カテゴリ:俳句はめぐる ( 7 )
花野                           草深昌子

         
   母と娘に生まれあはせし花野かな   正木ゆう子

 
 母は平成21年10月、100年と2カ月を生きて永眠した。
 満百歳の誕生日に、「待ってましたーっ」とばかり孫たちは喜んで、薔薇百本を贈呈したのであったが、むしろ母の方が点滴に繋がれながらも頑張って、私たちに達成感をプレゼントしてくれたのだろう。
 明治、大正、昭和、平成と四つの世に渡った百年であった。

 母は燃える太陽そのもので、蝶よ花よと私達姉妹にありあまる愛情を注いでくれた。
 同じ屋根の下に住んだのは23年でしかなかったが、結婚後も何度も里帰りをして、甘えの限りをつくした。だが、私自身が孫を持つ身になった頃からであろうか、いつしか立場は逆転した。ことにここ数年、年相応の呆け症状が現れると、母の全てが魅力的で、世界一大好きと言ってはばからなかった私も少しずつ、母離れが出来てきたように思う。
 天寿とはいえ、別れは一度きりの事であって、私は一体どうなってしまうのかと怖れていたが、不思議なほどに冷静である。
 一時は深い鬱状態に陥ったが、やがて、母はいつも私の右肩あたりにくっついていて、一緒にいるような気がしてきた。死んだという実感がないまま私の身近に生きているのである。甘えん坊の末っ子が取り乱さないように、母は二段階に、徐々に徐々に、この世を去っていってくれたのだった。

 一方で姉は電話のたびに泣き声を出している。思えば姉は後継ぎとして婿養子縁組であったから、生まれて69歳の今日まで、一日たりとも母と離れたことがない。最後の最後まで姉は手厚く看取ってくれた。それでももっと何かしてやれることがあったのではないかと悔やまれてならないという。その喪失感は察してあまりあるものである。

 葬儀は内々で、ただ花が大好きだった母のために花だけは惜しみなく飾りましょうと決めていた。ところが偶然の連鎖によって誰彼に知れるところとなり、驚くほど大勢の方々が参列してくださった。
 私はこれが友人知人にすっかり先立たれた百歳の葬儀かと眼をみはった。人さまが好きだった母が、心から礼を言いたくて、手繰り寄せた糸であったのかもしれない。
 胸を打たれたのは、柩に花を納めるとき、若い女性が十人ばかり母に取りすがって、泣いて泣いて、声にならない声をかけながらいつまでも別れを惜しんで下さったことである。二年間お世話になった老人ホームの介護士の方々であった。
 母の人生最後の友人はこんなにも若いこころやさしいお嬢さん方であったのかと、姉と二人で喜びあった。 
 思えばこれも母の子孝行であったのかもしれない。自分を責めて嘆いてばかりいる姉に、「ほらね、うんと楽しかったよ」と納得させてくれたのだった。
 この齢まで共に暮らせたなんて贅沢なことでした、と姉は取り直している。
 私もまた、よき母とあった一と世が花野のように華やいで、いつまでも余韻を引いている。
by masakokusa | 2010-02-01 09:59 | 俳句はめぐる | Comments(0)
生身魂(いきみたま)                  草深昌子
                                      
   古里に二人そろひて生身魂     阿波野青畝
   三人の娘かしづく生身魂        稲畑汀子

 お盆は先祖の霊を迎えてねんごろにおまつりする行事であるが、ときに故人だけでなく健在する年長の父母を「生身魂」として敬い、ご馳走するしきたりが残っている。
 二人そろひての目出度さには及ばないが、私にも一人の生身魂がふるさとに生きている。

 敬老日の発表によると、今年日本では百歳以上が四万人を突破したという。過去最多を三十九年連続で更新し、二十年前に比べると十三倍の数字だそうである。
 二十年前といえば、八十歳の母が大腿骨骨折をした年である。この時、人工骨頭といって折れた骨を代替品に置き換える手術をしたのであるが、「人工骨頭は二十年持ちますから大丈夫です」と医師に言われて、部品だけ長生きしてどうなるのって泣き笑いしたことを覚えている。あれから二十年、さまざまの恩恵を被って、夢のような百寿を母は迎えた。

