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原石鼎俳句鑑賞・平成29年3月

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   囀や杣衆が物の置所       原石鼎   大正2年


 木樵の人たちが、斧や鋸を置くところといえば、例えば切株の周辺であろうか。
 杉山であろうか檜山であろうか、山深きところの日向に寄せ固めたひとかたまりのものが、まるで宙に浮いたように感じられる。
 その宙に浮いたところ、ぽっかり透けたような虚空が、そのまま春の鳥どちの囀りどころである。
 逆に言えば、囀りどころが、そのまま杣衆の休みどころでもあるだろう。
 「囀」と「杣衆が物の置所」が見事に呼応している。
 この一体感が、しじまを破って鳴く鳥どちの音色を、美しい言の葉のように響かせてくれるのである。

 思えば、「ソマシュガモノノオキドコロ」という一続きの語感からすっきりとした気分をもらっているのかもしれない。
 囀のよろしさに唱和するようなフレーズである。
 まこと、一字一句が的確におさまって無駄と言うものがない。
 文字通り、抑えの効いた下五が、余韻を引いてやまない。

 石鼎と言えば吉野の句と決まっているのが不満で、「原石鼎全句集」を開くときは、いつも大正10年あたりからというのが私のささやかな抵抗であったが、久しぶりに素直に、虚子の言う「俳句の歴史、少なくとも私等の俳句の歴史に於て輝いた時代を形づくった」という吉野の句群を読み直して、今更に尋常ならざる明るさにことごとく唸らされたものである。
 石鼎はまだ27歳、28歳の若さである。
 俳人はその最も初期の作品において生涯の価値を持つということの典型であろう。

 吉野時代の句は当然のことながら、杣山、杣人が多く素材になっている。
 直接「杣」の一字を用いたものに限っても、秀吟は枚挙に遑が無い。

   樵人(そまびと)に夕日なほある芒かな
   杣が往来映りし池も氷りけり
   腰もとに斧照る杣の午睡かな
   杣が蒔きし種な損ねそ月の風
   粥すする杣が胃の腑や夜の秋
   杣が戸の日に影明き木の芽かな
   星天に干しつるる衣や杣が夏
   杣が幮の紐にな恋ひそ物の蔓
   苔の香や午睡むさぼる杣が眉
   老杣のあぐらにくらき蚊遣かな
   蚊帳つりてさみしき杣が竈かな
   杣が頬に触るる真葛や雲の峰
   杣が子の摘みあつめゐる曼珠沙華
   鉄砲を掛けて鴨居や杣が秋
   秋風や森に出合ひし杣が顔
   髭剃りて秋あかるさよ杣が顔
   諸道具や冬めく杣が土間の壁

 春夏秋冬にわたり、杣の老いも稚きも、杣の暮しとその周辺に及ぶ観察はいかにも行き届いている。
 石鼎は杣人に対して、ある種の憧れのような尊敬の念を持っていたのだろう、そうでなければ、「杣衆」とは言えないであろう。
 「杣」の句々を読むうちに、「杣衆が物の置所」には、作業道具もさることながら、大きな弁当などもあるのではなかろうかと、いっそう温もりを覚えてきた。

 そんな杣の諸道具を思うちに、鉞(まさかり)の名句が思い出される。

   鉞に裂く木ねばしや鵙の声

 「鵙の声」以外のなにものでもない「鉞に裂く木ねばしや」だと思う。

 あらためて、掲句に戻ると、この句もまた「囀」以外の何物でもないことに気付かされる。

 人の世にある諸相が、自然の諸相に映し出されることにほかならないことを、石鼎はばっちりとしかも言葉を惜しんでつかみ取るのである。
by masakokusa | 2017-04-01 00:00 | 原石鼎俳句鑑賞 | Comments(0)
原石鼎俳句鑑賞・平成29年1月


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   福寿草今年は無くて寝正月       原石鼎   大正11年

