カテゴリ:『青草』・『カルチャー』選後に( 58 )
『青草』・『カルチャー』選後に・平成29年9月     草深昌子選
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酒瓶に秋七草の一重かな       栗田白雲


秋の七草は奈良時代の歌人山上憶良が万葉集に詠いあげて選定したもの。

すなわち、萩の花、尾花(芒)、葛の花、撫子、女郎花、藤袴、桔梗(朝貌の花)であり、いずれも秋のもの静かな風趣を誘いだす美しい花々である。

作者は、このうちのどの花であろうか、ただ一つ、あるいは花そのものの美しさをほんの少々活けたというのであろう。

それもれっきとした花瓶にではなく、愛飲の酒瓶にふと気まぐれに挿してみたような雰囲気がいかにも風流である。

酒瓶はスリムな色ガラスのものであってもいいが、私には沖縄の抱瓶のようなものが想像されて楽しい。

よきお酒をたしなまれる白雲さんならではの美意識に貫かれている。




数珠玉や風の立ち初む夕間暮       石堂光子


地味な数珠玉に目が行くのは、まさに「風の立ち初む夕間暮」である。

先日、曼珠沙華に目を奪われていた折に、しばらくして、その後ろの薄暗がりに数珠玉の一叢があることに気が付いたのも、そんな感じの頃だった。

秋になっても蒸し暑い日などあって、夕方ふと風が起こったとき、そこには数珠玉の葉擦の音がかすかにも立つのである。

その実を沢山結ぶのは秋も深まったころであるが、「あら、こんなところに数珠玉が」と、思わず作者も一息つかれたのであろう。そういえば、この実を、数珠に連ねて遊んだこともあったっけなどと、なつかしい思いにふけられたのかもしれない。

緊密なる韻律に詠いあげた一句は、さりげなくも作者の内面にまで及んでその光景を深く見せてくれるものになっている。




虫の夜や五種の薬をたなごころ       森田ちとせ


何の病であろうか、五種類もの薬を飲まねばならない日々はさぞかし、つらい事であろう。だが、この句からはそんな悲壮感が感じられなくて、そういう今の状況を心静かに肯っておられるようである。

そうでなければ、「虫の夜や」という落ち着いたもの思いには至らないであろう。

また、下五の「たなごころ」には穏やかにも繊細なる神経が行き渡っている。

いろいろの色やかたちの薬が、そのままあたかも秋の夜の種々の虫の音のように見事に照応している。

人の日々はつくづく大自然のもろもろに癒されていることに気付かされるものである。

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一徹な店主と聞くや秋簾       日下しょう子


 一徹というと、「頑固一徹」「老いの一徹」などが、即座に思い起されるが、そんな店主ならばこその、信用ある老舗なのであろう。

夏が去って、そろそろ仕舞うべき簾が、まだ秋の日差しの中にややも古びた感じに掛かっているのが「秋簾」であるが、この簾はどうやら片付ける気もなさそうである。

「一徹な店主」だと言い切らないで、「と聞くや」という、もってまわった言い方が飄々たる味わいを醸し出している。



 

渡り鴨降り立つときの荒々し       坂田金太郎


秋もたけなわの頃となると北方から多くの鳥が渡ってくる。

それらを総括して「渡り鳥」という季題になるのであるが、この句はあえて「渡り鴨」と、きっちりと鴨に焦点をあてたところが文字通り際立っている。

季語の現場に立った句は、臨場感とともに勢いがある。

同じ作者の、


沢渡る牝鹿目で追ふ牡鹿かな    金太郎


も迫力がある。

「鹿」というと鹿の声を詠うことの多い中で、この句は声を発しないところが不気味にも寂寥感を漂わせる。

「俳句は頭で作らない、俳句は足で作る」という原則を、地で行くような句である。



      

萩の花その襟元の二重なり       泉 いづ


秋の七草のうちでも昔から多くの人々に愛されるのは萩の花が筆頭であろうか。

折からの風に揺れやすく、その花をこぼしながら優美に枝垂るるところなど、大雑把に詠いあげられがちであるが、この句はまことしみじみと萩の花そのものに目を見開いて接写している。

「その襟元の二重なり」と言われてみると、あらためて楚々とした可憐な美しさが、ほのかな色気さえ漂わせるようではないか。



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独り居の指差し確認蚯蚓鳴く       古舘千世


蚯蚓は実際鳴くのかどうか、螻蛄が鳴くのを蚯蚓と誤認したのだという説もあるが、俳人独特の感性が「蚯蚓鳴く」という季題を生み出したのであろう。

〈蚯蚓鳴く六波羅蜜寺しんのやみ 川端茅舎〉の句はあまりにも有名であるが、この句など蚯蚓は本当に鳴いているとしか思えない。

そういう季題に、千世さんは「独り居の指差し確認」を仮託されたのである。

火元ヨシ、戸締りヨシなどと確かめながらも、どこか不確かな気分が、ひそやかにも蚯蚓の声を聞かすのである。




竹の春梢は風の中にあり         石原虹子

 

 竹は春に筍を生長させるため親竹は生気を失い、黄色くなって葉が落ちたりする。

 秋になると回復して葉もあおあおとしてくる、これが「竹の春」である。

 この句の「梢」はあたりの木々の梢であってもいいが、作者は竹そのものの枝の先々のありよう風の中に詠いあげられたのだろうと思われる。

ものを見る目に、真っ正直な、静けさがあって、また対象物への愛情がなければこのように淡々とは言い切れないものである。




ドナウ川漁夫の砦に懸る月        松尾まつを


 ブタペストにある「漁夫の砦」からはドナウ川が一望されるという。

「ドナウ川」も「漁夫の砦」も知らない選者が一読して、現地に誘われたようなはるけさをもって、思わず月の明りを仰いだのであった。

 まこと俳句の妙である。

この地球という小さな惑星のどこにあっても皎々たる月光は同じものに違いない、ドナウ川という固有名詞の響きがよく効いている。

漁夫の砦からは、漁業で生計を立てるものの堅固な砦を想像させられたが、事実、その王宮の丘には、魚市などが立ったようである。


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その他の注目をあげます。


  幾度も男の沈む稲穂波          瓜田国彦

   鬼灯の小さきままに熟しけり       平野翠

   星月夜隣の夜泣きおさまらず       中原マー坊

   二人して田に立つ二百十日かな      中澤翔風

   大雨の一夜に過ぐるちちろ虫       間草蛙

   露けしや日の出る前の草葎        熊倉和茶

   喫煙所電子たばこや鰯雲         末澤みわ

   自転車に二百十日の風強し        山森小径

   閂を指し込み二百十日かな        高橋まさ江

   あの山は秋の七草揃ふなり        石原由起子

   初秋刀魚大きな目玉こちら見ゆ      加藤洋洋

   讃美歌の壁を流るる蔦紅葉        上野春香 

   蔵の壁ひび割れてゐる法師蝉       新井芙美

   朝日子やどの草も露頂きて        中園子

   秋風やパーマ屋裏の青タオル       黒田珠水

   あの友もこの友も無事敬老会       田淵ゆり


by masakokusa | 2017-10-04 20:26 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
『青草』・『カルチャー』選後に・平成29年8月     草深昌子選
 
