醐味であろう。

  初湯より呪文のごときこゑすなり
  冬の川笛吹の名に黝くゆく
  なまよみの甲斐巨摩郡良夜かな
  十月の檻何もゐず誰も来ず
  石をもて土に字を書く小春かな

 
 これらは甲州在住の作家ならではの静謐な顔立ちに思われ、見落せない。
 一句目、蛇笏の〈わらんべの溺るるばかり初湯かな〉に寄り添う。呪文は赤子の声にならないこゑであろうか。朦朦のめでたさ。
 二句目、笛吹川という名の象形や語感が季節感そのものに把握された。
 三句目、万葉集に「なまよみの甲斐の国、うち寄する駿河の国と・・」に始まる富士を称える長歌がある。「なまよみ」は「半黄泉」と書き、黄泉の国への境界という。枕言葉だけで充分にもたせた一句である。他界と現世を交叉する峻峰にかかる名月はいかばかり。 
 四、五句目、「十月」「小春」といった時候の季題を決定的なものにして、鮮明である。

  むかし蛇笏が懐中時計春逝かす
  夏の雲手紙古きは括られし


 一句目、芭蕉の〈行春を近江の人とをしみける〉が、近江でなければならないのと同様、蛇笏ならばこその温もりと艶なるものをしのばせて、春の名残たっぷりである。
 二句目、捨てきれない類いの大切な手紙であろう。夏雲がいっそう純白に立ち上がる。

  碑にレリーフの顔流氷期
  観音の顔十一や氷解く
  親鸞の子のころのこと桐の花
  人形が坐る子の膝天の川
  色鳥や泉の底に踊り砂


 数学の難問を答一発で解き明かすような即時性が決まっている。摩訶不思議な感性。

  鹿の子より返る眼差大和なり

 私の初学時代、二十代の和治はすでに、神尾久美子、丸山哲郎、庄司圭吾と共に時評を担当するなど「雲母」誌の花形であった。
 龍太をかなたに、和治の眼差は深い。

        ☆


 神尾久美子の『山の花』(平成十八年十月刊行)は、氏の第四句集。昭和二十六年、野見山朱鳥に師事。昭和四十六年、飯田龍太に師事。現代俳句女流賞、雲母選賞受賞。「白露」同人。「椎の実」主宰。
   
  葛切や川の千鳥は川に昏れ
  人日の灯ともしてすぐ夕ごころ
  わが影とゐる白玉の冷ゆるまで
  目をやすめ耳をやすめて夜の秋
  火とともに消ゆる火の音秋の暮
  人住むを大地といへり石蕗の花
  煮凝てふ日暮たのしむにも似たり
     雲母終刊
  水澄むや初心問はるること粛と


 昭和五十七年から雲母終刊までの句群には、すでに評価の定まったものをふくめて秀句がひしめいている。第三句集『中啓』以後実に二十六年分という驚きの厳選である。 

  飛魚に嬉々と鰭ありつばさあり
  竹編んで竹籠となる半夏生
  斑猫や人は高嶺をふり返り
  竹筒に山の花挿す立夏かな
  紙魚走りたる一瞬も今日のこと


 夏季の作品より、一句目、飛魚の海面を滑空するさまを「つばさあり」と言いきった。文字通り水を得た飛魚が活写されている。
 二句目、凡手は〈竹編んで竹篭作る〉、とやってしまいそうであるが、〈竹籠となる〉ところが妙である。仕上がった様を見せてこその梅雨さなかの半夏生をこざっぱりと過ごす佇まいが引き立ってくるのである。
 三句目、斑猫が人をふり返れば、人は高嶺をふり返る、その連動するしぐさがいじらしい。高嶺は見張り番のように動かない。
 四句目、龍太の〈春暁の竹筒にある筆二本〉を思う。山の花は師へ心を馳せ参ずる証のようである。この一句から『山の花』とタイトルをつけられた心境はしのびやかにも勁い。まさに立夏のこころばえである。
 五句目、〈尉となる刻がうつくし夏点前〉〈置柄杓切柄杓とて春惜しむ〉等、茶道をたしなまれる繊細な日々の感性は、今日という手触りをかけがえのないものにしている。

  家々に柱の力山眠る
  はるかまで波はよき音室の花
  着ぶくれてわがさみしさに気付きたる
  傘寿こそ華やぐによし寒の蘭
  生涯に恋しき師あり切山椒

 
 冬季の作品より、一句目、暮しを支えるゆるぎない柱。冬山もまた柱に力を貸しているような自然と人々の融合された世界が美しい。
 二句目、何と気持のよい空間であろう。あたたかくて明るくて静けさの室の花。
 三句目、わがさみしさに着脹れているのではない。〈気付きたる〉瞬時の詩情。平俗を俳句でもってぬけきるところが志の高さである。
 四句目、寒の蘭のせつなきまでの香気。
 五句目、「恋しき」というゆたかな表現は新年にいただく切山椒のほのかな色香がもたらした。朱鳥は紅色、龍太は白色であろうか。龍太は句作に迷った時は、「先師に聞きなさい」という懐の深い師であった。
 ところで、久美子五十歳に〈雪催ふ琴になる木となれぬ木と〉がある。この代表句は龍太に師事して二年後に生まれた。作品の焦点は桐の木そのもの、桐の木の気品が際立っていると評した龍太の鑑賞眼は忘れられない。桐の木の気品は、今も作家その人のものとして『山の花』のすみずみにゆきわたっている。
 季題あるところに愛情あり、愛情あるところに人生あり、控えめに表出されたどの句にも作者の泣きたいほどの思いが滲んでいる。

  亡きひとと別れきれざる髪洗ふ

 神尾季羊没後を主宰して十年、「椎の実」は平成十九年三月号で第六百号を迎えた。

        ☆


 丸山哲郎の『羞明』(平成十八年一月刊行)は氏の第五句集。野村泊月に師事ののち、昭和二十六年から蛇笏に師事。「白露」同人。
 
  蛇笏忌の不易の空の蒼さかな
  生涯を蛇笏に執す松の花
  おほけなく師の齢越ゆ蛇笏の忌
  生涯の切所うべなふ梅一輪
  韻文は気合の所産ほととぎす

 
 哲郎は往年の「雲母」の重鎮である。俳句はもとより論評、エッセイ等から後進は教えられた。わけても、昭和五十七年、〈蛇笏はや秋の思ひの中にあり〉等、秀句の数多をのこして逝った松村蒼石追悼の名文は忘れがたい。
 蒼石が、第一句集を刊行したのは七十三歳、九十五歳の天寿を全うするまでにさらに三句集を出したことを、こう締め括っている。
「何という息の長さであろう。確かに人生は短い。しかし一つ一つの石を積むような克明な長命が、人生のウエイトを拡げてくれることを蒼石さんは身を以って示してくれた。私はこの事実を一つの貴重な教訓として厳粛に受け止めたいと思っている」
言葉どおり、哲郎は蒼石に優るとも劣らず先師への純粋を貫ぬいてやまない。平成十四年には『飯田蛇笏秀句鑑賞』を刊行した。
   
 「雲母」終刊をうけて創刊した「白露」は平成十九年四月号で第百七十号を迎えた。
龍太逝去に臨んでの廣瀬直人主宰の悲しみには誰よりも深いものがあるであろう。悲愴なる覚悟のもとに、先達のたどった如く、息の長い道のりをひた進まれるに違いない。
ご加餐をお祈りするばかりである。

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  (2007年7月5日発行「ににん」夏号№27所収)
by masakokusa | 2007-07-03 17:26 | 師系燦燦 | Comments(0)
師系燦燦 七         草深昌子
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飯田蛇笏「雲母」の系譜ーー飯田龍太を師として(1)


  竈火赫とただ秋風の妻を見る     蛇笏
  つぶらなる汝が眼吻はなん露の秋
  秋鶏が見てゐる陶の卵かな
  月光のしたゝりかゝる鵜籠かな
  なまなまと白紙の遺髪秋の風 

 飯田蛇笏は山梨県の土豪に生れた。大正四年に発刊された「キララ」を「雲母」と改めて主宰。俳壇の巨匠として大正時代に一世を風靡した。長男はレイテ島にて玉砕、次男は病死、三男までもが戦地に亡くなるという痛恨の生涯であったが、その逆境への対峙こそが蛇笏俳句の格調の高さであった。昭和三十七年、七十八歳で孤高の俳句一生を閉じた。
 「雲母」主宰を継承したのは四男、飯田龍太である。龍太は、昭和二十九年より「雲母」編集にあたっていた。

  いきいきと三月生る雲の奧   龍太
  雪山のどこも動かず花にほふ
  春暁の竹筒にある筆二本 
  一月の川一月の谷の中
  白梅のあと紅梅の深空あり

 血肉の燃え立つような俳句、高潔にして精気ある俳句、いずれも生きとし生けるものへの賛歌に違いない。その気骨において、蛇笏は動物的、龍太は植物的というのが俳句からうける私の印象である。さらにその色調は、蛇笏は晩秋、龍太は早春そのものである。

 ――「彼の句は正しく古格の句だ。だが、その中に新鮮な感受性が、みずみずしく流れていた。その後蛇笏より新しい試みをした俳人はいくらも現われた。だが、それらの多くも短い一時期の賞玩を博することはできても、その時期が過ぎると、たちまち色あせた。そして、相変らず彼の句だけが新しかったのである」、さる新聞の匿名記事の一節である。そして独善的な現代俳句の相貌を眺めやる時、病床の蛇笏は、「名利を断って、この一筋に賭けた仕事の、すさまじい崩壊のさまを、眼前にする思いではなかったか」と結んでいる。ここにもまた、故人の深い共感のうべないを私は見る。平穏刻明な晩年の病床にあって、おそらくその希求は衰えることがなかったに違いない。――これは、蛇笏の訃報記事を引用して龍太が「雲母」昭和三十七年十一月号に書いたものである。
 龍太は昭和四十年、蛇笏死後はじめて開かれた雲母全国大会で、「人間が偉くあろうとなかろうと、すぐれた俳句作品に敬意を表する以外のことは考えない」「その点蛇笏より露骨である。悪しからず諒承願いたい」と、雲母主宰の姿勢を披瀝している。
 龍太はかねて、「秀品には作者の一番大事なものが秘められている」と記す。
一番大事なものは偶然の様相を示しながら必然的に現れてくるもの。自分さえそれと知らない直感を、俳句という短詩型は他者、鑑賞者が言い当てるもの。言い当てることが出来る修練こそが実作者のよろこび、そこに「俳句の秘密」があるというのであろう。
事実、龍太は作家として昭和俳壇をリードする一方、主宰としての三十年は秀句を見出すことに命を掛けたと言っても過言ではない。
 「雲母」の掉尾を飾る「秀作について」は今もって感動の鑑賞文、俳句の指針である。
 蛇笏を筆頭に古今の作品を通して作家の生涯、ことに晩年を洞察してやまなかった龍太は、「雲母」九百号かつ蛇笏死後三十年を節目に、平成四年八月終刊を決意した。
 蛇笏を継いだ時点での覚悟が、終刊の覚悟まで一途に貫かれていたことは、明白である。

 「雲母」終刊をうけて平成五年三月、「白露」(広瀬直人主宰)が創刊された。
    
       ☆

 友岡子郷の『雲の賦』(平成十七年十一月刊行)は、氏の第八句集で、俳句四季大賞を受賞。昭和二十九年頃より作句、「ホトトギス」「青」同人の後、昭和四十三年より飯田龍太に師事。「雲母」「白露」同人を経て、現在「椰子」代表。「柚」同人。昭和五十三年現代俳句協会賞受賞。

