カテゴリ:秀句月旦(1)( 20 )
秀句月旦・平成20年12月                草深昌子
 
   葉はとびて蔓ののこりし御講凪    柏村貞子

 親鸞忌(陰暦11月28日)を前後に、親鸞聖人の遺徳をしのんで報恩講が行われる。この御講の頃は、おだやかな冬日和が続く。日差しの中に、葉っぱは北風に吹きとんで、蔓は尚りゅうりゅうと伸びている。明日に花を咲かす草木の自然の姿そのままである。
 親鸞聖人は「弟子一人ももたず」であった。「なぜなら自分の努力で他人に念仏をさせたというのであれば、その人はわが弟子であるということもできましょうが、そうでなく阿弥陀如来のお蔭で念仏している人を自分の弟子というなどははなはだ不遠慮のことです」と。
 作者はだてに御講凪を据えたのではない。個人のはからいを越えた自然の道理をありがたいと思うこと、すべての人は宇宙(自然)から教えられているという親鸞の心を常日頃から素直に受けとめておられたのであろう。


   桜の木ひかりそめたり十二月    加藤喜代子

 ここ数年、12月が来ると口ずさまれる句である。「ゆう」が創刊されたばかりの頃の作品であるが、田中裕明主宰は選評でこう述べている。「この句などは上質のポエジーが感じられます。あらためて俳句における詩情とは何かを考えました。雰囲気や感情に流れるのではなく、季語が広げる世界を具体的に描き出すこと」。
 「ゆう」終刊号のおしまいの頁にはこんな言葉が。
 <思はざる道に出でけり年の暮  裕明>を素十の句の形に似ているところから句集に入れなかったが、その素十の、<真直ぐな道に出でけり秋の暮 素十>という作品は、<この道や行く人なしに秋の暮 芭蕉>の本歌取りだという仁平勝の「秋の暮論」に驚かされたこと、王朝和歌から現代俳句に続く連綿たる系譜を述べた評論を讃えて、「読んでいて気持ちがいい。それは、その系譜の末流に自分もまた連なっていることを想像する快感でもあります」と結ばれている。
 とまれ12月、一年の最後の月はかくも透明感にあふれているものか。心洗われるような一句の光りは、かの裕明のくるくるっとした黒目、ほんのり頬を染められた初々しい笑顔そのもののようでもある。4年前の12月30日に永遠へ旅立った裕明はここにもあきらかに生きている。

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   顔見世へ黄檗山のほとりより    波多野爽波

 先日このようなルートで京都を旅したばかり、この句に出会って自分のことを言い当てられたようでびっくりした。自身の体験や思いが他者の俳句を通して現出される喜びは、俳句という文芸の庶民性のたまものである。
 黄檗山は京都宇治市にある黄檗宗の大本山、萬福寺の山号。開山は中国出身の僧隠元、本尊は釈迦如来。黄檗料理(普茶料理)でも有名である。ここでは12月1日から8日までは蠟八接心という不眠不休の坐禅が行われる。 そのような場所から想像されるある種の雰囲気をもって(これは私のような行きずりの旅人ではないだろう)、師走の南座吉例顔見世興行へ足を運んだというのである。その人の面輪は何とも京都らしい、渋みと華やぎをもって感じられる、文化の深さがうかがわれるというものである。さりげなくも味わいのある一句、季節感の美しい一句である。
 ところで、南座には「まねき」が揚がっている。大きな看板には「すき間なく客が入るように」と役者の名は「勘亭流」と呼ばれる独特の丸みのある書体で板の表面いっぱいに書かれていた。その有り様も曰く言い難く黄檗山あるいは隠元和尚に通うところがあるように私には思える。

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   鴨とほく泛けり睫毛に風おぼゆ    西垣脩

 作者は伊東静雄の愛弟子。詩人、俳人、国文学者である。遠くの鴨とわが身の交歓が睫毛に捉えられた繊細な抒情は読者にも気持よく受け止められる。
<海くれて鴨の声ほのかに白し 芭蕉>、<遠干潟沖はしら波鴨の声 鬼貫>、<水底を見てきた顔の小鴨かな 丈草>、<萍に何を喰ふやら池の鴨 嵐雪>等、鴨そのものを描写した俳句の興趣は尽きないが、時にこの句のように作者の皮膚感覚に結び付けて鴨を浮かび上がらせるのも素敵である。その遠近のきいた二者の距離感がそのまま俳句の奥行きになっている。

 12月10日、ストックホルムにてノーベル化学賞を受賞された下村脩(おさむ)さんは、西垣脩(しゅう)より9歳下の高校の同窓である。
 下村さんは、クラゲから緑色の蛍光たんぱく質を発見した。この二者の関係もまた「風おぼゆ」思いである。


   年の瀬やまつげにとまる街の塵     中村真一郎

 中村真一郎は未知の世界との出会いに際して、その感動を「出会いの風景」として俳句に詠んで記録してきた。俳句とエッセーでもって綴った「樹上豚句抄」(平成5年刊行)は限定1000部サイン入りという小さな本であるが、愛読の書である。
 「塵労」という小見出しの文章は、以下のようにはじまる。
 「最初の妻が不意に世を去った後の半年ほどのあいだの心の荒廃と、生活の乱れとは、梶を失って、荒波のなかを漂流する舟のような有り様で、それまで喜びも苦しみも、常に新しい経験として、私の感覚に刺戟をあたえてくれていた人生が、私には妙に灰色の、無感動な、埃くさい、疲れきったものに感じられるようになっていた。
 街でボロを引きずって歩いている浮浪者を見ると、その男の心のなかに、自分が感情移入されて、私自身も世の中に適応できない落ちこぼれの生き方に、いつ失墜して行くかと惧れながら、投げやりの日々を送っていた」
 三十歳代で老人の心境にあった作者を見兼ねて、中学の先輩で、文学座の俳優中村伸郎が年末の句会に誘ってくれたという。そこには文壇の大先輩、久保田万太郎先生がどっしり坐っていて、参ってしまった。
 そこで一句、「年の瀬」が詠われたというものである。


   腰ぬけの妻うつくしき炬燵かな    与謝野蕪村

 「腰抜け」とは、腰が抜けて立つことのできないこと、臆病なこと意気地のないこと、という二つの意味がある。
 ここは、実際に腰の立たない妻でなければ「うつくしき」が生きてこないだろう。虚子に、この句を評して蕪村に、「醜いものを捉えてこれを美化する大技量を見る」という発言があることを知ったが、妻を美化するというよりは「炬燵」なるものを大いに重宝している句ではある。
 腰ぬけの妻を動かしがたく据えて、一家の中心に納まった冬の炬燵はどこまでもあたたかく、ありがたい。炭か炭団か赤い火の色の美しさがしのばれる。
 高橋治の著書「蕪村春秋」によると、萩原朔太郎が面白いことを書いている、という。
 蕪村の俳句は総て魂の故郷を求めるものであり、母の懐を恋い慕い、暖かな火が燃える炉辺に惹かれる。芭蕉は「漂白の詩人」であり、蕪村は炬燵にもぐりこむ「炉辺の詩人」であったと。

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   仏壇の菓子うつくしき冬至哉      正岡子規

 冬至は二十四節気の一。北半球では太陽の高度は最も低く、昼が最も短い。寒さはいよいよ厳しくなってくるのだが、冬至のことを「一陽来復」と称されるが如く、陰がきわまって陽がかえってくるということ、つまり、この日を境に日が長くなってくることが心の底に意識されるものである。そんな冬至の日の仏壇にふと目を遣ると、そこには色鮮やかなお菓子が供えられていたというのである。
 「菓子うつくしき」は事実であると同時に、冬至の季節感が心象的にも「うつくしく」感じられるものである。
 私事だが、戦没した父の祥月命日はほぼ毎年、冬至の日にあたる。仏壇と冬至の結びつきがありがたく肯えて「うつくしき」にはこころ慰められるものがある。

 子規は蕪村を徹底して賞揚し、その評論でもって近代俳句界における蕪村の評価は定まった。
前掲の「腰ぬけの妻うつくしき」蕪村は、「仏壇の菓子うつくしき」子規に生きている。

   風雲の少しく遊ぶ冬至かな      石田波郷

 風雲とは風と雲、自然のことであるが、風雲急を告げる、風雲児、風雲の志など、ときに勢いのある印象をもたらす言葉ではある。冬至の今日12月21日の気象はまさに「風雲の少しく遊ぶ」というものであった。青空に真っ白な雲と真っ黒な雲が二分にしてあらわれたかと思うといきなり突風が南の方から吹き付けたりした。大歳時記にこれを見つけた時、風雲という象徴的な語句の深さなど全く吹き払われて、「そう、その通り」と感嘆させられた。
 確かなる俳句は、ある日、ある時、ある人に、寸分違わず実感されるものである。