   
 大正10年、石鼎は35歳。ちなみに35歳といえば子規の没年である。
 この年、石鼎は小野蕪子発行の「草汁」を譲り受け、5月「鹿火屋」と改題して、虚子の許しを得て主宰となった。
 「鹿火屋というのは山中で秋になると鹿や猪などが闇夜に田畑を荒しに来るのを防ぐため、山人が小高みに小さな番小屋を立て終夜火を焚き銅鑼を代わり合って叩く。それが山にひびいていとど秋の夜長の淋しさを増す。その淋しさを生涯忘れまいとして誌題とした。」
と「鹿火屋」に書きとどめている。

 石鼎の生涯は、この決心の通り、淋しさをひしと抱きしめて離さないものであった。
 「鹿火屋」主宰になることも決して手放しの喜びではなかったであろう、それは必然のように、石鼎の淋しさが引き受けさせたものに違いない。

 しかし、このことが病弱であった石鼎の命を、最期まで俳句の命としてまっとうされる原動力になっていった、そう思うと、やはり「鹿火屋」主宰原石鼎の誕生は運命的であった。

 その大正10年が明けた大正11年のお正月は、寝正月であった。
 寝正月と言えばそれで済むものを、枕上に見当たらない「福寿草」をあえて書き上げるところが、石鼎の旺盛なる俳諧精神をうかがわせる。
 では、次の年から数年間ほどは、どんなお正月であったのだろうか。

      正月2日感冒に臥して月の終り漸く床を払ふ
   元日の満月二月一日も        大正12年

   松上にしばし曇りし初日かな     大正13年
  
   草庵や屠蘇の盃一揃         大正14年
   竹馬の羽織かむつてかけりけり      〃

   萬歳の戸口を明けて這入りけり     大正15年
   遣羽子や下駄の歯高く夕べ出て       〃

       正月退院、二月湯河原に療養
    ほの赤き梢々や春の雪        昭和2年

 やはり、病気との縁は切れなったようである。それでも、
「竹馬」の句のおもしろさ、ことに「萬歳」の句の悠揚迫らぬ味わいにはめでたさがこみ上げてくる。

 お正月の句はともかく、それぞれの年の名句を掲げて、今年もまた石鼎の淋しさをわが淋しさとして寿ぎたいと思う。

   神の瞳とわが瞳あそべる鹿の子かな      大正11年
   白魚の小さき顔をもてりけり           大正12年
   音たてて落ちてみどりや落し文         大正13年
   ささなきのふと我を見し瞳かな         大正14年
   暁の蜩四方に起りけり              大正15年
   火星いたくもゆる宵なり蠅叩          昭和2年

by masakokusa | 2017-01-07 12:15 | 原石鼎俳句鑑賞 | Comments(0)
原石鼎俳句鑑賞・平成27年10月
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   鶏冠にもえつく日あり秋の晴      原石鼎     大正9年


 石鼎の句についてはいつも、「間違っていたらどうぞ教えてください」というような気持ちで実作者としての率直な鑑賞を書いている。
 今回もそんな句である。

 「ケイカンニモエツクヒアリ」と読むが、「鶏冠」はトサカのことである。
 あのニワトリの頭部についている肉質の冠状の紅いところに秋晴の澄み切った日ざしが燃えているというのであろうか。
 秋日の赤とトサカの赤をだぶらせたところは、すぐに納得させられたが、トサカの形状がはたして「もえつく日あり」にどれほど利いているだろうか。

 そこで、『原石鼎全句集』を閉じて、原石鼎著自選句集『花影』を開くと、ここには、
   
    鶴冠にもえつく日あり秋の晴

とあるではないか。
 河出書房発行『現代俳句集成』も、「鶴冠」と出ている。
 「鶴冠」とは何ぞや、冠鶴(カンムリヅル)という鶴の種類はあるらしいが、鶴冠という熟語は見当たらない。

