カテゴリ:俳論・鑑賞(2)( 50 )
課題詠   兼題=夕顔・蝉      草深昌子選
f0118324_19172128.jpg


 特選 

  蝉の木の絵本にありしごとくあり     山内利男
 
   
誰にも思い当たる光景が、懐かしくも美しい。
   一句の余白には蝉の声が童心そのものに響き渡っている。


  夕顔の空ひとひらと覚えけり       池原富子
   
   夕顔の色はすっかり空に溶け込んでいるのであろう。
   ひそやかな空気感が思われる。「ひとひら」が愛惜。


  夕顔のかたはらの子に名をききし     涼野海音
 
   日常の一端のようではあるが、ふと源氏物語の「夕顔」の情動がかぶさってくる。
   そこはかゆかしい。 

   秀逸 

  夕顔にしんかんとある二階かな      山内利男
  夕顔のほのと明るき帰宅かな       東條和子
  朝八時日は熊蝉を囃しをり         和田哲子
  水遣れば夕顔ぬつと咲いてをり     久下萬眞郎
  夕顔や祖母は母より長く生き       杉本和夫

   入選 

  夜も伸ぶる夕顔の蔓月に雲       二宮英子   
  蝉の鳴く赤松多き寺領かな       大槻一郎
   
   他70句略

(平成29年7月号「晨」所収)
by masakokusa | 2017-07-31 11:09 | 俳論・鑑賞(2) | Comments(0)
「俳句四季」2017年7月号 ・ 忙中閑談
 
f0118324_21213637.jpg

          
   生きている子規               草深昌子


 
横浜に初桜の咲いた日、「生誕百五十年正岡子規展―病牀六尺の宇宙」を観た。
 会場入口のビデオには子規庵の二十坪の庭が映し出されていた。
 亡くなる五日前のこと、「余は病気になって以来今朝ほど安らかな頭を持て静かにこの庭を眺めた事はない」というくだりに早くも涙ぐんでしまった。
 そうかと思えば、「ごてごてと草花植ゑし小庭かな  子規」に、たまたま居合わせた女性と顔を見合わせて笑ってしまった。
 「ごてごてと」こそが子規の本領である。
 私は大好きな子規にまたここに会えたことを喜んだ。

   初桜一字一句に子規は生き       昌子

 私が俳句を始めたのは四十年昔、同時にこの頃のギックリ腰がきっかけで、私の俳句の日々はいつも腰痛をひっさげている。
 子規はこう言う。
 「ガラス玉に金魚を十ばかり入れて机の上に置いてある。余は痛みをこらへながら病床からつくづくと見て居る。痛い事も痛いが綺麗な事も綺麗ぢや」、この声にどれだけ叱咤激励されたかしれい。
 子規の凄惨なる痛みを思えば我が痛みなど、何ほどのことがあろうかと、子規をおろがむような気持ちで、俳句にはまっていったものである。

   名月やどちらを見ても松ばかり       子規
   名月や小磯は砂のよい処

 明治二十二年、子規は大磯に保養中の大谷是空を訪ね、滞在先の旅館・松林館で大尽扱いをされ、大いにもてなされたという。
 早速、この所在を知りたく、大磯に出向いた。
 郷土資料館に訊ねると、松林館は、文字通り松林の中にあったものの、その後に建った長生館も消失して、今は跡形も無いことがわかった。
 それでも、東海道線「大磯駅」に近く、大磯丘陵が線路に迫ってくるあたりは古びに古びながらも頑丈そうな石垣が残っていて、旅館はここだろうと直感した。
 沿線には古木の桜が、ひときわ美しく満開であった。
 子規は、月光の松林を抜けて、海水浴場として名高い照ケ崎あたりを歩いたのであろう。