 石田波郷のあとを継いだ「泉」の綾部仁喜主宰の著書『山王林だより』が先ごろ刊行された。人工呼吸器に繋がれて病院生活を送っておられる氏の評論は、「韻文精神徹底」をいっそう追求されて大人の風格が漂っている。
 <ほしいまま旅したまひき西行忌 波郷>に触れて、「 ― 波郷の口惜しさが、腸を絞るような生まの声として聞こえる思いがするのである。そして烏滸がましくも、この句が本当に味わえるのは自分一人だという思いにもなるのである。俳句作品と読者との間には、しばしばこういう関係があると思う。俳句の不思議さ、面白さである。」と述べている。


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   降誕祭シンバルを打つ玩具買ふ      瀧澤 和治

 今どきあまり見かけなくなったが、ネジを巻くと両手のシンバルを打ち鳴らす猿の玩具であろうか。ひやかしに立ち止まって興じることはあっても、やがては行過ぎてしまう、どうってことのないおもちゃである。だが、今宵ついに掌中にしたのである。一句は一読して面白い。それだけで俳句は充分である。
 だが、と思う。神聖なる夜にあって、少々不真面目ではないか。シンバルはそれ自体の振動によって鳴っている、猿は表情一つ変えないでどこまでもひた打ち鳴らす、その摩訶不思議なる世界に引きずり込まれたのは何であったのだろうか。あるべきものはあるべきままにあることのありがたさ、作者は手を合わせて祈る代わりに玩具を手にしたに違いない。
 降誕祭であることが無意識に後押しした瞬時の作用を俳人は見落とさなかった。表面はさりげないが深いところまでもの思われる句である。読者それぞれに思い当たるものがあるのではないだろうか。昔読んだ小説のこと、愛し合ったこと、音楽のこと、信じること、次々と連想をもたらすふとしたことのなつかしさ。
 それでいて最後にはやっぱり、家にはクリスマスプレゼントを待っている子供たちがいるのだろう、ただそれだけのことでいいのだとほほ笑む。
 今生きて一つ物を買う、心を寄せることの幸せ、浮かれない自身を見つめる静けさがここには漂っている。
 クリスマスと言わずして降誕祭と言ったところに、作者の知的な含羞がうかがわれる。
 

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   漱石が来て虚子が来て大三十日      正岡子規

 明治28年、28歳の作。この年、子規は従軍からの帰途喀血、一時は重篤となったが回復し、8月末には郷里松山へ帰って、夏目漱石のもとに52日を寄寓した。漱石も加わって毎日のように句会をしたという。<愚陀仏は主人の名なり冬籠 愚陀仏>、愚陀仏は漱石の俳号である。その後子規は奈良を旅して、<柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 子規>を残した。また、12月には、道灌山で虚子に文学上の後事を託したしたものの断られるという子規にとって涙にくれる出来事があった。
 漱石は、12月28日に上京しお見合い、婚約をしている。そのことを子規に報告に来たのだろう。漱石は子規のことを「彼は僕などより早熟で、いやに哲学などを振り廻すものだから、僕などは恐れを為していた」と語っているが、二人はウマがあって、学生時代からの親友であった。
 こんな背景のある、明治28年の大晦日を子規は眼前のままに詠いあげた。当時の子規の心情が推し量られるものである。
 だが今日我々が掲句を読む時、漱石、虚子、子規という歴史に残る偉大な文学者が膝を突き合わせた印象をそこに重さねて、大晦日という一年最後の一日が何ともどっしりと重しがきいて、豊かに締めくくられることを喜ぶのである。
 先見の明、おそるべき一句である。


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   除夜の鐘このとき見たる星の数     原 石鼎

 大晦日の12時、近くの氏神さまにお参りします。そして一人に一打ずつ除夜の鐘を撞かせていただきます。除夜の鐘とともに今年一年が終わります。
 石鼎の「このとき見たる星の数」は、今、私(草深昌子のブログ)の「このとき見たる星の数」そのものとなってきらめきます。満天の星のもと、感謝の気持ちでいっぱいです。
 多くの皆さまのおかげで、拙くもここまで足取りを運ぶことができました。本当に有難うございました、心よりお礼申しあげます。また来年もご叱正いただけますように。

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by masakokusa | 2008-12-01 00:43 | 秀句月旦(1) | Comments(0)
秀句月旦・平成20年11月                草深昌子
  
   冬近く今年は髭を蓄へし     正岡子規

 明治33年作。同年にもう一句、<冬近し今年は髭を蓄へし>と終止形もある。
私には「冬近し」とずばり言いきって、しばらく間合いをもって「今年は」と続く方が好ましい。また「近し」「蓄へし」と「し」のたたみかけもしみじみする。だが、この「し」の連なりは強すぎてゆったり読ませないというきらいもあり、「冬近く」の連用形の方が子規の表情をよく窺わせるかもしれない、大方は掲句を採用している。
 子規は鬚髯を蓄えることについて「剃るの面倒はなけれど掃除の面倒あり 寒き時は鼻水したたり 熱き時は口のはたむさくろし 飯を食ふ時汚れ易きの心配あり 湯に浴する時は甚だ邪魔ものとなる」と学生時代は否定的であったが、この年はもう病状も募っておのづから無精になって髭が伸びたのであろう。だが俳句を読むかぎりでは、進んで鬚を蓄えようとしている口ぶりでもって冬を迎える心の引き締めを表している。
 かくして口鬚は子規のトレードマークとなった。
 ちなみに、明治32年の蕪村忌は会者46人、庭前で記念撮影におさまった子規は隣の鳴雪とともにすでに清浄なる髭を見せている。


   帰るのはそこ晩秋の大きな木     坪内稔典

 坪内捻典といえば<三月の甘納豆のうふふふふ>が有名。この句ふとした思いつきながら狙いはあったという。つまり正岡子規が柿と奈良を取り合わせた句がないことに気付いて<柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺>を作ったことを見習って、それまでにはなかった甘納豆を俳句にとりいれたのだという。
 かにかく、俳人ネンテンは正岡子規のことなら自身のことよりよく知っている。
 その著、『柿喰ふ子規の俳句作法』のなかで、子規のリアリズムについて述べ、作家司馬遼太郎はまぎれもなく子規の系譜を引く人であるとして、司馬の語った言葉をひいている。
 「言語というものは基本的に魅力のあるものなんです。お母さんの言語を聞いて人は大きくなりますから、人は言語が好きで仕方がないはずなんです」
 で、掲句は、口ずさむだけでほっとする。晩秋がずしんと胸に響いてすこぶるなつかしい。
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    叙勲の名一眺めして文化の日     深見けん二

 誰しもが思い当たる文化の日のひとこま。文化の日とは何ぞや等と象徴的なフレーズをつけたりしないで、さりげなく秋晴れの朝のくつろぎを思わせるあたり、作者ならではの風格が滲み出ている。
 作者の師である高濱虚子は俳人でただ一人、昭和29年に文化勲章を受章した。虚子はその気持ちを、<我のみの菊日和とはゆめ思はじ>と句に残している。
 かつては「明治節」であったこと等もあわせて、大正生まれの氏にとって、時代は大きく移り変わったものと思われるであろう。それやこれやしのばれるのも掲句のもたらす余韻である。
 さらに、次の一句も味わいたい。
 <ゆるむことなき秋晴の一日かな  けん二>

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   銃口や猪一茎の草による      原石鼎

 つつぐちやししいっけいのくさによる、と読む。リズムがすでに緊迫している。
 追い詰められて今し弾丸が命中せんとする間一髪、藁をも掴む猪のあわれさがどこかおかしい。猪は人間の畑を食い荒らす大敵ながら「草による」という死の間際に見せたはかなさ、その恐怖のありようを誰が嘲笑うことができるであろうか。そこには猪になりかわったような石鼎の命が息づいている。
 金科玉条にしている石鼎の言葉がある。
 「心持を出来るだけ低めて、即ち親しみて物を見る。その時、きっと見られる方のものに一種の輝きが認められる」、この平明なるもの言いにいつも慰められている。
 不世出の俳人原石鼎にして言える言葉、実践できる態度ではある。
 『原石鼎全句集』の巻頭第一句は深吉野での26歳の作品、<頂上や殊に野菊の吹かれ居り>である。掲句はその翌年、大正2年のもの。
 「頂上や」にしても、「銃口や」にしても、その鮮烈明瞭なる打ち出しは読者をすぐさま俳句の現場へ下り立たせてくれる。


   刈田行くかぎり両眼ぬくみもつ    坂口匡夫

 「寒々とした中のある開放感。なにか行事のあとの帰路か、まだ残っている火照りがいつか充足感になっていた」と自註にある。
 「まだ残っている火照り」、それは昨日まで稲穂をみっしり垂らしていた稲田のそれのようである、「いつか充足感になっていた」、それは豊かなる収穫の余韻のようである。刈田という季題のありようがここでは人間になりかわって感受されている。人間というよりは生きものが自然のなかにしのびこんだような感覚がなまなましい。
 実際、刈田の頃の日差しはことのほか強い。さえぎるもののない日の光を浴びながら眩しくてならない、それゆえの俯き加減の眼差しがおのれをいっそう慈しむ。30代後半の瑞々しい抒情。
 同じ作者の、<穭田に吉野大きく暮れにけり>は古希を少し過ぎた頃のもの。石鼎への思いを風土に包括した、鹿火屋全国大会での作品である。