 原石鼎全句集に戻ると、掲句の前は下記のようになっている。

   鶏頭の花なる如き実なるかな       大正9年
   夕さればしづまる風や秋日影
   秋晴やよごれながらに城きよし
   鶏冠にもえつく日あり秋の晴

 〈鶏頭の花なる如き実なるかな〉があるので、はたと思い当ったが、鶏頭の花は別称「鶏冠花」ともいう。
 調べると、鶏冠は、「からあい」とも読むそうで、「韓藍」と書くとよくわかるように、中国から渡来した鶏頭の花の古名であるそうだ。

 そこで掲句は、トサカならぬ鶏頭の花と解したい。
 素直に、〈鶏頭にもえつく日あり〉でなく、〈鶏冠にもえつく日あり〉としたのは、「冠」の一字を生かしたかったのであろう。
 ここはやはり、トサカと早とちりされても、鶏冠であらねばならかった。
 天上へ向けてすっくと伸びた、あの鶏頭の輝かしい頭でっかちのてっぺんにチリリと日が燃えたような印象が明らかである。
 鶏頭のいのちのさまを見せられたようで、俳句そのものにも勢いがついている。

 鶏頭の花は燃えるように赤いというのは常套の見方であるが、常套に似て非なるところが、石鼎としての物の見方である。
 何をどう見たか、どう見えたか、そこがはっきりしているから景が立体的である。
 それは、鶏頭の花が一寸見のものでなく、日々折々に親しんであるものであればこその写生であろう。
 「もえつく日」を詠いあげたあとで、下五にダメ押しをするように「秋の晴」をもってくるところも、大胆である。
 要は秋晴を諷詠しているのである。

 ところで、鶏頭といえば、正岡子規を思い出さずにはいられない。

   鶏頭の十四五本もありぬべし   正岡子規

 その境涯に思いを返すと、この鶏頭花はいっそう鮮烈である。
 大正9年といえば、子規去って、10年いや20年近くになる頃であるが、さほど遠い昔のことではないだろう。
 石鼎には、まだ子規のぬくもりがそこにあるように感じられていたかもしれない。
by masakokusa | 2015-10-31 20:59 | 原石鼎俳句鑑賞 | Comments(0)
原石鼎俳句鑑賞・平成27年8月
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    けさ秋の一帆生みぬ中の島       原石鼎


 立秋の白帆である。
 「イッパンウミヌ」静かにも弾けるような声調でもって、今朝秋の清らかさを堂々と詠いあげている。
 大正3年、石鼎は故郷へ帰ったものの父親に認められず、医への道を断念して、杵築、米子あたりの海岸を流離う身となった。
 掲句は、島根県中海であろうか、原石鼎句集『花影』の「海岸篇」に収められている。

 石鼎は、見ることに徹した俳人であるが、その「見る」を、そのまま措辞にして、一句に生かすのもまた得意であった。
 だが、この句は、「一帆見ゆる」ではなく「一帆生みぬ」であるところに、意表を突かれる。
 思いつくままに、「見る」をあげてみると、


   山川に高浪も見し野分かな
   或夜月にげんげん見たる山田かな
   月見るや山冷到る僧の前
   谷深く烏の如き蝶見たり
   見つめ居れば明るうなりぬ蝸牛
   薔薇を見るわれの手にある黒扇
   鹿のゐて露けき萩と見たりけり
   寝ころべば見ゆる月ある大暑かな

 
 物を見るということは、そこに自分の思いがあるということである。
 作者のじっと見ている光景が、そのまま読者の眼に乗り移って、同じ感興に浸らせるものである。

 片や、中の島に現れた「一帆」は、生き物がたった今羽化したかのような初々しい白。
 「見る」ではたるんでしまう、すっと立ちあがた感じは「生みぬ」というほかないのである。

 石鼎の認識の迅さが、読者をもはっとさせてしまう見事さ。
 故郷への愛惜が、一気に詠わせしめた一句であろう。
 まさに中の島ならぬ、石鼎の生んだ白である。
by masakokusa | 2015-08-31 23:57 | 原石鼎俳句鑑賞 | Comments(0)
原石鼎俳句鑑賞・平成27年7月
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   一度吐きし餌にまたよりし金魚の瞳     原石鼎  大正11年

