カテゴリ:『邂逅』書評抄録2( 10 )
新刊句集鑑賞・草深昌子句集『邂逅』      川崎慶子
      
     平明にして深く          
 
 草深氏の第二句集『 邂逅』 のご上梓を心よりお祝い申し上げる。

  数珠玉を水切るやうに振ってをり
  柿齧る風の音して風の来ぬ
  蟻穴を出づる出合ひの辞儀あまた
  ぼうたんに非のうちどころ無くはなし
  青田風とは絶えまなく入れ替はる

 
 平成3年から14年までの12年間の厳選された珠玉の作品の数々が、逆年順に収めてある。一句目の何気ない所作、二、三句目の自然への観察、四、五句目の心のうちを吐露された句といづれの句も、全くゆるぎなく磐石である。
 
 昌子さんのことは何も存じ上げないが、著者略歴やあとがきによると、1978年「雲母」入会、85年「鹿火屋」入会とあり、すでに20数年以上のキャリアを持っておられることを今回知った。どの作品にも自己投影がなされていて、奥行の深いものになっている。

  家中の昼を灯して帰省子に
  鈴虫や夫の背広の持ち重り
  曼珠沙華挿して家族の箸洗ふ

 
 数少ない家族詠より。家族への愛がさりげなく表出されている。

  露時雨傘を刀に鞍馬の子
  大勢を振り向かせたる熊手かな
  竹の皮脱ぎ惜しみしが二三本
  石垣の石ひきしまる夜の桜
  蟻に尾のありやなしやと問はれても
  花衣脱ぐといふより辷りたる
  人たれも背中忘れてゐる良夜
  雁がねや水の切り口あをあをと
  笑ふとき全円となる海月かな

 
 多くの優れた句の中から好きな句を選ばせていただいた。

  こころざしありとせば立葵ほど

 平成11年に師事されていた、原裕先生が逝去され、「鹿火屋」を退会され、大峯あきら先生、山本洋子先生との出会いにより「晨」に入会されている。1995年には「深吉野佳作賞」を受賞され、現在は「晨」「ににん」同人としてご活躍で岸本尚毅氏とも句会仲間で、その尚毅氏が「『邂逅』に寄せて」の懇切な栞を記しておられる。

  沖へ出てなほ沖見たし西行忌   

 俳句の道に終りはない。更なるご活躍をお祈り申し上げる。

  (2003年11月号「晨」第118号所収)
by masakokusa | 2007-06-20 18:53 | 『邂逅』書評抄録2 | Comments(0)
冬の谷に『邂逅』を読む      大木孝子

 草深昌子句集『邂逅』・鑑賞

 冬晴れの浅間山麓に、衝動的に足を運んだ。
 浅間山は山巓に薄い雪のヴェールを被り、山麓の木々は枯骨となり、ぞっくりと蒼天を突き刺している。夏に玲羊と出遇った径は、堆く落葉が積もり、やわらかくほの温かい。谷の瀬音は澄み、風と光と雲が互いに触れ合いながら、清らな冬を研いでいる。

               ☆

 大きく息を吸い〈邂逅〉という言葉の深淵を想う。単純に願って求めて得られるものでない、ふしぎな巡り合わせ、目に見えぬもののはからいに依る思いがけない出会い、どんなにひそやかであれ大胆であれ、その出会いによって命が熱を帯びる尊さ…。
 俳句もまた一瞬の得がたい光との邂逅によつて、生まれるといっていい。光あるうちに、その一瞬に賭けて攻め上げた心を言いとめようと噴出したものが俳句なのだ。傷口を慰撫する春風のようなやわらかさも、言葉の中に哮ける精髄のあらしもあろう。哀しさを踏み倒し、突きぬけたあとの明るい諧謔もあろう。いずれにしても邂逅の周辺に生まれるみずみずしい詩片なのだ。
 草深昌子句集『邂逅』とはどんな光の糸を織りなしたものだろうか。作者の俳句遍歴を見るに「雲母」「鹿火屋」同人を経て、「晨」「ににん」同人の現在に至っているが、結社の移籍はけっして単純であった筈はなく、私にはそのときそのときの離別と邂逅の翳に、潔癖さゆえに裡に棘を向けざるを得ない、心の痛みが伺い取れ、奇縁の喜びが伺い取れ、波間を必死に泳ぎぬく強い意志が見えてくる。邂逅とは痛みを代償とするてのひらに蘊む宝玉かも知れない。
 句集『邂逅』の表紙の蒼い海を漂う、白い水母に曳かれて、草深昌子の世界を辿ってみる。