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  独り居の日々の気ままや秋の蠅    松尾まつを  

 一人暮らしは自分の思うまま自由にはかどってゆく、その感慨が上五中七とストレートに読み下されるが、下五に至って、「秋の蠅」とくると俄かに作者がそのまま秋の蠅に成り代わったようなやるせなさがぴたっと寄り添ってくる。
 あの命盛んな夏の蠅は、いまや秋の蠅となって、澄み切った空気の中に、一抹の哀愁をきらっと光らせているのである。



   夏深む駅前書店閉ぢしまま     奥山きよ子 

 本厚木駅南口には立派な本屋があったが、潰れたのか改築なのか、閉じられたままである。
 何処の駅でもこのようなことは昨今よくある光景であろう。  
 駅前であるから、往き来するたびに目が行ってならないのである。
 一向に再開しない書店の先行きはどうなるのだろう、「夏深む」はごく自然に感受されたもの思いであろう。
 その心情は、ブティックやレストランでなく、書店であるからこそのものである。
 作者はカルチャー教室に入会されたばかりだが、その感性は鮮やかである。



   新涼のラジオ体操第二かな      佐藤健成  

 「涼し」は夏の季語、「新涼」は秋の季語である。
 一般的にいつも行われているラジオ体操第一では新涼にはならない。
 「ラジオ体操第二かな」、それだけで「新涼」を詠い切ったのである。
 夏の暑い日々を乗り越えて、いま何ともすっきりした気分でラジオ体操をやっている、その心地よさが「第一」ならぬ「第二」に遺憾なく発揮されている。
 何も言わない、ただ省略する、これが俳句である。
 
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   新涼の水に浸すや米二合       山森小径  

 「米二合」がいい。
 慎ましくも清々しい暮らしぶりまで窺われて、まさに新涼の水が冷たく透き通っている。
 秋になって初めて感じられた涼気が、日常の生活のうちにあった。
 文字通り手触り満点の句である。



   踊子のレース飾や小さき村      佐藤昌緒 

 「踊」といえば盆踊、「踊子」と言えば盆踊の踊り手のことである。
 この句は旅先のものであろう、どこか地方の山裾の村の盆踊であろうか。
 そこで出会った踊子が浴衣でなく、レース飾の服装、あるいは髪飾りなどが、いかにも愛らしかったのであろう。
 「小さき村」という下五から受ける印象がひそやかにして清潔である。

 ところで、作者は海外旅行が多いから、この句も海外詠かもしれない。
 ふと、高野素十の〈づかづかと来て踊子にささやける〉が思い出される。
 これは海外詠で盆踊の句ではないとされたが、いや本当に新潟の盆踊風景だという説もある、どちらであってもいい、盆踊として鑑賞しうるかどうかであろう。
 素十の句は、盆踊の句としてまこと名吟である。




   炎昼や胸に抱く子の指しゃぶり     芳賀秀弥  

 燃えるような夏の暑さの真昼である。
 赤子の指しゃぶりと炎昼の間に何の因果関係もないのであるが、
この二つが合わさることによって、生きとし生ける物の身に猛暑が静かに及んでいることを感知するのである。
 作者の眼差しは、指しゃぶりでもって無心に耐えている赤子がなんともいじらしく思われているのだろう、そういう作者の心中までもが察せされる。

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   百姓の肩に来て鳴く秋の蝉      二村結季  

 単なる蝉であれば平凡なる情景が、「秋の蝉」によってしみじみと、風趣あるものに感じられる。
 自然のなりゆきにそって働き通しの百姓に一抹の慰めをあたえるような一瞬である。
 作者のものを見る目に愛情がこもっている。



   鬼百合の雨を溜めたる花の反り     伊藤波   

 これも、ただの清楚な白百合の花ではおもしろくない。
 「鬼」という名をかむせらた鬼百合ならではの咲きようである。
 「鬼百合」であるからこそ「雨を溜めたる花の反り」が効いているのである。
 このように、ものをよく見て作った即物具象の句はどこまでも嫌味がなく、何度読み返しても鮮やかに景が浮かび上がるものである。



   花芙蓉せめて夕日の沈むまで     栗田白雲  

 何と甘美な表現であろうか。だがその調べこそが、思わずうっとりとしてしまうような芙蓉の花の美しさを見せてくれるのである。
 作者自身が相当、芙蓉の花の美しさに惚れこんでいなければ、こうは言えない。
 「沈むまで」、物言いをここに止めてしまったような下五も巧い。



   雨止みしどの巌頭も霧立てり     森田ちとせ

 霧を詠いあげて何とスケールが大きく晴れやかなるものであろうか。
 作者は高峰を登山する方であるから、巷を東奔西走しているような私には想像もつかない世界を体験されていることだろう。
 霧一つとっても、後退りするような厚みがある。

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 その他、注目句をあげます。

   パソコンに天眼鏡や今朝の秋       末澤みわ  
   炭坑節待って輪に入る踊りかな      泉いづ  
   落し文亡き友のこと夫のこと        大本華女
   盆唄や今宵ますます名調子         中園子
   鳴き尽きて蝉のころがる路傍かな     矢島静
   丹沢の峰も恥じらふ西日かな        中野はつえ
   秋蚕飼ふ今宵も母は寝もやらず      田野草子
   君とゐて風鈴の音のただ一つ        柴田博祥
   濁流の鴨を呑み込む雷雨かな        狗飼乾恵
   富士川の流れ穏やか盂蘭盆会       藤田トミ
   簾揺らしゴーヤ震はすはたた神       東小薗まさ一
   音もなく庭に搖るるや白芙蓉         木下野風
   蜻蛉の影の過ぎゆく用水地          森川三花
   里芋や葉は日に向かひ大開き        菊地後輪
   赤ん坊の唇むらさきに夏の海        湯川桂香




by masakokusa | 2017-10-01 15:20 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
『青草』・『カルチャー』選後に・平成29年7月    草深昌子選
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   子育てを終へて世に出る白日傘        佐藤健成
 
 子育て中には外出もままならなかった女性が、様々の難儀を乗り越え、今や颯爽と働きにでかける白日傘である。
 昨今、女性は出産後であってもすぐに世に出られる時代であるが、少し古い世代は、とにもかくにも子育てが大事であった。
 この句の白日傘は、女性進出がままならなかった時代の、ある種の憧れを象徴するものとして描かれていることに感銘を覚えた。
 この頃は黒日傘も多いが、素直にも屹然たる女性の日傘は、何といっても真っ白がいい、見るからに涼しげである。

