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思索の人        草深昌子

 小林実美氏が、「新聞記者、編集者として修羅場の三八年でした」と、眩かれたのは昨年九月に退職された直後のことである。初めてお会いしてから八年、いつお会いしても、はにかんだようなさわやかな笑顔を見せてこられた。別の横顔を見たのはこの時だけである。
 厚木句会では開口一番、「今朝二時までの仕事で寝ていないので、頭がもうろうとしています。選句には自信がないのですが……」と、言われる。ところが睡眠不足に耐えて、句会への備えは万全である。会員一人一人への目配り気配りの周到さが、懇切な選評のなかでおのずと知れるのである。
 厚木句会には高齢の方が多い。そして、様様の分野でのエキスパートが多い。実美氏はそうした方々のひたむきな俳句への姿勢に搏たれている。その執念の尊さに共鳴して選ばれた句々から、私もまたどれだけ励まされ教えられたか計りしれない。初学の破天荒な私の句も、「天真爛漫の昌子さんらしい」と、よく拾ってくださった。美辞麗句を並べる方ではないが、人を認めてくださる、こころ根のあたたかな方である。句会のだれもが絶大の信頼を寄せる所以である。
 <俳句は下手が良い>という実美氏の持論は示唆に富むが、その言葉の裏に<文芸としての俳句>が意識されていないはずはない。実美氏は、民芸の父といわれる柳宗悦に傾倒しておられる。生活用具の中に芸術性を見出し、芸術のための芸術は認めないという宗悦の主張は、そのまま実美氏の主張につながっている。つまり技巧だけの句、作り手のにおいのしない句は認めないという確信である。

  臘八会帰途立寄りし銀座かな   実 美
  朝顔市法被に大輪咲かせをり
  自販機の音しきりなる十三夜

 
 一句目、「思索は行動なり」と言っているようである。実際、実美氏は忙しい日常にあって、思索して止まない人である。道元に心酔して座禅を組むかと思えば、職場につながる銀座に魅せられる。山登りが好きで、その経験も深い。一方で、祭りが好きで浅草へ足繁く通われる。人間と自然に対する興味が、実にバランスよく保たれているのである。
 進取の精神に富みながら、古風を愛する実美氏の体臭は、東京の下町情緒そのものと言えるのではないだろうか。
 ところで私はこんな実美俳句に魅かれる。

  頭陀僧の肩に七星てんと虫   実 美
  噴水の巨花に近づく揚羽蝶

 
 童子のような愛らしさ、清潔感にあふれていて、とても修羅場に身を置いた方とは思えないのである。いや、だからこそ、純なるものを求めつづけずにはおれなかったのかもしれない。実美氏にとって俳句は、激務の中で自分自身を見失わないために、四十年間肌身離さず持ちつづけなければならないものであったのだろう。私は、その実美俳句の真実に畏敬と思慕を寄る。
 この小稿を書かせていただくにあたって、私は生意気にも、「実美さんは、いまどういう俳句を考えられていますか」と、電話でお尋ねした。すると一呼吸おいて、「模索中です」と、答えられた。句作四十年にしての、この真摯な答えに私は弾かれたような思いがした。そして、実美俳句の新たなる道への期待に胸がふくらんだ。

  
 (「鹿火屋」1993年2月号 所収)
by masakokusa | 2007-06-11 14:38 | エッセー1 | Comments(0)
○春夏秋冬帖⑫     年流る    草深昌子
 
 「一年て早いわね」「齢をとった証拠よ」さらに「どうして若いうちの一年は長くて、齢をとってからの一年は短いのかしら」と、だれかれに眩いてみても「欲が深くなって、やりたいことが多すぎるからよ」とか「こんなはずじゃなかったという思いが強いんじゃないの」とか、にべもない答えが返ってくる。
 こんな会話は、カレンダーが残り一枚きりになると、日常のそこここで交されているにちがいない。そんな何気ない会話の中に、人それぞれの深い感慨がこめられているのだろう。
 人生の時間を渦巻にたとえた話を読んだことがある――渦巻は、はじめ水の面にゆるやかに大きな円を描き、やがて深みへと掘り込みながら、水中の一点に向かって鋭く突き進むと見る問に、渦の輪はたちまち崩れて消滅するーー人間の晩年へ向かう状態は、幅狭く、速度は速いということのようだ。
 無常迅速か、などと思いつつ、相模川のほとりの日蓮ゆかりの寺へ出かけた。今年の吟行納めになるかもと道を急いだが、たちまち大渋滞にまき込まれた。相模川に架かる昭和橋の架け替え工事のためだという。.堅牢な橋もわずか六十数年で解体されるのである。新しい橋の名は、平成橋だろうか。