 かつて、水槽に飼っていた金魚はいつもこうだった。
 金魚とはそういうものだと決めてかかっているものにとって、これが俳句になるとは思いもしなかった。
 それがどうした、と言われればそれまでのような句ではあるが、何故だかハッとした。
 そのハッとが、すでに詩になっている証拠ではないだろうか。

 人間であっても、食い意地のはったものは、餌のある限りは餌を食わんとするものだが、一度口から吐き出したものを再度口に入れようとするだろうか、しないだろう。
 いや、赤ん坊の頃は、金魚同然であったかもしれない。
 いのちの原始を見せられたようで、「金魚の口」でなく「金魚の瞳」というあわれさに、しばし惹きつけられてしまった。

 掲句は、創刊百年記念『ホトトギス巻頭句集』から引いた。
 大正11年7月号「ホトトギス」の巻頭を飾ったのは以下の8句である。

   暮れてなほ浪の蒼さや蚊喰鳥       東京 石鼎
   岩藻皆立ちてゆれゐる清水かな           同
   清水掬んで底の形やしかと見し            同       
   一度吐きし餌にまたよりし金魚の瞳         同
   荒馬のつぎ荒牛や初夏の路              同          
   麦笛を懐ろの裡に吹く男                同
   滝を見し心さむさや杜若                同
   抜き捨てし一茎岸に菖蒲池              同

 ちなみに、掲句は『原石鼎全句集』には、「一度吐きし餌に又よりし金魚の瞳」とあり、原石鼎自選句集『花影』には、

   一度吐きし餌にまたもよる金魚の瞳

となっている。

 「餌にまたよりし」が断然いいと思うが、どうであろう。
by masakokusa | 2015-07-31 23:58 | 原石鼎俳句鑑賞 | Comments(0)
原石鼎俳句鑑賞・平成27年6月
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   紗の幌の俥中の人や夏帽子     原石鼎  大正12年

 石鼎らしい絵画的な視線は、そのまま読者の目にのりうつってくる。
 背筋を正し前方をまっすぐに見ている横顔は、憂愁の美を含んで、映画のはじまりのシーンを見るように静かである。
 妙齢の夏帽子、その波打つようなフリルの鍔は透き通っている。
と、思って、しばし見惚れているうちに、いや紳士かもしれないと思えてきた。

 明治から大正、昭和初年にかけての時代の移動手段は人力車であった。
 又、帽子が日本に入ってきたのも明治になってからであるから、この人力車の時代は帽子の時代でもあった。第二次大戦ごろまでは日本人のほとんどがかぶっていたという。
 掲句も、そんな郷愁をもってながめてみると、紗という薄絹の幌であるからには、着物に高級パナマ帽というスタイルがなかなかに決まっているではないか。
 とまれ、何がしかの物思い、背筋を伸ばす人の涼しさが的確に伝ってくる。


   夏帽や鞨鞭の鼻素鈴の瞳       大正7年

 鞨鞭も素鈴も耳慣れない、これは固有名詞、そう俳号かもしれない。
 夏帽子をかぶった鞨鞭氏は鼻筋が通っている、片や素鈴氏はきらっと光る黒眼が美しい。
 パナマ帽とかんかん帽の違いのようでもある。


  石鼎の夏帽子が面白いので、ついでに調べてみると全句集に8句あった。

   夏帽や我を憎む人憎まぬ人       大正7年
   
 帽子をもって、こういう選別をする神経が石鼎であるというよりも、さまざまの夏帽子に一つ一つの表情を瞬時に見分けるというところが、石鼎の天性であろうか。
 およそ類想をみない句である。

        ともし会句集の扉に
   夏帽やあらゆる顔に濃き影す       昭和12年

 句集出版の祝意に、夏帽子を持ち出した。
 「濃き」というところが誉れであり、太陽光線はもとより、「ともし会」という灯火の影をこめてもいるのだろう。

   我に敏き人の夏帽新しき       昭和5年

 「我に」などと詠えるのも直情的な石鼎の魅力である。

   悉く夏帽の店となりにけり       大正13年

 何度もこういう場面に出会いながら、凡愚我は句にすることを頭から放棄していた、
 平成の世にも通用する句の眩しさ。
 心を引かれた一点を見逃さない、観点を変えることによって、また新しい夏帽子の世界を広げている。