   我が先へ先へと日傘嬉しさう    健成

 こちらは女学生であろうか、いかにも若々しくダイナミックである。
 二句とも、日傘を通して、女性へのやさしい眼差しがうかがい知れるものである。



   軒下に合羽吊して鮎の宿      坂田金太郎

 鮎釣りは、鮎の縄張りを持つ習性を利用して囮鮎を使ったり、またエサ釣りやドブ釣りなどなかなかに楽しそうだが、腰深くまで川に浸かって、体力の消耗も激しいのではないだろうか。
 掲句は、鮎宿の軒下の一面を叙しただけであるが、その内側に繰り広げられているであろう釣人の声々や佇まいまでもが想像されてくる。
 香魚と言われる鮎の香気が、濡れしきった雰囲気の中にただよってもいるだろう。
 何も言わない俳句の強みをあらためて気付かされるものである。
 同じ作者の、

   焦げあとの穴ともならず渋団扇      金太郎

も、渋団扇の質感というか、しぶとさを言い得て妙である。

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   夏の日の松は静かに吉田邸      宮本ちづる

 吉田邸は、戦後の混乱期に長く首相を務めた吉田茂首相邸である。
 邸宅は富士山を臨める大磯にあって、8年前に原因不明の火事で焼失したが今年再建された。
 松の木が高々とその涼し気な枝ぶりを見せているが、これらの木々は、吉田首相の艱難辛苦をことごとく見守ってきたものであろう。
「夏の日の松は静かに」は、「吉田邸」に集約されて、まこと、どっしりと落ち着いている。
 それは、そうとしか言いようのなかった、作者のもの思いの静けさでもある。
 吉田茂の時代をしみじみと回顧されたのであろう。

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   郭公の声のみ響く桟敷跡      神崎ひで子

 桟敷は祭を見るためのものであったのか、あるいは芝居か相撲か何かの見物席であったろうか、ともかく今は無き桟敷の跡の光景が、なにがなし残像のようにしのばれて、さびしげにも広やかな明るさをまのあたりにするようである。
 それはカッコウ、カッコウという誰しもがよく聞きわけている牧歌的な鳴き声が一句全体に染みわたっているからであろう。
 〈郭公や何処までゆかば人に逢はむ〉という臼田亜浪の句が思われもするものである。



   野良仕事大夕立の追ひかくる      新井芙美

 上五にドンと置かれた「野良仕事」が大きく効いている夕立である。
 夕立というものの野趣が、土の匂いとともにいよいよ大きくうち広げられたような臨場感が頼もしい。



   目覚むれば夏満月を浴びてをり      平野翠

 何という贅沢な目覚めであろうか。
 秋の満月ではない、「夏満月」であればこその月明りの情趣が、静かに伝わってくる。
 睡るという人体の輪郭も又清らかに感じられるものである。

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   雲仰ぎ通る翡翠の小枝かな        栗田白雲
   雀来て蛍袋を揺らしけり          中澤翔風
   立錐の余地なき夜の団扇かな      鈴木一父
   色かたちどれも違うてみな四葩      藤田トミ
   日傘さす君の手白し無人駅        米林ひろ
   白桃の水しなやかに浮きにけり      二村結季
   月光やわらし居さうな夏座敷       古舘千世
   虎尾草や雫の切れず揺れ通し      森田ちとせ
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   八木節の聞へて赤城雲の峰        間草蛙
   ちかぢかと花柄見ゆる水眼鏡       熊倉和茶
   初蝉や風よく通る並木道          佐藤昌緒
   蜩や大雄山の和合下駄           石堂光子
   天の川麺にオクラの星散らし        奥山きよ子
   遠雷やラジオのノイズひとしきり      中原マー坊


by masakokusa | 2017-08-31 23:59 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
『青草』・『カルチャー』選後に・平成29年6月    草深昌子選
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   香水の匂ひの席を譲らるる       中澤翔風

 
香水というと、〈香水の香ぞ鉄壁をなせりける 中村草田男〉が、真っ先に浮かび上がる。
俳句を始めたころ、男性にとって「香水」とはこんなものなのかという驚きがグサッと胸に突き刺さったものであったが、その後は読むほどに、女性も男性もなく香水という季題そのものの一断面を見事に詠いあげたものとして唸らされている。
 そこで翔風さんの句に、なつかしくも惚れ惚れと感応してしまったわけである。
 今や、女の最高のおしゃれという観念が崩れて、ただ身だしなみとして、男も用いるものになってしまった「香水」であってすれば、掲句の席を譲ったのは女とは限らないが、譲ってもらった席を作者はどう感じたであろうか、また読者はどう感じるであろうか。
 一句の世界に読者が入っていって、その場のその時の心のありようをたしかめようとする。
 そのことが、そのまま香水の残り香であり、一句の余情になるのである。

 

   凌霄花潜りて朝のランドセル       栗田白雲
 
 凌霄の花は、日常の家並の中によく見かける花である。
 真っ青な空から垂れ下った凌霄の花の下をかいくぐるようにしてランドセルを背負った子が通学する。
「朝のランドセル」、この端的に言い切ったところがすばらしい。
 梅雨のころから、塀や垣根に、ただ静かにも咲いている凌霄であるが、毎朝ランドセルの子らが潜るたびに、はっとするような美しい色彩を見せてくれるのである。

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   海鳴りや花魁草は沖を向き       坂田金太郎

 花魁草は草夾竹桃とも言い、五裂の小さな花が紫陽花のように沢山集まって咲く花である。
 そんな、かんざしのように愛らしい花が、海鳴りのする沖の方を向いているという。
 ただそれだけのことだが、晴れやかな美しさと同時に一抹のあわれを感じるのは私だけだろうか。
 花の名にある「花魁」から、遊女の印象をかさねてしまうからかもしれない。
 ちなみに花魁草と言えば、即座に、
   揚羽蝶おいらん草にぶら下る   高野素十
 が思い出される。
 素十の句は、季重なりを厭わず、揚羽蝶の命を花魁草にかぶせたものであるが、金太郎さんの句は近景からはるかなる遠景をも見せてくれるものである。



   ナイターの選手に影のなかりけり       中原マー坊

 つい先日もナイターを観に行ったばかりであるが、「選手に影のなかりけり」とは気が付かなかった。
 まさにマー坊ならではの発見の句であると驚かされた。
というと皆さんにそれぐらいのこと知ってましたよ、と言われそうであるが、それを俳句にしてこそ知ってますよと言えるのではないだろうか。
 ナイターと言えば、もう60年も昔のことで、記憶違いかもしれないが、高校野球で、魚津と徳島商の延長戦でナイターになったことが昨日の事のように思い出される。
 かにかく、ナイターの照明は、あまりにも明るすぎるのである。