 寺の脇に、樹齢八百年の夫婦銀杏が、黄金の葉をもういくばくも残さずに、並び立っている。日蓮の生きた世からずっとここに立ち続けている樹。なんだかかわいそうになってくる。樹を仰いでいると、よく晴れた空まであわれに思えてきた。樹は樹であり続けなければならない。空もそうである。樹と空から見れば、点にもならない、百歳にも満たない人間の命の方が、むしろあわれは薄いのではないかと思えてくる。
 私も人なみに、元旦には一年の計を立てる。しかし桜分咲くころにはすっかり忘れてしまっている。去りゆく年を惜しみつつ、来る年こそはと心を改める。そんな繰り返しのうちに、やがて知命を迎えようとしている。
 この数年に私は、原石鼎生誕百年を偲び、奥の細道三百年を思い出羽三山、山寺を訪れた。そしてモーツァルト没後二百年の楽の音に身をゆだねた。偲ぶ心に人のこころはよみがえる。歌い継ぎ、語り伝えして人は旅を続ける。無常迅速の世にあって、このことが人の生きる大きな力になると信じたい。
 先ごろ、私はある人から、「藤村の詩・・・昨日またかくてありけり/今日もまたかくてありなむ/この命なにを齷齪/明日をのみ思ひわづらふ・・・あなたは“この俳句なにを齷齪”だ。俳句が懐に飛び込んでくるという境地にならなければ」と、指摘された。
 深くうなずく思いがした。でも私は、私の歩幅で歩み続けるよりほかにない。拙い足どりを励まして下さるさまざまの声を胸に抱きながら……そのことを私の喜びとしたい。

 そんな私の旅の一里塚は、十二月に一つずつあるとして、道中の来し方を振り返って見ると、通り過ぎたどの塚も、すぐ手の届くところにあるようだ。
 一里塚は等間隔にあるはずなのに、これから歩み行く旅のそれははるか遠くにあって、なおえんえんと続いているように見える。
 知命を目前にして、水面の渦のたとえがわかりかけたような気がしたが、やはり私には、渦巻の実感は、崩れ消滅するその瞬間までわからないのかもしれない。

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 (「鹿火屋」1992年12月号 所収)
by masakokusa | 2007-06-08 14:31 | エッセー1 | Comments(0)
○春夏秋冬帖⑪    熊手    草深昌子
              
 高張提燈の下をぐぐると、急にうす暗くなって、醤油の焦げるにおいが漂っている。
 季節はずれの台風の接近で、ときおり激しく雨がしぶくというのに、この三の酉のにぎわいはどうだろう。
 裸灯の煌々とした七味屋で、大辛を調合してもらっていると、ふいに背後で、「いよおっ――」と、声が上がった。振り向くと、店の人が総出で手締めをとって、拍子木を打った。そして深々と一礼すると、中からぬぅつとささげもたれた熊手が現れ出でた。
 松竹梅、鶴、亀、大判小判、宝舟、おかめ、なんとまあ、あるだけの福を取り込んで、めでたさもこぼれんばかりの熊手だこと。
 句帖を手に、興味津津の眼を光らせている私にも、店の人は「どうだい!」と、しきりに声をかけてくれる。だけど、ついに、
「さっきから、いったい何を調べてんだい」
 と、怪訝な顔を向けられてしまった。
「へぇっ、酉の市が俳句になるのかねえ……」
 と、笑顔になると主は、「昔は五穀豊饒を祈ったのさ、だから、熊手のおまけにこれをつけてやるのさ」
 と、稲穂の束をゆすって見せてくれた。