 もう十年も前になるが、松山市を再訪したときも、
 子規の「故郷はいとこの多し桃の花」、「鳩麦や昔通ひし叔父が家」などの出処を尋ねて歩いた。
 たどり着いたのは余戸中四丁目、昔町長をしていたという家の前に立つと、「森」の表札がかかっているではないか。
 思い切ってインターホンを押すと、「森円月は遠縁にあたると聞いていますが、今は父も亡くなりまして」という物静かな婦人の声が返ってきた。
 この時も、子規の幼なじみ森円月の生家はここだと独り合点したのだった。
 「ともかく紙に何かを書くのが好きな子でした。一日中でも書いてなさった。子供の頃から半紙はたくさんいる子でした」と母八重は語っている。
 そんな幼い子規が仲良しの森円月と往き来したであろう土を踏みしめているなんて、懐かしくてならなかった。 
 今ここ大磯では、青春真っ盛りの二十二歳の子規が、湘南の風に吹かれている。
 そう思うだけで、春の日差しがいよいよあたたかくなってくるのだった。

 子規は、いつの時も、すぐそこに居て、親しくも明晰なる眼を向けてくれる存在であった。
 子規がいなかったら、三日坊主の私が、俳句を続けることは出来なかったであろう。 
 正岡子規は、今もって静かにも力強く生きているのである。


(2017年7月号「俳句四季」所収)
by masakokusa | 2017-07-30 23:58 | 俳論・鑑賞(2) | Comments(0)
特別作品評             草深昌子

f0118324_1847567.jpg



       鈴鹿へ         田島和生


  
   武骨さの鈴鹿連嶺粧へり

 鈴鹿山脈は今まさに「秋山明浄にして粧ふが如く」である。
 鈴鹿山脈と言わずして「鈴鹿連嶺」という言葉が、「武骨」という措辞に呼応して、さもごつごつと立ち現れてくる。 
 さらりと詠ったように見えて、ふと読者を立ち止まらせる言葉の力が、俳句の風姿のよろしさとなって、それこそ峙っている。

   餌を吸へば鯉の口鳴り秋まひる

 餌を喰えばではなく、「吸へば」だからこそ鯉の口が鳴るのだということが納得させられる。
 もとより、水も大気も透明度満点である。
 秋の真昼は、静かにも情景を包み込んで燦然と横たわっている。

   山の日は林檎のあまき匂かな
   熟しては落つる国光ありにけり

 甲賀一体は真っ赤に熟れた林檎に満ちているのだろう。
 一気に読み下した勢いがそのまま林檎の幸せな匂いを漂わせてくれる。
 足運びのテンポが、即ち、詩情のそれとなってまこと爽快である。
  
   ひやひやと双手失ふ観世音

 「平安の秘仏」展にまみえた古仏。
 仏と自身が一体にならなければ「双手失ふ」とは言えない。
 深秋の冷気が、作者はもとより観音の身の芯にまで染み入ってくるのである。  

   豆引のうしろの滲み落日す

 「鈴鹿へ」十句は、秘仏の心象を曳いて、見るところどこも赤く染まったような甲賀の旅懐を鮮やかに浮き立たせている。

       ~~~    ~~~

     木曽路       中山世一



   凩に迎へられたる木曽の宿
   霜晴や色うすれゆく朝の月


 馬籠ならぬ奈良井宿はまだ見ぬところだが、おのずから、「木曽路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十軒の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた」(島崎藤村)に導かれる。
 俳人の愛してやまない木曽路は凩さえも覚えあるものであって、何とも懐かしい気分が滲み出ている。
 霜もまた天地一体となって真白くもうっすらと広がっている。 

   冬支度水中の藻に色きたる

 水草の紅葉が、いっそう奈良井の水を透き通らせて美しい。しんとした余韻は、この村の姿を偲ばせてくれるに十分である。
 この時期、決まったように、村人は漬物の仕込みに精を出されるのであろう。

   木曽馬の明るき尻や里時雨
   馬小屋の壁に樏夕日差す

 〈木曾馬の黒眼みひらく二月かな あきら〉が印象に残っているからであろうか、木曽馬といえば「眼」であったが、さらに「尻」までもが明快であることの頼もしさ。
 折からの時雨に、一振りした尻尾もまた風土の重みを思わせるものであったに違いない。
 吹雪の到来を予感しながら、馬小屋もろとも夕日に暮れてゆく木曽である。
 「木曽路」一連の声調もまた静謐そのもの。