   夏帽子折から通る大汽船       昭和5年

 夏帽子と汽船の取り合わせはいかにもオーソドックスであるが、「折から通る」というダイナミックはさすがである。

   草木にうもるる庵の夏帽子       昭和13年

 石鼎の夏帽子の句はこれをもって終り。
 写生の句でありながら、ただ右のものを左に映しただけでのものではない、夏帽子の心情を芯にした一つの世界が描かれている。
 これぞ石鼎その人の夏帽子ではないだろうか。
by masakokusa | 2015-06-30 23:59 | 原石鼎俳句鑑賞 | Comments(0)
原石鼎俳句鑑賞・平成27年2月
 
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  下萌や籠鳥吊れば籠の影       原石鼎  大正7年


  一読にして、忘れられない句というものがある。
 この「籠鳥吊れば籠の影」などはまさに、そんな句であった。
 口誦性に富んでいることは間違いない、だが、それだけでは、いつしかそのリズムのよさに飽きがきて、忘れ去られるであろう。
 「古池や蛙飛びこむ水の音」が、330年も口誦されてやまないことは、ただただ畏れ多いことではあるが、掲句もまた100年を生き続けている。

 石鼎の句は、その韻律の良さに加えて、光の明暗がくっきりと際立って、眼にあきらかに見えるところ、「下萌」以外の何物でもないように思われる。
 「カゴドリ」「カゴノカゲ」という頭韻の良さに惹かれて、あまり深くは考えないできたのだが、読むたびにちょっと不思議なのは、耳に聞きなれた「鳥籠」でなく、聞きなれない「籠鳥」というところであった。
 鳥籠は物であって、鳥籠の中に鳥がいてもいなくても鳥籠であるが、籠鳥といえば当然鳥が飼われているということになるだろう。
 こういうところにも手抜かりのない表現をとっているのがよくわかる。

 早春の陽ざしは、軒端に吊った籠鳥にさっとあかるく射したのであろう。
 そしてその影はすかさず、冬枯れからようやく青草の萌え出してきた地面に、網目模様も美しく、黒々と映し出されたのである。
 籠の中の鳥はさだかには映っていないだろう、ちらちらと揺れているかもしれない、いや、私にはまるで鳥はどこかへ飛び立ってしまったかのように感じられる。
 「籠鳥吊れば籠の影」という表現が、どこかしら蛻の殻のような空虚さを覚えるのは、それがそのまま「下萌」の季節感のありようとして、心に通ってくるからであろうか。
 鳥籠でなく、籠鳥であるというただこの一点の引っ掛かりが、韻律とともに忘れられない要因になっているのかもしれない。

 この、私の小さなこだわりを、先日、とある名高い俳人に愚問してみたところ、即座に「そこが石鼎、天才ですね」と一言に答えられた。
 ああ、やっぱりそうであったかと、嬉しく納得したことであった。

 ちなみに、石鼎の「下萌」は全句集の中に、十数句ほどある。
 掲句の瑞々しさを筆頭に、どの句をとっても生々躍動している。

   牛にやがて曳かるる巨石(いし)や下萌ゆる      大正6年
   汀よりすぐの堤や下萌ゆる                  〃
   下萌や鶏追ふ人の躍る如し                大正7年
   ぬぎし靴片方たほれて下萌る               大正10年
   下萌や片方はすみし靴磨き                  〃
   下萌や掃きし土より蝶の骸                 大正12年
   下萌やくつがへりゐる霜柱                  大正13年
   雪達磨消えてしまうて下萌ゆる               昭和25年
   若鶏に鶏冠出来初め下萌ゆる                 〃