 色白の中年の女性が、熊手をためつすがめつ見ていると、半纒の人が、「五万八千円のところを五万!」と、五本の指を広げた。
 ながめていた私の方が、「ええっ」と、思わず高いというような不満の声を洩らしてしまったが、女性は買うことに決めたらしく、黄八丈のような大風呂敷をひろげはじめた。
「奥さん、熊手は包むもんじゃないよ。ピニールかけてあっから雨だって大丈夫さ。こうやって、高々とかかげもっていくのさ」と、店の人が女性の手に熊手を持たせた。
「いよおっーシャシャシャシャシャシャシャシャシャッシャン!」
 それは、通りのだれもが振り向くような、力強くも鮮やかな手締めだった。
女性は、熊手を恥ずかしそうに胸元にひきよせ二歩、三歩進んだところで、砂利に足をとられてよろけてしまった。
 「おや、旦那さん。旦那さんがいるなら、これは旦那さんが持つんだよ」と、店の若い衆が大声で言った。みると、かたわらに、いかにもやさしそうな男性の顔が、ビニールの傘に透けて見えた。奥さんは、頬をかすかに染めて嬰児を抱くように熊手をかかえ直すや、旦那さんがすかさず傘をさしかけて、二人は足早に去って行った。
 <みちのく>それとも<秋田おばこ>などという暖簾をかけて、居酒屋を開いているのだろうか。熊手さん、どうぞお幸せに!
 あっ、またこっちでも売れたらしい。
「いよおっ一」と、しぼり出したあとに、売り手と買い手の喜びが弾けてとんだ。
 今度の熊手さんは、さっきの熊手さんの十分の一くらいのささやかさだけど、この手締めの勢いにはどうやらかわりはないようだ。
 私は小さな祠で浄財を納めると、巫女から熊手をさずけられた。それは、竹の耳かき棒をつなぎ合わせたようなかぼそさだった。
 銀ねずに暮れ初めた空へ、私は思いきり、背のびをして、二度、三度、宙を掻き寄せた。
すると、真紅に彩づいた紅葉が、しずくを伴って、いっせいに舞いおりてきた。
 胸のうちに、小さなよろこびが沸きあがって、いまにも、名句が生まれそうであった。

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(「鹿火屋」1992年11月号 p93 所収)
by masakokusa | 2007-06-08 14:28 | エッセー1 | Comments(0)
○春夏秋冬帖⑩  王寺まで!    草深昌子

 「昌ちゃん、母が倒れて、今、救急車を呼びました。また連絡しますっ」
 姉の緊迫した電話の声がぴんと鼓膜をついた。私は、心臓がさかさまになってしまった。
 早速、近々の約束はすべておことわりすべく、あちこちに電話をかけた。最後に、夫に、今すぐ西下するからと一方的に告げて、電話を切った。折り返し、夫から電話が入った。「家がどこにあって、病院がどこにあるのかわかっているの? わかっていたら病院に直行しなさい。気をつけて」
 子供に言いきかせるような夫の声に、はたと気がついた。そうだ、姉は大阪から奈良へ引っ越したばかりで、まだ行ったことがなかった。私は一体どこへ行けばよいのだろうか。電話の前で、地団駄を踏んでいると、叫ぶようにベルが鳴った。
 「ユウコウカイ病院に着きました。今、検査中です。ここはJR王寺駅の近くです。ユウコウカイのユウは友、コウは糸へんに……」
 現場中継のアナウンサーのような声がした。
「あっ、先生が呼んではるうっ」.
 ガチンと電話は切れた。先生が呼んではるうっ、というのはまぎれもない姉の声だ。
 夢ではない。他人事ではない。
 それからは二階へ上ったり、下りたり、何度行き来しただろうか。何を持って行くべきか、身仕度ができない。わなわなふるえる手で、一冊の文庫本を選って、鞄にしのばせた。

 小田原へ着くと、さてどこ行きの切符を買ったらよいのか分からない。しどろもどろに窓口でやりとりしているうちに、こだま号が発車してしまった。ああっ!髪の毛を逆立てたまま姉の家へ電話を入れると甥が出た。
「ねっねっ、王寺まで、どうやって行けばよいのおっ、名古屋から近鉄?京都からJR?それとも新大阪から地下鉄? あのあの……」
 ものすごく早口で捲し立てた。
「おばちゃん、ちょっと落ち着いて下さいっ。僕の言うことを聞いて下さい!」
 はっとわれにかえった。あの甥が、日頃は宮様のようにおっとりした甥が、毅然と私を制したのだ。前へ前へ気持がつんのめって、人の言葉を闇雲にしていたことに気がついた。
 すると、無性におかしくなった。
「あっはっはっは……うっふっふっふ」
 私はしばらく高笑いがとまらなかった。
「一時から手術が始まります。今すぐ僕も病院へ行きます。病院の電話番号は〇七四…」
すぱっと電話は切れた。私は耳元を包丁で斬られたような気がして、ふるえた。