   ルノアルの女に毛糸編ませたし    阿波野青畝

 ルノアルの女は、モヘアの毛糸玉のようにボリュームたっぷりである。毛糸玉のような女が毛糸でもってセーターでも編もうものならさぞかしふわふわとあたたかさ満点のものになるであろう。セーターもろとも俳句もまた肉感的な仕上がり。
 「編ませたし」と突き放しているところが青畝らしい手練。
 蛇足だが、モジリアニの女に編ませたら寒色の、薄手のものになりそう。

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   帰り花きらりと人を引きとどめ     皆吉爽雨

 小春日和の続くころ、春咲きの花が思いがけぬ花をつけることがある。二度咲きとも狂い咲きともいわれるが、帰り花という呼び方はすでに詩的である。
 澄みきった空気の中で、日当たりのよい枝に桜が一つ二つその色も鮮やかに開いているのに出会ったりすると、本当に掲句の通り、はっと立ち止まってはるかな思いに満たされるものである。
 はっと、というこの一瞬を「きらりと」という表現で文字通り人の心をぴたりと引きとめる。人の心も、花の心も透き通るように美しい。「引きとどめ」の終わり方も瞬時的にして余情をひく。
 一字一句が珠玉である。


   冬空や猫塀づたひどこへもゆける   波多野爽波

 字余りの「どこへもゆける」には、何やらふてぶてしく、しのび歩くような猫の足取りが手に取るようによく見える。どこかで見たような光景が「冬空や」と大景にのみ込まれることでのびやかな絵になっている。うっとしい冬空には違いないが、猫のゆく塀づたいのあたりだけはぬくみをもっていて、ふと心なごまされるのである。ここでまた読者は猫になりかわって冬空をなめるように味わっているのである。
 爽波はまさにどこへでも行ける俳人であった。
 岸本尚毅著『俳句の力学』の中で、「私は季題というものは極めて多くの『稜』をもった『多面体』と思っている」という爽波の言葉を挙げて、そのあとに、尚毅はこう述べている。
 「指揮者によって違う表情を見せるマーラーの交響曲と同様に、季題もまた『演じる』俳人によって次々に新しい表情を見せてくれます。マーラーに魅せられた指揮者の多くは、十曲以上ある交響曲の全曲録音を行いました。それぞれに特徴的なマーラーの交響曲を、一曲ずつ自分の色に染め上げることの愉悦を指揮者は本能的に知っているのでしょう。それは、数ある季題を一つ一つ我が物にしようとする俳人の本能と同じだと思うのです。」

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   冬の水一枝の影も欺かず     中村草田男

 寒々と水を湛えた池のほとりには枝葉を落とした木々が突っ立っている。澄みきった水面には、ひと枝も残さずことごとく映し出されているというのである。
 「一枝の影も欺かず」という厳しい断定には、たちまち身の引き締まるような緊張感を覚えさせられるものである。このもの言いは一見大仰にみえて少しもダテではない、すっと腑に落ちてくる。冬の水ならばこその独白である。
 「イッシ」も強ければ、「アザムカズ」も強い、そして「イッシノカゲモアザムカズ」と一呼吸も入れぬ一連の潔癖。
 俳句には内容にふさわしい表現、季題の世界をいっそう明確にするひびきがあることを実感させてくれる一句である。


   冬の日の川釣の竿遺しけり     宇佐美魚目

   12月9日父他界 5句
 朴落葉百を火として歎くのみ
 顔いまも木賊にむかふ冷えしまま
 餅を切る力籠めればそこに父
 父の息かかりし草も縷となりし
 冬の日の川釣の竿遺しけり

 中村雅樹著『俳人宇佐美魚目』によると、魚目と魚目の父(俳号は野生)は父子で虚子と鶏二に師事した俳人であった。
 魚目と共に鶏二のもとを訪ねて「自分はもう年齢がいって駄目だが、魚目は一人前にしてやりたいと思っています」と頭を下げた父親であった。当時の青年魚目は寝る時間を削り体質が変わるくらい俳句に打ち込んだという。野生は、名釣会の会長を務めたほどの釣師であった伯父の影響で一時釣りにも凝ったらしい。
 魚目の言葉によれば「――生涯を通じて道楽者であった父にはこれといった遺品も無かったが、その中で能管を見るような短いタナゴ竿の華奢な美しさは目を奪うばかりであった。然しながらその竿は手を触れた途端にボロボロと形は崩れて漆まじりのただの竹の破片と粉になってしまった。虫にすっかり食われていたのである。散華したタナゴ竿は私にとっては最もふさわしい父の形見となった」
 短くも美しい文章にこめられた百千の思いが、掲句である。冬の日はもとより寒々しく弱々しいものであるが、それだけにかえって冬の日差しのあたたさは何ものにも替えがたい力強さとありがたみを覚えるものである。
 穏やかな表出の中に父の生涯が大きく肯定されている。

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   みかん黄にふと人生はあたたかし    高田風人子

 「ふと」がすばらしい。これほど実感のあるあたたかさはないように思う。
 そもそも俳句というものは、ふと浮かんだことを言うものであって、「ふと」を使ってはいけません、と初学時代に教わった。ここでは、そんなセオリーは吹っ飛んで、「ふと」のかがやきに魅了されてしまった。
 「人生はあたたかし」だけであったら、たとえば美空ひばりの歌謡曲を思い出させる一節のようでもある。だが、「ふと」でもってかえがえのない詩情が生まれた。平凡を少しも怖れずに本当に作者の正直な気持ちを言いきったものは、読者もまた何の疑いもなくわかるというのが俳句という文芸の喜びである。
 垣根越しに実った蜜柑であれ、炬燵で剥いている蜜柑であれ、私自身が過去にそのような体験があったように思われ、なつかしく思い出している。

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by masakokusa | 2008-11-01 00:14 | 秀句月旦(1) | Comments(0)
秀句月旦・平成20年10月                草深昌子
 
   虫の夜の星空に浮く地球かな     大峯あきら

 一読して、一個の地球がクルンと宇宙の中に青白く浮かびあがってくる。そして、身じろぎもせず星空を仰いでいる一人が見える。足下から虫すだく闇がたちのぼってくるが、その一隅はほんのりと明るい。虫の音色に端を発した寂寞たる世界が宇宙の森閑そのもののようである。
 作者は吉野川の一番上流の高台にある浄土真宗の御寺に住んでいる。その吉野山中を思うと、日本古来の草叢に鳴く虫の声がいっそうあわれにしのばれるのである。
 昨年刊行された宗教学者大峯顕(大峯あきら)と哲学者池田晶子の対談集、『君自身に還れ 知と信を巡る対話』は感動の一書であった。
 その直後池田晶子は46歳の若さで永遠の旅路につかれたのであるが、「サンデー毎日」(2006年10月5日号)に載った池田晶子の掲句に寄せる名文を今読み返すと、その深い感受性が胸に沁み入ってくる。
 「――秋の夜長に私が虫の音を聴いているのではない。ただ虫が鳴いている。(私が)虫の音として鳴っている。私が星空を眺めているのではない。(私)が星空として存在していると、こういうことになります」、そして結びの「地球かな」の触れてこう締めくくられる。
 「――虫の音と星空に一体化して憩っていたこの私。これは確かに地上に存在していたはずだ。ところでその眼が突如として、宇宙の真ん中に見開いた。宇宙から地球の私を見た。地球の私を見ているこの眼は、一体誰の眼、誰なんでしょうか。―ああ、何という悩ましいことか、全宇宙を見抜き見晴らすことができるこの眼は、しかし見ているこの眼だけは見ることができないのだ。―私とは何かという恐るべき問いの本来、永劫の謎がこれであります。ほんとに困ったことだ。じっさい、外界の星空を眺めている私の内界にその星空は存在するなんて、とんでもないことですが、事実です。これは無限を考えることにおいて無限は(私の内に)存在するというあれと同じですが、こういう奇てれつな存在の構造、知っていると季節の味わいも一段と深いものになります。虫の音ひとつ聴いたって、もう宇宙旅行というわけです。」

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   一本の芒の水を替へにけり     綾部仁喜

 綾部仁喜の第四句集『沈黙』が先月刊行された。<沈黙のたとへば風の吾亦紅>、著者は人工呼吸器に繋がれ声を失っている。帯文に「高齢に至って閉塞的な病境涯を得たが、不思議にかえって日々新たなるものがある」と記される通り、鮮烈な光を放っている一巻である。
 一本の芒は、見舞客が持ってこられたものであろうか、作者がその辺を散歩して折りとられたものであろうか、芒と共にあった菊などは先に萎れて今は芒だけになったものかもしれない。いずれにしても病床の小さなスペースに置かれた、芒の瓶の水を替えたというのである。それだけである。
 事実をありのままに述べただけにみえて、この奥深い詩情はどこから漂ってくるのであろうか。瓶の中でクルンと向きを変えた芒が見え、長い茎がしのばれ、透き通った水が見える。境涯性というものを抜き出て、芒のありようそのものの切なさに迫ってくる。
 一本の余韻が長く尾をひいているのである。