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   昼顔や工事車輌の通り道       山森小径

 昼顔は、道端の草むらなど、いたるところに見かける淡い紅色の花である。
 近辺に大がかりな工事現場があるのであろうか、昼顔の咲いている道に、ひっきりなしにダンプなどの大型車が埃を巻き上げて往来するのである。
 昼顔の可憐なる佇まいにあって、あまりにも対照的な現場である。
 だが、作者は、昼顔が、その蔓を伸ばしながら、地上をどんどん這ってゆくという、見かけによらぬ生命力の強さをもっていることに、感嘆しているのである。



   古書店のワゴンセールや片陰り       佐藤昌緒

 「片陰り」が、ふとした都会の陰翳をあまさず伝えてくれる句である。
 例えば神保町であろうか、つい先日もこのような光景に出会ったばかり。
 イベントとしての大大的なワゴンセールではなく、歴史ある店舗のささやかなワゴンセールと解したい。
 そこには廉価にして、なかなかの掘り出し物が並んでいるのではないだろうか。
 太陽が西に傾きかけた午後になって、古書店街の片陰に立つと、噴き出してくるような汗がいつの間にか引いていくのである。

 

   パナマ帽少し抓んで会釈され       小幡月子
 
 ちょっとした軽いスケッチだが、その軽さが「パナマ帽」ならではの涼しさを詠っている。
 トップの部分が凹んでいるあたりがさりげなく感じられ、この紳士への郷愁が味わいにもなっている。

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   黄金比水羊羹にありにけり       川井さとみ

 黄金比とは縦と横のもっとも美しい比率であろうか。
 理論的なことは知らなくとも黄金という色彩のきらめき、オウゴンヒという大らかな語感は、手元の清涼感溢れる水羊羹を演出してあまりある。
 ちなみに、さとみさんは、「輝き厚木塾」の松尾数学塾で黄金比なるものを学ばれたという。
 松尾先生は、わが結社「青草」の松尾まつを編集長である。
 学ぶという積極的姿勢が、こんな楽しい一句を生み出した。

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   驟雨去り三保清見潟富士の峰      松尾まつを
   小魚の群の過ぎゆく蛇苺         石堂光子
   清流の里に謡へば南風          菊竹典祥
   蛍火や椿山荘の薄明り          佐藤健成
   音もなく夏の曙ひとすじに         平野翠

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   くちなはの門扉を渡る真昼かな      二村結季
   大広間一つ置かるる夏火鉢        伊藤波
   背広着て代田見てゐる日暮かな     河野きな子
   尻振つて横横歩き鴉の子         石原虹子
   亡骸は昼顔の墓ハムスター        狗飼乾恵

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   青年の流行の頭梅雨寒し         上野春香
   老鶯と鳶と掛け合ふ杉木立        田淵ゆり
   道すがら花と見まがふ蛾の白き     中野はつえ
   鈴蘭を添へて山菜届きけり        末澤みわ
   飛び方を習ふ子燕高架下         藤田トミ
   若竹を過ぎて広がる畑かな        日下しょう子


by masakokusa | 2017-08-02 20:55 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
『青草』・『カルチャー』選後に・平成29年5月    草深昌子選
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   命日やカーネーションを妻の供花     中原マー坊

 カーネーションと言えば先ず母の日が思い出される。そんな、美しくもなつかしいカーネーション を妻の仏前に供えたのである。
 「命日や」と切ったことによって、カーネーションの色彩をいっそう鮮明に浮き出している。
 最愛の妻はまた最愛の母でもあった、家族の日々が感謝とともに偲ばれるのである。
 俳句は誰のためでもない、自分のために作るのである。
 本当の心の言葉は、きっと誰かの胸に届くことを信じたい。



   疲弊して帰る玄関雪の下     菊地後輪

 いきなり「疲弊」などという難しい言葉を使って、どういうことだろうと内心で思いつつ読み下して、「雪の下」とくると、思わず納得させられた。
 疲弊というほかない、弱り切った疲れが、すっと癒されるような清らかさを覚えたのである。
 文字通り真っ白な「雪の下」が、足元のそこに見えてくる。
 ユキノシタは通常「鴨足草」と書くが、「雪の下」の字をあてたところもいい。
 同じ作者に、

   表紙見て焦る店員初夏の風     後輪

 これも一体店員に何があって焦ったのか、想像をめぐらしてみてもよくわからない。
 だが、わからないままに「初夏の風」が何故かしら一抹の出来事に、安堵感をもたらしてくれるような気分がする。
 「初夏の風」は大雑把ではあるが、いい風だなと思う。

 後輪さんの句作りには、損得勘定がない、およそ上手な俳句を作ろうとしない。
 今はそれでいい、その姿勢こそが上達につながっていくのだから。

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   かはほりや宵の満月切る如く     栗田白雲

 白雲さんもまた、独特の情緒を持っておられる。
「蝙蝠」と言わずして「かはほり」としたあたり、感受性のよさではあるが、何より、写生の眼から生み出された情景がすばらしい。
 古色蒼然たる屏風絵を見るような、きらめきと薄暗さが混然一体となっている。



   連休の明けて河原の夏鴉     佐藤健成

 ゴールデンウイーク明けを素材とする俳句は私自身も作ったことがあり、よく見かけもするが、この連休明けはまた何とそっけないものだろう。
 その、そっけなさこそが「夏鴉」そのものとして、臨場感に富んでいる。
 ひとかたまりの暗さのほかは、初夏の陽光に溢れているようである。
 夾雑物のない俳句は、印象が広やかにも鮮明である。
 夏鴉には作者の気持ちがこもっている、私の好きな俳句はこのような俳句である。



   辣韮掘るにほひ裏から表まで     湯川桂香
 
 家庭菜園であろうか、辣韭を実際に掘っている作者の姿がありのまま詠われている。
 それにしても「裏から表まで」と言う表現のうまさはどうだろう。
 思わず、ツンツンと臭ってくるようではないか。
 あの白い鱗茎はよく肥って、土にまみれながら次々と掘りだされるのである。
 さて、その後は、甘酢に漬けようか、それとも塩漬けにしようか、収穫の楽しさに溢れている。

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   楠若葉蔦の緑を垂らしをり     間草蛙

 町田の薬師池公園へ吟行した折の句である。
 日頃から写生をこころがけている作者でなければ、こういう地道なところに眼を凝らすことは出来ないであろう。
 楠若葉のみどりと、その上に垂れ下った一条の蔦のみどりが、濃淡というかある種の陰翳を醸し出して美しい。
 名所旧跡に目を奪われることなく、この時節の自然のありようを的確につかんでいる。