 それでも私は、ホームで駅弁と缶ビールを買うのを忘れなかった。テレビで見た役者さんは、こんな時、文庫本を入れたり、缶ビールを買ったり、まして、「わっはっは」と笑ったりは、決してしなかった。膝の上に拳を固く握りしめて耐えている……はずだった。
 なのに、、、私はどうかしている。
 京都に着くと、すぐさま近鉄に乗り換えた。宇治川を越え木津川を越えると、見覚えのある大和の山々がなだらかに連なった。
 いつしか私は、事の次第を冷静に受け止めていた。鈴生りの柿が、暮れ際の車窓に一瞬の光彩を放った。母の好きな子規の一句が口を衝いた。王寺は、法隆寺に最寄りの駅だ。
王寺に着くと、私はタクシーに屈みこんだ。
「ユウコウカイ病院まで……」
 雨なのか、涙なのか、駅の灯が、目に滲んだ。

 (「鹿火屋」1992年10月号 p50 所収)
by masakokusa | 2007-06-08 14:25 | エッセー1 | Comments(0)
○春夏秋冬帖⑨    近江の旅    草深昌子

 米原駅で北陸線に乗り換える間は、数分しかなかった。おとといまでぎつくり腰で、全く動けずに寝込んでいた私は不安だった。重い腰をひきずり込むようにして鈍行列車の中にすべり込んだ。セーフだった。
 稔田の風を胸深く吸い込むと、近江の旅に間に合ったよろこびがこみあげてきた。
 同行のTさんとHさんは、そんな私を気遣って、渡岸寺の門前の茶店で、まず一服しようと言って下さった。分厚い一枚板の卓上に置かれたコーヒーは、秋日をあつめて、とびきり熱かった。

 心整えて、十一面観音の前に立った。へっぴり腰の私は、威風堂々たる観音に、縋るように、見つめ入った。
 森厳としたおもざしに、釘付けになっていると、ひしと抱きしめられているような心地になった。十一面のどの面を仰いでも、崇高さにかわりはなかった。うしろへまわると、暴悪大笑面が前歯をかっとむき出しにして迫った。肩から背にかげて、ふっくりもりあがった肉づきは生きた女性のそれのようであった。お腹を少し前に突き出すようにしてからひねった腰は、きゅっと見事にくびれていた。
 その腰の辺に、手触れたい衝動を、やっとのことでおさえていると、観音の体温がのりうつったのだろうか。腰のあたりが、ぽっぽっとしてきた。やがて、しびれていた腰が、じわあっとほぐれてきた。
 桜並木をくぐりぬけてきた風が、うっすらと、観音の裳裾に流れては消えた。
 気がつくとTさんがいない…Tさんは寺の廊を出て、はるかへ視線をあそばせていた。その横顔を見て、「彼も、やっぱりお年ねえ」と、Hさんがくっくっと笑った。Tさんは白髪の長身をこごめ、ややも老いゆける風情で、観音の寺縁にあたためられていた。
 私は俳句の大先輩とご一緒させていただいている旅の緊張が抜けて、いつしかTさんを父のように思い、Hさんを母のように慕っているのだった。それは、観音の大慈大悲の所為に違いなかった。

 いつまでもいたいような渡岸寺をあとに、タクシーで、石道寺に向かった。あどけない村娘のような十一面観音の足下に、真っ赤な野菊の束が、無造作に供えられていた。
 この寺を出たあたりに、ゆるやかな野の起伏があった。その窪の日だまりに、何百とも何千とも知れぬあきあかねが群れ飛んでいた。
 私達は息をのんで立ちつくした。あきあかねの光の奥に、白壁の家がぽつんと見えた。
タクシーの運転手さんが、待ち時間の所在無さに、その家から出てきた老婆と話を交した。なつかしい江州訛りだった。
 近江は、父と母の在所だった。 疎開先の近江で、母は父の戦死報を受けた。
 母は私を背にくくりつけて、井戸へ身を投げようとした。井戸の奥深く、父を呼ぶ母の絶叫が反響した。
 その反響音が、いま、私の鼓膜をふるわせた。……と、思った。それは、あきあかねが乱舞しつつ大音声を発していたのだった。
 ――われにかえると、その大音声は、碧空に反響して、まったくのしじまになっているだけだった。
 運転手さんに、「ほちぼち、行こか」と、呼びかけられた。