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   芋の露連山影を正しうす     飯田蛇笏

 里芋畑の大きな芋の葉っぱには露の玉が光っている。その露の大粒の球形には遠くの連山の天地がくっきり映し出されている。蛇笏の住む甲州一帯のどこまでも澄み切った空気が目に見えるようである。蛇笏の立ち姿もまた微動だにしない厳粛なものであろうと思われる。
 こういう読みをしてきたが、蛇笏の自註には「南アルプス連峰が、爽涼たる大気のなかに、きびしく礼容をととのえていた」とある。「影」が一句のポイントであろう。影は光そのものであり、あるいは、光によってその物の他にできる、その物の姿でもある。「影」の一字でもってまさしく陰影の深いものとなっている。私のような鑑賞もあながち間違っているとは言えないように思われる。
 蛇笏には秋の名句が多い。<つぶらなる汝が眼吻はなん露の秋>、<流燈や一つにはかにさかのぼる>、<桔梗やまた雨かへす峠口>、<刈るほどに山風のたつ晩稲かな>、<をりとりてはらりとおもきすすきかな>、<くろがねの秋の風鈴鳴りにけり>、<秋風やみだれてうすき雲の端>、<秋鶏が見てゐる陶の卵かな>、きりがない。


   桔梗一輪死なばゆく手の道通る      飯田龍太


 桔梗と聞けばすぐさま青紫の眼の覚めるような色彩、凛然たる風姿を思い浮かべる。そんな桔梗を一輪に絞って、「死なばゆく手の道通る」という強烈な断定をゆるぎなく受け止め得たものである。このとき、蛇笏は死を目前の病床にあった。桔梗一輪は、蛇笏であると同時に、蛇笏を継ぐ覚悟にあった龍太の凄みでもあろうか、他の一切を退けて孤高の光りを放っている。
 昭和37年10月3日、蛇笏は永眠した。
 父の死を前書とする龍太の一連10句は<月光に泛べる骨のやさしさよ>、<亡き父の秋夜濡れたる机拭く>、<鳴く鳥の姿見えざる露の空>、<常の身はつねの人の香鰯雲>、等。ここには「桔梗一輪」の如き蛇笏調はない。龍太の声調にたちかえって、惻惻と詠われている。

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   魚籠の中なんにもなくて秋の風      山本洋子

 「魚籠の中なんにもなくて」の情趣は、つまりは「秋の風」の情趣にほかならない。秋風とはこういう風であると体験したかのように誰しもが納得するものであろう。
 「なんにもなくて」には「なにもない」というさらりとした言いようではすまされない、念を押してもう一度見直して、やっぱり何も無いのだということを徹底させていることばである。
 秋風と言えば、芭蕉の、<物いへば唇寒し秋の風>、<あかあかと日は難面(つれなく)も秋の風>、<石山の石より白し秋の風>等が思い出されるが、掲句は、芭蕉ほどには自分の物思いを込めずに、いかにも行きずりのスナップ風に詠いあげて、人の心にとどく寂寥感をかもしだしている。無色透明の秋風である。


   黄菊白菊其他の名はなくもがな      服部嵐雪 

 元禄元年、山口素堂亭での菊見の宴で詠いあげた一句である。
 私の育った家の仏間には、この嵐雪の「黄菊白菊」自画賛の写しが古ぼけたままにずーっと飾ってあったので、物ごころついた時から意味も知らず、お経のように「キギクシラギクソノホカノナワナクモガザ」と唱えていたものだった。
 いつだったかネットで見つけたことだが、大学の先生がこの句を示して、「勉学を黄菊にたとえるなら運動は白菊、勉学と運動この二筋道に精進努力を惜しまないでほしい、あれもこれもと目うつりするな、なくもがなその他は未練を残さず捨て去れよ」と講義していることを知って愉しくなった。
 昨今、菊人形の満艦飾を見るまでもなく、菊の花ほどゴージャスに多彩になったものはないだろう。
 子供の一つ覚えにあった、いささか抹香臭い黄菊白菊ではあるが、老いてなお「その他はなくてもいいよ」に共鳴する。
 世の中が物や情報であふれるかえる今日、嵐雪の抒情がいっそうなつかしい。


   三百年このかた色を変へぬ松      棚山波朗

 台風一過の松の緑ほど美しいものはない。「天高し」のこの頃が松の緑のもっとも美しい時節かもしれない。やがて落葉樹などは紅葉して、落葉してとだんだん淋しくなるにつれて色変えぬ松の緑はいっそう冴えてくるのである。
 さて、掲句は三百年という実数をしめしてその威風堂々たる松を太々と描き切った。この口ぶりが作者の感動であり、この韻律が松をドンと据えてゆるぎない存在感を指し示しているのである。
 東京では浜離宮庭園を入ってすぐの三百年の松などが思い浮かぶ。長い歴史をにらんで一切もの言わぬ松である。

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   秋晴の押し包みたる部屋暗し     岸本尚毅

 「ホトトギス」古老であった富安風生に、<秋晴の運動会をしてゐるよ>という句がある。ふと見かけた運動会に目を細めている句であるが、同時に秋晴れの爽やかを想像させられるものである。
 運動会の催されるこの頃、稲は実って、秋草が咲き乱れ、木の実はたわわとなって、まさしく日本晴れなる秋晴れが続くようになる。人々は外に出て、立ち働くことにも遊ぶことにも忙しい時期でもある。
 さて掲句の作者は、そんな秋晴れの一日を部屋の中で一人静かに書き物でもしているのであろうか。部屋のどの窓からも陽光燦燦の青天が見え、ときおり鴉が鳴くものの住宅街の昼間はしんかんとしている。澄みきった秋晴れならばこそ家うちは灯ともしていても薄暗く感じられる。その暗みに居ながら、自分という一個の自然物もまたひそやかに生きていることを実感しているのである。「押し包みたる部屋暗し」という一人の認識は、よく見えて読者にもすっと共鳴される。
 多忙に押し流されないで、自然の風光をごく自然体に味わっている現代人の翳りを思う。その「翳り」もまた季節のものにちがいない。
 <雨の日のこれは秋鯖青く照り 尚毅>、こちらは「照り」の方、いずれも秋の日々をよく楽しんでいる。


   松虫におもてもわかぬ人と居り    水原秋櫻子

 松虫はチンチロリンともリーンリンとも鳴く。その音色は松風のように澄みわたるところから松虫と名付けられたそうである。そして、<秋の野に人まつ虫の声すなり我かとゆきていざとぶらはむ>という具合に、松を、待つの掛け言葉にして古くから歌に詠われてきた。
 掲句は、そんな松虫に静かにも聴き入っているのであろう、だが傍らに立つその人の面輪はすでに深い闇に包まれて判別つかないというのである。まこと風雅な秋の夜長の佇まいである。
 ところで、最近は外来のアオマツムシがうるさくてうるさくて早々と雨戸を閉めないことには心落ち着かない。夜遅くなってようやくアオマツムシが鳴きやんだ頃、ふたたび戸を繰って月を見上げたりする。
 日本人でありながら、虫の音をやかましいなんて何とも情けない今日この頃、秋櫻子の一句は余白たっぷりに描かれていてなつかしいかぎりである。


   露の玉蟻たじたじとなりにけり    川端茅舎

 川端茅舎は「露の茅舎」である。
 <白露に阿吽の旭さしにけり>、<白露に金銀の蠅とびにけり>、<露の玉百千万も葎かな>、<ひろびろと露まんだらの芭蕉かな>、<新涼や白きてのひらあしのうら>の五句をもって、昭和5年11月号の「ホトトギス」雑詠で巻頭を得ている。
 さらに昭和6年12月号では、<白露に鏡のごとき御空かな>、<金剛の露ひとつぶや石の上>、<一聯の露りんりんと糸芒>、<露の玉蟻たぢたぢとなりにけり>など四句をもって4度目の巻頭を得ている。
 茅舎は、この頃から脊椎カリエスが悪化、以後十年を病臥した。昭和14年11月号の巻頭句は、<航空路わが軒端にぞ露の庵>、<銀翼いま笏の如しや露の空><銀翼も芭蕉も露に輝きぬ>など。
 昭和16年7月16日夜、<石枕してわれ蝉か泣き時雨>と泣きながら推敲し清書した、絶筆となったこの句を「ホトトギス」へ送ったのち、翌日に往生を遂げた。
 掲句の「蟻たぢたぢとなりにけり」は蟻の足もとがさだまらずよろめき歩くさまであるが、高濱虚子に「花鳥風詠真骨頂漢」と称された茅舎の面影がありありと浮かびあがるものである。