  寒晴や鳥かごに鳥天に鳥
  鎌は地に突き刺し水は澄みにけり


 清冽な句である。二句とも静止画像の中からかすかな命の音が聞こえてくるようだ。
 一句目の寒晴に支配された美しい空間に息を呑む。天空も大気も地も凛と張り詰め、鳥籠の銀の条が光を弾き空に吸われ消えてしまいそうな。囚われの鳥も自由の鳥も共に祝福されている一日。「雪に来て見事な鳥の黙りゐる」「瑠璃鳥去つて月の鏡のかかりけり」石鼎の、黙然とした光景にみなぎる、生気ある句を引き寄せて、思わず目を閉じる。
 二句目、表現が散文調ながらも内容に惹かれる。刃毀れのない草刈鎌が、土を噛み土もまた刃を咥えて離さない休息の一刻。私には雑草雑根を刈り捌く鎌の刃の熱さが感じられ、鎌への生粋の信というか、狂いのない生活の切れ味というか、秋水の澄みと響きあって象徴の一景に思える。

  うぐひすや球体となる吉野山
  花散つて大釣鐘を遺したる

 
 師を失って呆然とした日々の中で、吉野山に導かれたという作者の吉野詠は、歴史深い花の山に抱かれて安らぎつつ、リアルな視点に終始する。うぐひすの声に山そのものが、まるでうっとりと浮かれ立つように球体になるという感覚の面白さめでたさ。当然作者も球体に包まれるわけで、これも春の山の手妻のなせるわざ。上千本と中千本の桜吹雪は夢幻の美しさである。花が散ったあとに黒々とした大釣鐘の重量をどんと据える潔さに驚く。繊細と豪壮の取り合わせには、レトリックを超えた、心の躍動が潜んでいる。

  掌から掌へ椿のわたる石鼎忌

 深吉野の山中は原石鼎が籠居した庵のあるところ、「鹿火屋」同人として十年以上を研鑚した草深昌子氏の石鼎忌への思いは一入のものがあるに違いない。昭和十年、母の危篤に帰郷した折りの石鼎の句「桃椿なべて蕾は春深し」「一枝の椿を見むと故郷に」を同時に噛みしめると、掌から掌へ渡されてゆく冬椿には、ぽってりした情愛の温もりが灯ってくる。又、忌日に集う人たちが受け継ごうとする、さながら志の火種のようでもある。

  大壼に大うめもどき火の支度
  五十年ぶりの差ぢらひ枇杷の花


 大きな壷にざっくりと投げ入れた梅擬の大枝、田舎の土間か囲炉裏のある床の間が目に浮かぶ。火の支度という懐かしい言葉からして大所帯の民家か。まめまめしく動く手足が見え、泰然と微動だにしない壷の体躯と、累々とした梅擬の実が後押しをしている。火は命の源。
 五十年ぶりの差じらいとはどんな含羞だろう。幼き日のうろ覚えの、さりとて全身に蘇る確かな心の軌跡。具体性はないが枇杷の花を据え置いたところに、その羞ぢらいの本質が出ている。二句共に大小の呼吸づかいを併せ持つ、抑えの効いた佳句である。

  春雪の野や愛あらば踊れよと
  雪吊の待たるる鴨の往き来かな
  ひぐらしの貌は皺苦茶かもしれぬ
  ピーマンもトマトも赤く星逢ふ夜
  花嫁の列に遍路の交はりぬ
 