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 (鹿火屋)1992年9月号 p103 所収)
by masakokusa | 2007-06-08 14:22 | エッセー1 | Comments(0)
○春夏秋冬帖⑧    幸福    草深昌子

 八月も半ば過ぎ、私は広大な新宿御苑の一隅に幸せな風景を見た。
 鮮やかな真みどりの芝生に、初老の男女が座っていた。一木の影が二人の純白のシャツを紫紺に染め上げていた。
 前方に台湾閣があった。その真正面に腰を据えている画家の後方に、二人は座っていた。男と女の間には、もう一人だれかが座ってもよいようなはざまがあって、そのはざまを絶え間なく風が素通しにくぐりぬけていった。
 二人は一つのお弁当を分かち合っていた。ときおり、男女のどちらともつかない大きな声が弾んだ。かと思うと、女の涙を拭うようなしぐさが見えて、狼狽したかのように、男の動きが不自然に見えた一瞬があった。しかし、すぐに元の静けさにもどった。清流のせせらぎのような女声と、丸木橋を打つ靴音のような男声が、交互に、風に流れては消えた。きらきらと光る会話は、汲んでも汲んでも、汲みつくせないという風であった。

 私は、眼前の台湾閣が画家のこまやかな絵筆でもって、実体よりも明るくみずみずしく描きあげられてい一部始終を見つめていた。二人もまた、画家から目を離さないでいるらしい。それは、充足した時の流れを見据えているという風であった。
 私の直感では、二人は夫婦でないことが知れた。私はその男女の顔をのぞきこんだわけではなかったが、その瞳の澄みと輝きを思わないではいられなかった。
 耐えがたい夏の暑さが衰えてきたことに、一抹の寂しさを覚えていた私は、この二人の間を吹きぬける透明の風のさわやかさを共有することによって、清新な季節の到来の予感になぐさめを得ていた。
 私は二十五年も前に見た『幸福』という映画を思い出していた。よちよち歩きの子を連れて、花のあふれ咲く野原へ若い夫婦はピクニヅクに出かけた。夫は妻のひざまくらで仕事の疲れをいやした。まもなく夫は妻以外の女を好きになった。が、以前と同質同量に妻を愛していた。ある日、夫に女のことを打ち明けられた妻は水死体となって横たわった。時を移して、新しい女と夫と子供は、同じようにピクニックに出かけていた。美しい映象のうしろに、モーツァルトの音楽が甘くてはかなくて、残酷な、幸福をうたっていた。
 美しい風景の中にいることの他に、幸せとは、こういうものですよと、さし示すことはできないものらしい。

 私の見ている二人もまた、今われここにありということのほかに、何か示そうとするものは何もなかった。しかし二人は、私を、恋を知りそめた遠い昔にまでひきもどしたかと思うと、まだ知らない人生の果て近きところまでさそいこんだりした。
 自転車で見回りに来た人に「閉園ですよ」と、うながされると、二人ははじかれたように立ちあがった。二人はあたりを見回した。画布をあまさず塗りあげた画家も、子供連れの一家も、も早だれもいなかった。
 二人は、自然の中で、自然と一体となっていた。
 幸せは誇示するものでも、隠蔽するものでもなかった。自然の中で、あるがままにふるまっていた彼らの風景こそが、幸せというものだろうとうらやましかった。
 そのひとときの幸せの空間から、出口へ向かって歩いて行く二人の頭上に、短い命をふりしぼるように、いっせいに蝉が鳴いた。

 (「鹿火屋」1992年8月号所収)
by masakokusa | 2007-06-08 14:19 | エッセー1 | Comments(0)
○春夏秋冬帖⑦    合宿    草深昌子