  白南風や船みづからの波を浴び
  漁舟にも人にも齢きりぎりす
  返り花舟路に舟のあらはるる
  難船のごとくに朴の落葉あり
  黄水仙毳だつほどに舟磨き

 『雲の賦』に「雲」の文字は単純に数えて四十余。それにも増して圧倒的に多いのは「船」の一字であった。船また雲は、人また人生であろう、一集の基調になっている。
 一句目、作者は自らの姿勢に恥じることのない胸を南風に突き出している。舳は波を存分に被って速度を上げてゆくのである。

  菖蒲の日父子のごとくに舟を寄せ
  鯔がとび鰡とび父の日なりけり

 一句目、「寄せ」が優しい。菖蒲の日は男の尚武的な気性を養う日であることをふと意識させれた現代の含羞のようである。
 二句目、ボラは出世魚とされ、その幼魚がイナである。たまたま生きる時期をだぶらせて飛び交う魚どちのかがやきを父の日の感慨に受け止めている。釣果は二の次。

  海底に砂かむる魚日脚のぶ
  加齢とは落葉のうへに春落葉
  黒電話も鴨も昔のころのまま
  寒紅梅縁と契とは別ぞ

 作者は、写実の上に感情をすばやく載せる芸に比類が無い。
 一句目、冷たい季感に透き通る日差し。ふっと洩らした笑みが日脚伸ぶの情感である。 
 二句目、木々は春であれ夏であれ人知れず落葉して成長を続けている。人の年齢も又、まったなしの積み重ねである。物事が一つ、また一つ片付いていくのが人生というもの。俳諧の「軽み」を思わせる句である。
 三句目、たまたま田舎などで見かけた関係のない二物であろうが、何がなし因果を考えさせられる。夕闇せまるノスタルジー。
 四句目、人知れぬ火種を隠しもった人ならではの「別ぞ」、「違ふ」ではなまぬるいのだ。同時に、寒紅梅の気品にかかる「ぞ」である。

  日が出でて日の沈むまで桜貝
  澄むものはたやすく濁り青ぶだう

 子郷俳句は、手垢がつかない。宇宙的視野からとらえた透明感溢れる色彩は作者の胸中に失うことのない光彩であろう。

  鰯雲孜々とはたらく生は過ぎし
  天に同じ雲はなけれど銀芒
  うしろから雲ながれくる寒卵
  行雲はあとをとどめずきりぎりす
  けふ咲きし梅けふの雲ながれをり

 『雲の賦』からは、庄野潤三の小説『夕べの雲』が髣髴としてよみがえった。夕映えの雲が、ちょっと目を離すと、もうさっきの色と違っている、今の今迄あったものが、次の瞬間にはこの世から無くなっている。二度と帰らぬ「いま」を書いてみようと庄野は新聞連載を決めた。子郷の書きたかった雲の詩賦もまた、そんな「今」であろう。
 みるみる形を変えながらも、鰯雲のはるけさは、「孜々と働いた生」が未来へ無縁でないことを約束してくれる。さびしさをさびしさとして感受する勁さが雲をかがやかす。
あの世から見ているような銀芒、起上り小法師のような寒卵、しのびやかな螽蟖、それぞれが雲のありように深く結びついている。
 「ゆくりなく己が耳目にふれたものは、必ず己が内なる求めに関りがあるにちがいない」とあとがきにある通り、作者の念いと季題は切っても切れない縁につながっている。

  松は知の謐けさに冬来たりけり

 〈跳箱の突き手一瞬冬が来る『日の径』〉、氏の代表作から茫々三十年。「松は知の謐けさ」は子郷の如し。松の緑には不動の信念がある、覚悟の決まった謐けさである。子郷四十代の時代であったろうか「雲母」誌における鋭敏な俳句理論は強く印象に残っている。

        ☆

 廣瀬町子の『山明り』(平成十八年五月刊行)は、氏の第三句集。昭和三十年「雲母」入会。蛇笏、龍太に師事。「白露」創刊同人。

  湯ざめしてすこし早寝の山明り
  父の音子の音葡萄剪定す
  家々に山の寄り添ふ桃の花
  初氷甲斐は足元より晴るる
  落し文富士に大きな雲を吊り
     師に
  山住みの秋暑き日々いかばかり

 廣瀬町子というと「平成女流俳人」(平成三年刊行)グラビアの端正な着物姿が忘れられない。この度、その頁を開いてはっとした。
「町子俳句は自我をださない。声高でない。真実を詠うという辛抱勁さがかくまでさりげなくできるのは驚きである。解ってもらおうとする気持がどこにもないからであろうか」と、『山明り』の読後すぐにメモに書き留めたが、その印象をしかと裏づけるような町子の文章に出会ったのである。
 ――身の丈以上のことを希ふというのではない。たとえどれほどのことであろうとも、こころに念じていなければ何も生れてこないだろう。ひたむきで、さり気ない、しかも辛抱強い日常の心と言ってもいいだろうか――
 これは日本一の巨木、神代桜の満開の下で、「念ずれば花ひらく」という言葉を念頭にしながら俳句の姿勢を述べている一節である。
 どの句も、そのひたむきの心が風土を浮き彫りにする。
 一句目、下五の「山明り」が鮮やかな展開を見せて美しい。楚々として芯の通った一句は、作者その人の立ち姿である。
 二句目、「日本の内にては甲州上こすなし」と言われる葡萄の産地。親子は豊かな収穫へ怠ってはならぬ鋏の音をひびかせている。父のパキン、息子のパキン、パキンパキンの交響はどこまでもたのもしく着実である。
 六句目、読者をも山盧へいざなってくれる。龍太師への万感の思いは「いかばかり」そのひとことにつきる。

  夏逝くや櫛にしみつく髪油
  ほどほどに豆撒いて古稀過ぎにけり
  一族の顔が旅する薄暑かな
  朝涼の抜いて手に揉む躾糸
  白菜を花のごとくに割つて干す

 素顔にも甲斐の山気が張り付いている。
 一句目、黒髪に欠かせられない黄楊の櫛に椿油。盆地特有の溽暑の倦怠が「しみつく」。
 二句目、「ほどほど」の措辞はいかにも古希らしい興趣をかもしだしている。
 三句目、常日頃見慣れた顔が非日常の旅にあって意識されてならない。「顔が旅する」とひねったところが薄暑の汗ばむような感覚。
 四、五句目、季節感の把握は、指先にまで神経がゆきわたっていて明快である。

  若葉してみな生きてゐる匂ひかな
  いつか死ぬその日は知らず初湯かな
  人生きて墓あり桜咲いて散り
  たかだかといのちのあり処桐の花

 生死を心に、「みな生きている」と実感できる自然との共存。気品も香気も艶めきも、自然は人と渾然一体となって匂い立っている。

    福田甲子雄様蛇笏賞受賞
  花吹雪ひたすらに来し道定か  
    病中の福田さんに
  日脚伸ぶいま食べること眠ること
    追悼 福田甲子雄様
  思ひ起こせば夕焼の八ヶ嶽
 
 広瀬直人と共にあった甲子雄への祈りはあまりにも切ない。『山明り』は、他者への心寄せのゆきわたった一集であった。

       ☆

 ここで結びに、福田甲子雄の『師の掌』(平成十七年六月刊行)から、一句を掲げたい。

  わが額に師の掌おかるる小春かな 甲子雄

 氏は、昭和二十二年「雲母」入会、昭和三十八年から終刊まで「雲母」編集部に拠り、終刊後は「白露」創刊に尽力。平成十六年、第六句集『草虱』で蛇笏賞受賞の後、病臥。平成十七年四月長逝、七十七歳であった。

 師の掌を額に、「主人は悦びと畏れのなかで、どんなことをしても元気になって先生のお気持にお応えしたいと強く思ったに相違ありません。そのことに思いを致すとき、今でも胸が潰れる想いでございます」、亮子奥様のあとがきである。その言葉と共に一句は師弟の最高のありようを物語って、私も又泣けてならない。だが、蛇笏龍太父子に渾身師事した俳人の最期は、なんと至福の表情であっただろうか。龍太に、甲子雄に、敬意を表するばかりである。

        ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

※編集後記※

 飯田龍太先生が亡くなられた。私の初学の師であった。何故だか先生はいつまでも山盧に生き続けてくださるものと思い込んでいた。今回の「雲母の系譜」はご逝去の前日に書き上げたもので、只々驚きと悲しみでいっぱいである。
  山川のとどろく梅を手折るかな  蛇笏
  白梅のあと紅梅の深空あり    龍太
 龍太俳句は、蛇笏の情熱が裏打ちとなっていた。蛇笏を抱きしめて甲斐の風土もろともにその生涯を全うした俳人は、早春のイメージに違わず、梅明りの深空を昇っていかれた。
 合掌。 (草深昌子)

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  (2007年4月5日発行、「ににん」春号第26号・p48~51所収)                   
by masakokusa | 2007-04-14 18:20 | 師系燦燦 | Comments(0)
師系燦燦 六         草深昌子       

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波多野爽波「青」 ~ 田中裕明「ゆう」の系譜

   青といふ雑誌チューリップヒヤシンス 虚子
   チューリップヒヤシンスのち梅椿   〃


 「青」の創刊当初、晩年の虚子が、愛弟子波多野爽波へ贈った二句である。爽波は、昭和十四年学習院中等科時代にホトトギスに投句、高浜虚子に師事した。昭和二十八年、爽波三十歳で「青」を創刊している。

  鳥の巣に鳥が入ってゆくところ 爽波
  瓜刻む気兼ねの音の聞えくる   〃
  赤と青闘ってゐる夕焼かな    〃
  金魚玉とり落しなば舗道の花   〃


 爽波の第一句集『舗装の花』(昭和三十一年刊行)の扉には、「写生の世界は自由闊達の世界である」というエピグラフがある。 
 多作多捨を身上とする爽波は、もとより即諾明快であるが、一刀両断の伐り口を見せるというよりは、刻々の移ろいを見せてデリケートである。その美意識は際立って鮮やかな原色である。原色は多くの他の色を産み出す元であるから、多くの俊英を輩出したのも、もっともなことかもしれない。
 第二句集『湯呑』(昭和五十六年刊行)は二十六年間の作品を収めた超厳選句集である。
 
  ちぎり捨てあり山吹の花と葉と 爽波
  鶴凍てて花の如きを糞りにけり  〃
  あかあかと屏風の裾の忘れもの  〃


 「素十俳句の特質に対する充分な理解と共感なくしては、俳句という詩について共に語る資格に欠けるとまでいえる」と述べるほど素十に傾倒したが、どこまでも爽波は爽波の句である。

 田中裕明は昭和五十二年、十七歳で爽波に師事、師の死後九年を経て平成十二年一月に「ゆう」を創刊した。昭和五十九年、「青」で指導を受けた大峯あきら氏他が創刊した同人誌「晨」に参加している。

  一身に心がひとつ烏瓜     裕明
  目のなかに芒原あり森賀まり  〃
  海亀の涙もろきは我かと思ふ  〃
  浮寝鳥会社の車かへしけり   〃 
 
  その一角が大文字消えし闇   〃

 「ゆう」創刊五周年記念号と、第五句集『夜の客人』を病床で見とどけた裕明は平成十六年十二月三十日に長逝した。明けて元朝には年賀状とともに遺句集が手元に届けられるという驚愕の訃音であった。四十五歳であった。
 死の直前、「ゆう」平成十六年十二月号巻頭に据えた、岸本尚毅氏の一句に対する裕明主宰の次のような選後評がある。