   千鳥草溢るる庭の薄暑かな    潮雪乃

 千鳥草という草がどんな花を付けるのか、くわしく知らなくても、その名称から、千鳥の飛翔が想像されるだろう。
 あるいは小さな鳥がたくさん飛んでいるという印象でもいい。
 そんな花が庭中に咲き溢れていることによって、はっと気づかされた日々の薄暑である。
 見かけは涼やかな花であっても、生来の強さがあってよく増えるのかもしれない。
 初夏は一番過ごしやすい気候ではあるが、ふと汗ばむほどの暑さが俄かにやってくると、心身の状態がついていかない、そんな心象も伺われる。
 ちなみに、千鳥草は、飛燕草ともいう紫の花である。

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   癌告知受くやあまねく青嵐     松尾まつを

 癌と言う病名を告げられたとき、その周辺のすべては「青嵐」という自然に支配されてどうにもならなかった。
 青葉を吹き渡る風は作者の心に深い翳りをもたらしながら、一方でその風の壮快なる力強さに救われてもいる。
 淡々と詠っているように見えながら、病気には負けない強靭なる精神が自ずと「青嵐」という季題を見事にキャッチされているのである。



   万緑の風に向ひて子と語る     関野瑛子

 中村草田男の〈万緑の中や吾子の歯生え初むる〉が、一躍有名になり、以後「万緑」が季題として定着したものである。
 それだけに、「万緑」は安易に使えない難しさがあるが、まだ初心の瑛子さんが、やすやすと万緑ならではの一句をものにされた。
 作者と子の会話、多分ご子息であろうか、その対話が難しい問題であったのか、さりげないものであったのか、多弁を要したのか、短かかったのか、わからない。
 そのどちらであってもいい、血のつながりのある親子の対話である。
 万緑の風がすべてを受け入れてくれたのであろう、爽快なるものであったに違いない。



   どの順路行きても躑躅つつじかな     藤田トミ

 厚木市には「つつじの丘公園」があって、この時期には、さまざまの躑躅の花で埋め尽くされる。 トミさんもその公園をそぞろ一巡されたのであろう。
 厚木ならずとも、躑躅の花というものは、あちらこちらでよく整備された公園に多彩にもびっしりと咲いている花である。
 そんな躑躅の花の特色を、「順路」という言葉でもって、強く印象付けられた。
 漢字の「躑躅」、平仮名書きの「つつじ」を使い分けたことも、順路に従って次々現れる躑躅のそれぞれに違う色彩やボリュームを感じさせて上手い。

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   草の実に触れば爆ぜて薄暑かな    中園子
   青蛙応へるごとく浮き上がり       伊藤波
   岐れ道夏蝶左われ右に          狗飼乾恵
   線香の火はあきらめて青嵐        奥山きよ子
   引く波に捲られもして蟹走る        坂田金太郎
   雛罌粟や隣家は人の影もなし      田野草子
   豆飯や父は頭を刈り上げて        柴田博祥
   水漬かる蓮の巻葉の細きこと      佐藤昌緒
   放牧の遠郭公や阿蘇の山        古舘千世
   筍の刺身旨しや茶碗酒          鈴木一父
   生垣やジャスミンの白溢れ出づ     黒田珠水





  
 
by masakokusa | 2017-06-29 19:36 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
『カルチャー』『青草』選後に・平成29年4月          草深昌子選
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   雄を追ふ春の雀の尾のかたち     長田早苗

 「雌」という言葉は使われていないが、これは雄に求愛している雌雀の心情にあふれた一句である。
 雀の交尾は人家の周辺でも見かけられるというから、目撃した作者は驚きに息をひそめているのだろう。
 でも、その雌の姿がどんなものであると言わずして、「尾のかたち」とプツンと切って終わったところが心憎い。
 雀の実態をよく知らない私であっても、その尾の形は、さぞかし生き生きと張りつめたもののように思われる。いや、もっと堂々たるものかもしれない。
 天地躍動の春の中にあって、小さな雀の命もまた必死に生きんとしているのである。



   鶯の一声ありし今日の宿      上田知代子

 鶯が美しい声で鳴いてくれた。
 ただひと声ではあるけれど、一声であればこそ一層、しみじみと嬉しく胸に響いてくるのである。
 鶯の初音であったかもしれない。
 旅にあって、今日という日の充実した喜びが、風景の静けさの中に伝わってくる。
「今日の宿」には、自然と交歓することのできる作者ならではのやさしさが滲み出ている。

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   日光の陽明門や春惜しむ      菊竹典祥

 日光東照宮の国宝「陽明門」はこの度大改修が終了した。
 作者は、その極彩色の彫刻、金箔に溢れた眩しさをまのあたりにされているのであろう。
 拝観するほどに、歴史のこと、今の世の事、自身の境涯のことなど、様々の感慨が次から次へと湧きおこったことであろう。桜の花も散りかかっているだろうか。
 いつまで見ていても見飽きないその美しさを前に、作者はただ一言「春惜しむ」と述べられた。
「日光の陽明門」と「春惜しむ」との切り結びは他に言い換えのきかないものとして、余情をたっぷり曳いている。
 同じ、作者の、

   指先に紙縒るごとく種を蒔く    典祥

 も、一見飄々としているが、実体験に基づくもので、作者の全体重がかぶさっている。



   はぐれ蝌蚪芥の中にもぐりけり     坂田金太郎

 お玉杓子は一団が真っ黒になるほどに群れて泳いでいるが、なかには少数が群れをはみ出してあらぬ方向へ行くのもある。
 そんなお玉杓子を「はぐれ蝌蚪」と打ち出したところが先づ面白いが、水面に浮かんだ塵芥の下へ潜っていったところまで見届けたことがすばらしい。
 はぐれ蝌蚪も、きっと又どこかで、一団と合流するのであろう。
〈川底に蝌蚪の大国ありにけり  村上鬼城〉、かの名句が思い出される。
 蝌蚪には蝌蚪の楽園があることを鬼城ならぬ金太郎の句からも、生き生きと想像させられるものである。

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   朧月米研ぐ水の温みたり     間草蛙

「米研ぐ水の温みたり」と言われてみると、まこと「朧月」がもうろうとして柔らかに懸っているのが、臨場感たっぷりに感じられてくる。
 米を研ぐ水が、ふと温んで感じられたという。そんな「水」からは、そのまま月を包み込むような水蒸気のイメージを想像させられるからであろうか。
 作者のこの世の実感が、遠く「朧月」に通っているとは凄いことである。



   嘴を蕊の黄色に春の鳥       山森小径

 作者は、ヒヨドリであろうか、ムクドリであろうか、何か特定の鳥を見定めてつくづくと嘴の黄色の美しいことに感応されているのであろう。
 しかし一句にするときに何鳥かはっきり言わずして、「春の鳥」としたことによって、事実の説明に終わらずに、あたりの景色が大らかに押し広げられた。
「蘂の黄色」からは、花鳥もろともにカラフルな春が感じられるものである。

