カテゴリ:秀句月旦(3)( 82 )
秀句月旦・平成28年11月

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  玉の如き小春日和を授かりし     松本たかし


 このような小春日和の名句に出会うと、これ以上の小春日和はないように思われる。
 崇高にしてつつましやかに、しかもきっぱりと言い放ってありながら、読者もまた本当にそうだなというあたたかい思いに包み込まれていくのである。

 「玉の如き」は作者の教養なくしては出てこない措辞ではあるが、同時に、ある日あるとき作者自身が理屈抜きに正直にそう感じなければ言えないものでもあろう。
 松本たかしは、明治39年能役者の長男として東京猿楽町に生まれた。病弱のため能役者にはならず、17歳より俳句をはじめ高濱虚子に師事した。
 「授かる」という敬虔さもまた松本たかしその人のようである。

 かつて、結社の主宰が「俳句は生き方です」と折にふれて言われたことが思い出される。
 初学時代、所属の句会には、一流企業を定年で終えらた方など、ご立派な紳士が多く参加されていて「まったく、それ言われるとやってられねえよ、俺たちは雑学で楽しんでるんだからさ」なんて、さんざんこぼされるのを飲み会でよく聞かされていた。
 主宰は、孤独であられたに違いない。
 松本たかしの句を読むと、今さらに主宰の言葉がよくわかる。

 ところで、虚子のホトトギス雑詠選には次のような句がある。

   踊の手さらひつつ行く街小春     小川辰弥     

 こちらは又、楽しい小春日和である。
 床の間にまつりあげた小春でなく、その辺の町筋に我知らず浮かれ出たような小春、日差しが人々の身に染み入っているところがおもしろい。

 思えば、「小春日和」というものは、人生的にみて、晩年のよき一時期のようでもある。
 かの紳士方は、30年も前のこととて多くの方々は亡くなられてしまったが、ぼやいておられたご本人こそよき生き方をされていたのだったと今頃気付かされている。
 若蔵の私に、これ読めあれ読めと次々と本を貸して下さり、貴重な古本を惜しみなく分けて下さった。どれほど恩恵をこうむったかしれない。
 「俳句の道は、さらい(復習)ながら、さらいながらどこまで遠く続いていくのでしょうか」とお伺いしたいものである。
by masakokusa | 2016-11-30 23:59 | 秀句月旦(3) | Comments(0)
秀句月旦・平成28年10月
 
 
  三千の俳句を閲し柿二つ     正岡子規


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 正岡子規と言えば、

   柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

の一句が浮かぶように、子規と柿は切っても切れない仲である。

 子規は果物好きであったが、わけても柿が大好物であった。

   柿の実やうれしさうにもなく烏
   村一つ渋柿勝に見ゆるかな
   柿くふて文学論を草しけり
   禅寺の渋柿くへば渋かりし
   柿喰の俳句好みしと伝ふべし

 他にも柿の句は山ほどある。
 そして、明治34年、

   柿くふも今年ばかりと思ひけり

 この句には、「きざ柿の御礼に」という前書きがある。
 きざ柿とは、木に付いたままで赤く甘く熟した柿のこと。
 哀れ、来年はもうこんな美味しい柿は食べられないであろうと、死期の近いことを、感じ入っているのである。

 さて、掲句は三千の句を閲(けみ)して、つまり選句をして、そのあとにまるでそのご褒美のように垂涎の柿を二ついただいたというのである。
 三千はもとより、千の三倍というような実数ではなく、多くの数ということであるが、柿の二つに対して、この三千は何とまあ実感を伝えてあまりある数詞であることか。
 淡々と叙しただけのように見えて、そこには子規の全体重が乗りかかっている重厚さ、それでいてすっきりとした気分までもが漂っている。
 「柿二つ」は、梨でも桃でもない、柿以外には置き変えられない光を放っている。
 底の座った柿の形態のありよう、その渋さも甘さもよしとした格別の味わい、二つの柿こそは、三千の俳句を閲するに足るものとして相呼応しているのである。
by masakokusa | 2016-10-31 19:56 | 秀句月旦(3) | Comments(0)
秀句月旦・平成28年9月
 
   糸瓜忌や俳諧帰するところあり      村上鬼城

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 正岡子規は明治35年9月19日に35歳の短い生涯を閉じた。
 絶筆になったのは次の3句。