 母は楽天家で愚痴をこぼすのを聞いたことはないが、「私は五人の葬式を出しました」とはよく言っていた。今にして、祖母、父、母、夫、息子と五人の葬式を出したことは、「苦労しました」ということであったと気付かされるのである。
 ことに、三十五歳で戦死した父は、母にとって愛してやまない夫であった。
 「あんなにエライ、やさしい人はどこ見渡してもいません、お父さんはいつも見守ってくれてはるよ」が口癖であった。この一言こそが、父を知らない私にとって、父親の全てである。

 百歳のその日、百本の薔薇と、百をデザインした大きなケーキで祝った。花屋さんも百寿百本の注文は初めてと意気込んでくださった。おかげで瑞々しい真紅のボリュームに圧倒された。その一本一本が一年一年であると思うとどの一本もいとおしくてならない。絢爛たる薔薇からは想像もつかない哀楽があったことであろう。
 だが今は何も語ることもなく、瞼を閉じている。
 みんなで、ハッピバースデーを歌い、拍手し、おめでとう、おめでとうと、口々に耳元にささやくと、かすかにも頷いて、ありがとう、ありがとうと応えているようである。
 もはや点滴で命を繋いでいる母ではあるが、かしづく二人の娘は、「ようわかってるね、ようわかってるね」と顔を見合わせて、うれしくも納得しあうのであった。


 (2009・12 厚木文芸「めだか」創刊号所収)

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by masakokusa | 2010-01-27 21:20 | 俳句はめぐる | Comments(0)
惚けるかも                           
                                                            
 最近、物忘れが多い。
 人の名前が出てこないのはご愛嬌だとしても、ある日、旅に出かけようとして友達と落ち合う駅を取り違えてしまったのには参った。
 一瞬空白になった感じが空恐ろしく思っていた矢先、今度は牛肉の佃煮を鍋もろともに真っ黒焦げにしてしまった。二つの鍋を同時進行で火にかけていたとはいえ、眼の前でやってしまったのである。 
 ある小説家の、鍋を焦がすことから夫人の呆けは始まったという文章がリアルに思い出されて、いよいよ私にも来たかと思われた。
 そこでどんな他愛ないミスでも何かの参考になるかもしれないとメモを取り始めたのだが、長続きはしなかった。ふと、そのメモを探しまわっているうちに、十数年も前の句会の刷り物が出て来て、こんな一句にであった。

   惚けるかもしれぬと言ひて涼しかり    昌子

 そういえば、惚けるなんて思いもよらなかった頃、尊敬してやまない俳人が、「惚けるかもしれませんが…フッフッ」とさわやかな笑みをもらされたのだっけ。
 俳句の師は、「これは単なる思いつきの言葉ではなく、モデルになった人の人生観が背景にあります。惚けるということへの恐れとそれを恐れげもなく口にするところに一つの人生観があるわけです。『涼し』は夏の季語の中では一番のほめ言葉です。季節感をしっかり捉え、生活の中で消化していく力が『涼し』、その季節の言葉を人生観の中にしっかりと受け止めた深い句となっています」と、実作者以上によく分析してくださっている。
 なつかしさのあまり、かの俳人に思わずダイアルを回していた。
 今は九十歳であろうか、マンションに一人住まいをされて、俳句に余念がない。私のような年下の者にも、「最近の新しい俳句についてお聞かせください」とやさしい。純粋で柔軟な俳句観をうかがっているうちに、いつしか、萎れた草花が水を吸うように私は元気をいただいていた。
 あやかりたいものだが、夫に言わせると私の場合は「俳句ばっかりしているから、どっかおかしいのだよ」ということになっている。
 そもそも俳句というものは芭蕉の曰く夏炉冬扇、つまり無用のものである。何の役にも立たないことに命がけで取り組んでいるのだから、おかしいといえばおかしい。
 でも何と言われようと、一つのことに夢中になれるということほど幸せなことはないのではないだろうか……何やら開き直ってしまった。


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by masakokusa | 2009-04-26 19:40 | 俳句はめぐる | Comments(0)
日々の桜

 三月三十日
 待ちに待った桜が横浜で開花した。桜に恋い焦がれるおもいはひとしおふくれあがってくる。

 三月三十一日
 仏文学者、河盛好蔵氏は、絶望でなく希望を説くのが常だったそうだ。たとえば卒業式で、「いくら努力しても不遇で終わることもある。その時は運命だとあきらめたまえ」と語る来賓がいるが、河盛氏は、「不運だと絶望してしまっては駄目です。その後にどんな運が向いてくるかわからないからね。待てば海路の日和あり、ですよ」と語りかけられた。
 「待てば海路の日和あり」、なんてなつかしいセリフだろう。子供のころ、母はお題目のように唱えていたが、今思えばそういう心持で人生の荒波を越えてきたのだろう。