 一句目、昌子俳句の中では珍しい作風。こんなふうに春の雪に囁かれたら、私はためらわず踊り出すだろう。愛が死よりも強いことを春雪に囁くだろう。作者もきっと同じ舞姫。
 二句目の雪吊を待つ鴨には笑いがこぼれる。ほたほたと行ったり来たりする愛くるしさ。次のひぐらしの句には一瞬ぎょっとした。あの哀切の声に聞きほれることはあっても、その貌など想像したこともなかったからだ。そう、仮に想像したとしても恐らく、その音色からして、張り詰めた硬質な表惰だろう、ここで二度驚くのは皺苦茶と感じる諧謔というか、シュールレアリズムだ。突き破るような高音に始まり息継ぎながら、ほそほそと消えてゆく音色に、作者の観念が貌を創造したのだ。
 四句目は西洋野菜と惰趣ある星祭の、意表をついた取り合わせが新鮮。ピーマンの緑を残像とした赤の意匠が、酒落ていて現代的。
 五句目は、マグリットの騙し絵を見るおもしろさがある。白無垢の花嫁と白装束の遍路、あるいは金欄の花嫁と白遍路の交差、束の間の人の流れに、人生の実と虚が見え隠れする。

  歯のなくて歯茎たしかや初幟
  風光る転びたがる子転ばせて
  鳥曇一歳にして耐ふること


 『邂逅』には随所に天真欄漫の子供の姿が浮かび上り、思わず微笑む。けぶるような命に目を細める作者が居る。そういえばまだ乳歯の生えない歯茎は、桃色のやんわりとしながらも確固とした土手の手応えだ。
 二句目、子供の衝動に手を添えてやる作者の優しさ。春の光も慰撫している。
 三句目、生きることは耐えることの真実を、早くも踏み出した幼な児への、賛嘆と痛みの心の揺れが、鳥曇に収斂される。

  棚糸瓜仰ぐは子規をあふぐなり
  子規の忌の雨号泣す大笑す


 『邂逅』の冒頭と掉尾に子規を掘え置いたのは、偶然ではなく系譜の原点を尊ぶ思いからだろう。この他にも

  柿を噛む我に目の玉ありにけり
  たくさんの瓢の中の糸瓜かな
  湧く力雲にありける子規忌かな
  明日の忌へ曲りくねつて糸瓜かな


 句集の縦糸として丹念に編みこまれている。

  兀然と日は鶏頭に当たりける
 
 特にこの一句は「鶏頭の十四五本もありぬべし」の対句ともとれるが、少ない語数で鶏頭の豪奢な存在を言い当てている。兀然(ごつぜんと読みたい)という厳かで重厚な一語が、この句の眼目だろう。鶏頭がまるで真紅の天鵞絨の山巓のようだ。そこに当たる秋日も、当然、兀然たる輝き。鶏頭一本と、大いなる字宙との合一が見える。

  青田風とは絶えまなく入れ替はる
  山に山迫りて夏の闌けにけり
  雁がねや水の切り口あをあをと
  おしなべて秋草あかきあはれかな


 作者はあとがきに「俳句の写生について考えることは、自分について考えることに他ならないと気付かされている」と述べているが、『邂逅』の根底にあるのは、白然に感応しながらどう自分を明かしてゆくか、生きることの意味を問いながら、心の深みから湧き上がるものを表現しようとする姿勢である。掲句、四句の速写の妙は、無心の写生力から生まれたもの。地軸から萌え出る心が脈打つ。

                ☆

 この谷もやがて雪と氷に閉ざされ、静寂に包まれる日が近い。谷の木々は白に埋もれ、一層明るさを増すだろう。氷雪の重たさは次の春への喜び。

  邂逅のハンカチーフをかがやかす
 
 最後に邂逅の一句に目を戻し、終わりたい。


  大木孝子(おおき・たかこ)
  一九四五年、茨城県生まれ。句集に『藻臥束鮒』『柞繭』『あやめ占』
  季刊「野守」主宰。刈安の会代表。
  『あやめ占』により、駿河梅花文学大賞受賞

f0118324_14393953.jpg


 (2004年1月10日発行、『ににん』冬号,p8~11所収)
by masakokusa | 2007-06-14 16:12 | 『邂逅』書評抄録2 | Comments(0)
『俳句四季』・一望千里  新刊句集から   山縣輝夫
 