 若者のすなる合宿をわれら中年もせんとて企てた。卓球仲間の男女十三名は、三台の車に分乗して意気揚々と富士裾野へ出かけた。
 最年長のKさんが使い慣れないワープロを駆使ならぬ苦使して打ち出された合宿計画表を手にしたときは三十年若返ったような気分がした。ところが、宿泊先名「精力」とあっては、「うむっ、なんだこれ」「まさか旅館に精力はないでしょ」などと、やはりみな口さがない中年なのである。Kさんは、「いやあ、間違いないすよ、電話で聞いたんですけど、強いの弱いのという精力だというんですよ」と顔を赤くしている。
 目的地の体育館でいい汗をしぼりつくして、旅館に着くやいなや、「なあんだ、勢力争いの勢力じゃないか」と、だれかが叫んだ。見ると、看板には「勢力」とあった。温厚なKさんの辞書には強いの弱いのと言われても、勢力はなかったのだろう。しきりに頭をかいているKさんが私にささやいた。「いやあ、これなら伊勢神宮の勢といってほしかったですよ」
 すったもんだの末の「勢力」が、何ともひどい安宿であることに気づくのに一分とかからなかった。玄関から目をそむけたくなるような乱雑さだった。部屋に案内されると、ふとんがずらりと並べられていて、いつでも寝られる状態にしてあった。同時に夕食もすでに並べつくされていた。浴室には、洗濯機のホースがひかれていて、どっと排水が流れこんでくる始末だった。それでも、ようやく汗を流して冷たいビールを一気に飲み干すと生気をとりもどした。それぞれの日常から解放され、一つ心にグラスを傾けあうのは、何よりも嬉しいことだ。

 聞けば、ここは土木建築労働者の常宿になっているとかで女性客は珍しいという。夜更けてもふとんの黴臭さにいっこうに寝つけないでいると、隣の部屋の会話が洩れてくる。「おいらの会社はよお、世界一小さい会社でよお」「そうさ、ありんこみたいなものさ。明日のことなど知らねえさ」 その声はやけっぱちでもなく、しみじみというのでもなかった。さらりとしたものだった。 
 翌朝、私の枕元にある手洗いが門前市をなした。頭から滝をかぶるようで、おちおち寝てもいられない。理由はすぐに知れた。二階の手洗いが汚物に塗りつぶされて惨憺たる有り様であったからだ。それは、この宿の痴呆症の老婆の粗相であったという。
逃げるように宿を立ち去った私達は一路、箱根へ車を向けた。が、一人が急なさしこみで、三度までゆきずりの民家に手洗いをお借りする羽目になった。狭い道路に、次々と三台の臨時停車はたちまち渋滞をひきおこしてはひんしゅくをかった。私達は車の中で申し訳なさに身をこごめるばかりであった。
 芦ノ湖にたどり着いたのは夕ぐれだった。遊覧船に乗り込むと、ぐったりとして、われら十三名は一斉にまさしく文字どおり、船中にて舟を漕ぎはじめた。かたわらでたわむれる若者の声が、やけに、明るかった。
 私達はあらためて、<ままならぬのが人生だ>と思い知らされて、合宿の成果としたことだった。

(「鹿火屋」 1992年7月号 p50所収)
by masakokusa | 2007-06-08 14:17 | エッセー1 | Comments(0)
○春夏秋冬帖⑥    私って何?    草深昌子

 宮沢りえが、「私って一体何なのかなあって、なぞなぞなの。私が私のことわかんないの。だから見ている人も、きっと私のことわかんないと思うの」と画面の中で、いたずらっぼく大きな瞳をまわした。私は、「そうそうそうよね。私もよ」と相鎚を打って、あとで苦笑した。りえちゃんだからこのセリフはかわいいのであって、五十歳になんなんとするおばさんがそんなこと言ったら、「人間やめちまえ」なんて、野次が飛んできそうだ。

 昨日、ある俳人の随筆集を読み終えた私は「はーあっ」と感嘆とも溜め息ともつかない声を洩らした。<やっぱり違うなあ>という思いと<それにしても私は何と才なく貧しいのだろう>という思いで、夕食の仕度をするのも億劫になるほど打ちのめされてしまった。
 所詮、比べる方が間違っているということぐらい百も承知なのだが……。
 今日、私は別の作家のエッセイ集を読んだ。青梅に亡き人をしのんだり、途中で涙がにじできたりした。気のきいたことばや泣かせどころがあったわけでもなかったのにと不思議だった。充足して私は紅茶を淹れた。その熱い湯気を吸い寄せていると、何だか私にもこんな文章なら書けそうな気がしてきた。
 大きな錯覚の中で、私はすっかり元気づけられて、何とも晴れやかな気分になってきた。
昨日とは打って変わったかわりようだ。そこでりえちゃんが映ったから、「同感!」と言ってしまったのだ。