  秋澄むや木の葉のやうな木の葉蝶 尚毅
 木の葉のような擬態を見せるので木の葉蝶という名前がついています。だから、「木の葉のやうな木の葉蝶」とは、あたりまえのことを言っているようですが、言葉とリズムの面白さがあります。(中略)秋澄むという季語の見極めが、詩情を生みました。句作りの中で、季語を選ぶのではなく、季語に選ばれるというか、季語のしもべということを感じますが、季語のしもべということを突き詰めていくと逆転して思わぬ自由な場所に出てくることもあって面白いですね。

 ここには、「俳句は詩です。詩は言葉で作ります」、そんな自身の思いに、一句をかみしめるように味わっている裕明がしのばれる。 
 何時のときも変わらぬ、ですます調の文体は、物柔らかな裕明の風貌そのものである。

  尚毅居る裕明も居る大文字   爽波

 昭和六十二年、爽波六十四歳の句である。岸本尚毅氏はこの年に結婚、裕明は前年に結婚している。即興であろうが、「青」の若手の双璧を指し、爽波の存在を大文字でもって読者に呼びかける重量感はさすがである。
 「ゆう」創刊に尚毅氏も一投句者として加わった。一人は、選者を見定めた実作者として、一人は、鑑賞は創造にほかならいと考える真の選者として、二人は拮抗した。

            ☆

 加藤喜代子氏の『霜天』(平成十七年十二月刊行)は、氏の第二句集。昭和四十九年「青」入会。「ゆう」の前身である水無瀬野句会から田中裕明に師事。「晨」同人。

  花冷や君が手帖の小さけれど
  握り飯食ふ顔上げよ草の花
  茶の花の全きがごと癒えたまへ
  寒き耳もつともひとを覚えゐる
  よき父とおもひ見送る落葉かな
  文机にせまりて崖のさむさかな

 
 吟行における喜代子氏の姿勢は対象を見つめて微塵も動かない。物静かに目を凝らす時間は、対象が「われ」にゆきわたってくる時間であろう。「われ」が明らかであるからこそ臨場感が生れるのである。
 六句目、季語に本情があるように、「もの」にも本情があることを「崖」という言葉に気付かされる。崖に象徴される何かに訴えて、読者にも凛然と立ち止まらせる空間がある。

  桜の木ひかりそめたり十二月
  羅やいのちのながき山の木々
  ふるひたつものを欲りゐる網戸かな
 

 一句目、行きずりに見る細部ではない。日常が即ち俳句の日々、敬虔な日々でなければ発見できないひかり。年の終りに、来る年への希望を自然の姿がもたらしてくれる。
 二句目、羅の透き通った涼感にやすらぐ。ここでも人の世の頼りなさが、大自然の木々に支えられて奥行きがある。
 三句目、奮い立つものは灯蛾などであろう、作者は網戸になりきっている。爽波の晩年に〈老人よどこも網戸にしてひとり〉があった。爽波のような寂寥感はない、もっと意欲的である。

  鶯や米原の町濡れやすく
  国原のうつくしきとき田を植ゑて
  ついてゆくこと嬉しかり霜柱
  ついてゆくことかなはざり霜柱

 
 喜代子氏は、鎌倉から京都の裕明主宰の句会へ十一年間通い続けた。前二句はその往き来の新幹線の車中吟であろうか。句会の緊張や興奮をひそめた瑞々しい情感は、先に掲げた爽波の句に通っているところもうかがわれる。
 三句目、信頼の裕明師へ寄せるよろこびは眩しいばかり。そして、終に悼句が一集の掉尾となってしまった。


           ☆

 満田春日氏の『雪月』(平成十七年六月刊行)は、氏の第二句集。昭和五十八年から二十年間、高橋悦男主宰の「海」所属。平成十四年「ゆう」入会。平成十八年季刊誌「はるもにあ」創刊主宰。
 
  千両や働かぬ日も飯うまし
  人に逢ふための早起き室の花
  薄氷や組み立てて吹く弦楽器
  クロノスの鎌落ちてゐる秋旱
  色変へぬ松レコードの針落す

 
 一句目、満目蕭条たる冬のさなかに真っ赤な実をかがやかせる千両のありようが、〈働かぬ日も飯うまし〉、の如しであり、〈人に逢ふための早起き〉もまた、温室に早々と咲いた麗しき花の如し、と印象されるのである。季語を万全に詠いながら、背後に控えめに作者その人がすっくと立ち現れてくるのが清々しい。
 三、四、五句もまた、裕明作品の際立った特質を思い起こさせるものである。関係のない二つのつき具合に全く別種の新たな詩情が湛えられることにおいて・・。「強く離れて強く即く」は爽波の謂でもあった。
 
  子がありて少しく貧し秋の蝶
  長子とて落葉を蹴つて怒るなり

 
 愛情たっぷりに育てられた子供を思う。無駄遣いをさせな 、華美に育てない、地味ながらも心の晴れやかさを大切にしている。秋の蝶が動かない。蹴るものが石でも虫でもなく、落葉であることの長子としての賢さ。

  諦めの明るさの猫じやらしかな
  君泣くと水盤の水ふるへをり

 
 忠実なわれの心を言葉に移し変えている。その心はもののかたちとして現れているものである。ものと心と言葉が一体になっているからこその詩性。猫じゃらしにも、水盤の水にも命が吹き込まれたのである。写生は、人、もの、人の心、ものの心を抜きにして写すことはできない。写生の裏打ちに主情が濃く張りついていることも、ときに強みである。

  玉砂利に深きところや夏落葉
  玉砂利にささつてありし木の実かな
  柿潰れとなりの柿を濡らしけり
  柿の実の先の柿の葉ひらひらす
  鰭ぎはの身のふくらめる櫻鯛
  ぺらぺらの襟ごと吹かれ赤い羽根

  
 質感も量感もある名画を見るようである。もとより、右のものを左に移しかえるだけが写生ではないが、ありのままを、ありのままであると認識させるほどにその実体を伝えるのは至難である。ディテールの背後に奥ゆかしい余白がたっぷり描かれている。
 「ゆう」創刊のことばは「季語の本意と写生を軸に」「そこで大切にしたいのは詩情ということ。孤独な創作の産物である俳句が、人に伝わるのも詩情がそこにあるからです」
短時にして「ゆう」の精髄をすでに俳句に現出させた春日氏は、取合せの手練も、一物仕立ての写生眼も一朝一夕のものではない。

  寒の水松葉一本づつひかり
 
 裕明の「ゆう」創刊と前書きのある句、〈寒の水この手にうけむこころして〉を胸中にする句であろう。ふと、〈松朽ち葉かからぬ五百木無かりけり〉という石鼎の絶句が思われた。こんな師の側からの末期の風がよし吹いたとしても、弟子の一人一人は真摯にあの細い針の松葉を輝かす存在であり得る。寒の水が立証している。

           ☆

 対中いずみ氏の『冬菫』(平成十八年四月刊行)は、氏の第一句集。平成十二年「ゆう」入会。「椋」「晨」同人。

  爪先に波の泡くる初昔
  みづうみに風走りけり御涅槃
  波の日の近づいてくる桜かな
  みづうみの水遡る桜かな
  足音のやうに波くる芒種かな

 
 石田郷子氏は栞文に、芭蕉の〈ものの見えたる光、いまだ消えざる中にいひとむべし〉を引いている。いまだ消えざる中にいひとむ、とは、瞬時の作業である。
 堅田在住の作者にとって、湖は日常のすみずみまで沁み渡っている。ものを見る前に有り余る私があって、その上にものを見る、作りに作っているうちにふっと私が消えてなくなる、無私の光がさすのであろう。

  百合鴎よりあはうみの雫せり
  今年藁夜空を白き鳥ゆけり
  手から手へうつして螢童子かな
  白き指のみみつめをり龍の玉

 
 第二十回俳句研究賞受賞作品である。一、二句目、淡海の空は美しく大きく絶えず白光している。三句目、裕明がかって史上最年少で角川俳句賞を受賞した作品のタイトル「夢の童子」が心中にあったに違いない。〈手から手へうつして〉には濃密な闇が流れている。
 四句目、〈詩の神のやはらかな指秋の水 裕明〉を悼む鎮魂の眼差しである。
    
  雪兎おほきなこゑの人きらひ
  夜を寒み言葉貧しくありにけり
  言の葉のうるさくなりて泳ぎけり
 

 内省する抒情の人であろう。

  青葡萄繭のごとくに雲光り
  かほ赤き氷の上の魦かな
  屋根瓦越えてはためく芭蕉かな

 
 季語の本情をすばやく見抜いている句である。三句目、繊細に図太さが生れそうな気配が感じられてたのもしい。

  さきほどの冬菫まで戻らむか
 
 ――今まで歩いてきた風景が気になることがよくあります。きっとそこに自分の一部を置いてきてしまったのでしょう(中略)戻ることができるのは稀有なることで、ほんとうは過ぎ去ったものはかえりません。だから輝くのですーーこの裕明の鑑賞をひいて、あとがきに「いつまでも心に残る言葉です。以て集名といたしました。」とある。裕明の鑑賞は裕明の詩である。命を吹き込まれた冬菫は一集の基調となって、限りなく透明である。

 裕明が何時の折か、師が後世に残るのは、弟子を育てたかどうかというより、やはりその人の作品が残るかどうかであると語っていたのも、裕明の人柄であろう。爽波の作品は、裕明という偉大な弟子を持ったことによって顕彰されてきたのは明らかである。
 裕明は「ゆう」選後評にもっとも多く爽波の句を引いて、また素十の句を引いて学ぶべきところを丁寧に伝える仕事をしてきた。それでいて師とは全く別個の田中裕明俳句を打ち立てたのである。

  冬木立師系にくもりなかりけり 裕明

 「ゆう」を創刊したときすでに発病の危機にあったことを年譜を見て知った。裕明は師を継ぐことに命を賭したように思われる。

  小鳥來るここに靜かな場所がある 裕明

 平成十八年四月、「ゆう」の五名が同人誌「静かな場所」(森賀まり代表)を
創刊した。

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  (2007年1月5日発行・「ににん」第25号P62~65所収 文頭写真は波多野爽波。
   文末の「ににん」表紙は2007年冬号vol.25・創刊六周年記念掌論特集)
by masakokusa | 2007-01-01 01:29 | 師系燦燦 | Comments(0)
師系燦燦 五               草深 昌子
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 「夏草」の系譜――山口青邨を師として

  祖母山も傾山も夕立かな     青邨

 「青邨は単純で一本調子で質実で感情の襞がおおまかである。風生が女性的なのに対して、青邨は男性的である」、山本健吉の言だが、はたしてそうであろうか。

  みちのくの雪深ければ雪女郎 青邨 
  初富士のかなしきまでに遠きかな 〃
  紅粉の花おはんの使来れば剪る  〃
  初花の紅粉花をいとしみ人に秘す 〃


 山口青邨は、明治三十年五月、五歳になったばかりで母に死に別れ、叔父夫妻の下に育った。いとしみこそ母への思い。青邨には自然をいとおしむ句が多い。かなしさもまた自分の力ではとても及ばないと感じるいとおしさである。恋の句が多いのも、母恋であろう。