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by masakokusa | 2008-10-01 00:02 | 秀句月旦(1) | Comments(0)
秀句月旦・平成20年9月                草深昌子
   波打ちしステンドグラス秋の空    北誥南風

 教会や公会堂の窓ガラスであろうか、ステンドグラスは太陽光線によってその鮮やかな色彩を神秘的なものに映し出してくれることはよく体験するところだが、その上に表面が凸凹になっている硝子であれば、その光線はいっそう美しく思われる。
 ステンドグラスの硬質な反射が秋天によく照応すると同時に、「波打ちし」からは、瞬時にして、真っ青な潮流のイメージがもたらされる。この秋の空を、春、夏、冬のそれと置き換えてみるまでもなく、秋の空でなくてはならない、どこまでも澄みきった透明感を読者に輝かしく見せてくれるものである。
 一句は、文字通り小さな窓から大きな世界を引き出した。作者は何も言わない、そのことこそが俳句の強みであることをあらためて認識させられる。何も言わないけれど、あきらかに作者の澄んだ気持ちがここには映し出されている。

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   棚の糸瓜思ふ処へぶら下がる    正岡子規

 子規が『仰臥漫録』の筆を初めてとったのは、死の前年の明治34年9月2日(月)であった。
 「雨 蒸暑 庭前の景は棚に取付てぶら下りたるもの 夕顔二、三本 瓢二、三本 糸瓜四、五本 夕顔とも瓢ともつかぬ巾着形の者四つ、五つ 女郎花真盛 鶏頭尺より尺四、五寸のもの二十本許」
 スケッチと共に俳句は19句、掲句には「病床のながめ」と前書がある。
 この頃、子規の病状は極めて深刻、麻痺剤を使用しなければ耐えられないほどの大痛苦であった。にもかかわらず、この糸瓜のながめは、何と超然として素朴であろうか。糸瓜の「思ふ処」は即ち子規の「思ふ処」というたのもしさ、まさに一心同体である。
 一年後、この棚の糸瓜は子規と終焉をともにしたのであった。
 <糸瓜咲て痰のつまりし佛かな>、<おととひの糸瓜の水も取らざりき>、<痰一斗糸瓜の水も間に合はず>


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   糸瓜忌や傷ふえてゆく文机      大峯あきら

 正岡子規の絶筆となった糸瓜三句に因んで、子規の忌日を糸瓜忌という。
子規の大方の文学活動は子規の病床からであった。明治32年にはすでに「坐して机に向ふが如きは今日殆ど絶望の姿なり」であった。仰向けに書き、伏したまま肘をついて書いた後年の日々。
 子規庵の病間には、左足の膝を立てたまま書けるように一角が刳りぬかれた特製の机が残っている。松山の子規堂には小さな勉強机が窓際に寄せて残っている。そんな子規の生涯を心に、作者もまた学究に一途であった歳月が顧みられるのであろう。「傷ふえてゆく」には、深い感慨が込められていて、一読胸を打たれるものである。
 「傷」はいのちの代償のように思われる。

  
   女郎花少しはなれて男郎花      星野立子

 この句からすぐに「女に少しはなれて男」を思い浮かべるのは私だけだろうか。
 女郎花と男郎花のありようを偽りなく写生した一句に違いない。それなのに、女の一字、男の一字を冠った秋草のゆかしさがそのまま人の世の女と男のそれのごとくにしのばれるのが、何とも不思議である。文字のもたらすイメージもさることながら、立子の直観が冴えている。
 これが仮に、「男郎花少しはなれて女郎花」であれば、花の姿も人の姿も見えてこない。
 女郎花ありてこその男郎花である。


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   仲秋や花園のものみな高し       山口青邨

 実作を通して思うことだが、「仲秋」というような時候を季語にする場合、それにつくフレーズはなかなか決定的なものになりがたい。しかし、「仲秋」と「花園のものみな高し」とは見事に決まっている。まるで磁石が吸いつくように爽快そのものである。
 スカッとした感覚と同時に、秋も半ばの日や風を秋草の色彩感の中にじっくり楽しみたい句である。


   秋風や書かねば言葉消えやすし    野見山朱鳥

 思うことは次から次へ湧いてやまない、しかも絶えず混沌としている。そんな心のうちの言葉は次から次へ消えてなくなる。そこには生きているという実感がない。混沌を書きことばに置き換えるのは少々厄介ではある。だが、一縷を見い出すと、するすると筋道がたって、次第に心が整頓される。生きている命を言葉でもって確かめる作業である。
 「書かねば言葉消えやすし」は、秋風のために用意されたフレーズのようである。つかみどころのない秋風のさびしさ。
 朱鳥は29歳にして、<火を投げし如くに雲や朴の花>、<なほ続く病床流転天の川>でもって、昭和21年「ホトトギス」600号記念の巻頭を飾った。だが、「人生の三分の一くらい寝て過ごした」というほど長く病んで、53歳で夭逝している。


    さやけくて妻とも知らずすれちがふ    西垣 脩

 からりと晴れ上がった清々しい道筋であろう、どこまでも澄みきった空気と共に作者の心象が強く印象されて、読者はたちまち透明感に満たされる。
 もっとも濃密に、もっとも平俗にある、夫婦という二者の関係が、ふっと思わざる距離に切り離されたような感覚は、とりもなおさず爽やかという季節感のありようであることを鋭敏に詠いあげて、文字通り爽やかな仕上がりである。そして、一呼吸おいてみると、うらやましいばかりの夫婦関係の信頼を物語っているものでもある。
 昭和32年、38歳のときの作品であるが、「爽やかや」でなくて「さやけくて」には、詩人でもあった氏の心が言葉に沁み入るようにうつされていて、今もってみずみずしい。
 氏は大阪府立住吉中学(現、住吉高校)で、国語を伊東静雄(詩人)に学んだ。一年下に庄野潤三がいた。このころ皆吉爽雨の指導する句会に参加して俳句を学んだ。
 『西垣脩句集』は脩氏急逝の翌年、昭和54年に、大岡信、川崎展宏、沢木欣一、皆川盤水等八名の編集委員が選句に当たって編集したという、心のこもった遺句集である。


    虫賣の瀬田の唐橋渡りけり    斉藤夏風

 瀬田の唐橋は滋賀県大津市の瀬田川に架る橋で、昔から京へ入るための交通、軍事の要所であった。何度も戦乱の舞台になった橋は、近江八景「瀬田夕照」で名高く、芭蕉にも<五月雨に隠れぬものや瀬田の橋>、<名月は二つ過ぎても瀬田の月>など、この地を詠んだ句が残っている。そんな歴史のおもかげは、橋の古風な擬宝珠にもよくあらわれている。
 秋もたけなわのたそがれどき、折しも、唐橋にさしかかってきたのは虫賣であった。しずしずと、ひょうひょうと、しかも確かな足取りで、小さな屋台を引いて、京都方面へ去りゆくところであろう。なんとお誂え向きの、みやびやかな光景ではないだろうか。
 あるべきところにあるべきものを設定しただけともいえる、何の装飾もない淡々たる詠いぶりがむしろ夕闇せまる情趣をそこはかとなく伝えて余韻がある。むろん虫の声も余韻をひいている。

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    ゆっくりと引けばめくるる桃の皮    岩田由美

 俳句の速度がそのまま、白い産毛のある桃の皮をそろりとめくってゆく速度と一つになっている。
 一句のどの一語も欠かすことができず、どの一語もさしはさむことはできない、ひと続きにひた連なって、決して途中で切れてはいけない、やわらかに、ゆったり、ゆたかな調子に貫かれている。そう、桃の皮は見事に剥きあがるのである。
 誰にでも思い当たるこの感触は、やがてたっぷり甘い果汁をしたたらせる。
 飛び切り上等の白桃も、とびきり上等の描写も、まこと垂涎の的である。


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by masakokusa | 2008-09-01 00:02 | 秀句月旦(1) | Comments(0)
秀句月旦・平成20年8月                草深昌子
   日を追はぬ大向日葵となりにけり     竹下しづの女

 人の背をはるかに超える大向日葵は、その頭状花をさも重たげに垂れているのであろう、詠いぶりもまた大きくどっしりとしている。だが盛夏ではなく晩夏の気配が感じられる。「大向日葵でありにけり」ではなく「大向日葵となりにけり」のもたらす印象であろう。
 ヒマワリの名は、燃える太陽を連想させる花であること、太陽について回ると誤認したこと等から付けられたという。それはさておき、太陽を見向きもしないで、それでいてまあ何と大きな向日葵であることよ、という認識がすでに鋭く、人生的でもある。
 しづの女(明治20年生)は、<短夜や乳ぜり泣く兒を須可捨焉乎>(みじかよやちぜりなくこをすてつちまをか)というホトトギス巻頭を得た作品でよく知られる。又、<汗臭き鈍の男の群に伍す>など、戦前にして目の覚めるような男勝りの句を残している。