 句会でも同じようなことがある。「これが見えぬか」と印籠をつき出されたような句に出会うことがある。「まいった」と引き下がるほかない。かと思えば、「ひょっと肩をたたかれてふり向いたら、そこになつかしい笑顔があった」というような句に出会うこともある。私はおどろきと嬉しさに小躍りする。そして、こんな句なら私にも作れそうだなとファイトをかきたたせられる。そんな句は、一服のドリンク剤にもまさるのだ。
 夫に、「女らしくない」といわれて、私は「あなたのせいでしょう」ということばを飲み下した日のことを思い出した。人にうつし出されて私は私であることができる。つまり、人はひとりでは何者でもなくて、きわめて相対的なものではないだろうか。だから、会えば元気の出る人に会いたいし、会えば元気の出る本に会いたいし、会えば元気の出る俳句に会いたい。

 ところで、私がさっき読んだ文章の感動はどこからくるのだろうかと考えた。
そして、文章の丈は作者の心の丈と同じであることに気がついた。私が打たれたのは、文章のうまさでなく、作者の心の丈の高さ、つまり作者のやさしさに打たれたのだった。
 人に元気を与えられる人は、何よりやさしくなければならない。そして、これなら書けそうだなと思わせる文章、これなら作れそうだなと思わせる俳句は、ことばが平明である分、こころが磨かれていなければならない。
 薄情な私にとって、最も難しい課題である。
 ともあれ、私って何?という答えを引き出すために、かがやく人に会いたい。心打つことばに会いたい。
 相対的な私にとって、天候もまた例外ではない。今は、何より梅雨空でなくて、ぱあーつと明るい青空に会いたい。

 (「鹿火屋」 19992年6月号 p95所収)

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by masakokusa | 2007-06-08 14:13 | エッセー1 | Comments(0)
○春夏秋冬帖⑤    五月はいやな月なり    草深昌子

 溌刺と爽快な五月の到来を喜ばない人は、あまりいないだろう。ところが、「五月はいやな月なり」と子規が記したのを知ったとき、私は思わず快哉を叫んだ。どういうわけか、私にとって五月はぎつくり腰やめまいの起こりやすい、いやな月だったからである。
 先日も、案の定、ぎつくり腰を起こして、たちまち「病床六尺」の世界に入りこんでしまった。
「しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない」。ちなみに、この「病床六尺」が初めて掲載されたのは明治三十五年五月五日であった。

 仰むけのまま「仰臥漫録」を読んでいると、体はもとより心まで子規になりきってしまう。「朝、ぬく飯二椀」とあると、そのぬく飯の湯気に鼻をうごめかしてみたり、「昼、鰹のさしみに蝿の卵あり、それがため半分ほどくふ」とあり、ぎょっとしたりする。でも、子規の食欲にはおどろくまい。もし私が日常、食べているものをこんな風に羅列したら、私のことを「小錦」同然にイメージされることはまぬがれないであろうし、病人が少食であらねばならない道理もないのである。
 私はやがて、「イタイイタイ」とお題目を千万遍唱えながらも、食べんがために冷蔵庫の前まで何としても這いつくばって行こうとする。俳人子規の心地もとうに覚めて、まぎれない這い人になりきってしまうのである。
 こんなとき、母や妹に三度三度、こまごまと枕頭に食事を運んでもらえた子規の幸せを思う。死んでもおかしくない病状を一年以上も延命できたのは、この真心のこもった滋養が子規の一身にしみわたったからに違いない。
 いま私に活を入れてくれる随筆がこの一年のうちに生まれたことを思うと、私は母堂と妹君にお疲れさまでした、ありがとうございました、と頭を下げたい思いにかられる。

 子規の死に至る数年は、死と共存の生であった。事実、死の直前の肉体は死んでいた。にもかかわらず、子規は生きてことばを発した。第一声の産声でもっておのがいのちを呼びさませて以来、人はおのれの言葉によってはげまされる。子規は死ぬまでおのれの言葉でおのれを発奮させつづけた。子規は病者ではあったが、弱者ではなかった。
 最期の子規は、浮腫のひどい膝を立てていた。少しでも動くと大叫喚がはじまる。虚子が妹に代わってその足を支えようとしたとき子規は「臭いぞな」と、虚子に注意を促した。大小便をとることも自由でなかったので臭気が激しかったのである。虚子はちぎれそうに手が痛くなるのをがまんして微動だにしないようにした。そのとき子規は、「脇の修行が出来るな」と言った。臨終の床にあっても、子規は虚子の師であり得た。
 「たまらんたまらんどうしょう」と自殺熱にとりつかれて逆上したのちにも、「突飛な御馳走も食ふて見たくなる」と記す。ここに至って私は泣けてくる。いや、笑えてくるのである。<生きることのおかしみ>を痛切に味わうことになる。
 子規の一生は、徹底して俳人であった。それは死ぬまで「生きた」こと、そして死ぬまで「童子」であったことで知れる。