  糸瓜咲て痰のつまりし佛かな     子規
  痰一斗糸瓜の水も間に合はず
  をととひの糸瓜の水も取らざりき

 これによって、「子規忌」は「糸瓜忌」ともいう。
 また獺祭書屋主人という別号から「獺祭忌」とも。

  枕にす俳句分類の秋の集     子規

 俳句分類は子規終生の大事業であった。
 古来の俳句を甲乙丙丁の4号に分かち、四季に分類し、各題につき3類17種に分かつなどし、
その稿本は「合わせて積めば高さ我全身に等しくなった」という。
 子規は、江戸末期からの旧態依然とした宗匠俳句を否定し「写生」を説いた。
 近代俳句はまさに正岡子規にして革新されたのである。

 掲句は大正3年作。
 村上鬼城は、江戸生まれの俳人。
 子規の門に入り、やがて虚子の「ホトトギス」重鎮として活躍した。
 耳聾で、青年期には聴力をほとんど失っていたという。
 代表句に、
   痩馬のあはれ機嫌や秋高し    鬼城
   冬蜂の死に所なく歩きけり

 鬼城ならではの、子規を尊敬してやまない堂々たる子規忌の句である。
 俳句実作者なら誰しも、「子規」に帰るところのある幸せを思うであろう。
by masakokusa | 2016-09-30 23:50 | 秀句月旦(3) | Comments(0)
秀句月旦・平成28年7月
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   キラキラと雲の峰より蝉の尿      大峯あきら

 日盛りの大空のもと、蝉の一匹が尿をとばしたのであろう。
 その絶好の出会いはまさに「キラキラ」というほかない驚きである。
 まるで、雲の峰から降ったような、透き通った小さな命の水が、わがことのように親しくも眩しい。
 「雲の峰より」がダイナミックに決まっている、言えそうで言えないものである。



   離宮跡とは玉虫の飛ぶところ     大峯あきら

 持統女帝が30回以上も行幸したと伝えられる吉野離宮。
 作者は、この吉野川の碧潭の流れあるところに在住されている。
 玉虫のあの金緑の輝きは、かの吉野離宮の往時そのものの色彩のようである。
 玉虫が榎から飛び立つたびに、歴史をまとった奥ゆかしき古色を光らせるのである。
 まこと玉虫は、幸運の吉兆とされるばかりの美しさである。
 こう詠われてみると、離宮跡を飛ぶ玉虫以外は考えられないような気までしてくる。
 
by masakokusa | 2016-08-01 21:12 | 秀句月旦(3) | Comments(0)
秀句月旦・平成28年6月
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   葭切や午前むなしく午後むなし      相馬遷子

 何気なく川べりを歩いていて、ギョギョシギョギョシと鳴く葭切の声を聞くと、ああもう夏なんだという思いに、ふと元気をもらうことがある。
 一方、葭切は「行々子」という異名があるように、その鳴き声が文字通り賑やかであって、騒々しい声をひきもきらず聞かされると、何か急き立てられるような、鬱陶しい気分になってしまうのも、もっともなことである。
 掲句は、行々子にあらずして「葭切や」と言い切って、句に落ち着きをもたらしている。
 相馬遷子は、医師でありながら、自身も癌に侵され、死にゆく中で澄み切った俳句を生み続けられた。
 〈秋風や何為さば時みたされむ  遷子〉、も同じような心境を感じさせられる。
 何を為すにも全力で集中して取り組む、時間を一刻も無駄にしない、そういう人にして、はじめてこの感慨があるのだろうと思う。
 切ない。


   雲の峰一人の家を一人発ち       岡本眸

 何かしらキッと構えた心のしまりが、はるかへ発展してゆくような、明るさに感じられる。
 「発ち」からはちょっとその辺へお出かけというのではない、遠くへ心しての旅立ちであることがうかがわれることも、雲の峰の雄大につながっている。
 季題が一句の中で生きて呼吸をし、明らかな印象をもって輝いている、そういう季題の効用があますことなく行き渡っている。
 作者にとっても、読者にとっても、雲の峰は大いなる救いになっているのである。

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   だんだんに一目散に茂りけり      綾部仁喜

 「だんだんに」と「一目散に」とは全く折り合わない言葉の並立である。
 それを一筋につないで「茂りけり」ともってゆく、この一行詩の潔さにほれぼれと感じ入る。
 ひとえに、「けり」の断定が効いているのである。
 思えば、じわじわと茂るものもあれば、あっという間に茂るものがあって、それが混在して、その場を占領しきるという鬱蒼たる茂りのありようが見えるようである。
 ここには、空間的にも時間的にも、茂りの本情が発揮されている。
 「俳句は、言葉を使って、沈黙、無言を表現するところに最大の特徴があると考えています」という俳人綾部仁喜は、即ち「切字こそ俳句」だと言うのであろう。
by masakokusa | 2016-06-30 23:58 | 秀句月旦(3) | Comments(0)
秀句月旦・平成28年5月
 