 ☆『邂逅』(ふらんす堂刊) 
  
 草深昌子(「晨」・「ににん」同人)の第二句集。平成3年から平成14年までの句を収録。略歴によると「雲母」、「鹿火屋」に所属されたが、原裕主宰の逝去で「鹿火屋」を退会された由。
岸本尚毅氏の“『邂逅』に寄せて”という栞がつけられている。
 「もともとは叙情的な作家と思われるが、辛抱しながら俳句に忠実ならんとしている。その結果、表現に抑えの効いた佳句が生まれる」とある。
 あとがきに、超結社の句会で座の文学の醍醐味をたっぷり味わっていると書かれていた。
実力のある作家だ。

  おしなべて秋草あかきあはれかな
  冬麗や巫女の扇は紐垂らす
  蟻穴を出づる出合ひの辞儀あまた
  竹秋や風来ては去る能舞台
  花衣脱ぐといふより辷りたる
  邂逅のハンカチーフをかがやかす

 
 (2003年12月1日発行・「俳句四季」12月号・株式会社東京四季出版)
by masakokusa | 2007-06-14 16:09 | 『邂逅』書評抄録2 | Comments(0)
『帆船』(須佐薫子主宰)◇句集紹介    堀内康男
 
 句集 『邂逅』    

 草深昌子著昭和十八年大阪市生まれ。同五三年「雲母」入会、同六十年「鹿火屋」入会。同六三年新人賞受賞、同人。平成五年句集『青葡萄』上梓。同七年鹿火屋奨励賞受賞。同十一年「鹿火屋」退会。同十二年「晨」「ににん」同人参加。俳人協会会員。岸本尚毅氏は栞で「この句集は、総じて言葉に対する制御が行き屈いている。俳句に必要なのは感動でも叙情でもない。一つ一つの言葉がその一句に対してどのような影響を与えるか、言葉と言葉がどのような相互作用を持つか、といったあたりの微妙な匙加滅が句作の本質ではなかろうか」と述べる。三二五句を収録。

  セーターの黒の魔術にかかりけり
  花散るや何遍見ても蔵王堂
  ぼうたんに非のうちどころ無くはなし
  ピーマンもトマトも赤く星逢ふ夜
  マフラーの遠心力に捲かれたる
  子規の忌の雨号泣す大笑す


 発行所 ふらんす堂 二四〇〇円税別

f0118324_0411612.jpg

by masakokusa | 2007-06-14 16:05 | 『邂逅』書評抄録2 | Comments(0)
『山暦』(青柳志解樹主宰)・ 書評

 草深昌子句集 『邂逅』

 『青葡萄」に継ぐ著者の第、一句集である。
 栞・岸本尚毅

  おしなべて秋草あかきあはれかな

 もともとは叙情的な作家と思われるが、辛抱しながら俳句に忠実ならんとしている、その結果、表現に抑えの効いた佳句が生まれる。   ――栞より

  青田風とは絶えまなく入れ替はる
  落柿舎の円座に臀(ゐしき)あましたる
  ピーマンもトマトも赤く星逢ふ夜
  みどり子に宛てて文書く良夜かな
  子規の忌の雨号泣す大笑す
  引つ張れば伸びる耳朶露けしや
  まんさくにちよつと老醜ありにけり
  くろぐろと腱毛のあれば春眠し
  花散るや何遍見ても蔵王堂
  ぼうたんに非のうちどころ無くはなし


 平成十一年に主宰と永別後、俳句の写生について考えることは、自分について考えることと気づいた、という。
 一九四三年生。「鹿火屋」同人を経て、「晨」同人.「ににん」同人。俳人協会会員。(ふらんす堂刊・二四〇〇円)

(2004年1月1日発行青柳志解樹発行「山暦」1月号p59所収)
by masakokusa | 2007-06-14 16:03 | 『邂逅』書評抄録2 | Comments(0)
『春嶺』(菖蒲あや主宰)・句集拝見   藤井吉道