(「晨」平成29年3月号 第198号所収)
by masakokusa | 2017-03-30 14:28 | 俳論・鑑賞(2) | Comments(0)
黛執句集『春の村』書評          草深昌子
  
f0118324_150843.jpg
    

        うらうらと  
           

   にぎやかに煙を上げて春の村
   どことなくさびしい朴の咲く村は
   こっそりと戻ってをりぬ茸取
   煤逃の戻って来ぬといふ騒ぎ

 「にぎやか」にあるさびしさ、「さびしい」にある賑やかさ。風景にかぶさってくる村人の営みが、言葉の奥から、根を張るように浮かび上がってくる。  
 この物語性の味わいは、黛執氏が映画監督五所平之助の手引きによって、俳句を始められたことと無縁ではないだろう。

   暮れ残るとふさびしさに通し鴨
   草笛を吹くにさびしき眼をしたる

 渡り残りといえども鴨は巣を営み、子を育てている。日暮のあとの束の間の明るさがいとおしい。草笛上手の音色は、うら悲しい。
 生きているという喜びの実感は、刹那のさびしさと引き換えのようである。

   冷やかに日暮が降りてきたりけり
   春のゆふべは母の辺にあるごとし

 映画に撮れば千のショットになるだろう。
 自然のありようを黙って伝える映画の文体が、即ち俳句のそれでもある。年々に、たっぷり感受されたであろう風景の移ろいが、人生的空間に明らかに描き出されている。

   玉子酒甘えごころの老いてなほ
   うらうらと身を離れゆく思ひあり
   年寄に火の香わらべに蜜柑の香
   年の火に残生かくれなかりけり

 いいなあ、玉子酒。
 こんな風に年取りたいと思う。
 いや、とっくに年取っているのだけれど、そんなことすら忘れてしまってあこがれてしまう。
 うらうらに照れる春日は、今や作者の一身となって、そこに存在している。
 老いの句を一句作るたびに、一歳若くなられるような清純の詩質は、次の開板をおのずから約束するものではないだろうか。

   風にやや艶出て盆に入りにけり
   三伏の艶おのづから自在鉤

 俳人の風格に見い出された艶が美しい。
 氏は昨年、二十二年間に亘る「春野」主宰を退かれた。
 八十五歳を機に、五十年間続けきた「いそしむ俳句」から「あそぶ俳句」へ転換してみようかなどと考えもされたようだが、自在にしてつつましやかな句群にその区別はつかない。
 いそしむ俳句はすでにして遊ぶ俳句と表裏一体になっている。 

   本降りとなってをりけり昼寝覚
   涼しくて空の遠くを見てゐたる

 つきなみを突きはなすような自然との出会いは、文字通り目が覚めるようである。 

 第七句集『春の村』は、どの句も、自身に言い聞かせるように紡がれていながら、その世界はまるで読者のもののように懐かしく思われる。
 大らかなあたたかさ、穏やかな静けさに満ちていて、読むほどに茫洋たる安らぎに包み込まれていくものである。

 黛執俳句は、そのまま黛執氏のゆたかなる風貌であることに気付かされる。


(平成28年9月号第195号「晨」所収)
by masakokusa | 2016-09-03 21:43 | 俳論・鑑賞(2) | Comments(0)
『なんぢや』  四季の椅子<招待席>

f0118324_21413313.jpg



       水棹                  草深昌子



   あぢさゐや寺の外れの寺まんぢゆう

   をさなき子まつくらといふ木下闇

   よしきりの巣ぞとしづかに水棹置く


 馴染の結社を去って、顔ぶれも知らない句会に初めて参加した日のショックを忘れることはできない。
 どの句もヘタに思われて、初心者であろうと決めていたが、何と錚々たる俳人の句であった。
 まさに、「大巧は拙なるがごとし」。
 ウマイ句に惑わされていた私に選句眼がなかった。
 以来、拙を心がけはするものの、発見のない句はただの「ヘタヘタ」である。
 せめて「ヘタウマ」でありたい。