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  若竹や髪刈らしむる庭の椅子       正岡子規

 筍は竹の皮を脱ぎながら、すっきりと丈を伸ばして、見事な今年竹として成長する。
 ある日突然のように現れる真っ青な幹の清々しさには驚くばかり。
 折から、子規は庭に出て髪を短く切りそろえてもらっているというのである。
 こちらも綺麗さっぱりというところ。
 椅子の高さに、若竹を見やりながら、刻々刈上げてもらう気分のよろしさは、「髪刈らしむる」という胸を張った言い方によくとどめられている。

 掲句が明治34年の句であることを、あとで知った。
 そうするとすでに病重く子規は寝たきりで、ついぞこのようなことはなかったであろう。
 子規は病身ながら、その精神はいついかなる時も健康そのものであった。

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   夕風や白薔薇の花皆動く       正岡子規

 たそがれの風に一斉に薔薇が揺れた。
 それも白薔薇ばかりであった。
 ちなみに「夕風に白薔薇の花動きけり」ではない。
 子規の思いは「夕風や」にあるのだろう。
 そして「皆動く」のよろこび。
 夕風のやるせなさに白薔薇がこたえてくれたような、清楚にも美しい光景である。
 何かしら、ものさびしげな風情の中に、救いのように甘い香りがさっと過ぎるのである。

 私の好きな句に、

   枯れ蓮のうごく時きてみなうごく      西東三鬼

 がある。
 「動く時来て」しかるに「皆動く」という表現の見事さが、枯蓮のありようを描写してあまりあるものである。
 そのことを充分に承知しながらも、三鬼の句には、子規の「皆動く」が波及しているもののように思われてならない。
 それほど子規の「皆動く」は子規のものである。
 
by masakokusa | 2016-05-31 23:57 | 秀句月旦(3) | Comments(0)
秀句月旦・平成28年4月
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   今年また花散る四月十二日       正岡子規

 藤野古白が、ピストル自殺を図って死んだのは、明治28年4月12日。
 古白は、子規より4歳下の従弟。
 子規の従軍出発の荷づくりを手伝い、出立を見送ってくれた古白であったが、その留守中の死であった。
 天才肌で、清新なる俳句を作って子規を喜ばせていたが、神経過敏で生きることが苦しかったのであろうか。
 子規は、古白への悲しき思いが迫ってやまない胸のうちを、

  春の夜のそこ行くは誰そ行くは誰そ
と詠んでいる。

 掲句は、古白の一周忌追善のもの。
 子規の私的な事情の一句であるが、今年又花散るという茫漠たる思いが、4月12日という明らかなる日付に押さえられると、何の因果もないものにとっても、あらためて花咲き、花散る思いをただごとでなく受け止められるのである。

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   その辺の草を歩いて啄木忌         大峯あきら

 石川啄木の忌日は、明治45年4月13日。
 掲句は、吉野在住の作者であるから、吉野の芳しき草々を、ゆっくりと一歩また一歩、時の移りをしみじみと噛みしめながら歩んでおられた時のふとした啄木忌であろう。
 青々と地べたに貼り付くような草々から触発された、その胸中には、若き日から親しんだ啄木のあれこれが浮かび上ったに違いない。

 啄木は明治41年に上京して与謝野晶子、鉄幹宅にしばらく滞在したが、その後金田一京介の下宿「赤心館」に移り住んでいる。
 この下宿は本郷の菊坂町にあった。
 啄木は、誰からも嫌われそうな入口に一番近い室に入り、「この下宿の唯一の八畳で、広くのんびりしたのと、縁からすぐ庭に下りられる、この土に親しみのあるのが私に好ましく、始めから選んでがんばっていたものだ」と書いている。
 これを読むとまたいっそう、「その辺の草を歩いて」が啄木その人のように感じられるものである。
by masakokusa | 2016-04-30 23:57 | 秀句月旦(3) | Comments(0)
秀句月旦・平成28年3月
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   鳥雲に入るおほかたは常の景       原裕

 渡り鳥が春に北方へ帰ることを「鳥帰る」とか「鳥引く」という。
 「鳥雲に入る」も同じことであるが、飛びながらはるかに雲の彼方に消えて行くさまを見届けているという感じがある。
 秋に来ては春に去りゆく、そういう季節の変転や、命あるものの姿を見つつ、ふと我が身のほとりに眼を落すと、そこにある家々も、山も川も、何ら普段のそれと変わっていないようである。
 鳥であれ、人であれ、季節の循環にしたがう命のありようとして、これでいいのだというある種の肯定であろう。
 同時に、多忙に「生きること」の疲労が、我知らずつぶやきになって吐きだされたような余韻も漂うのである。