 四月一日
 四谷の上智大学の脇にある土手の桜は五分咲き。あいにく曇り空だが、夜桜見物に備えて茣蓙敷きに余念のない学生たちは無性に明るい。句帳を閉じてレストランへ入った。ヘージースカイ(霞がかった空)と名付けられた食前酒には桜が一枝挿されてあって、思わず「さくらに乾杯!」と歓声を挙げた。ほんのりと紅い雫が胃の腑に染みわたっていくと、何だかしみじみした。
 桜は散る日のために咲いているのではない。二分咲き、三分咲き、五分咲き、今あるように、今、精いっぱい咲いている。それぞれの時間の思いにしっかりと咲いている。散る日のために咲くのなら、咲いているどの日も無意味である。いつまでも散らないで咲いたままなら、今咲いていることもまた無意味である。

  青空や花は咲くことのみ思ひ    桂 信子

 四月二日
 花の雨がこまかく降りしきっている。
 俳人から、私がエッセーを学んでいることに対して、散文と韻文の二つを両立させることの相乗効果はなく、内に秘めたマグマを分散させてしまう、ご一考あれと助言をいただいた。一方、エッセー友達からは、もっと書いてと激励の手紙。
 夜テレビで、病弱な少女が女流王将に輝いた、その栄冠への道のりが放映された。十九歳の王将は、盤上を宇宙とみなし、どの駒も一つとして休まないで働いていること、どの駒もお互いに係り合って役に立っていることを語られた。
 そして最後に、「万物生きて光り輝く」と、まことに力強く色紙に書かれたのだった。


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by masakokusa | 2009-04-19 23:21 | 俳句はめぐる | Comments(0)
鳥曇

      
   秋風や薄情にしてホ句つくる       川端茅舎

 茅舎が薄情だとは思わない。ただ、俳人としては時に薄情でなければ悲しみを突き放して詠うことはできないのだと、秋風の中でさびしく自己を肯定しているのだろう。
 この句から、初めて句会というものに出席したときの厳しい師の声が思い出される。 「悲しいことも苦しいことも大自然の眼を通して見たら何ほどのこともありません。俳句は自分を客観的に見つめることを教えてくれます。悲しんでいるヒマはありませんよ」
 その言葉はいろいろの局面で実感することができたが、一方で喜びごとに出会っても手放しに浮かれるということはなかつた。どこかに感情制御装置が働いてしまうのだった。
 ところが八年前、孫が生まれたときばかりは制御装置のタガが外れてしまった。

   みどり子に宛てて文書く良夜かな      昌子
   赤ん坊紙風船を鷲づかみ           昌子
   手にしたるものみな舐めて初節句      昌子


 産後、母子を我が家にひきとった一か月間、赤子は泣いて泣いて大騒動であったが、母親に抱れて帰ってしまった満月の夜、ミルクの空き缶の山を片づけながら、さびしさのあまり声を上げて泣いてしまった。その後の婆バカぶりは拙句の通りである。

   鳥曇一歳にして耐ふること           昌子
     
 一年あまり経ったある日、娘は緊急入院した連れ合いのもとへかけつけて行った。孫を預かった私が何度手を引こうとしても孫は強く振り払って、手をつなごうとしない。ぎゅっとくちびるを噛んで、眉をしかめて、転んでも転んでも体を前へ前へ運ぶのだった。
 「たった一歳であるというのに、もはや長い人生のはじまりを人間として一人で何かに耐えなければならないことを噛みしめるように歩いていることよ」と初めて覚めた思いで孫という生き物を茫然と眺めたのだった。
 鳥曇というのは、春になって渡り鳥が北方へ帰っていく頃の曇り空のことである。あの日、渡りゆく鳥と同様に、婆も孫も季節のありようのままに哀愁を滲ませて曇り日をやり過ごすほかはなかったようである。
 茅舎を引き合いに出すのは御笑いだけれど、孫を詠った中では薄情の方である。


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by masakokusa | 2009-03-19 16:59 | 俳句はめぐる | Comments(0)
山桜                         
    
           
 新年が明けると、早々と桜の開花が待たれるほど、桜が一番好きである。俳句では「花」と言えば桜を指す。 そして花と言えば、西行。十数年前、辻邦生の『西行花伝』を読んでから、いつそう西行に心が寄りそうようになった。