 草深昌子句集『邂逅』<ふらんす堂刊>

 平成3年から平成14年までの12年間の作品の中から325句をほぼ逆年順に収めた第二句集。
 岸本尚毅氏の「『邂逅』に寄せて」の中に「この句集は総じて言葉に対する制御が行き届いている。極言すれば俳句に必要なのは館動でも叙情でもない。一つ一つの言葉がその一句に対してどのような影響を与えるか、言葉と言葉がどのような相互作用を持つか、といったあたりの微妙な匙加減が、じつは句作りの本質なのではなかろうか。」とある。

  数珠玉を水切るやうに振つてをり
  ぼうたんに非のうちどころ無くはなし
  青田風とは絶え間なく入れ替はる
  大勢を振り向かせたる熊手かな
  寒禽の日暮はじっとしてをれぬ
  セーターの黒の魔術にかかりけり
  如何しても蟻の力を借りぬ蟻
  さはさはと七夕竹の運ばるる
  風生も虚子もあきらも夜半の春
  秋思とは耳を大きく飾りたる
  魚河岸や肥やし袋に茄子咲いて


   (2004年5月1日発行 「春嶺」2004年5月号 p82 所収)
by masakokusa | 2007-06-14 15:59 | 『邂逅』書評抄録2 | Comments(0)
『萌』(三田きえ子主宰)・句集からの今月の俳句     平沢陽子

  邂逅のハンカチーフをかがやかす  草深昌子
 
 岸本尚毅氏が『邂逅』の栞文に「表現に抑えの効いた」事を特筆されておられるが、掲句は思いの丈を表現されていて楽しい。純白の「ハンカチーフ」が輝くかの様に「邂逅」の喜びを手放しに活写された。俳句が沈黙の文芸であることをご承知の上での作品である。思いがけない出会いが、念願の第二句集となり、原裕先生の永訣の悲しみを乗り越えて、自分らしさが集結された事を心より祝福したい。
 (句集『邂逅』平成15年刊)

 (2004年7月1日発行 三田きえ子主宰「萌」2004年7月号 p24 所収)

 (2006年1月17日初刊 平沢陽子著・エッセイ集『月は東に』所収)

f0118324_2143086.jpg
by masakokusa | 2007-06-14 15:54 | 『邂逅』書評抄録2 | Comments(0)
『遠矢』(檜紀代主宰)・新刊俳書紹介   榊原紘子
 草深昌子句集『邂逅』

 昭和18年大阪府生まれ。昭和53年「雲母」入会。昭和60年「鹿火屋」入会。平成12年「晨」同人参加。「ににん」同人参加。現在「晨」同人、「ににん」同人。俳人協会会員。『青葡萄』に次ぐ第二句集。「俳句の写生について考えることは、自分について考えることに他ならないと気付かされました」とあとがきに。写生句の面白さという点で、学ぶことの多い句集である。

  大根は雨に一尺浮き出たる
  寒禽の日暮はじっとしてをれぬ
  大勢を振り向かせたる熊手かな


 滑稽味を湛えた佳句。

  蝌蚪の頭の重し重しと尾の急ぐ
  如何しても蟻の力を借りぬ


 ふらんす堂 2400円+税

 (2004年11月1日発行 檜紀代主宰「遠矢」平成16年11月号 p45所収)
by masakokusa | 2007-06-14 15:51 | 『邂逅』書評抄録2 | Comments(0)
結社誌『雲取』・書評~句集・俳書存問      下条杜志子

草深昌子句集『邂逅』             

 作者は1943年大阪生れ、現在は神奈川県厚木市在住。1978年「雲母」入会、「鹿火屋」を経て、「晨」同人、「ににん」同人である。
 本集は『青葡萄』に次ぐ第二句集であり、平成3年より14年までの作品を逆年順に収めてある。