  唖蝉も鳴く蝉ほどはゐるならむ  青邨
  雪の野のふたりの人のつひにあふ 〃


 感情の襞がこまやかで、内部に愛憐の情を隠し持っている。こういう抒情があればこそ、いかにも一本調子のようでありながら質実剛健の句が成せるのである。

  雪深く南部曲屋とぞ言へる  青邨

 調べそのものに強い心情、詠嘆が打ち出されている。雪深くの凄み。この省略。みちのく出身、青邨のもっとも特徴的な一句と思う。

 青邨は、大正十一年高浜虚子に師事し、秋櫻子、風生、誓子らと東大俳句会を興した。昭和三年、ホトトギス講演会で「どこか実のある話」と題して虚子の前で、秋櫻子・素十・青畝・誓子のイニシャルから四S提唱をしたことはあまりに有名である。秋櫻子と素十の確執に対しその両立を叫んだ青邨であったが、虚子は素十に軍配をあげたのであった。折しも昭和四年、虚子は「花鳥諷詠」を明快に、完成された俳句観として世に示した。
 青邨は、昭和五年、盛岡で「夏草」を創刊。ドイツ留学を経て昭和十四年東大教授に就任した。

  銀杏散るまつただ中に法科あり 青邨
  こほろぎのこの一徹の貌を見よ  〃


 東大の正門を入ったら俳句のハの字も言わず、昼飯抜きで研究室にこもった青邨は、独自の心の躍動を抑えることなく果敢に実直に俳句に立ち向かった近代俳人である。
 山本健吉の「青邨は男性的である」は、けだし至言に違いない。

            ☆

 深見けん二氏の『日月』(平成十七年二月十日刊行)は、
氏の第六句集で、詩歌文学館賞を受賞。昭和十六年、高浜虚子に師事。昭和十七年、東京大学に入学、山口青邨に師事。平成三年季刊誌「花鳥来」創刊主宰。

  先生は大きなお方龍の玉  

 けん二氏が十九歳で入門した時、虚子はすでに六十七歳、ほぼ半世紀の年齢差がある。まさに雲上人でありながら、「俳句座談会」での面授を通じて師弟間の心理的距離を縮められたのであろう。昭和十六年の虚子の句に、
 <之を斯く龍の玉とぞ人は呼ぶ>、〈燭を継ぐ孫弟子もある子規忌かな〉、昭和十四年に〈龍の玉深く蔵すといふことを〉がある。
 龍の玉は文字通り画竜点睛の光りである。

  俳諧もこの世のさまも青邨忌
  青邨忌までのしばらく十二月


 「俳句も年々進歩している。時代と共に進んでいる。ただその動きは極めて徐々で、氷河の動きみたいなものだ。俳句は、十年も百年も先走りできる詩ではないようだ」というのが青邨の俳句観である。ダイナミズムを感知する俳人をしみじみと偲んでいる。青邨は昭和六十三年十二月、九十六歳で長逝。

  野遊の弁当赤き紐ほどく
  真ん中の捧となりつつ滝落つる
  朝顔の大輪風に浮くとなく
  覚めて又いつからとなく浮寝鳥


 メリハリが利いてかつ悠々としている。目に見えて、音に聞えて、感触があって、美しくゆかしく臨場感そのものである。ゆえに、一瞬これなら私にも出来そうだと思わせる。これこそが名句の条件である。だが金輪際できない。どこが違うのであろうか。「平凡な表現に深い心を湛へる句。それは授かる句である」は昭和二十四年のけん二氏の言葉である。

  ゆるむことなき秋晴の一日かな

 パーンと張った帆布の如き清涼感はどうだろう。作者の風貌そのもののようである。句歴六十有余年をかけて、花鳥諷詠とは季題の文学、俳句とシノニムであると繰り返し巻き返し虚子から直伝されたことを、一心に磨いてきた光と力強さにあふれている。まさにゆるむことのない確固たる信念の人にして授かり得た名句である。

  流燈を置きて放さず川流れ
  糸瓜忌や虚子に聞きたる子規のこと


 虚子が子規から「自らを恃む」ことを感化されたように、けん二氏もまた虚子から信念を曲げぬことを引き継いだ。俳句の選手を作るよりも、人間としての完成を望んだ子規に『日月』は応えるものであろう。
 「川流れ」は日月であり、代々継がれてゆくこころざしの光陰でもある。

  家訓とてなくて集まる二日かな
  社運かけ二十数名初詣
  はるばると通ふ効能土用灸


 ユーモラスな句にも気品がただよう。

  人はみななにかにはげみ初桜

 俳人協会賞を受賞した『花鳥来』の中の、愛唱してやまない句である。私に俳句を勧めた母は初めにこう言った、「主観を客観で言うのが俳句ですわ」。その一言以来、私は客観という即物具象の裏には、何か伏せたものがあらねばならないと考えた。主観と客観にこだわりすぎたかもしれない。ここには「客観を主観で言う」ともいえる俳句がある。主観も客観もない、自他一如。季題に何を見たか、読者にかくまで伝わるのは言葉が言葉だけのものではないからだ。胸の底からこみあげてきた一瞬のひらめき。人と初桜のあざやかな出会いが花鳥諷詠の恩寵にほかならない。

  今日に如く冬麗はなし友来り

 一面識もないにもかかわらず、存じ上げているような錯覚に陥るのはけん二氏の俳句からは、けん二氏がたちのぼってくるからであろう。まるで、花鳥諷詠は、深見けん二氏その人とシノニムであるかのように。

            ☆

 斎藤夏風氏の『禾』(平成十七年六月刊行)は、
氏の第五句集。職場吟行会の機縁で山口青邨に師事。昭和二十八年「夏草」入会、昭和四十年同人、以来平成三年終刊まで「夏草」編集を担当。昭和六十年「屋根」創刊主宰。

  霜晴や津々浦々といふ言葉

 霜晴がすばらしい。何物にも置き換えられないと思われる。何故そう思うのか。その答えは夏風氏自身が語られている言葉に尽きる。
 「頭で考えただけで表現された言葉と、思いがけず出くわした事実から表現された言葉とでは同じことばでも読み手の方で、つくりものか、事実としてのものか自然に判ってしまう。そうした本能を人間は本来的に生得して生まれてきた」、だから少ない言葉で眼に見えぬ感情すら感得できるのだという。この発言は、『禾』であきらかに立証されている。

  六十の春は運動靴履いて

 フットワークのよろしさは格別である。
 前書きをみると、尾瀬、黒羽、琵琶湖、福井、遠野、最上川、比叡、奈良、北上、花巻、見沼、山寺、淡路、阿波、備前、熊本、阿蘇山、富山、伊勢、五島、釜石等など、まさに津々浦々。「現場立ち」なる理論の実践である。

  赤米の禾のさやかを露に見し
  出穂といふひたに縮みてゐたるもの
  すこやかな種は沈みぬ種浸し
  田植機に豊かに乗りて名もなけれ


 わけても稲に関わる「現場立ち」の句群は、瑞穂の国の瑞穂の尊さをひそめて『禾』の味わいを豊かに醸し出している。〈さやか〉〈ひたに〉〈すこやか〉〈豊か〉、噛むほどにうまみを増し、飽きることのないお米の味わいである。ことに田植機の句は斬新、農に携わる人の颯爽たる姿に感動する。
 
  鴨鍋のたぎりの渦といふがあり
  御宿帳埃もあらず黴びにけり
  夕蝉や泣きしおつるの朱が綺麗
  阿波をどりの手のつき出しの猛稽古


 旅という非日常にあっても夏風氏は常住の如く落ち着いている。行き届いた観察は寂寞として風土への郷愁をさそう。

  この子まだ襁褓はとれぬお年玉
  初花や魚を描いてベビーカー
  水羊羹この子食べ方うつくしく


 非日常の句群のところどころに句読点のように打ち込まれた日常吟に心からやすらぐ。それらは初々しい透明な光を放っている。
  
   北上 雑草園
  師の居間といふ気安さに春障子
   盛岡
  紅粉花の盛りを挿して師のお墓

 杉並区にあった青邨宅「三艸書屋」は、紅粉花も栽培した「雑草園」と共に北上市の日本現代詩歌文学館に移築された。「三艸書屋」は、青邨の選鉱学である固体・液体・気体の三つの相を研究する書斎、つまり三相書屋を文学的に三艸と称したものである。夏風氏もまた「屋根」一号から三艸文の掲載を継続、すでに『三艸春秋』一書にまとめられている。

            ☆

 黒田杏子氏の『花下草上』(平成十七年十月刊行)は、
氏の第四句集。山口青邨に師事。平成二年、「藍生」創刊主宰。第一句集『木の椅子』は、現代俳句女流賞、俳人協会新人賞。第三句集『一木一草』は俳人協会賞。
 
  一介の老女一塊の山櫻

 青邨に〈一茎の水仙一塊の冬菜かな〉がある。絵に見るような静謐な世界が描かれている。杏子氏の句は、見えるというより気息を固体に凝縮したようなかたまりが感じられる。並列でなく重層的である。表現から訴えてくる実在感の強みは共通しているが、その表情は全く別仕立である。青邨のオブザベーションは、杏子氏の自己観照でもある。

  おへんろのわれ花の下草の上
  濡るるともなき花冷の山河かな


 杏子氏は、大学入学と同時に青邨に指導を受けたが、卒業、就職を機に俳句とは縁を切った。二十代にして、自分の一生を貫くに足る表現形式は何であるかと自らに問い掛け、十年の中断の後に再び俳句を選びとったのである。以来多年にわたる桜花巡礼、遍路吟行等ゆっくり・じっくり・焦らず・のんびり、自己発見の「行」はいま尚続いている。

  なほ染めぬさみだれ髪でありにけり
  原稿は手で書くゆふべ水打つて
  五十九のわれにおどろく菊根分

 
右顧左眄することなく私流の生き方を貫く姿勢は清々しい。髪を染めないのは、精神性の高いおしゃれ。打水は書き物にひと息が付いた実感であり、水茎がいかにも涼しい。そして、〈初老とは四十のをんな浮寝鳥〉の衝撃的な一句からはや還暦へ、「私」はより切実に、より美しく自身の手を土に汚している。

  三光鳥大瑠璃小瑠璃閑古鳥
  阿彌陀経山水鳥語蓬餅
  女書生老婆山姥飛花落花


 氏のもんぺスーツはつとに有名である。その直線裁ちの装飾をほどこさない機能的なスタイルは、そのまま杏子俳句のスタイルでもある。「俳句は人なり」あらためてその文体の潔さに感じ入った。名詞尽くしの名吟は枚挙にいとまがない。読者に感動を投げ打ったようなところが愉快、爽快である。

  隠岐にありやがて散りゆく花にあり
  はるかなる火の音はるか大文字
  栗ごはんぎんなんごはん流れ星

 
 ときに流麗、ときに悠久、ときに明快、絵巻風に展開してみせるリフレーンの絶妙。

  瀧落ちて月光那智にあふれしむ
  瀧音の秀衡櫻とぞ申す
  螢火のひらいづみとはなつかしき


 これらの固有名詞の一句全体にしみ通る主情の冴えは、無機質のようで豊かな詩情を蓄えている。感覚の冷たさが上質の情緒。

  水澄んでこの世永しとおもひけり
  真清水の音のあはれを汲みて去る


 一集は出会いと別れを宝物とする一途さに貫かれている。〈水澄む〉、〈真清水〉の透明感は、昨日今日に始まったことではなくて、二十代からの人生への思いの深さの延長線上、ひたすら継続して感受されたもの。