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   浜木綿は裂けて咲く花潮迅し      中 拓夫

 浜木綿は、あたたかな海辺に自生する花であるが、つい先日、横浜の日本大通りで見かけたときは、その白い花にほっと暑さを忘れることができた。
 「裂けて咲く花」なる措辞には清々しい潔さがあり、さらに「潮迅し」と畳み掛けられるといっそう白さがかがやくようである。張りのある下五の押え方は、一句の奥行きを深くしている。
 楸邨門一筋の中拓夫氏は、去る5月8日亡くなられた。当日、「寒雷」誌校正中に「編集長を退めます」と電話があって、その直後の訃報であったという。
 <蜜柑つめたし夕日が変へる海の色>、<迎火や海よりのぼる村の道>、<夏果ての波かがやけば魚飛べる>、<満潮の海動きをり曼珠沙華>など湘南の海が俳句工房であった。


   涼しさの肌に手を置き夜の秋      高浜虚子

 一読男性のものと感じる、と言った男性俳人がいたが、女性にもすっと入ってくる感覚ではないだろうか。また、浴衣掛けを思い浮かべても、Tシャツを浮かべてもいいだろう。いずれにしても人間のふとした所作がそのまま、いつ忍び込んだやもしれぬ夜の涼しさに通っている。「涼しさの」の「の」で軽く切れて、ごく自然に一息ついた感覚を静かにも動的に演出しているところ心憎いばかりである。
 「夜の秋」は夏の季語である。石鼎の<粥すする杣が胃の腑や夜の秋>をもって虚子が夏の季語に定めとされている。季節感を先取りする姿勢がいかにも俳句的で、<西鶴の女みな死ぬ夜の秋 長谷川かな>などは、忘れられない夜の秋である。


   泉の底に一本の匙夏了る        飯島晴子

 「泉に底に一本の匙」が即ち、「夏了る」の象徴として文字通り定着している。ありとあらゆるシーンを想像させながら一本の匙はいかにもシンプルにシャープに透き通る。夏百日のエッセンスとしてあるものは、あまりに卑近にしてあまりにはるかである。
 飯島晴子の生前最後の発言断章にはこうある、「読んだときに首筋を風のようにサッと感じるのが俳句なんだと思ったことがあります」、まさに掲句はそのような俳句である。


   墓に来て日傘の太く巻かれけり     岸本尚毅

 「墓に来て」、ハッと心が動いた出来事、といっても取るに足りない些事ではるが、書きとめずにはおれない何かを感じた、その気持ちが思わずペンを素直に走らせた。何かをわかってもらおうというわけではない。作者は墓に来てただそっと佇んでいるのである。忙しさに過ぎゆく日常には感じとれなかったディテールが妙に切実である。
 詩情を感じるが、鑑賞の言葉をつくしたら面白くなくなってしまいそうである。いや鑑賞できないのが正直なところ。そんな理屈のない、無意味なものこそが人の世の真実というものであろう。真実に感応するのが俳句実作者である。
 俳句は、これどうだっ、とばかり手柄顔に見せられても後ずさりするばかりであるが、この句のようにそっと静かに差し出されると、読者の方から、その世界へ足を一歩進めたくなるものである。


   一房のぶだう浸せり原爆忌        原  裕

 一房の葡萄を浸してある水は、どこまでも冷たくしんと透き通っている。葡萄という果物は、<亀甲の粒ぎっしりと黒葡萄 川端茅舎>、<葡萄食ふ一語一語の如くにて 中村草田男>、等に詠われきたように、美酒にも薬用にも用いられる豊穣な印象がある。このみずみずしい葡萄は、作者にとって原爆で亡くなられた方々一人一人の鎮魂として浸されてあるようである。生活の裡にあって、一房の葡萄に眼光を据えて動かぬ静けさは、原爆への怒りや悲しみがむしろ迫ってくるものである。
 原爆投下の日は、日本人にとって日常の大きな要となる日である。それぞれのよすがに死者への深い祈りがささげられてきたが、今年ははや63回目を迎えた。


   親よりも白き羊や今朝の秋        村上鬼城

 羊の親子が並んで草原の草を食んでいるのであろう。朝日にかがやく羊の白さ。わけても、小さい方の、そう子羊のまたなんと真っ白な毛並みであろうか。
 この子羊の新鮮な白色こそは立秋の朝ならではの清々しい発見である。かたわらに立つ親の羊がすこしばかり汚れているのは、むしろこの世の命のありようとしてめでたいものではないだろうか。
 われわれ人間もまた、こうして親のおかげで大きく育ってきたことに気付かされ、天地に感謝したいような気持になった。心が洗われるような立秋の朝である。


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   露草も露のちからの花ひらく      飯田龍太 

 露草は、路傍にも畦にもどこにでも自生する花であるが、その色彩は目の覚めるようなコバルトブルー。
 <朝咲き夕は消ぬる月草の消ぬべき恋も我はするかも>と、万葉集にも詠われ、はかなさの象徴として古くから親しまれてきた。「月草」は露草の古名で、衣につけるとよく染まるからとも、月の光を浴びて咲く花だからともいわれる。
 徳富蘆花は、「つゆ草を花と思ふは誤りである。花ではない、あれは色に出た露の精である」という。
 龍太は蘆花の言葉をこころに置いていたであろうか。「露草も」、「露のちからの」、と畳み掛けて「露」の一字を強調すると、「花ひらく」とそっと結んだ。
 まこと葉の先から瑠璃の露を吐くかのように可憐なさまに詠いあげられた。



   白昼の闇したがへて葛咲けり      松村蒼石

 「この作者の自然観照の執拗さはすでに定評のあるところ。よくよく業の深いことだが、自然観照もここまでくると、一種凄絶の気を帯びて来る。まことにもって凄じい気力の作だ。わけてもこの葛の花色の妖しさはどうだろう。白昼の幽谷を蔽う葛の葉叢。その中はまさに微光も及ばぬ闇。しかも句は、淡々として叙景の調べを失わず、秋の白光は天空を展べる。」(『飯田龍太俳句鑑賞読本』)
 蒼石俳句の気力に勝るとも劣らぬ龍太の鑑賞文である。龍太は、俳句の実作と鑑賞を車の両輪に喩え、あるいは歩行のようなものと言い、両者不可分の関係に俳句の醍醐味があることを、身をもって実践し続けた俳人である。鑑賞する佳句は有名無名を問わなかった。
 <ときかけて木の葉燃しをり師を忘る 蒼石>、蒼石は飯田蛇笏、龍太父子を終世師とし、天寿を全うした。掲句を口ずさむたびに、龍太の選者としての真摯な態度が思われてならない、そして蒼石の葛の花はいよいよ盛んに生い茂ってくるように思われるのである。 


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   ぬれ縁のとことん乾く敗戦日       宇多喜代子

 第二次世界大戦が終結した日の暑さは、全国民の痛恨の極みの象徴として語り継がれている。濡れ縁は昔の家屋のどこにも見かけられた、そのなつかしい人々の居場所に、徹底的に照りつける太陽の日差しを描いて、市井の悲しみを静かにも表出している。
 終戦から63年。今年もまた猛暑の8月15日であった。全国戦没者追悼式には、戦没者のひ孫にあたる、9歳の子供が二人最年少で参加したという。戦争を体験的に伝えることができる人はいっそう少なくなった。
 昭和25年8月15日、私の小学一年生の絵日記には「おおきなすいかをほとけさまにおそなえいたしました。おねえちゃんがおそなえするまえにすいかをおとしてわりました」とある。西瓜は濡れ縁から転がり落ちたのだろうか。仏さまは戦没したわが父のことである。


  老いしと思ふ老いじと思ふ陽のカンナ   三橋鷹女

 熱帯産のカンナも日盛りにはさすがにぐったりとしているようである、それでも、炎帝に負けじとする意志の強さがあればこそ、あのように鮮烈な赤や黄を持続しているのであろう。鷹女は老いをなかば認め、なかば認めない、なお精神の張りを失ってはならないと、自身に言い聞かせるような口ぶりで、その心情をカンナに仮託した。
「カンナかな」ではなく「陽のカンナ」という止め方はさすがに鷹女である。
 鷹女は、<鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし>、<夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり>、<初嵐して人の機嫌はとれませぬ>、など、短歌に詠いあげるような感情を、俳句ならではの断定を武器に、胸のすくように描き切っている。
 そして、<白露や死んでゆく日も帯締めて>、<老いながら椿となって踊りけり>、等、終世老いを意識しながら、女の矜持を毅然とまとっていたようである。
 63歳の鷹女はこう言う ~一句を書くことは 一片の鱗の剥脱である 一片の鱗の剥脱は 生きてゐることの証だと思ふ 一片づつ 一片づつ剥脱して全身赤裸となる日の為に 「生きて 書け- - -」と心を励ます~

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by masakokusa | 2008-08-31 22:12 | 秀句月旦(1) | Comments(0)
秀句月旦・平成20年7月               草深昌子
 