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   春の夜や街路時計は遅れがち     末澤みわ

 街路用に設置された時計が街路時計であるが、「街路時計」という言葉が俳句に用いられることが新しくて、作者の感性の素晴らしさが思われた。
 昼間ならぬ「春の夜」のしっぽり濡れたような街路に、灯が点り、たかだかと掲げられている時計の時刻は、どうやら遅れがちのようだというのである。
 春の夜は、当然暮れるのも遅いのであるが、時計までもが遅れがちであることによって朧の情趣がたっぷり引き伸ばされたかのような、ゆたかな気分をしのばせる。



   夕桜吹雪きて今日を惜しみけり     石原虹子

 美しい映画のラストシーンを見るようである。
 桜の花びらがまるで雪のように散りかかる夕ぐれとは、これほどまでに人にものを想わせるものであろうか。
 一句から、読者もまた、かえがえのない今日という一日を惜しむのである。



   いつのまに山ふくれたり春の雨     大本華女

 この山はいつも見ている「大山」であろう。
 しとしとと降る春の雨は、降り始めると結構長く続くものであるから、その無聊に何となく過ごしていると、ある時、ふと見上げた大山が、異様に膨らんでいたのである。
 誇張のようであるが、事実、春先の雨は草木の芽を存分に引き延ばすであろうことを思うと、十分に納得させられる力をもっている。
 やはり、「いつのまに」がいい。一句のあたたかみを柔らかに醸し出している。

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   うららかや鯖街道を猫の行く     中原マー坊
   囀や大樹の暗き真ん中に       藤田トミ
   春風や鍬をかついで杖ついて     田淵ゆり
   春の夜の黒髪雨に濡れにけり     石堂光子
   春の鷹雲取山を滑り来る       森田ちとせ
   三椏や横に広がる花の数       宮本ちづる
   石鹸玉麒麟の頭上流れゆく      伊藤波
   朧月雲の流れてなほおぼろ      熊倉和茶
   夕されば家並も森も朧なり      神崎ひで子
   一人立つ橋の袂の花吹雪       福山玉蓮
   昼に見て夜にまた見る桜かな     小川文水

by masakokusa | 2017-05-30 19:30 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
『カルチャー』『青草』選後に・平成29年3月       草深昌子選
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   鶏鳴くや大根一列茎立てり     石堂光子

 「茎立」とは「薹(とう)が立つ」ことである。
 茎がのびはじめると葉はかたくなり、大根などは鬆(す)が出来て急に味が落ちる。
 年頃が過ぎ、さかりが過ぎることを「とうがたつ」というように、「茎立」には、どこかしらわびしく感じられるものがあるようである。
 作者もきっとそんな思いで眺めているのであろう。同時にふと、とぼけたようなおかしみを感じられたかもしれない。
 上五の「鶏鳴くや」が、その気持ちを如実に物語っている。

   水嵩の増したる川や木五倍子咲く     光子

 木五倍子の花穂が川面にどっと垂れ下った感じが目に見えるようである。



   焙じ茶と田舎饅頭長閑なり     黒田珠水

 「長閑」は春の日のもたらす風情であるが、この句を読むとつくづくとあたたかなおだやかな人情が感じられる。
 つまり「長閑」はそのまま人々の「のんびり」に通じているのである。
 何も説明していないが、「焙じ茶」の「焙じ」、「田舎饅頭」の「田舎」が絶妙に効いていることは言うまでもない。

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   一歩づつ踏み入る山の芽吹きかな     石原虹子

 山の芽吹きが気持ちよく臨場感たっぷりに実感されてくる。
 何気なく詠われているようだが「一歩づつ踏み入る」とは、なかなか言えそうで言えないものである。
「一歩づつ」の一歩一歩からは、一個一個の芽吹きが感じられ、「踏み入る」からは、それぞれの木々の生命力が盛んに吹き出ている様子が思われる。
 「俳句は頭で作るものでなく足で作るもの」だということをよく実践されている作者ならではのものである。



   長閑しや炭焼き小屋に煙立つ     米林ひろ

 炭は、昔の寒い冬の日々に燃料として使い続けたものであるが、今はもう一部の愛用者に限られるようになった。
 作者は、山里も奥の方を歩いていて、ふと炭焼小屋を見つけられたのである。
 少し離れたところから、ほーっとばかり、さもなつかしく眺めている感じである。
 雑木を蒸焼にして作られる、その煙はあたりの空気に溶け込んでしろじとろ上がっているのであろう。
 駘蕩たる情景に作者の心理が映し出された長閑さである。



   珍しき人来て蓬摘みにけり     坂田金太郎

 普段は訪れることのない人が、とある日に思いもかけずやってきたのである。
 近くにある小川の土手に揃って出かけられたのであろう。
 摘草は春の野遊びであるが、わけても「蓬摘み」にはうらうらとした喜びが漂うものである。
 「珍しき人」という上五の措辞からは、蓬独特の、郷愁をさそう香りがほのぼのと立ちのぼってくるようである。

   蕗の薹そばを流るる酒匂川     金太郎

 この句も、ただ「酒匂川」という固有名詞に語らせて、曰く言い難く「蕗の薹」の味わいを醸し出されている。
 酒匂川(さかわがわ)は丹沢山地から足柄平野を南下する川であるが、この固有名詞を知らなくても、字面の、「酒」「匂う」から、そこはかとなく感受するものがある筈である。
 こんな蕗の薹で、一杯飲んだら至福であろう。

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   紅梅の散って赤子のいやいやす     長谷川美知江

 紅梅の散るさなか、乳母車の中か、あるいは抱っこ赤ちゃんであろうか、ご機嫌ななめのようで、しきりに首を振っているのである。
 「赤子のいやいやす」という正直な表現が何とも愛らしい。
 紅い梅の花びらが散りかかるのは、まるで生命の讃歌のようである。
 無意識に呼応するかのような赤子の仕草が、春の明るい空間を大きく押し広げている。


   春蘭や茎嫋やかに葉は剣        河野きな子
   うらうらと風出できたり坐禅草      森田ちとせ
   また来るかこれが最後か帰る雁     吉田良銈
   姉妹しておさげ髪なり柳の芽       中園子
   マラケシュの二月の朝の小糠雨     山森小径
   鮊子に白き飯炊く夕べかな        神崎ひで子
   美容院の鏡の前の沈丁花        芳賀秀弥
   鳥の恋一声あげてまつしぐら       田淵ゆり
   初蝶の止まらんとして吹かれたる     二村結季

by masakokusa | 2017-04-08 21:32 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
『カルチャー』『青草』選後に・平成29年2月       草深昌子選
「青草」並びに「カルチャーセンター」の〈今月の感銘句〉をあげます。