 「籠鳥吊れば籠の影」という至極当たり前のことが、当たり前のように思っていることの次第が、じつは天地運行の大きな摂理であった。
 石鼎の感性が、わが感性に響いたのは、何より生きてある命にとっては当たり前のことであったからだったのだ。
 自然と共に生きるささやかな喜びは、齢を重ねるほどに気付かされて、掲句の軽やかさにも、いよいよ滋味が増してくるように思われてならないのである。

 
by masakokusa | 2015-03-31 23:42 | 原石鼎俳句鑑賞 | Comments(0)
原石鼎俳句鑑賞・平成26年12月
  
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   こち向き浮く鳥ややにこち向き浮寝鳥      原石鼎   大正6年  


 何とも読みにくい句である。
 だが、もう一度読み直してみると、「本当にそうだなあ~」と、一人微笑んでしまう。

 大山の麓、わが家からの散歩圏には、水鳥の棲んでいる池や川があちこちにあって、句作りに最適だが、今しがた出会った浮寝鳥の姿は、石鼎の一句にばっちりはまってしまって、他に何も言うことがなくなった、お手上げである。
 午後二時過ぎであったが、その日射しはまるで夕日のように、水面に染み入るようにあかあかとしていた。鴨たちは、即かず離れず、少しずつ向きを変えながら水に浮いているのだった。
 浮寝鳥と作者は共に黙りこくってありながら、心の通いが微妙に伝わってくる。
 絵にすれば幾何学的なものに、またモノトーンの映像にもなりそうではあるが、絵にも映像にもならない空気感が読み手の想像力を刺激してくれる。

 「コチムキウクトリヤヤニコチムキ」と、遅々としたもの言い、ついには口ごもってしまいそうな、唇を小さく付き出したまま停滞してしまう感じがそのまま浮寝鳥のそれなのである。
 一字一句に、ぬきさしならぬ石鼎の本当があって、それを何の臆面もなく表現できる、それが浮寝鳥というものの本質に迫ってくるあたり、何とも天真爛漫である。

 石鼎には、

   雪に来て美事な鳥のだまり居る      昭和8年

 等、押しも押されもせぬ鳥の句が多々ある中で、「浮寝鳥」の如き、見事ならざる鳥の姿もまたみごとに活写するのが、凄ワザと言おうか。
 鳥は、花のようにじっとしていないので詠い上げるのは難しい。
 鳥の色かたちはもとより、その習性もよく知らずして安易に鳥を詠うのはどうかという飯田龍太の声も聞こえてくるのだが、石鼎はやはりよく鳥を観察していて、一句における鳥のおさめ方が決まっている。

 その代表的なものに、

   鶲来て色つくりたる枯木かな      大正6年

 がある。
 一読、殺風景な枯木に鮮やかな色がぱっと灯るのだが、さて鶲とはどんな鳥だったかしら、と後で思う。
 知識のないものにまで、瞬時に感銘を与えてくれるのも石鼎ならではである。
by masakokusa | 2014-12-31 23:10 | 原石鼎俳句鑑賞 | Comments(0)
原石鼎俳句鑑賞・平成26年9月
 
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  朝かげにたつや花野の濃きところ     原石鼎   昭和4年  
 

 「花野」は、花の咲いている秋の野辺であるが、「ハナノ」という語感がすでに浮きあがっていて、どこかロマンチックである。
 花野を行くと、ふとここに佇んでいたいと思うのは、虫の音に象徴されるように、一抹のさびしさを覚えるからであろうか。
 掲句も又、透き通るような朝日が粲粲とさすところに立ち止まっている。あたかも、その人までもが一輪の野の花のごとく、静けさに立っているのである。
 桔梗であろうか、吾亦紅であろうか、女郎花であろうか、萩であろうか、ここには朝日子と渾然一体となって、その色をいっそう鮮やかに見せてくれるものがある。