   古舘曹人大兄は
  亀鳴くと孤りの筆を折られけり
 
 杏子氏が聞き手となった『証言・昭和の俳句』には読むたびに感動がある。これによると、曹人氏は昭和二十九年、三十四歳にして「夏草」編集長に抜擢され、平成六年、句作の筆を折って小説に取り組まれた。
 曹人氏は、その編書『山口青邨の世界』に青邨文学一代論の章をこう締めくくられた。
――青邨の生きざまがまさに西行の「蹤跡なし」ということで、足跡を残さない青邨のことが私は最近になってわかってきた。世の毀誉褒貶の中で、死後に備えず、死後を考えずに生きることが、最も潔い生涯なのである。「文台引き下ろせば即ち反古なり」芭蕉の一期一会がまさに「蹤跡なし」なのであるー―

 青邨につながる人々の感慨は深い、まこと「師弟は三世」を思わないではいられない。

 (2006年10月5日発行、「ににん」第24号p64~67所収、文頭の山口青邨の写真は日本現代詩歌文学館(盛岡市)提供)
by masakokusa | 2006-11-23 17:59 | 師系燦燦 | Comments(0)
師系燦燦 四              草深昌子
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 「ホトトギス」の系譜――高浜虚子直系     

 高浜虚子が帝国大学生であった正岡子規に交友を求めたのは、明治二十四年五月であった。子規からの「請ふ国家の為に有用の人となり給へかまへて無用の人となり給ふな」等としたためた返書について、後年虚子は「余をして心を傾倒せしめる程美しい文字立派な文章であった」と述べている。まさに虚子が文学にのめりこむ決定的瞬間となったこの書状は、今も墨痕鮮やかに虚子記念文学館に見ることができる。
 松山版「ほとゝぎす」を虚子が継承し、東京から第二巻第一号を発行したのは明治三十一年十月、一、五〇〇部は即日完売し五〇〇部を再版している。  
 虚子は昭和三十四年四月に大往生をとげたが、六十年余にわたり虚子と共にあった「ホトトギス」は、長男年尾へ、その次女稲畑汀子氏へと三代にわたって継承され、日本最古最大の俳誌となった。一五、〇〇〇部発行。平成十八年七月号で、通巻一三一五号。

            ☆

 坊城俊樹氏の『あめふらし』(平成十七年十二月刊行)は、
氏の第二句集。「花鳥」編集長、「ホトトギス」同人。虚子を曽祖父にもち、祖父高浜年尾のもとで俳句を始めた。母、坊城中子氏は「花鳥」主宰、年尾の長女である。
 「花鳥」は昭和二十年、虚子が伊藤柏翠に任せた虚子直系の結社で、平成十一年坊城中子主宰に引き継がれた。平成十八年七月号で、第五〇四号。

  風車ひとつかなしやもひとつも
  金閣寺よりひらひらとかげろへる
  鯉の口より一片の花浄土 

 
 典雅な調べにのせて、花鳥たる感覚は透き通った品位に満ちている。
 一方で、「天才ある一人も来れ、天才なき九百九十九人も来れ」と虚子が普及せしめた俳句の大衆性をとりもどそうとする意欲に満ちている。新鮮なアマチュアリズムの回復である。

  すたこらと寒明けてをり猿股も
  敬老の日の喉仏喉仏
  セントバレンタインデイと独り言
  雪女くるべをのごら泣ぐなべや


 月並みから解放されて本来のおどけを無邪気に発揮しようとする。こんなアイロニーやウイットにも艶なる感性は隠しようもなく現れている。

  その中にもっとも白き夏帽子

 花鳥諷詠の士は、謙虚なたたずまいながら、もっとも秀でて純白である。

  雨のまた饐えて立夏となりにけり

 この句はかつて安部完市氏が新聞紙上で、降る雨に饐えた匂いを直感した個性の一句であると褒めたことで印象に残っている。紙上での俳句討論の後、俊樹氏は「即物と物の霊性」を俳句創作の手段とすることを確認している。

  やはらかく鯛と西日を煮てをりぬ
  夕焼を堕ちてしまひし夕陽かな
  散る花のなほ薄墨となりきれず


 滅びへの美学、死生観というものが根底に強くある氏であろうか。立夏の「饐えて」の把握にもその情念はつながっているようである。氏の言う霊性、スピリチュアリティとは、あくまで実体に即してこそ、想念の魂をこめてこそもたらされるもの、インスピレーションあるいはひらめきと解してよいだろう。どの句も、物と心と言葉が渾然とやわらかに煮含められて、季題そのものがその人に乗り移ったようである。

  蟻穴を出て二匹となりにけり
  丑三つの厨のバナナ曲るなり


 ―人生とは何か。私は唯日月の運行、花の開落、鳥の去来、それらの如く人も亦生死して行くということだけを承知しています。私は自然と共に在るということだけを承知していますーそんな虚子の天地が彷彿としてよみがえる。
 一句目、二匹の単純さに笑ったあと、背後につながっている天地有情の深みを思わないではいられない。二句目、草木も眠る丑三つ時のバナナは生きている。ややに身を折ってそこに存在する意思が生きることのあわれでもあるかのように。虚子に〈川を見るバナナの皮は手より落ち〉がある。同じバナナでもこれだけ顔が違う。だがこの世の法則につながっているバナナは一つ。

  虚子の忌の極楽行の人ばかり
  読経いま歌のやうなる西虚子忌

 
 虚子忌法要は四月八日に鎌倉の寿福寺と、もう一つ、虚子の遺志により亡くなった年の十月十四日、十三夜に比叡山横川の虚子之塔に分骨がなされたその日を記念して行われる。立子の〈この後は西の虚子忌と申さばや〉の句以後、西の虚子忌と呼ばれる法要である。
 虚子逝ってはや半世紀が経とうとしているが、しのぶほどに虚子は新しく、その俳句は、はんなりとなつかしい。

            ☆

 山田弘子氏の『残心』(平成十八年二月刊行)は、
氏の第六句集。「円虹」主宰、「ホトトギス」同人。小学生時代から俳句に親しみ、京極杞陽、高浜虚子、稲畑汀子氏に師事。平成七年創刊の「円虹」は阪神淡路大震災に遭遇という大事を乗り越えて十一年を迎えた。平成十八年七月号で、第一三九号。

   汀子先生ご来駕
  月の客招く一途といへるもの

 虚子は星野立子の句に対して、景三情七と評していたが、稲畑汀子の句は景八情二位に評することができるのではないかと高浜年尾が「汀子句集」(昭和五十一年刊行)の序で述べている。

  今日何も彼もなにもかも春らしく 汀子
  摩周湖の神秘なる蚊に喰はれけり 汀子

 
 汀子氏の単刀直入の確かさや大らかさに襟を正されるような句風は、弘子氏のそれに通うものである。

  ことばなど貧しくていい落花浴ぶ

 作者は一度だって言葉など貧しくていいと思ったことはないだろう、言葉こそが命の日々ではなかったか。この無我の境地は、吉野山の落花を浴びて得られたのではないだろうか。あの谿深きところから天地さかしまに吸い込まれるような花吹雪の劇しさがしのばれる。この年の秋、夫君に先立たれた氏は翌年の花の句、
  
  みよし野の花の残心辿らばや

から一集のタイトルを得られた。

  来よといふ電話松茸料理とは
 
 露しぐれ夫亡き朝の暁けてゆく〉の少しあとにある。褻を晴れに引き出してくれる連衆が電話の向かうに居るからには、泪をふりはらって出かけねばならない。悲しみのどん底にあっても俳人はすかさず一句に仕立てる。花鳥なる松茸の働きはまことに大きい。   
 氏は、「俳句は極楽の文学である」という虚子の理念の真髄をゆく作家である。この世がいっそう複雑になり悲惨になるにつれて、「極楽の文学」は卓抜した理念として輝きを増すに違いない。

  来る来ないいつも来ないのマーガレット
  水中花水装ふはさびしからむ
  リハビリのメニューの昼寝怠らず
  あたたかや現れさうなとき現れぬ
  鮟鱇のあんの唇かうの顎
  唐辛子ひと筋縄でいかぬ赤
  白玉やメリーウイドウとはいかず

 
 さびしさの中の明るさはどこからもたらされるのであろう。写生のつかみどころをつかんだ気色は、作者の心情をのぞかせる切り口でもある。

  京の底冷とはこんなものじゃない

 東京はクリスピー、煎餅みたいにカリッとした冷たさだが、湿気の多い京都の底冷えはまるで違う。盆地特有の深深たる底冷えを、手掴みにしてあきらかな実体にあらわす言葉の魔力。俳句の空間を求めてやまない心延えが一句に直結したようである。

 京都といえば老舗の街でもある。老舗の饅頭は「昔からここの味は変わらへんえ、美味しいねえ」と褒められる。ところがそう褒められる饅頭にかぎって、昔より甘さが控えめであったり、製法が以前とは微妙に違っていたりするものである。時代と共に変化する嗜好を読み取って変わっているから「変わらへん」味が醸し出される。
 「ホトトギス」という長寿企業の秘訣も、新しいものに挑戦してゆく諸氏の姿勢に継承されていることにある。安住をせず、日々新しさを追いかけてこそ百年以上続く老舗なのである。

            ☆

 星野高士氏の『無尽蔵』(平成十八年三月刊行)は、
氏の第三句集。「玉藻」副主宰・編集長、「ホトトギス」同人。祖母星野立子に師事し十代より作句した。 

  立子忌の初音はそれとなく淋し

 立子を知り尽くした人ならではの、息を呑むような初音を聞きとめた。

  下萌えぬ人間それに従ひぬ  立子
  久闊や秋水となり流れゐし  立子 


 立子は、主観描写を加えてはじめてその景色を写し得るという客観写生の一分野を開拓した俳人である。
 
  蝦蛄つつき人間嫌ひともいへず
  水中花人を忘れてゐる時間

 
 氏は冷静に自己を内省する。そして自己をいつくしむ。氏の主観もまた写生という強い眼力に端を発していることはいうまでもない。蝦蛄の無気味な姿の美味は食べるのではなく、まこと「つつく」が適っている。そこには味わいの濃い時間が漂っている。
ときにはひっそり水中花に恋をする。童心にかえる時間あるいは詩人に徹する時間であろう。

  白桃や人と人間とは違ふ
  千両と万両に対立のなし


 物への集中力はついにこのような分析をあきらかに引き出す。

  冬の鵙一気呵成といふ言葉

 立子に〈文章の下手のなげきを鵙によせ〉があるが、そんな秋意そのもののような鵙の猛りも、冬になるとピタリと鳴き納めるのが鵙の身上らしい。
氏の作品も思惟深きところから一気呵成に立ち上がってくるようだ。

  引鶴の雲に紛れて無尽蔵
  あめんぼのぶつかる水と水の壁
  木犀の香の中心といふところ
  秋声は限りなく風尽くるなく

 
 冬鳥として渡来した鶴は春には又北へ帰ってゆく、群なす鶴の姿はかぎりなく虚空へしのび隠れてゆくのである。あめんぼは水に当ってことごとくその壁を押し返している。どこからとなく漂ってくる木犀の、あの甘い香りの源はどこにあるのだろう。流れる時間の中で、刻々変化してやまないものが永遠であろうか。この世の刹那のありようを五感をもって聞きとめている。