   吊革に丸と三角風光る       古館千世

「吊革に丸と三角」言われてみればそうであったなと、思わずにっこり。何気ない日常に発見された面白さが、まさに光っている。
ガラス窓に反射する春の光景は晴れ渡っている。

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   寒晴や霞が関は坂の上       湯川桂香

 「草深昌子句集発刊祝賀会」に赴いてくださった作者の感懐が、「霞が関は坂の上」に言い尽くされている、しかも「寒晴」である。
 何一つさえぎるもののない、寒気の中の晴れやかさが高みにひらけていくのである。
 一句をもって何よりの祝賀をいただいた思いである。

 
   祝宴の竪琴の音の春めきぬ      河野きな子

 祝賀会では、ハープの音色が美しくすばらしく、出席者一同うっとりとしたのであった。
 祝賀会を「祝宴」、ハープを「竪琴」と言い表された、言語感覚のすばらしさに二度うっとりしてしまった。
 俳句が引締まって、祝賀会にある種の落ち着き、厳粛さをもたらしている。


   「青草」の創刊号や草青む      松尾まつを

 2017年2月16日に結社誌「青草」の創刊号が発刊された。
「青草」創刊の立役者は作者の松尾編集長であるが、結社「青草」を代表して記念の一句をのこしてくださったのである。
「俳句は挨拶」の精神に基づくものであろう。
 祝賀の気持ちは、「草青む」の大いなるかがやきに溢れんばかりである。

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   春一番二番三番猫の恋       まつを

 季重なりどころではない、季語の三連発、つまり季語を並べただけであるが、このすさまじさこそが猫の恋ではなかろうか、思はず唸らされた一句である。
 これでもか、これでもかという春の嵐を次から次へと乗り越えて、この恋は果たして成就するのであろうか。
 生きる命の切実が、どこか滑稽でもある。
 俳句の冒険が、即ち猫の恋の冒険になったものである。

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   春一番矢継ぎ早なる千切れ雲     潮雪乃

 俳句は、見たままを見た通りに作りなさい、というものの生易しいものではない。
 「矢継ぎ早」という言葉が、春の強風の見たままを見事に伝えている。

   連山は鋼色なり春寒し        佐藤昌緒
   靴下を二枚重ねて梅そぞろ      栗田白雲
   春寒や門くろぐろと極楽寺      中園子
   南欧の色に瓦や春の空        間草蛙
   ハンガーに白いブラウス春めきぬ   木下野風
   春夕焼水平線の沸き上がり      森川三花
   寒晴のサドルに遊ぶ雀かな      大本華女
   大げさに手を振る君やチューリップ  川井さとみ

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   煽られて羽毛逆立つ寒鴉       狗飼乾恵
   撫ぜられてまたつままれて猫柳    日下しょう子
   ストーブの音の静かに寒明くる    東小薗まさ一
   冴返る蕾の色の濃かりけり      神崎ひで子
   節分の大山靄ふ夜なりけり      石原虹子
   寒晴や鷹と鴉が一騎打ち       堀川一枝

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   山いくつ越え来し雲や木五倍子咲く   森田ちとせ
   一万歩あるいて一個桜餅        小川河流
   戯れ合うて雀転ぶやあたたかし     藤田トミ
   この道は昔川なり猫柳         山森小径
   ケイタイを振り回しをり合格子     中原マー坊
   楤の芽を買うて夕べの緑かな      矢島静

by masakokusa | 2017-03-30 14:52 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
『カルチャー』『青草』選後に・平成29年1月       草深昌子
「青草」並びに「セブンカルチャー」の〈1月の感銘句〉をあげます。

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   初句会べつぴんさんが揃ひけり     山森小径

 旧臘、発刊した草深昌子句集「金剛」の中の一句、〈赤子はやべつぴんさんや山桜〉を引いてくださったのであろう。
 その、拙句集へのご挨拶はもとより嬉しいが、事実、初句会の誰も彼もが、心優しいべっぴんさんであられたことに共鳴させられた。


 
   初日の出輪廻の中に我もあり     狗飼乾恵

 「輪廻の中に我もあり」なんて大きなことを言って成功するのは、この「初日の出」以外にはないであろう。
 一回きりの一句は、作者の実感にほかならない。
 読者もまたその実感に引き込まれる思いがする。まことに目出度い句である。


   東雲の寒九の水を供へけり     古館千世

 「東雲の」、ここに小休止がある。亡き人への心がほのぼのとこもっている。

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   初鴉鎮守の杜を飛び立ちぬ     石原虹子
 
 鎮守の社の境内にある森を鴉が飛び立った。
 いつも見慣れた何でもない光景であるが、それが元旦であることの目出度さ。
 俳句の心がまた一つ磨かれたような一句である。



   蔓草の通せん坊や探梅行     菊竹典祥

 蔓草は枯木に絡んで、ちょっと道をふさいでいるのであろう。
 ふと「通せん坊」という言葉が浮き出たところに、子供のような心弾みが思われる。
 これこそが、探梅という、日和佳き日の風趣である。



   数十年袖を通さぬコートかな     潮雪乃

 誰にも思い当たることでありながら、誰もこのようには詠えなかった。
 上質で捨てるには惜しいものであるが、時代後れもはなはなだしいものでもある。
 コートのあわれがふと歳月のあわれに重なってくるようである。



   冬薔薇マリアテレジアロワイアル     黒田珠水

 まりあてれじあろわいある、意味不明ながら、なんて素敵な韻律であろうか。
 舌の回らぬような、それでいて何だか高貴なるような名前の羅列。
 この淋しさの美しさこそが冬の薔薇のありようである。

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   小正月モヒカン刈りの袴かな     松尾まつを

 モヒカン刈りとは、頭部の左右を剃って、中央に一直線に髪を残した刈り上げ方をいうらしい。
 そんな若蔵が袴に威儀を正してやってきたのである。
 小正月は、満月の夜を正月として祝った古い時代の名残で、今も田舎などでは餅を搗いて祝う習慣が残っている。
 モヒカン刈りは、一見いかさま風に見えて、いかにも小正月に似つかわしいように思われるではないか。小正月のちょっとした賑わいが楽しい。