   和歌に痩せ俳句に痩せぬ夏男    正岡子規

 明治18年春、子規は哲学を人間一生の目的と思い定めたものの、学年試験に不合格落第した。そしてその夏、初めて松山に帰省した。この時、子規は、桂園派の歌人井手真棹の邸をたづねて和歌の教えをうけた。俳句を作りはじめたのもこの年である。
以来、35年の生涯に遺した俳句は二万三千余句。
 和歌に俳句に徹底した男の凄絶な夏痩せがしのばれる。
「俳句講習 贈鳴雪翁」と前書して、<舌頭に千転するや汗の玉>もある。


   空と山画然として青田風         原 コウ子

 「画然として」は、はっきりと区別がついているという意味的なものもさることながら、漢字の固い印象やひびきが、よく山を際立てて、青田をはるかまで明瞭に見せてくれるものである。
 作者の居住した二宮は、南に相模湾、北に丹沢山地を控えて、風光よく温暖なところ。見渡すかぎりの青田を靡かせてゆく風は大らかでとても頼もしく思われる。

 
   米粒に跼んで拾ふ朝曇          古館曹人

 「米粒に」、「に」たる助詞の何と利いていることだろう。俳句の芸、ここにありと思う。これが「米粒を」であったら、ただのスナップに流れてしまうが、「に」という無比なる描写からは、拾う前からそこに落ちてある米粒を思わせ、米粒を白く見せ、人物のちよっと重たげな起居や心象までもがうかがわれるようである。朝から靄々としている生活の時間や空間がまるごと見えて、臨場感たっぷりである。
 こんな朝の日にかぎって日中は炎天になることを、「米粒に跼んで拾ふ」という自身の仕草にすでに感じ取っている作者は一句をもって気合いを入れ直されであろうと、そんなことまで思うのも余情である。


   木から木へこどものはしる白雨かな   飴山 實

 シンプルな構図は雨脚をあきらかに見せている。「こどものはしる」という平仮名書きは、豪雨というほどでもない村雨性のにわか雨が思われ、どこか童画的な雰囲気がかもしだされる。
 何より、「木から木へ」という動きのある打ち出しが気に入って、当時、無意識に○から○へというフレーズが出てきて困ったことも実作上のなつかしい思い出である。
 掲句は平成元年刊行の『次の花』に収められているが、ここには他に<湯豆腐のかけらの影のあたたかし>、<大雨のあと浜木綿に次の花>、<日の沈む国かや雁をわたしつつ>などがある。


   働くや大蟻小蟻中蟻も           高田風人子

 大蟻、小蟻という区別はまま見かけるが、「中蟻も」とは新しく、おもしろい。要するに蟻という蟻はすべて、およそ働かない蟻はいないのだということになる。そんな蟻の命をじっと見ていると、われわれ人の世の人の命も蟻同然、太陽を浴びて働くことに何ら変わりはないように思われる。そんな切なさが明るい。
 「四季は私にとって伴侶である。俳句はわが人生の軌跡である。」という作者の一句である。

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   草茂みベースボールの道白し       正岡子規

 子規は日本に野球が導入された最初の頃の熱狂的な選手であった。明治21年、「ベースボール程愉快にてみちたる戦争は他になかるべし」と説いている。自身の幼名であった「升(のぼる)」にちなんで「野球(のぼーる)」という雅号を用いたことから、子規が野球の名付け親との伝説は、碧梧桐や虚子の回想から喧伝されているが、ベースボールを野球と訳したのは、中馬庚(ちゅうまんかのえ)によるらしい。いずれにしても野球を俳句や和歌にとりいれたのは子規が初めてで、打者、走者、飛球、四球、直球などは子規の訳語で、現在に至るまでそのまま使われている。
 夏草の茂りをめぐらす広場に引かれた白線の鮮やかさ、炎天の眩しさ。回想による作品ではあるが、ここには颯爽たるユニホーム姿の子規が彷彿として、今に新しい句である。

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   いつの間にがらりと涼しチョコーレート  星野立子

 「がらりと涼し」、いかにも口をついて出たまでというふうな表現、「チョコレート」たる下五、だれも詠ったことのない素材に思わずはっとさせられて、一読すっと納得する。こういうところに目が働く神経がすでに涼しい。チョコレートをポンと割って、頬張った感触が「がらりと」に響きあうところなど天性のセンスであろう。
 立子の涼しさは、<白涼し紫も亦涼しく着>、<人目には涼しさうにも見られつつ>、<心静かに在れば涼風自ら>など、立子の生き方そのものの涼しさである。
 かにかく立子の句は平明で、一瞬これなら私にも作れそうと読むたびにほっとするようなところがあるが、やはり、その感受性の鋭さは独特で、逆立ちしてもこうは言えないものである。


   しばらくは膝にかしこき浴衣の子     伊藤通明

 日本画のように端正な情景が目に浮かんで、それこそしばらくは郷愁に目を細めるばかり。
広々とした夏座敷に夕風が吹きそめる頃であろうか、こわばった浴衣がまだ身になじまず母にそっと甘えているいとけなき心のさまがしのばれる。やがて子はヤンチャをはじめるのであろうが、しばらくは余所行きの顔になったところに、涼味満点の「浴衣」を見事に表現しているのである。
 抒情立志に満ちた氏の第五句集『荒神』所収、この句の前には、<うすものにこころにじみてゐたりけり>がある。


   母ひとり故郷にある大暑かな       高室呉龍

 今年の大暑は7月22日、夕刊には、「大暑に苦労」という見出しで、東京丸の内で暑さに顔をゆがめて通勤する人々の写真が大きく載った。暦の上では一年中でもっとも暑いとされる日であるが、まったくその通り、日本列島は各地で30度以上の真夏日となった。
 朝からぐったりというサラリーマンの姿は、かの名句、<念力のゆるめば死ぬる大暑かな 村上鬼城>を思い起こされるが、掲句の作者もまた心中に、「念力のゆるめば死ぬる」をひそかにつぶやかれたのではないだろうか。母上のご無事をお祈りする静けさもまた大暑のもたらす感慨である。


   金魚玉天神祭映りそむ          後藤夜半

 天神祭は7月25日、大阪天満宮の祭礼。神輿の川渡御を中心行事として江戸時代を通じて盛んであった。
 大阪の俳人には逸することのできない題目である、と山本健吉が言うように、大阪は曽根崎新地のまん中に生まれたのが後藤夜半。ホトトギスにあって、生涯、上方ならではの情趣にあふれた句、艶麗な句を生み続けたことで名高い。
 この句も水の都といわれるにふさわしい川筋の灯かりが色鮮やかに浮き出てくるものである。堂島川に面した軒端に吊られているのであろう、金魚玉に、渡御の船団の篝火がかっと映ってくるところである。「映りそむ」には、舟のすべるような動きが見えてくると同時に、いよいよ盛り上がってくる祭り気分を伝える、巧みなる表現である。
<射干の花大阪は祭月>、<鱧の骨上手に切れて祭膳>もある。天神祭に鱧は付きもの。

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by masakokusa | 2008-07-01 12:29 | 秀句月旦(1) | Comments(0)
秀句月旦・平成20年6月                草深昌子


   六月を奇麗な風の吹くことよ       正岡子規

 この一句をもって六月はすばらしくなった。およそ子規らしさのない、およそむさくるしさのない颯爽たる一句は清新そのもの、この風の実感は永遠に消えないもののように思われる。「六月や」でなく「六月を」、ここに実感がある。
 事実片田舎に住んでいると、田植えが済んだばかりの一面を水平にわたる風のみどりはたとえようもなく清々しい。このころの風光が何より心身を癒してくれる思いがする。田んぼでなくても、街角や海辺であっても、あるときふっと入れ替わったような風を感じるのも六月のことである。
 この句を口づさむと、蕪村の<愁ひつつ岡にのぼれば花いばら 蕪村>がセットになって思い出される。掲句はやはりもっとも子規らしい、明晰なる句である。

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   田を植ゑるしづかな音に出でにけり   中村草田男 
  
 昨日たまたま田植機をあやつっているところに出くわした。男の慎重なハンドルさばきは機械の末端に及んで、回転する爪の部分はまるで人間の指のような所作でもってつぎつぎに定位置に苗を植え付けてゆく。あっという間に一枚の田は植えられた。
 さて、掲句からは早乙女が田植え唄など唄いつつ、祈るような仕草の田植えの様子がうかがわれる。 人の声とも鳥の声とも、雨とも風とも言ってない、とにかく「しづかな音」のする田植えである。このしづけさこそは田植えの原初的情趣そのものであり、作者の心象もまたしづけさのうちにしのばれるものである。
 事実を象徴的にするに、「音」の一字がしづかにも大きくはたらいている。いかに時代が変わろうとも、普遍的な田植えを詠いあげて心に残る句である。