  セーターを買ひて幸せさうにして
 
 一転してソフトなまなざし。あたたかさが光っている。

  糸瓜棚高浜虚子正岡子規
  文章も俳句も写生漱石忌
  金風忌やさしき人に囲まれて
 

 虚子はもとより子規も漱石も、高野素十も追慕してやまない真摯な姿勢。

  皆に逢ふまでのコスモス畑かな
  待つ人の来て鶏頭を離れたる
  はぐれてもどぜう屋で逢ふ一の酉

 
 氏は月に二十回を越える俳句会をもっているという。最善かどうかと自問しながらも出会いを尊重している。
 虚子がまだ乳飲み子のいる立子に初の女性主宰誌「玉藻」をもたせた時、最善ではないが次善であるといった。立子も、「目的の在る仕事は苦しくても随分楽しいもの、忙しい方が暢気だった以前より過ごしやすい」と応えている。昭和五年「玉藻」創刊の年に生れた長女、星野椿氏が立子没後を継承した。平成十八年七月号で、第九〇四号。

  黴させてならじと思ふ虚子屏風 椿
   拓本をとりに那智まで秋高し  椿

 椿主宰は鎌倉虚子立子記念館を設立、代表となり、高士氏は館長を務める。

            ☆
 
 「批評とは、人を褒める特殊な技術だ」と言ったのは小林秀雄であったろうか。虚子は全く他者の気付いていない良い点をほめることができる人であった。虚子はまた対立する他者によって、自己を新しくしていった人である。他者への信頼を梃子にそこから自己を見出すことのできる人であった。
 ホトトギス雑詠選を介して数多の新人を発見し育成に努めた虚子は、自らは花鳥諷詠をつらぬき、その思想を存問から極楽の文学へと発展させていった。その営みは現俳壇を形成する大方の門流に及んでいるのである。たとえアンチホトトギスであっても、底流に虚子が生きていないことはないだろう。

 去る五月、芦屋にある虚子記念文学館を訪れた。投句箱の前で少女がしきりに指を折っていた。「孫は五歳から俳句をやってまして、今二年生です」と金沢から来られたという祖父が傍らで目を細められた。「できた!」

  まんまるくまっかにゆうひうつくしい

虚子がいたら、なんと褒めたであろう。

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 (2006年7月5日発行、「ににん」第23号p48~51所収,文頭の高濱虚子の写真は虚子記念館、芦屋保存の「壮年の虚子」)

 
by masakokusa | 2006-11-22 22:02 | 師系燦燦 | Comments(0)
師系燦燦 三            草深昌子
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「天狼」の系譜――三橋敏雄を師として

 昭和十年、十五歳の少年三橋敏雄は、山口誓子の第一句集『凍港』と第二句集『黄旗』を読んで、これまでの俳句とは違う新しさを直感した。敏雄は新興俳句の中でも、渡辺白泉にひかれて、昭和十二年に私淑、翌年には白泉の橋渡しで三鬼に師事した。「師事するといったって、その俳句を読んでこの人はいいとこっちが発見したんで、三鬼だって俳句を始めて何年も経ってない」と敏雄が語っているように、三鬼は、二十歳年長ではあるが、俳歴では二年しか違わなかった。敏雄の夢は、三鬼を主宰にして自分が編集長を務めることであったが、昭和二十三年、誓子が「天狼」を主宰すると三鬼は初代編集長になってしまった。敏雄には、昭和十三年、〈戦争〉と題する無季俳句を誓子に激賞されたという経緯があったが、「天狼」には参加せず以降六年沈黙を続け俳句を発表しなかった。やがて、三鬼主宰の「断崖」によったが、昭和三十七年三鬼の長逝により終刊。その直前、三鬼の推薦によって「天狼」同人になっている。敏雄の第一句集『まぼろしの鱶』は、三鬼師の死後四年の祥月命日付けで発刊されている。
 面白い俳句を作る、そういう人物の側近にいるということ自体の充足感がすばらしかった、と語る敏雄からは三鬼の無頼性にもまして、男の信念や誠実が感じられて魅力的である。

            ☆

 池田澄子氏の『たましいの話』(平成十七年七月七日刊行)は、
平成十二年から十七年までの作品による第四句集。平成十三年に師の三橋敏雄と永訣した。
七夕の伝承に託された刊行の日付そのものが、師への思いの丈でもあろう。
 池田氏もまた自ら師を発見した。三橋敏雄句集の『まぼろしの鱶』と『真神』を読んで、同じ人でこれだけタイプの違うものを書くことに驚きを隠し切れず、自ら手紙を出した。第一句集のあとがきに際し、私淑という言葉をつかったら、「私淑、のち師事だね」と敏雄が言ったという。師を越えなければ弟子とはいえないと語っていた敏雄の内なる喜びが伺える言葉である。

  煮凝やなんとかするとはどうするか

 二者択一を迫られたこの際、何とかしなければならない。だが、煮汁に閉じ込められた魚の気持ちは、ニコゴリの語感そのままに窮屈でどうしようもない。

  花に嵐ねむりぐすりを二分の一

 横たえた体に、心は大波をたてて揺らいでいる。残した半分はまだ社会に覚めていたい気分の現われでもある。

  目覚めるといつも私が居て遺憾
 
 イテイカン、まさに投げ出したくなるイテイカンのひびき。遺憾という言葉のなんと斬新なことだろう。誰も私を何処へも運んでくれはしない、私は私をもって対処するしかないのである。

  春菊が咲いてともかく妻で母
 
 菠薐草でも水菜でもない、春の一字をかむったシュン菊が嬉しい。妻として母として資格があろうとなかろうとその色、その香気はしおらしい。

  頑張らざるをえない孔雀の尾の付け根

 孔雀ならずともまた頑張らざるを得ない、人間の足の付け根。

  救急車さざんか散りますよ散りますよ

 道をあけてもらった感触が甦る。

  一生のおわりののほうの椎の花

 椎の花は悔恨の匂い。そしてまだ生きている濃密なからだの匂い。

 この調子で端から個人的な感想を述べていてはきりがない、つまるところ、

  あきかぜにいちにちうごくこころかな
 
 絶え間なくもの思うこころこそは秋風という風情になりきっている。今吹いている風は春風では決してない。

 恋愛作家の名手が、恋愛というあの悩ましくも甘苦しい心をどう書くか、眠れない夜の煩悶の末に「女が男を好きになった」そんな一文しか書けない。だがそんな色気のない一文に、狂おしく酔うことの出来る読者もいる、つまり恋愛小説は読者が完成させるのだという講演を聞いたことがある。
 恋愛感情ならずとも、シンプルが最も伝わるという点においては池田氏の俳句もしかり。作者の情動を超えないことばで書かれているからこそ、読者は、感情という、かたちなきものを感じとることができるのではないだろうか。作者は読者の代弁者のようである。読者としての私の気持ちをわかってもらえたという喜びを言いたいのである。氏の作品を読んで、俳句に癒されるということ、俳句の普遍性ということを実感したからである。

  人生の要するに暑くてならぬ
 
 阿部青鞋に〈要するに爪がいちばんよくのびる〉がある。青鞋は、「要するに」をさりげなく流しているが、澄子作品はより、「要するに」に力を置いた表現になっている。やるせなくかつやむなく肯定して、「要するに」とはそういうことかと思わせる。一句に意味無く効果ある用い方、つまり言葉を軽く用いて重くはたらかせる一吟の妙。

 この青鞋宅で、昭和十五年頃、敏雄・白泉・青柚子らは芭蕉、蕪村、一茶の文体模写等、古俳諧の追尋にふけった。新興俳句なるものへのおのづからなる問い直しであったという。池田氏もまた独自の文体をもちながら、正統な季題の力を万全にゆきわたらせている。
  
  老人の多くは女性蓼の花
  人形の抱かれやつれや青葉風
  関に何度行っても冬深し
  風向きの今し変わりし氷頭膾

 
 先の「要するに」にもどるが、池田氏は、「要するに」、「つまるところ」を詠う作家ではないだろうか。

  夕月やしっかりするとくたびれる
  万病のもとなる月の雫かな
  舌の根やときに薄氷ときに恋
  人が人を愛したりして青菜に虫

 
 一身の内と外なるギャップ、人生のアンバランス、齟齬、それらを含羞をこめてうべなうやさしさ。
 ことに一句目は、今後いく度も、なぐさめられ、安らぎを覚えるであろう。氏の〈じゃんけんで負けて蛍に生まれたの〉がまるでいろはガルタのようにいつ口ずさんでも新しいのと同様、口誦性の強みをおもわないではいられない。

  肩に手を置かれて腰の懐炉かな
  震度2ぐらいかしらと襖ごしに言う
  お願いを梅のところでしぼりけり
  フルーツポンチのチエリー可愛いや先ずよける


 作者が面白がっているわけではない。むしろ静けさに真面目に書かれた独自の物言いが、読者にとっておかしい。
 眞面目さの根底にあるのは、氏の〈産声の途方に暮れていたるなり〉であろうかと思われる。否応もなく生れてきた私、生れて存在している私。気張らない日常のどの断面も、作者だけのものではなくなっている。
 
  茄子焼いて冷してたましいの話

 スーパー歌舞伎、三国志の市川猿之助を思い出した。猿之助は棒立ち棒読み(に思えた)、それにひきかえ、新進気鋭の役者は演技の限りをつくして熱演していた。だが、見終わって、その演劇における猿之助の存在感が大きく印象にのこったのである。俳句の形式の中でも、演技は過大に演じないのがいいのだろう。演じすぎるということは俳句が小さくなることだ。言い切ってないようで言い切っている。その断定が澄子俳句の非凡なる演技であろう。

            ☆

 遠山陽子氏の『高きに登る』(平成十七年九月発行)は、
平成六年から十七年までの作品による第四句集。「馬酔木」「鶴」「鷹」を経て、昭和五三年、三橋敏雄指導句会「春霜」(後に「檣」)に参加、編集。現代俳句協会賞受賞。

  雪月花体言止めはよかりける
  燈台の縦汚れして野水仙
  狐火や蒟蒻に味染みるころ

 
 一句目、波郷の〈霜柱俳句は切字響きけり〉へ思ひを馳せる。波郷は「鶴」創刊号で好きな俳人として、白泉・三鬼・静塔ら新興俳壇の諸氏をあげ、ホトトギスの草田男の名もあげているが、波郷自身は、新興俳句にもホトトギスにも組せず、生来の抒情性を謳いあげた人間探求派であった。遠山氏もまた、浪漫を求め、なべて簡潔、強固である。
 二句目、まざと見える句である。縦汚れの発見が燈台はもとより野水仙をすらりと立たせて匂い立つばかり。
 三句目、「王子の狐火」は、関八州の狐が官位を定めるために集まったという大晦日の行事であるが、その幻想的な夜が彷彿としてよみがえった。二物のかねあいの味わいはなんとも渋い。

 季語がはたらくということについて、次の二句はどうだろう。

  色鳥や皇后様は小さく咳
  射精する鯨よ日本は櫻吹雪
 
 
 一句目の繊細と品位、二句目の大胆と絢爛。色鳥と櫻吹雪は、梃子でも動かないさまに坐っている。
 
 ところで、遠山氏の俳句は、われを探す旅にあるように思われる。

  末黒野やまだ逢はぬ我いづくにか 
  大言海抱へ高きに登りけり

 
 〈焼野の雉夜の鶴〉という諺は、親が子を思う切々たる情のたとえであるが、そんなことが念頭にあっての一句目の末黒野であろう。肩の力を抜きながらも、「いづくにか」には心に決した自立の決意がしのんでいる。〈師の教えを胸に、師とは異なる俳句を作ることが、師恩に報いることであろうと思い定めている〉、そんな厳しい道のりにこそ、自分探しの醍醐味があるのだろう。
 遠山氏は、平成十五年に個人誌『弦』を創刊、評伝「三橋敏雄」はすでに十三回を数えている。