  さはさはと七夕竹の運ばるる
  鷺草の蜜を吸はせてもらひける
  ちぎらんとすれば蓮に力かな
  後退りまた後退り待宵は


 物静かなしっかりとした言葉で詠まれた句のなかから感覚のある句を抽いてみた。七夕竹は多分目の前を運ばれてゆく。音がして、次いで量感が感じられる。小さなちいさな鷺草の蜜を吸わせていただくとはまた幸せな。蓮をちぎる自分の力を、即ちぎられる蓮の生命力に転化している。待宵の心を「後退り」という行動に置きかえて表現して印象的だ。

  寒晴や白湯にさしたるうす緑
  蟻穴を出づる出会ひの辞儀あまた
  人たれも背中忘れてみる良夜


 寒晴の句の繊細な感性、蟻の句の品のあるユーモア、良夜の句には孤独さとともに、大きな宇宙に抱かれようとする人間の謙虚さもあろう。第三句集が待たれる。

f0118324_12363651.jpg


 (2004年8月1日雲取俳句会発行、「雲取」No.83(通巻131)p6所収)
by masakokusa | 2007-06-14 15:47 | 『邂逅』書評抄録2 | Comments(0)
結社誌『太陽』・書評~詩林逍遥        柴田南海子
   
草深昌子句集『邂逅』     

 神奈川県厚木市在住。氏は、「雲母」「鹿火屋」を経て現在「晨」(大峯あきら主宰)「ににん」(岩淵喜代子代表)の同人として活躍されている。第一句集『青葡萄』以後12年間の作品を納める『邂逅』は第二句集。装画は深海を発光する海月が漂う幻想の世界。海月について漂ってみよう。

  おしなべて秋草あかきあはれかな

 岸本尚毅氏が栞文にこの句を解説されている。
 ―もともとは叙情的な作家と思われるが、辛抱しながら俳句に忠実ならんとしている.その結果、表現に抑えの効いた佳句が生れる。
私はこの解説に深くうなづくことが出来る。草紅葉の哀れを情を込めて、誠に品よく詠い上げられている。

  うぐひすや球体となる吉野山
  花散るや何遍見ても蔵王堂
  正座して吉野の少女霞むかな
  あけたての音あたたかに石鼎忌
  春深し板に張り付く吉野和紙
  山霧や一夜泊りの反古の嵩


 氏は、句仲間と度々吉野を訪れる。吉野の句はこの句集の芯として存在感に満ちている。鶯の玉のような声がこだまする吉野山は球体、宇宙そのもの。花ふぶく蔵王堂、清純な吉野乙女、石鼎旧居の温かさ、和紙の里、柔らかで素朴な美、吟遊詩人達の霧の夜の句会―吉野での氏は至福の状態で詩魂を昇華させ、珠玉の作品群を生む。

  落柿舎の円座に臀あましたる
  火祭や爪の先まで白拍子
  恋文を袂に時代祭かな


 古都京都での作品。的確で典雅、都の息づきが句に寄り添っている。作品の中に古典がゆったり座っている。

  セーターの黒の魔術にかかりけり
  マフラーの遠心力に捲かれたる


 身辺素材の二句、黒のセーターはお洒落で小粋、抜群のコーデイネートカを持つ。成程、これは魔力を持っている証拠。マフラーをぐるぐる巻き木枯の街へ。暖かい!風が吹けば吹くほど暖かい!そう遠心力が暖めてくれているのだ。「遠心力」なかなか出てこない語である。

  沖へ出てなほ沖見たし西行忌
  初つばめ一度光に消えしより
  邂逅のハンカチーフをかがやかす
  燕来るおほき空気の玉ころび
  手鞠麩を買ふや時雨のはなやぎに


 「俳句の写生について考えることは、自分について考えることに他ならない・・・」複眼で写生したかのような氏の多面多彩な作品の芯はしっとりした叙情であろう。
 上質のブランデイを口に含みその豊潤な香を心ゆくまで愉しむーそんな読後感に私は今満たされている。俳句にかかわっている人生に感謝しつつしばらく余韻に浸りたい。

f0118324_14433110.jpg


 (2004年12月1日太陽俳句会発行「太陽」通巻31号p26~27所収)
by masakokusa | 2007-06-14 15:43 | 『邂逅』書評抄録2 | Comments(0)