(『なんぢや』榎本享・2016・夏号 8周年号所収)
by masakokusa | 2016-08-02 22:33 | 俳論・鑑賞(2) | Comments(0)
茨木和生句集『真鳥』書評           草深昌子
  
f0118324_2051639.jpg
 
 
       垂涎の命    
   

 ― 茨木さんら俳人と一緒にいると、旨いものが食えるねえ、作家の中上健次氏が言ったのは、昨夏、玉置山に登った時だった。「うまいもんも出逢いやのう」、「俳句も一緒や」と酒を飲む ― 
 茨木和生著『西の季語物語』の一節であるが、映画を見るようなシーンは『真鳥』にも紛うことなく、鏤められている。

   阿弖流為をここに呼びたき薬喰
   食べるかと細螺を茹でてくれにけり
   うどん鋤ジャンジャン横丁ならではの
   どぶろくはぐいぐいと呑め鎌祝

 その地、その場所ならではのよき地霊との交信が、美味美酒をもたらすのであろう。

   お日さんもえべつさん顔残り福

 商売繁盛で笹もってこい、という残り戎の掛け声はいよいよ儲かりそうで身が揺れるほどに嬉しい。飲食に感謝し、ばりばり働く人の俳句は、どれもこれもえべっさん顔である。

 先ほど、イタリアの至宝ブルガリ展を観た。
 ダイアモンドの蛇型ウオッチに魅了されつつ、
   
   蛇も迂闊われも迂闊や蛇を踏む

 を反芻していた。
 俳人とかちあった蛇は、今や手首に巻かれ、永遠に生きて惜しみなく光りを放っているのだった。蛇の英知、生命力をジュエリーに持ち込んだブルガリの直感は、そのまま和生俳句のモチーフに生きている。

   生命力とはと問はれて草虱

 伊勢志摩の旅で、草虱の猛襲に会った。
 瞬時に緊と取り付いた千の草虱は、数人がかりにも外せないほど強固、しまいにはナイフでそぎ落とさねばならなかった。
 思えば、繁殖のために、他の生き物について旅することもまた、切なき命の智慧である。命は永遠なのだった。
 乏しい体験でわかったようなことをいうのも恥ずかしいが、かにかく作者は蛇になり、草虱になり、万物共生を実践されているのだろう。

 私事になるが、先日調べものがあって、本箱の奥にしまってある「思い出の小箱」を開けると、何と茨木俳人からの〈立膝の西行よけれ山櫻〉と墨痕淋漓なる葉書が出てきた、平成8年の消印である。
 石鼎旧居移築に関する文章を、「鹿火屋」誌からコピーしてお送りしたことへの返信で、「西の季語物語(仮称)を単行本として出しますのでそこに入れようと思っています」とあった。始末の悪い私が後生大事に保管していたとは、我ながら驚きであるが、廃屋同然の旧居を再建されたことへの感謝と感激が大きかったことをよく覚えている。

   大袈裟に咲くものあらず山桜

 目立たなくても、まことの姿にあるものは、人の胸にひそやかにも美しくとどまってあるものだと今さらに教えられた思いである。

   あつぱれと褒められてをる朝寝かな
   春山に雲を見てゐて動かれず

 朝寝は怠慢にあらずして、春を満喫せずにはおれない俳人のものであろう。
 褒められている俳人はまた誰よりも、天然のもろもろに対してあっぱれとばかり礼讃してやまない人である。
『真鳥』には、分け隔てのない、大らかな情愛がすみずみに行き渡っている。