  タンポポを踏み病院へ老いにゆく  
  鶴老いて水の深さをおもひをり
  藤老いてむらさきなるは苦しからむ

 
 タンポポは童心の花、長いようで短い生涯がふと思われたのは病院への途上であった。老いにゆく、に実感がこもる。人は生老病死を免れぬものである。死の瞬間まで老い続ける旅路は女にことに切ないが、鶴に喩え、藤に喩えるその心境にくもりはない。

  鬼遊び捕まるならば桃畑で
  肩凝りの私は青いアスパラガス
  雪女郎玉子をひとつ生みおとす


 鬼遊び、肩凝り、雪女郎、このような旅ごころにこそ遠山氏の詩性を際立たせる本領がある。
 自分の信じて疑わない世界、多くの読者を得ようとおもねらない世界の潔さが、かつて見たことのない新鮮な世界となって印象明瞭である。

  仏壇に三日ありたる桃食うぶ
  鴨居なんだか低すぎる帰省
  桃咲くと姉の綺麗な鼻濁音

 
 仏壇、鴨居、鼻濁音、という言葉が季題そのものと表裏一体となっている。郷愁は、既視感をもって新鮮にたち現われてくる。

 郷愁とは別種の、忘れがたい日本の過去を強く意識させられる句群にたちどまされることも多かった。

  もう誰の墓でもよくて散る櫻 
  二・二六歩道橋を犬降りてくる
  気骨反骨老骨散骨初国旗
  畳み癖どほりにたたみ国旗蔵ふ
 
 
 ところで、敏雄は一貫して戦争を詠みつづけた。戦争を詠った新興俳句の秀れた遺産は、今に詠み継がれている。

  戦争が廊下の奥に立ってゐた  白泉
  玉音を理解せし者前に出よ
  寒灯の一つ一つよ国敗れ     三鬼
  広島や卵食ふ時口ひらく
  いつせいに柱の燃ゆる都かな   敏雄
  戦争と畳の上の団扇かな
  敗戦日銀座は正午を数分過ぐ   陽子
  八月六日・晴・外野手好捕せり
  前ヘススメ前へススミテ還ラザル 澄子
  泉あり子にピカドンを説明す

            
              ☆

 三橋敏雄は、最も将来を期待する俳人は誰かと云う自問に対して、其は私自身であると自答し続けて来た。
 人間として生涯のありようを俳句という形式で語りつづけた俳人を悼むとき、俳句抜きでは語れない痛切な師弟の絆がみられる。

  かもめ来よ天金の書をひらくたび  敏雄 
  地の果は海のはじまりかもめ来よ 陽子
  夏百夜はだけて白き母の恩     敏雄
  先生の逝去は一度夏百夜   澄子

 
 (2006年4月1日発行、「ににん」第22号P48~51所収、文頭写真は三橋敏雄氏)
by masakokusa | 2006-11-22 21:47 | 師系燦燦 | Comments(0)
師系燦燦 二         草深昌子 
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「鶴」の系譜―――「魚座」の人々

 「鶴」は昭和十二年九月、石田波郷が石塚友二とともに創刊。波郷の応召中は代選を務めるなど、一貫して波郷と行動を共にした友二は、昭和四十四年波郷死後「鶴」を継承主宰した。
石塚友二死後は、星野麥丘人氏が主宰を継いでいる。

 昭和四十四年以来「鶴」に所属していた今井杏太郎氏は、平成九年一月に俳誌「魚座」を創刊し、主宰となった。
昭和六十一年の友二師の葬儀に際し、今井杏太郎氏は、「鶴」代表として弔辞を述べている。
―(前略)―船の中で先生は突然私にかう仰言いました。〈杏太郎君、ひとはどうしてねむるのだろうね〉先生のこの唐突とも思へる質問にどぎまぎしながら〈先生……海の上の眠りもいいものですよ〉とやっとの思いで答へたものでした。しばらくして先生は、ぽつんと〈ふしぎなことだねえ〉と、ひとり呟くやうに言はれたのでした。この〈ふしぎなことだねえ〉のひと言ほど胸に食ひこんだ言葉を未だかつて私は知りません。――(中略)――今生の……生のよろこびもかなしびも一切がこの「ふしぎさ」のゆゑなのでありませう。―(後略)

  子が病めば百千の虫や唖の虫 友二
  百方に借あるごとし秋の暮    友二


 石塚友二句集『光塵』(昭和二十九年刊行)は、初学時代よく諳んじた句が多い。当時は濃色かつ暗色のイメージをふくらませていたから、今井杏太郎氏の淡白で透明感のある句群とは対極にあるような気がしてならなかった。今回弔辞に触れる機会があって遅きに失したことではあるが、底流する精神の絆こそが師弟関係であったことを知り、胸をうたれたことであった。

            ☆

 今井杏太郎氏の『海の岬』(平成十七年八月刊行)は、
俳人協会賞受賞の『海鳴り星』につぐ第四句集。
 一巻は絵巻物をひもとくように緩急自在の呼吸に引き込まれてゆく。一句一句にたっぷりした時空があって立ちどまらされるのであるが、一方で次へ次へと吸い込まれていくような句集の読みの楽しさを堪能した。

 「海を見るのが好きであった」氏のモチーフは貴重である。水への関心は大らかさの中にも繊細な感覚が宿っていて、水の秀句は目白押しである。

  うすらひといふつかの間の水の色
  萍に水のやうなる雨の降る
  水の上の暑さが暮れてゐたりけり
  夏逝くか水のゆらぎも星に見ゆ
  涼しさやむかしは水に影ありぬ
  野ざらしの雨降る水鳥は水に
  凍滝に水の折れたるところあり

 
 どの水も十全にゆきわたって五感がゆさぶられる。水は純粋のものは無色、無味、無臭。常温では液状、摂氏零度で氷結する。そんな水の第一義を一句目ははからずも印象させられるが、思えばどの水の句も、あらためて水の意義を考えさせられものである。
 二句目、池であろうか、沼であろうか萍を湛えた水のありようが見えてくる。渾然と降りこむ雨は、憂きことも忍ばせて繊細な雨脚をひくのである。

  かたくりの風の揺るるを風といふ
  春風に吹かれて貨物船の来る
  すずかけの木蔭の風の涼しげに
  唐辛子畑にて風衰へし
  色変へぬ松あり風の吹きにけり
  北風はみなみの海へ吹いてゆく
  葛の葉のひるがへり風ひるがへり

 
 一句に風を通しただけでさーっと新鮮に見えてくるものがある。ごく自然に淡々と詠いあげて構えたところがまったく無い。その自然体がサマになるという洗練された文体は比類ない。
 たとえば葛の葉の翻る句はゴマンとあるかもしれない。だが杏太郎俳句はどこか別物だ。葛の葉は生きて意志あるもの、風もまた葛にうながされて息づく生き物のように思える。風景とはそういうものだといえばそれまでだが、読者は風景そのものよりも、その切り口を見定めている一人の心の景色に惹かれるのかもしれない。

 杏太郎俳句はなべて、水も、風も、今ここにあったものが次の瞬間にはもうなくなることを気づかせてくれる。次にやってきたとしてもさっきとはもうちがう形、ちがう手触りでしかない。二度と同じものは帰ってこない。何気ない日常のなかの、自然の一閃を一瞬にして掬い取ってことばに遺した。それは、永遠に掌中に握りしめたかたちなのだ。手のひらをひらけば、あの水、この風に出会える。俳人ってすごいなあ、とあらためて思う。俳人から享受した一閃の光に意味はない。その光のありかをどこまでも想像するそのひとときが読者にとっての安らぎなのである。

  てのひらを叩いてをれば日永かな
  けふであることを忘るる暑さかな
  いちにちがゆるやかに過ぎ草茂る

 
 芒洋としていながら、季語の本態見たりと思わせるところが妙である。

  てふてふのさびしさの雨やどりかな
  さびしさのつづきに見ゆる麦の秋
  梟はさびしくて木になりにけり
  颱風の南から来るさびしさよ

 
 ときとしてこの世の相は、どこか思惑からはずれたものを宿している。ものの存在への不思議さといとおしさ。さびしさはそれらへの愛惜であろう。 

  霧をゆく人あり水になりながら
 
 さびしさを肯定して生きる。今井杏太郎氏、まさにその人ではなかろうか。

 『海の岬』の掉尾は、〈石塚友二先生の墓に雪 杏太郎〉である。「ひとりの人間としてわが師と仰ぐべき人」と決意せしめた石塚友二先生には雪がもっともふさわしいのに違いない。雪が物語る声に耳をすましたい。

 石塚友二は小説家でもあったが、波郷同様、俳句は厳しく非散文的である。
  
  方寸に瞋恚息まざり秋の蚊帳 友二
  別れ路や虚実かたみに冬帽子 友二

 
 石塚友二句集『方寸虚実』に寄せて、友二の文学の師である横光利一は、「これを明澄とも高雅ともいえず、古撲ともいいがたければ閑雅ともいい難い。また寂寞というには幾らかの騒ぎがあり、清新というにはカスが溜まっている。しかしこのように俳句の持つべきはほとんど何ものもなくしてよく俳句となしえているゆえんは、偽りもなく本能的な生の悲しさがその精神の中に底流し、高雅明澄に対していささか自我を風解してここに飄逸な嘆きを加えている淡白さにあるかと思われる」と、さすがにこの作家の批評眼は冴えている。ここに見出した「淡白さ」の一語は、今にして肯かされる思いである。

  金餓鬼となりしか蚊帳につぶやける  友二 

 金我鬼とはなまなましいが、自己を徹底的に客観視したあげくの踏みとどまるべき諌めであった。下五に「つぶやける」と置いたとき、ふっとわれにかえった安堵に、森閑とした詩情が漂ったのではないだろうか。
 この「つぶやき」こそが、今井杏太郎氏の掲げる「呟けば俳句」のつぶやきではないだろうか。つぶやきは自分を持ち直してくれる。つぶやきを俳句に盛ったとき、十七音という小さい器ではあるが自分の生を支えてあまりあるものになってくれるのだ。
 つぶやくことは誰にでもできて、誰のものでもない。生きている私でしかない呟き。弔辞の中の「ふしぎだねえ」というつぶやきもしかり。つぶやきは吐息にも似て小声である。その実、人間の内面の思考してやまない大きな叫び、切実な叫びにもなるのである。
 「呟けば俳句」を、俳句に行き詰まったときの救いのように考えている限り、上質の俳句には恵まれないであろう。それは、写生を俳句に行き詰まったときの手段と考えるのと同じである。
 詠みたいことを思うように詠めばよいという「呟けば俳句」は、波郷の「俳句は文學ではない」の頓悟に迫るもののように思われる。

           ☆
 
 鴇田智哉氏の『こゑふたつ』(平成十七年八月)は、
氏の第一句集。「魚座」には創刊から所属。主宰の『海の岬』と時期を同じくして刊行された。

  梟のこゑのうつむきかけてをり
  黴のすぐ近くにこゑを漏らしけり
  春の蚊にこゑあり息のやうにあり
  こゑふたつ同じこゑなる竹の秋

 
 初々しくひそやかな声調は、読者をしんとさせる力をもっている。
 主宰は序で、「いろいろと胡乱のありそうな俳句ですが、黙って、静かに、この作者の息遣いを読んであげてください」と述べ、鴇田智哉氏が、あとがきで、「息が声になり、声がことばになるーーここから始めたい」と、一巻の気息がぴたりと重なっている。まさにソッタクの『こゑふたつ』である。