 「朝かげ」という古風が、「濃きところ」にぴたりと着地するような焦点のしぼり方決まっている。
 意味的には「朝かげにたつや」と8音がきて、次に「花野の濃きところ」と9音となるが、俳句的に575のリズムで読もうとする心が先にあって、ごく自然に「朝かげに」「たつや花野の」「濃きところ」と読まれる。
 頭の中にめぐらされる、二つの音調がまじりあって、花野の音楽的明るさと淋しさを同時に醸し出している。

 昭和4年の石鼎は、麻布本村町に住んでいた。
 この麻布本村町の家の隣に引越してきたのが、当時9歳であった、須賀敦子(翻訳家・エッセイスト)であった。
 その著、『遠い朝の本たち』の中でこう記している。

 ――隣家の住民を私が意識するようになったのは、東京に来て何年目ぐらいのころだったのか。秋が深くなったある日、その家の主人らしい小柄な和服姿の老人が、手入れの行きとどいた庭にひとりぽつんと立って空を見あげているのが、二階の窓から、私の目にとまった。
 小柄でどこか気むずかしそうなその老人が原石鼎という、かなり名の知れた俳人だと教えてくれたのは、父だった――

 須賀敦子の目に映った石鼎、そう文学少女の感性に記憶された気むずかしそうなお爺さんこそは、まさに「花野の濃きところ」に佇んでいた、その人ではなかっただろうか。
 病身の孤独な俳人にとって、手入れの行き届いたわが庭こそが、どこの花野よりもかけがえのない花野であったのだった。
by masakokusa | 2014-09-30 23:50 | 原石鼎俳句鑑賞 | Comments(0)
原石鼎俳句鑑賞・平成26年7月
 
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   月明の畳にうすき団扇かな     原石鼎    昭和3年


 先日、梅雨の満月の頃、二階へあがると畳に月の光がうっすらとさしていた。
 この鬱陶しい時期に何と美しい明るさであろうか、しばしうっとりしていると、はたして石鼎の句が思い出された。
 風の嫌いな私には、クーラーや扇風機はもとより、扇子や団扇の風さえも、時にうとましく感じられるのだが、石鼎のこの団扇ほど手に取ってみたいものはない。
 団扇といえば、黒田清輝の「湖畔」に描かれた女性の持つ団扇が、涼しき色香を漂わせて傑作であるが、掲句もまた、一幅の絵になり映画のラストシーンになりそうな奥行きを漂わせている。

 団扇と扇子は共に涼をとるためのものであるが、

   扇子置き団扇を持ちてくつろげる     岸本尚毅

 この句の通り、扇子は高尚にして外出用、団扇は庶民的にして家庭用といえるだろうか。いかに世が進んでも、祭など夏の風物詩に欠かせないところは共通している。
 ちなみに、掲句が「月明の畳にうすき扇子かな」ではサマにならない。
 団扇だからこそ新しいのである。

 そういえば、原石鼎全句集には、掲句の隣に、

   名月の畳にうすき団扇かな     石鼎

 が並んでいるが、これも名月では印象がかたまってしまって、ふわっと団扇が浮きたたない。「月明の」が絶妙である。
 この切り出しは、石鼎のおはこのようで、

   月明の障子のうちに昔在     石鼎   昭和4年

 団扇にかぶさってくる人の世の詩情もうかがわれるものである。

 参考までに、

   ほろほろと雨つぶかかる日傘かな     石鼎    昭和4年
   ほろほろと雨のふり来し日傘かな      〃      〃

   美しき風鈴一つ売れにけり     石鼎    昭和4年 
   美しき風鈴道に売れにけり      〃      〃

 原石鼎全句集にはかくのごとく、同様の句が並んで掲載されている。
 だが、原石鼎『花影』に採用されているのは、どちらも前句の方である。
 状況の説明をすると俳句はツブシになることが一目瞭然。真実のリアリティーとはこういうことであろう。
 石鼎ほどの俳人にしても、先づは書きあげてみるという手順があったのだと思うと、名句の生れる現場に立ち会えたような楽しさが味わえる。
by masakokusa | 2014-07-31 23:53 | 原石鼎俳句鑑賞 | Comments(0)