 ご馳走はもとより、茨木和生その人の無垢なる命の輝きこそが、何より垂涎の的である。

(「晨」平成28年1月号所収)
by masakokusa | 2015-12-31 23:58 | 俳論・鑑賞(2) | Comments(0)
中山世一句集『草つらら』一句鑑賞       草深昌子

f0118324_21151569.jpg


    水盤に貴船の水を湛へたる        中山世一 



 「晨」創刊二十周年記念大会のあと、中山氏に引率していただいた貴船での句である。
 大会の興奮が一瞬にして鎮もったことを、今もって鮮やかに思い出される。
 水盤は、底の浅い花活けであるが、ここには何と深深たる水が透き通ってあることだろう。そもそも水盤というものは、水を湛えるものである、よって、作者自身がもたらした言葉は「貴船」だけである。
 そこが一句の凄味である。
 たった二文字が一句全体に静かにも波紋のように行き渡ってやまない。
 貴船川は鞍馬川と合流して賀茂川となり、平安京の水源地であった。貴船神社は、水を司る神として崇めらている。そんな貴船の水である。
 水盤の水が、今や貴船そのものの水となって奥行きを見せるのである。
 澄み切った心の鏡に水の方から映ってきたのだろう。

   目さむれば貴船の芒生けてありぬ    高濱虚子
   新緑や人の少なき貴船村         波多野爽波

 思えば、虚子、爽波にこんな貴船の句があった。
 中山世一氏は、その著『季語のこと・写生のこと』で現代俳句を深く考察されている。
 伝統詩としての俳句を、先人の句々から学びつつ、いつしか自身の血肉になるところまで、まさに我知らず染み入らせておられるに違いない。
                    
(『百鳥』平成28年1月号所収) 
by masakokusa | 2015-12-31 23:58 | 俳論・鑑賞(2) | Comments(0)
新刊書評・井上綾子句集『綾子』        草深昌子
   
f0118324_19504478.jpg
 
  
        宝の「探し山」


              
 句集『綾子』を、巻頭から巻尾に至るまで息もつかさず、目を見開かされるような思いをもって読了した。
 ところが、あらためて読んでみると、知らない言葉の数々に驚かされた。
 山立、粥占、間祝着、西ようず、春袋、蕪骨、花の内、ほろせ、よもつへぐひ、稗蒔、霰酒、 泥落し、餅間、籾落し、御菜葉などなど、切りもない。
 そこで、調べに調べて、目から鱗の落ちること度々、これが何とも楽しかった。

 〈松茸は大きな手柄探し山〉、この「探し山」などはネットで調べても、職探し、マンション探しが出てくるのがオチで、手がかりもない。 
 十二月に入っても松茸を求めて山を歩くことだと知ると、まこと味のある句である。
 それやこれや、もっとも頼りになったのは茨木和生主宰の序文はもとより、ご高著『西の季語物語』、『季語の現場』であった。

 かくも無知なる私がなぜ一読して一集に感銘したのであろうか。
 およそ体験していないことであっても、季語の現場に導いてくれる快感となつかしさにあふれていた。
 作者の、不思議を問いかけずにはおれない自然への好奇心、情緒にもたれず、体験を信じる真っ直ぐな姿勢、それらは自らリズム感のよろしさとなって、読者を面白がらせたのではないだろうか。
 難解なる言葉を紡ぎながら、すらっと読み通させるところ、これぞ俳句の力である。

   石鼎を小柄と思ふ単衣かな 
   袋菓子食べちらかせる鹿火屋かな
   これやこの丁子屋に来て骨正月
   未体験まだまだあると生身魂

 一句目、即座に〈石鼎の麻着といふがかかりけり 山本洋子〉が思い浮かぶ。
 かの旧居の単衣は何度も見ながら、石鼎を長身と思い込んでいた私には思いもつかなかった。
 実寸がどうあれ、名高い石鼎に一歩近づけたことが嬉しい。
 二句目、〈淋しさにまた銅鑼うつや鹿火屋守 原石鼎〉と表裏一体、哀歓をそそられる。
 三句目、〈一芸と言ふべし鴨の骨叩く 右城暮石〉が心の奥に光っているのだろう。
 四句目、生きる限りは知らないことを知るよろこびに導かれている、生きているということは何と素晴らしいことだろうと気付かされる。

 思えば、「綾子」は探し山そのものであった。大きな手柄の宝が出るは、出るは・・。

   たけのこを掘るためらひのなき角度
   神々にある物語山桜

 筍が眼前にどっかと現れる、断定の潔さ。   
 季語を慈しむこと百戦錬磨にしてはじめて詠いあげることのできる堅牢なる山桜。
 一巻は総じて、自然詠でありながら作者自身の思いとよく呼応して、その照り昃りの美しさに魅了された。