   手を振れど背ナの丸まる寒さかな       坂田金太郎
   風呂吹きや昨日のやうな一昔         佐藤昌緒
   結氷に閉ぢ込められて目高かな        石堂光子
   探梅や静まり返る田んぼ道          菊地後輪
   バス停やマスクの人に見つめられ       藤田トミ
   探梅や絹の道てふ石畳            森田ちとせ
   初詣千木より低き宵の月           眞野晃大郎
   門松や朝日のなんとやはらかき        北村たいし
   一椀の粥をいただく初薬師          河野きな子
   でんでんと太鼓の響く寒の入         神崎ひで子
   大年や蒸して煮詰めて薯の餡         二村結季
   かさご煮の小さく甘く初句会         間草蛙
   三代の振って骰子絵双六           芳賀秀弥
   角巻や包まれもして旅にあり         熊倉和茶
   初夢に忘れし人がありありと         吉田良銈
   大凧や百人の足駆り立てて          高橋まさ江
   白梅や坐して目合はす菩薩像         伊藤翠
   男手の雑煮をまづは仏壇へ          中原マー坊
   獅子舞の横断歩道渡り切る          湯川桂香
by masakokusa | 2017-02-17 22:42 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
『カルチャー』『青草』選後に・平成28年11月     草深昌子選
「セブンカルチャー」並びに「青草」各会の〈今月の秀句〉をあげます。

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   いつ来ても風吹く峠鵙の贄     坂田金太郎

 鵙は貪欲で、後で食べようと蓄えるのだろうか、蛙や蜥蜴を竹や小枝の先に串刺しにしているのをよく見かけるが、これを鵙の贄という。
 鵙が縄張りを誇示して鋭い声を発するようになると、秋の空もいよいよ澄み切ってくる。
 峠にさしかかると、そこはか乾涸びた鵙の贄が、風のままに揺れているのであろう。
 「いつ来ても風吹く峠」という穏やかな言い回しが、無残なるものをいっそう浮き上らせて、鵙またその贄の命の切なさを思わせる。
 峠を渡る秋風の淋しさもまた鵙の贄によく呼応している。


 
   冬の夜や夫婦ちやわんが笑ひ出す     中原マー坊

 「夫婦ちやわんが笑ひ出す」とは何たることであろうかと、一読はっとする。
 だが「冬の夜や」という季語の打ち出しにしばし浸ってみると、そのシチュエーションにあってすれば、すぐに違和感なくある種の感情が誘い出されて、しんみりと合点がいくものである。
 作者は今年、令閨を失われた。
 人は、その悲しみを制御できないとき、夫婦茶わんに笑ってもらうしかないのである。
 誰のものでもない、作者独自の感受したものでありながら、読者もまた寒々とした夜の無聊にふと同じような体験のあったことを、呼び覚まされもするものではないだろうか。
 まこと秀逸の一句である。


   大家族ゐるかのやうに葱刻む     日下しょう子

 白々とした葱、青々とした葱である。
 今まさにふんだんに微塵に切って、俎板に山盛りいっぱいになっている。
 葱独特の香気が厨中にたちこめていることだろう。
 「大家族ゐるかのやうに」、その感慨が、明らかに葱のありようを見せて、大らかである。
 私は葱が大好きで、毎日欠かしたことがないから、この句に出会ったときは、思わず快哉を叫んでしまった。
 一人暮らしあるいは夫婦二人であろうか、何かしら一抹の淋しさを感じるという読者がいるかもしれない。
 私はただ葱称賛の一句としていただいた。

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    秋深し一人暮らしに守宮来て     東小園まさ一

 こちらは紛れもなく一人暮らしの一句である。
 だが、作者の哀愁は、一人暮らしにあるのではなく、秋という季節のいよいよ深まってきたことに、詩人として静かにも感じ入っているのである。
 ガラスに張り付く守宮にも、ふと声を掛けたくなるような、温もりの恋しい暮の秋ではある。



   きんきらのひよつとこ五人神無月     湯川桂香

 十一月は神々がみな出雲へお発ちになるから、出雲以外の諸国は神無月ということになる。
 この神無月を、端的に「きんきらのひよっとこ五人」とのみに言い切って、穏やかな小春日和までをも表出している。
 きんきらきんのけばけばしい衣装を身に付けてひょっとこのお面をかぶった五人の踊りは、鎮守の祭であろうか。
 まるで神の留守を狙って、浮かれているような感覚が打ち出されておもしろい。 
 俳句の骨法を十分に踏まえながら、作者自身の心弾みがなければ詠えない秀句である。



   神馬曳く猿逞しや神の留守     柴田博祥

 出雲大社へ八百万の神が参集するため、その他の神社には神がいないという「神の留守」は、まさに雲をつかむような話で、季題としてはかなり難しい。
 だが、一句はこれぞ神の留守と思われるものである。
 それもそのはず、作者は寒川神社へ赴いて実地観察をされたというから、まこと筋の通った俳句実作者の態度である
 神馬も猿も、神の留守ならではの存在感を見せているあたり、机上では詠えない臨場感があって、出色である。

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   枯露柿を食めば田舎は冬支度     狗飼乾恵

 リズムが一本調子にすっと切れる。よき響きを持ちながらそっけないような韻律そのものが、奥ゆかしい余情を引いてやまない。
 そもそも枯露柿というものを私は明らかに知っているわけではないのだが、たとえ知らなくても「コロガキ」が断然いい。
 すこぶる甘い柿ではないだろうか。
 今年もまた枯露柿に舌鼓を打つとき、ああ田舎ではもう冬を迎える準備に余念がないであろうことに、遠く思いを馳せるのである。
 雪国であろうか、ふるさと等と言わないで「イナカ」と言ったところが又いい。
 俳句に理屈は要らない、まさに素朴な言葉の響きだけで詩情が打ち出せるものであることに気付かされる。

   
   湯上りの頬の火照るや熟柿吸ふ     松尾まつを
   積もる葉を掃くも哀れや虫の宿     栗田白雲
   赤蜻蛉鞠を蹴る子に纏ひつき     吉田良銈
   麒麟てふ枯木や鳥の声しきり     石堂光子
   木枯やしきりに木の葉吹き散らし     熊倉和茶
   菊日和問へば在所のみな違ふ     間草蛙
   初雪は小樽運河に染み入りぬ     平野翠

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   マスクしてくぐもる声の処方聞く     古館千世
   湯豆腐や雨に濡れたる石畳     川井さとみ
   神の留守怠りもなく供へ物     黒田珠水
   何日も蕾のままや冬薔薇     木下野風
   山茶花や八重の花びら押し合うて     加藤洋洋
   蔓刈つて追ひやる秋の蝦蟇かいな     二村結季
   枯るる中雨乞ひ山は雲を抱き     森田ちとせ
   山枯れて風力計は故障中     末澤みわ
   分校の坂道行けば木の葉雨     福山玉蓮

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   大根を一寸廻して引きにけり     石原虹子
   両の手に大根下げて男の子     小川文水
   参道に抜けるこの径末枯るる     中澤翔風
   冬天やパパンパーンとシーツ干し     大本華女
   顔よりも大き落葉やぐいと踏む     小幡月子
   小春日のランチ介護の話など     田淵ゆり
   熱の子の母に凭るる小六月     伊藤翠
   心地よき打ち直したるこの蒲団     長谷川美知江
by masakokusa | 2016-12-02 23:59 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)