   吉野山こずゑの花を見し日より心は身にも添はずなりにき
   あくがるる心はさてもやまざくら散りなんのちや身にかへるべき


 吉野山の桜を見た目から、私の心は体から遊離してしまった、桜の花をあこがれる心は一向にやまないけれど散ったあとでは心は元通りに戻ってくるのだろうか、と西行のこころは悩ましい。桜に恋してたましいは放心状態のようである。西行が妻子を捨てて、出家遁世したのはやはり恋ゆえであつたのだろうかとしのばれる。そんな吉野の山桜を詠う旅は私にとって何より大切な年中行事になっている。
 十年前、鐸々たる俳人にまじって初めて参加したときは緊張感でいっぱいだった。谿から吹きあげてくるすさまじいばかりの花吹雪を浴びせられると、西行ならずも足が地に着かなかった。それでも、蔵王堂は登りゆく径のどこからも雄大に見渡せて、見るほどに落ち着きを与えてくれた。巨堂をはるかに、はらはらと睫毛を掠めてゆく花びらはいっそう愛しく思われるのだった。

   花散るや何遍見ても蔵王堂      昌子

 その夜の句会で、「作者は花が咲くことより、散ることに感慨を深めている」という鑑賞をいただけた。思えば、桜は古来より散り際の見事さに心打たれる花である。
 かつては少しでも多くの桜を観ようとオッカケをしたが、近年はあまり欲張らなくなった。ごく自然に巡り合わせた花のありようが、そのまま私の心に沁み入るようになったからかもしれない。
 西行はこう弟子に語っている。
 「日輪はつねに輝いている。森羅万象(いきとしいけるもの)に恵みが溢れている。花を見ても慈悲が輝いている。月を見ても慈悲が心に染みてくる。それはそのまま歌の相(すがた)なのだ」

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by masakokusa | 2009-03-19 00:13 | 俳句はめぐる | Comments(0)
雨が好き                              
          
          
 私は雨が好きである。イラチな私は先へ先へ心が動いて絶えず忙しがっている。当然、成果は少しもあがらない。そんな落ち着かない日々に雨音を聞こうものならたちまち、すーっと気持ちが癒される。今日はもうなにも焦ることはないのだ、そう思うと心の底から安心する。雨の粒々は精神安定剤そのものである。
 一日中雨にふりこめられるのもいいが、雨をおして出かけるのもいとわない。
 「おっ、いい雨だ」といそいそと傘を開くのは雨の俳句が詠えるからである。まさに「雨が降ろうが槍が降ろうが」という心境は、下手の横好き俳人の証かもしれない。

    春雨や小磯の小貝濡るる程     蕪村   
    五月雨の降りのこしてや光堂    芭蕉
    秋雨や夕餉の箸の手くらがり    荷風  
    翠黛の時雨いよいよはなやかに  素十


 春夏秋冬、どの雨も明らかにして美しい。
 ところで、わが俳句は如何なりや、と句帖を繰ってみて愕然とした。好きな雨の句が見当たらないのである。もっとも私は晴女で雨に出くわす回数が少ないことを言い訳にしても、こんな筈ではなかった。雨の中をねばってつくるというのはどうもイラチに向かないらしい。
 それでも忘れられない雨が拙句に少々残っている。

    金屏の金あたらしや花の雨      昌子

 吉野の花見の二日目はかなり激しい雨であった。山桜の色合いは少しばかり褪せてみえたが、お屋敷の金屏風の金がいっそう浮き立ってあたりの風景がなつかしく思われた。

    雨止んで夕日まっかやほととぎす   昌子

 鎌倉の雨は俄に止んでこれでもかというほど夕日が赤かった。折しも時鳥の一声は、「テッペンカケタカ」とも「東京特許許可局」とも違う、男ぶりがすこぶるよかった。

    子規の忌の雨号泣す大笑す      昌子

 三十五歳で永遠に旅立った子規の忌日は九月十九日。その日、車軸を流すような雨を歩きながら、激痛のあまり小刀で咽を突いて死のうとした子規、弟子と俳論を賑わした子規、子規のあの日この日を思いやってずぶ濡れになっていた。私にとって子規はいつでもすぐそこに居る人である。俳句に出会えたこと、子規に出会えたことが私の一生の幸せであった。
 子規から賜った一句が、私をいっそう雨好きにさせたのかもしれない。


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by masakokusa | 2009-03-10 20:57 | 俳句はめぐる | Comments(0)