   アルバムの少女はわたし桃の花
   新しき水着それだけで泳げさう

 この愛らしさ、茶目っ気はどうだろう。
 こんな純真が、綾子俳句の気品をむしろ際立たせるように思われるのは、まこと言葉の「綾」と言わずして何と言おうか。

(平成27年11月号「晨」所収)
by masakokusa | 2015-10-31 23:59 | 俳論・鑑賞(2) | Comments(0)
花照鳥語         あはれなるほど喉ふくれ        草深昌子
    
f0118324_2317474.jpg


 原石鼎が「鹿火屋」主宰になったのは、大正十年である。
 大正七年から大阪毎日新聞社の俳句会に毎月出張していた石鼎は、藤田耕雪庵句会など、関西の実業家たちの句会にも度々出席していた。 
 鹿火屋はまるで大阪から誕生したようだと石鼎が言うように、雑誌発行には大阪の強力な経済力に支援されたのであった。 
 ことに藤田耕雪は、住友と並び称せられる二大財閥であった藤田財閥、その藤田組の副社長であり、妻の俳人春梢女と共に協力を惜しまなかった。
 藤田の別邸に招かれた石鼎夫妻は、源氏物語に出てきそうな耕雪を前に、生まれて初めての洋食の饗応に胸を波立たせたそうである。
 耕雪は、大正十二年十二月号「ホトトギス」に巻頭六句入選を果たしている。高野素十が初出句にして四句入選で知られる号である。

   水つげば釜音ひそみ除夜の閑   耕雪
   大鯉の背を越す鯉に落葉かな    

 吉野山花見の帰途、この藤田家の本邸である「藤田美術館」、庭園であった「旧藤田邸跡庭園」、さらに耕雪庵の跡である「太閤園」に立ち寄った。
 かつて淀川畔の綱島御殿と言われた広大な敷地にあって、隅々までも粋を集めた花鳥の輝きにただうっとりとしてしまった。
 長閑けさに浸っていると、石鼎が数年間も月の一旬あるいは一旬半を大阪に滞在したという満足感が伝わってくるのであった。

 大正十年、石鼎にはもう一つ、嬉しい出来事があった。
 かの内藤鳴雪が「石鼎さんは龍土でいやすなら、そのうち遊びにゆきやしょう」と石鼎居を訪れたのである。 石鼎は麻布区龍土町(今の港区六本木)、鳴雪は麻布区笄町(今の港区西麻布)に住んでいた。
 鳴雪は子規派の重鎮として活躍したが、大正十一年刊行の『鳴雪自叙伝』の語り口もまた円満洒脱である。
 古希の祝賀会のあとは「前途なんの企画する事もなく、ただ担当している多くの俳事を、その日その日と弁じているが、つい生き延びて本年は七十六歳となった。老年に比較して精神だけは頗る健全だが、身体の方は漸々と衰弱して殊に寒気には閉口する」と締めくくっている。
 自叙伝刊行の直前にあった鳴雪は、一誌をもつことになった石鼎を大いに激励したのであろう。 
 石鼎は三十五歳であった、思えば子規の没年と同い年である。
 妻コウ子は「鳴雪は疳高い声でいかにも楽しそうに石鼎と話していられたのが昨日のように目に浮かぶ。翁を笄町のお宅まで送ってかえった石鼎は、翁の明るい音声の残っている部屋で、翁を迎えたよろこびの興奮になおひたっていたのもなつかしい」と書き残している。
 鳴雪居住跡は、今や文字も薄れた標が空手道場の前に小さく傾いているだけであった。
 かの日の如く、旧居跡の路地を出て、六本木通りの笄坂や霞坂を上っては下り、やがて龍土町名残の東京ミッドタウンあたりへ出てみると、息が切れた。この起伏ある半里の道程を鳴雪翁が進んで足を運ばれたとは、何と有難いことであったろうか。
 