  干潟とは今を忘れてゆく模様
  湯冷めしてもとの形のありにけり
  畳から秋の草へとつづく家
  十薬にうつろな子供たちが来る

 
 たおやかな断定は、常に物思う人のたたずまいがもたらすものであろう。
四句目、うつろな子供たちの来る場所として、十薬をとらえた。その焦点の絞り方が詩情そのもの。星野立子の〈午後の日に十薬花を向けにけり〉が、救いのようにこの句に呼応してくれる。

  逃水をちひさな人がとほりけり
  障子から風の離るる音のあり
  夏いつか鰭のうすれてゆく魚
  とほくから子供が風邪をつれてきぬ
  ひえてきて日付の変はる時報かな

 
 距離をおいたもの、気配を感じるもの、来ては去りゆくもの、それら移ろいゆくものを微妙にとらえる感覚が出色である。

  くちもとの蜘蛛の糸とはゆるきもの
  目の窪みかけたる山の眠りかな
  虫の夜はひとみをあけて帰りけり
  水ほどにひらたくなりぬ夕焼けて


 鴇田氏は、自身の肉体を通して、詠いたいことを臆せず詠いたいように詠っている。傾倒する師を先ずは徹底的に追随して、その試練のなかから自分を乗り越えて行こうとする覚悟が坐っているのであろう。そのことがとりもなおさず、曰くいいがたく師のふしぎな句風に通ってゆくのであろう。
 よく、一流の芸術家は「盗んで」自分のものにするが、二流の芸術家は「借りてくる」だけであると言われる。

  炎天の少しとほくを見てゐたり
 
 鴇田氏には、〈てのひらがひらひら二つ日の盛り 杏太郎〉が見えている。
石塚友二が『俳句研究』に、「方寸虚実」八十句を発表して一躍俳壇の注目を浴びたのは、昭和十五年、友二が数え年三十五歳の時であった。
 鴇田氏は、平成十三年、俳句研究賞受賞。今年三十六歳である。

            ☆

 茅根知子氏の『眠るまで』(平成十六年五月刊行)は、
氏の第一句集。忘れがたい上質の句集であった。茅根氏は、平成十三年、俳壇賞受賞。

  夏の灯をともして人を迎へけり
  人に背を向けてマスクをはづしたる
  北窓を開くと人がとほりけり
  人の手がぶつかる金魚掬ひかな

 
 人ってなんだかおかしい。人の仕草は、人に関わって人らしくなるらしい。

  あたたかく伸びたる草の背丈かな
 
 草の丈、でなく草の背丈と言った、もうそれだけで嬉しくなる一句である。茅根氏の観察眼は、人へも自然へも等しく注がれて愛情にあふれている。

  いつか死ぬ人を愛する涼しさよ

 人って何だろうの究極の答えがここにはある。そうだ、そんな涼しさにこれからも生きていこうと思う。

  左手に梨のしづくを集めたる
  冷蔵庫開けてまばゆき夜になり
  歯が痛し十一月の終はるころ

 
 どの句も解釈のいらない実感がある。
 三句目、穏やかに叙して、インパクトがある。切れの余白に空気のつめたさが染み入るように流れている。

  眠るまで祭囃子の中にゐる
 
 子供の頃、寝床で眠れね興奮のなかで体いっぱいに祭を感じていたことがある。大人の興奮が子供に伝わってくる喜びが祭囃子の中にはあった。
喩えて言うなら、この世は祭囃子の中に生きているようなものではなかろうか。眠るまで、そう  永遠に目を瞑るまで、祭囃子を聞いているのである。今生きてあることのなんとなつかしいことであろう。この句を読んで以来、眠らないで起きていると何かよいことがあるようで目を瞑るのがもったいなくなった。そして、石塚友二の「人はどうして眠るのだろうね」を反芻して、いよいよ眠れない。

 (2006年1月1日発行、「ににん」第21号p58所収,文頭写真は石塚友二)
by masakokusa | 2006-11-22 09:48 | 師系燦燦 | Comments(0)
師系燦燦 一            草深昌子
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鷹の系譜


 去る四月、藤田湘子氏が亡くなられた。

  幾つかは遺品とならむ冬帽子    湘子
 
 体臭のしみ込んだ清澄な帽子がしのばれる。遺品は弟子でもあろう。おりしも、藤田湘子を師とする奥坂まや氏と、かつて師弟であった小澤實氏の句集があいついで刊行された。二句集を拝誦することで、湘子をこころに秋櫻子をこころにするよろこびが付加された。
 これを契機に、今後、句集渉猟はアトランダムではなく、師系を同じくする句集を採択し、系譜を念頭に置いて鑑賞することにした。見開きという狭い紙面であるが、(ときには二号にわたって)管見を連載したい。

            ☆

 奥坂まや氏の『縄文』(平成十七年三月刊行)は、
四十三歳から五十二歳までの第二句集。昭和六十一年、「鷹」入会。平成七年、第一句集「列柱」で俳人協会新人賞受賞。

  万有引力あり馬鈴薯にくぼみあり  まや
 
 観念を逆手にとりながら、まことよく物を見つめていると納得させる力がある。武骨な馬鈴薯に、むしろみやびな魅力をかもし出しているのは不思議である。二つのフレーズには深い亀裂がありながら、磁石のように呼び寄せる作用は、バンユウのバ、バレイショのバの頭韻、アリ またアリの繰り返しによる効果である。「ニ物衝撃」と「調べ」を強調する湘子の理想がここに具現している。
  
  にんげんは滅び海鼠は這ひをりぬ   まや
  月光に少量の毒ありにけり       まや
  お新香のいろどり四万六千日      まや


 一句目、未来はなべて原初に還る予感に満ちている。寒天質な海鼠の形態が悠久の思いをさそってリアリティーがある。
 二句目、月光にあてられたかのように身動きならぬ思いに浸される女体の心理であろうか。月光は皎々として青みがかっている。〈荒星に授けられたる秋思とも 湘子〉天空を仰ぐ心象にも師弟交歓がゆかしい。
 三句目、素朴な充足感に溢れている。

 『縄文』は漢語、熟語など総じて重しのきいた言葉に成り立っている。まさに言葉は荒縄、俳句は土器の趣をもって、器に縄を全力で押しつけて一巻を圧している。そんな中で、

  そらまめのみんな笑って僧のまへ    まや
  お早うと言ふはつなつのひびきなり   まや


 現代女性らしい表情がいっそう清新である。師の長い道程を果敢に歩まれる方であろう。

 さて「鷹」は小川軽舟新主宰によって漕ぎ出された。軽舟氏の評論集「魅了する詩型」の論旨は、俳句はあくまで抒情詩であると言い切って明快であった。俳句のみならず達意の文章もまた師の薫陶を受けて末弟子に引き継がれていくことに感銘している。
 
            ☆

 小澤實氏の『瞬間』(平成十七年六月刊行)は、
平成七年から平成十二年まで、作者四十代前半の第三句集。十五年間の「鷹」編集長を経て、平成十二年「澤」主宰。平成十年、第二句集「立像」で俳人協会新人賞受賞。

  鰻待つ二合半酒となりにけり       實
  蜃気楼中のひととなるべし昼酒に   實

 
小澤氏のキーワードは酒。気風のいい数多の酒の句々に読者は微醺を帯びてしまうほど。

  こがね打ちのべしからすみ炙るべし   實

 からすみは、最高の肴である。酒は辛口。火加減は、強火の遠火であろう。生臭さを消して香ばしくなる。炭火のほむらをも見せてからすみの黄金を発光させる。べし、の畳み掛けは舌の廻りをよくする。「こがねを打ちのべたる如く成るべし」という一物俳句の真を問いかけて俳句の味も絶品の一献となった。

  わが細胞全個大暑となりにけり    實

 ゼンコタイショトナリニケリ、経文の如き響きが厳かでかつ朗々としている。極暑に辟易しながらも、大暑たる今日一日を全身全霊でもって感受した、壮年の美学がでている。立ち姿の美しい句である。ウエットな抒情ではない、乾いた感覚が独自のもの。
「わが」一個の存在、充実の精神よるべない肉体もまた小澤氏のキーワードであろう。

  わが肉に埋もれて我や旱星       實
  肉欲や向日葵の茎膝に折る      實
  大川に小名木川出づ月見豆      實


 深川芭蕉庵のあるところ、川の合流とするところ、一つの景を大きく切りとって投げ出しただけ、だが切り口が発見でもある。作者の思いの全ては季語、月見豆に託した。しみじみ伝わってくる風景の奥行き。何も言わないで、読者を信頼している句に品格がある。 

 大川といえば、〈夕東風や海の船ゐる隅田川 秋櫻子〉が浮かび上がってくる。
 秋櫻子は、俳句に芸術性を求め、抒情詩たらしめんとして虚子を離脱した。秋櫻子、波郷の系譜を継ぐ「馬酔木」の正嫡として俳壇に登場した湘子は、俳句のあらゆる可能性を試みた。「一日十句」の遂行もその一貫。
 秋櫻子は、真の創作家にとっては、「その花が彼にはどう見えたか」ということが問題であるという考え、一方、虚子が是とした素十は、「〈この花を彼が如何に見たか〉という風に〈この花〉を見た事がない。如何に見たかといふ様な考へ方を無くさう無くさうと努力を払ったことはある。私にはただ〈この花〉だけが大切なのである」とする態度であった。

  あめんぼと雨とあめんぼと雨と    湘子

は、素十の写生のスタイルだろう。だがこの句の余韻に湘子の内面が映し出されていないだろうか。あめんぼと雨と、つかの間の憩いさえ湘子にかかると泣けてくるのである。〈冬菊のまとふはおのがひかりのみ 秋櫻子〉の哀しみに似ている。「この冬菊」だけ、「このあめんぼ」だけ、そのありようのさびしさ。秋櫻子も一人、湘子も一人。

 後年、虚子を見直した。そのことがいっそう秋櫻子へ回帰させたのではないだろうか。

  雁ゆきてまた夕空をしたたらす      湘子
  天山の夕空も見ず鷹老いぬ       湘子


夕の抒情が湘子の始終であった。

  愛されずして沖遠く泳ぐなり       湘子
  湯豆腐や死後に褒められようと思ふ  湘子


 師弟愛を生涯抱きかかえて湘子は逝かれた。

  崖にぶつかれば遍路の曲るのみ    實

 遍路という一途の徒はまことそいうものであると思わせる。しかし、遍路のありようだけではないだろう。崖にあたるではなく、ぶつかる、という措辞は、困難にぶつかるという世俗的雰囲気を誘って、自然に逆らわない作者の心情のありようを伝えてもいる。

  蜩や男湯にゐて女の子         實

 取り合わせから立ち昇ってくる詩情は、やすらぎそのもの。女の子は観世音のようだ。氏は酔うほどに敬虔な面差しを見せるのであろう。あとがきに、「多くの出会いと別離とがあった。さまざまなことがあったが、俳句形式そのものへの信頼は深まることはあっても、褪せることは一切なかった。今にして思うとその時間は一瞬である」と。『瞬間』の掉尾は、

 佛諸天かつ雪嶺の加護なせる      實   

(2005年10月1日発行、「ににん」第20号p68所収) 
by masakokusa | 2006-11-21 22:53 | 師系燦燦 | Comments(0)