   毎年よ彼岸の入りに寒いのは       正岡子規

 この句には、「母の詞自ら句となりて」という前書きがある。
 明治26年の作と知れば、この時子規はまだ元気な26歳の青年であった。
 ご母堂のことばをそのまま一句に仕上げるとは、まさに子規ならではの斬新さである。
 子規の素直な詩心、才気煥発が見事に発揮されている。
 おかげで彼岸入りになるとこの句が、まるでわが母の言葉のように親身に思い出されるものである。
 余談ながら、
   
    薪をわるいもうと一人冬籠   子規

も、掲句と同じ年の作品で、まだ病臥していなかった。
 それを知ると、子規の妹律の気丈が本来のものであったようで、子規のまなざしがいっそう明るく感じられる。
by masakokusa | 2016-03-31 23:58 | 秀句月旦(3) | Comments(0)
秀句月旦・平成28年2月
 
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   吾が猫にそこら中なる恋敵      小松月尚

 猫の交尾期は早春である、これを春の季題「猫の恋」として、俳人はさまざまに詠ってきた。
 ことに有名なのは、
 <恋猫の恋する猫で押し通す  永田耕衣>であろうか。
 人間には真似のできない、恋の徹底ぶりが何とも潔くてすばらしい、と讃えている。
 しかしその底には、かくも激しい恋情のありようをうらやましくも思っているのではないだろうか。
 他にも、<山国の暗(やみ)すさまじや猫の恋  原石鼎>、<恋の猫やむとき閨の朧月   松尾芭蕉>、
など、さすがに格調高く詠いあげられている。

 ところが、掲句は恋猫という卑俗をそのまま楽しげに詠いあげていて、面白い。
 ホトトギス雑詠選集に入選のもの、高濱虚子ならばこその選句である。
 ニャーニャーだか、ガーガーだか、やはり求愛の鳴き声が相当すさまじく聞こえてくる。こんなに、わが愛猫に恋敵が多いのは、気が気でない。
 だが、どこかしらご満悦という風情でもある。

 
   来てみればほほけちらして猫柳      細見綾子

 初学時代に好きになって忘れられない句である。
 作者にとっても、句作のもっともはじめの頃の句であるらしい。
 やはりその初々しい勢いというか、邪心のなさが、そのまま一句の力強さになっている。
 俳句は率直に感じたままにという、お手本のような句であるが、なかなかこうは詠えないとも思う。
 「来てみれば」の上五、川べりであろうか、いつものところにずっと咲いていた猫柳を思わせ、それをふとお目当てに来てみれば今日は、銀ねづみ色の花穂が、すっかりほほけて散っているという、猫柳のありようを読者にはっきりと見せるのである。
 早春の花である猫柳にも、刻々春は深まっていく。
 
by masakokusa | 2016-02-29 23:59 | 秀句月旦(3) | Comments(0)
秀句月旦・平成28年1月
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   長病の今年も参る雑煮かな       正岡子規

 正岡は食い意地の張った男であった、と漱石は書いているが、子規は健啖であればこそ、8年に亘る長い闘病に堪え得たのであった。
 きっと歯も胃もすこぶる丈夫であったのだろう。
 「長病の」という、まるで他人事のような措辞が、「今年も参る」を引き立てて、病みながらもまことめでたい雑煮を味わっているのである。
 電子辞書によるホトトギス俳句季題便覧の、「雑煮」の例句は、この子規の句の下に、
高濱虚子の〈ゆるぎなき柱の下の雑煮かな〉が出ている。
 合わせて読むと、一家そろって新年を祝う雑煮があらためて格別のものであった時代がしのばれる。


   一方に枝のはげしく梅早く       皆吉爽雨

 この句の「はげしく」ほど的確な表現はないといつ読んでも感心する。
 かといって、「枝のはげしく」とはどんな状態かを書き連ねると、かえってつまらなくなってしまう。
 はげしくは、はげしくとしか言いようのない直感に射抜かれているからであろう。
 冬の寒さに咲き出でた梅の花のありようが、美しくも厳しく感じられるのであるが、やはりまた「一方に」も、その趣きをよく滲み出している。
 風はありながら、山裾のここばかりは日当たりのよさそうな感じである。
by masakokusa | 2016-01-31 23:59 | 秀句月旦(3) | Comments(0)