   囀やあはれなるほど喉ふくれ       石鼎
   この朧海やまへだつおもひかな       
   夜の雲のみづみづしさや雷のあと   
   
 新緑の盛んなる大都の真ん中をたどっていると、石鼎が最も石鼎らしく、その長身をもって闊歩した時代があったことを実感させられて、絢爛たる句々が自ずから浮かび上がってくるのであった。

(「晨」平成27年7月号所収)
by masakokusa | 2015-07-31 22:50 | 俳論・鑑賞(2) | Comments(0)
花照鳥語           火星いたくもゆる宵なり    草深昌子
      


f0118324_1223741.jpg
          


   火星いたくもゆる宵なり蠅叩        原石鼎

 昭和二年七月、石鼎が麻布龍土町から麻布本村町へ転居してすぐの句である。
新居祝の会は、弟子から贈られた鹿火屋守の銅鑼を打つなどして盛り上がったが、芥川龍之介の自殺が報じられたのもその日であった。
 かつて芥川は、俳句を作るに三つの態度があるとし、一つは、物をありのままに写す純客観写生、次に、自然や田園が自分に与える印象なり感じなりを捉えてあらわすもの、最後は純主観句、そして自分は石鼎の句に多くみられる中の態度をとると書いていた。
 それにしても、火星と蠅叩が直結する感性は、どの態度にも納まらない宇宙的直感ではないだろうか。
地球のすぐ外側を回る火星は、その軌道の歪みによって夏に大接近するそうで、この年もさぞかし赤いものであったのだろう。蠅を殺してやまないこの世の蠅叩という代物が途方もなく遠い火星と必然のように瞬きあうのである。

 ところで、この家の隣に引っ越してきたのが、当時九歳の須賀敦子であった。
一人ぽつんと庭に立って空を仰いでいる和服姿の老人を、二階の窓から見ていた。
 「ホトトギス派で名のとおった俳人らしいぞ」と父に言われても、何をしているのかわからない職業への畏怖があった。「お宅のお子さんたちの声が喧しくて、宅が何かと申しますものですから」と夫人から苦情を受けたこともある。

   夕月に七月の蝶のぼりけり        石鼎

 この句は、石鼎の死の前年のものであるが、これを引用した新聞のコラムを見たとき、かの小柄な老人の孤独な姿が、少女の自分の姿と重なって、ひらひらと夕月の空にのぼっていきそうだった、と敦子の著書『遠い朝の本たち』に書いている。
 子供の声にも苛立つような神経衰弱を病んで、老人に見立てられた石鼎はまだ五十歳そこそこ、出雲の母を喪ったのもこの頃である。

   一枝の椿を見むと故郷に         石鼎       
   桃椿なべて蕾は春深し
   春宵や人の屋根さへ皆恋し

 情緒纏綿たる色彩が、なぜか火星にも似た不思議な色合いを帯びて、その寂寥感が透き通るようになつかしく感じられてくる。

 句集『花影』刊行後は、入退院を繰り返したが、幻聴もいよいよ激しくなって、ついには昭和十五年、モヒを打たれ、知らぬ間に松沢病院に運びこまれていた。
麻酔から覚めると、履いた草履に「松沢」の焼印が押してあって、声を立てて泣いたという。
 都立松沢病院は、およそ百年前、ドイツ留学から帰った呉秀三が、広大な敷地にコテージ風の病棟を点在させ、患者を隔離せず治療できるようにした施設で、今も精神専門医療の先端を担っている。
 昨秋、この病院内にある「日本精神医学資料館」を見学したが、手枷、足枷など拘束が主であった時代の精神病者の不遇に胸が痛んだ。
 だが、薄暗い館を出て、真っ青な天空を仰いだとき、石鼎のかなしみは、すでに人の世の悲しみを超越したところにあったのではなかろうかと慰められる思いがしたのであった。  

        入院 二句
   武蔵野の真夏の草を見にも来よ        石鼎    
   夏の夜の群星にわれひとり泣く


(平成27年3月号「晨」第186号所収)
by masakokusa | 2015-03-31 23:57 | 俳論・鑑賞(2) | Comments(0)