 いやな月の……五月の……太陽は眩しい。

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 (「鹿火屋」1992年5月号所収)
by masakokusa | 2007-06-01 16:39 | エッセー1 | Comments(0)
○春夏秋冬帖④    老桜    草深昌子

 明け方にひとしきり降った雨が止んで、靄がかかった。肌寒い大気はどこやらが暗くてどこやらが明るい。小さな駅は花見客でごった返した。身を捻ってその細い改札を通り抜けたとき、しだれ桜の名木に会うはしゃぎがふっと翳った。黙りこくって人のうしろにつきしたがった。
人の列がくずれたと思った瞬間に大しだれ桜の全貌が目に入った。あっと声を洩らした私は華麗なる大絵巻を眼前にした思いに立ちすくんだ。やがて、一瞬の香気が走って我にかえった。それはひそやかな大樹の息づかいであった。私は体から力が抜けてゆくような思いがした。

 枝という枝はのこらず淡い小さな花を満載してしだれていた。涙のような花のしずくが地にしたたるようであったが、地に触れんばかりのところでいやいやするように揺れた。時おり、天上へ花びらが舞い上がった。舞い上がった花びらは雲のように流れて飛花となり、水のようにこぼれて落花となった。老桜は時にさめざめと小声で泣いたかと思えば、時に呵呵と笑って花びらを吹きこぼしたが、それは長い時間のほんの一刻にしかすぎなかった。大方は花々を抱きとめてしずかにも立ちつくしていた。
 樹の下を一周したあと、少し坂をのぼって高みから一望した。うす紫の雲の切れ目から青空がのぞいた。そうすると桜はいっそう色白くなった。さっき樹の下でつめたいと感じた風は人肌のぬくみにかわった。
 樹齢三百年という樹幹は、少しも威圧感がなかった。いくつもの細いこよりを縄なってよじり合わせたかのような繊維な強さを感じさせた。左右に張り出した太枝は虹のような弧を描いてからしだれた。
 突然、ベレー帽をかぶった一人の女性が現われて根方に立った。真っ赤なセーターにキュロットスカート、首にくるくると巻いた花柄のスカーフをなびかせた女性は私の方を向いて手を振った。私の肩ごしにシャッターを切る音がした。その女性がにこやかな笑みをつくったとき、目元口元にどっと深い皺が走るのを見た。笑みをつくった後の.真顔が寂しかった。かなりの高齢に違いない女性の顔を、日の顔が照らしたり翳らせたりした。私はそのたびに美しいと思った。花も人も同じ舞台に立っていた。このキュートな老婆は花びらに同化した。花も人もこの世のいとしいものとして共存している刹那の幸せを思わずにはいられなかった。

 花を見る間にも、刻々日も風も雲も移ろうていったが、私もまた移ろうものの中にいて、気づかずに移ろわせているまなざしやこころばえのことを思った。さっきまで思っていたことを思い出そうともしないで、いままた、違う思いにたち、つぎに来る思いの予感もなく、こころはまたつぎの思いへするりと移っていく。そんな絶え間ない連続がいつから続いて、いつまで続いていくのかしら。
 しばらく小径を歩んで去り難い思いで振り返ったら、さっき見た桜のおもかげはなく、うっすらと白い一刷けの色の帯となって見えた。とりのこされた桜の声は、もはや私の耳にとどかない。頭上をかん高く鳥が啼いて過ぎた。雨上がりの光が無数の木々の新芽にきらめいた。しだれ桜の淡いため息を身のうちに溜めこんでいた私は、小さなあくびをしてそれらの光の中へ放った。

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 (鹿火屋 1992年4月号所収)
by masakokusa | 2007-06-01 16:36 | エッセー1 | Comments(0)