   日本語の優しすぎたるゆすらうめ     後藤比奈夫

 ゆすらうめがどんなものかよく知らない頃から、この「ゆすらうめ」には語感もろとも魅了されていた。
 ゆすらうめが漢字で書けば「山桜桃」であること、真っ赤に熟れてまるで宝石のように透き通った小さくまんまるい実であること、甘酸っぱくておいしいこと、それらをよく知るようになっても、なお初めて読んだ私の中の「ゆすらうめ」は変わらない、そのままである。
 徹底した写生からもたらされた独自の表白は、読者に間違いなくそのもののイメージを見せるものなのだと思う。
 作者は父親であり師である後藤夜半から「技巧でないものは作品ではない」とよく聞かされたという。

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   姉妹や麦藁籠にゆすらうめ          高浜虚子

 おとどいやむぎわらかごにゆすらうめ、と読む。何とやさしくおっとりとしてゆたかなるしらべであろう。
 見めうるわしい姉と妹であろうか、仲良く麦藁籠にゆすらうめを積んでいる光景は、誰にでも覚えのあるような、日本人の原風景のようである。初夏の日差しがかけがえのない今を輝かせて、まこと珠玉のゆすらうめが摘みためられてゆく。ありのままにして立ち上る詩情もまた技巧なしには得られないものであろう。
 この美しい調べが、<日本語の優しすぎたるゆすらうめ 比奈夫>の世界に引き継がれたように思われる。


   山上に遠き沖あり黐の花            矢島渚男

 黄緑がかった白い小さい黐の花は目立たない花で、大方の人に好かれることもない花のように思われるが、私にはその匂いも好ましい花である。庭にも路傍にも見かけるが、掲句の黐の花はもっとも黐の花らしいところを得て悠然と咲いている。人々のチマチマした思惑に遠く離れた黐の花はごく自然に、季節感のままに咲いている。
 黐の花を見直した思いである。すがたの美しい句である。
 掲句から、<玫瑰や今も沖には未来あり  中村草田男>、がゆくりなく浮かんだが、やっぱり玫瑰は玫瑰らしいところを得て咲いている。玫瑰は玫瑰、黐は黐、それぞれの花の持ち味が出ているのは何といっても調べの巧みさであろう。


   戦死とは夭折のことゆきのした        吉田汀史

 「戦死とは夭折のこと」と「ゆきのした」が切っても切れぬ縁につながっていることにト胸をつかれた。夭折という言葉から思うのは芸術家や学者など天才の若死であった。だが、あの大東亜戦争での犠牲者も多くは20代30代ではなかったろうか、生きてあればどんな分野にどんな才能の花をひらかせたか計り知れない。
 一句は戦没者への深い哀悼がこもっている。
 あらためて戦死という夭折はあってはならないのだという思いが胸につかえてくる。そんな晴れない思いを鎮めてくれるのは「ゆきのした」という質素な花の姿である。
 ゆきのしたは、鴨足草とも雪の下とも書き、山地の日蔭や湿地に底知れぬほどに生えているが、わが狭庭の片隅にも年々歳々楚々として咲くことを忘れない。その白い小さい花弁はどこまでも潔白、清楚である。


   雨音を野の音として夏座敷          広瀬直人

 雨の涼しさがとりもなおざす夏座敷の涼しさになりかわっているところが、いかにもこの作者の甲斐ならではの風土がしのばれて臨場感のある句となっている。
 開け放たれた夏座敷から見渡すことのできる野の青さや広さがうかがわれると同時にそこに居る人のたたずまいが落ち着いている。雨音に心が集中している心の涼しさが感じられるのである。雨を出しながら少しもじめじめしないむしろ晴れやかな座敷である。


   十薬も咲ける隈あり枳殻邸          高浜虚子

 枳殻邸(きこくてい)は渉成園ともいう、書院式回遊庭園で石川丈山の作庭である。東本願寺の別邸で、当時枳殻(からたち)を生垣に用いたことから枳殻邸と呼ばれている。京都市中とも思えないほどの大きな静けさの空間には平安時代の優雅さをしのばせて四季折々、名のある花々が開くところであり、数ある茶室や書院も美しくまこと名勝である。
 さて掲句、十薬というマイナーな花を「十薬も咲ける」と大きく打ち出して、すかさず「隈あり」と十薬らしい視線に引き落としたかと思うと、下五は「枳殻邸」をもって堂々たる風姿に納める。なんとも気持ちいい仕上げの早業である。
 この時節ならさしずめ杜若や花菖蒲、紫陽花や睡蓮など色鮮やかな花々が枳殻邸を彩っているであろう。だがそのことは「十薬も」に匂わせるにとどめて、絵ハガキ的ではない枳殻邸の美しさを十二分に伝える。枳殻邸にまた行きたくなった。

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   難所とはいつも白浪夏衣           大峯あきら

 「難所とはいつも白浪」からは、海岸の崖っぷちであったり、込み入った岩礁があったりで、寄せ来る白波の砕けようも賑わしいことであろうと想像され、波音が聞こえるようである。このフレーズだけでも清冽な自然界を見せるのだが、下五「夏衣」と読み下ろすに至って、たちまち俳句の風景はただの絶景だけではない漁夫の生活と一体となった生々しい実体のあるものとして繰り広げられるのである。歴史をせおった風土のありようである。
 「夏衣」は、白波にたたみかけるような白さ、天女の羽衣のような透き通ったイメージをも浮かび上がらせて、漁夫が命を落としたであろうことにも思いを至らせ、魂鎮めのような詩情をもたらすものである。
 作者は、吟行では下五に「夏花摘」と置いて賛同を得たものの、もう一つ不満で、のちに「夏衣」に推敲したことを総合誌に書かれていたように覚えているが、かにかく「取り合わせ」という二物の照応が成功するときは、いっそう高次の興趣をもたらすものであることを教えられるものである。

   蛍の夜老い放題に老いんとす        飯島晴子

 「食べ放題」「詰め放題」なんていう欲張った「放題」が私は大好きである。そんな放題とはおよそかけ離れた「老い放題」に出会った時には驚いた。文字通り言いたい放題、口から出まかせのようなフレーズに胸のすくような気分を覚えたのは私自身が老いのとば口にさしかかっていたからであろう。「老い放題に老いた」ほうがやっぱりお徳な気がして、颯爽たる気概に励まされた。20年前のことである。

 作者がこれを書いたのは昭和62年、66歳であった。それから10年後蛇笏賞を受賞して、さらに4年後<大雪にぽっかりと吾れ八十歳>をもって、この世から姿を消された。
後に、「本当に老いたらこうは言えないだろう、なと思った記憶がある。老い放題に老いることなど実現できないことの予感はあった。そして「老い」の非常に近いことを感じた。」と記されたが、まさにこの「老い」の非常に近いところに私自身も直面してみると、フレーズに驚くというよりしみじみ「蛍の夜」が美しいと思われる。

 蛍火の闇に身を置くと、女は恋を夢見る。和泉式部の<もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る>なども浮かび上がって、うっとりもする。老いに脅かされる日常をほうと忘れてふとした心のはなやぎが、切なくも大胆なる一句を生らしめた。
 俳句の日常が老いを支えるものであることを信じたい、と掲句からまた励まされている。

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by masakokusa | 2008-06-01 19:51 | 秀句月旦(1) | Comments(0)
秀句月旦・平成20年5月                草深昌子

   厄月の庭に咲いたる牡丹かな     正岡子規

 五月が来ると、まっさきに思い出すのは「五月はいやな月なり」と言った子規の胸懐である。
<うすうすと窓に日のさす五月かな  子規>など、生気あふれる五月に反して、子規の苦痛がしのばれてならない。
 「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。」に始まる正岡子規の『病床六尺』は明治35年5月5日からの新聞連載であるが、この五月こそが子規には厄月で、重患はいつも五月だった。最初の吐血も明治22年5月のことである。明治32年の新年には、
 <初暦五月の中に死ぬ日あり 子規>と詠ったほどである。
 明治35年、この年の5月13日も未曾有の大苦痛を現じ、「さて五月もまだこれから15日あると思ふと、どう暮してよいやらさッぱりわからぬ」と人知れずうめいているのである。
 さて、掲句は、そんな事実を述べながら、不穏な空気のなかに牡丹をゆったりと咲かせて、こころにホーッと大きなやすらぎが生まれている。この牡丹と子規の間にはだれも介入することのできない静謐な時間があって、牡丹はいっそうはかなくもつややかに、豪奢にも上品に揺らいでいるのであろう。
 牡丹がうれしい、これが花茗荷でも薔薇でもいけない、牡丹の花ならばこそ病床の子規の気息がたっぷり伝わってくるように思われる。

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   五女ありて後の男や初幟      正岡子規

 「五月の中に死ぬ日あり」と詠った明治32年の作品である。
 子規は苦難の病床あって、いついかなる時も弱者ではなかった。健やかな精神を最期まで絶やすことがなかった。
 掲句は、陸羯南のところに男の子が生まれた喜びである。女の子ばかり5人続いて、やっとこさの男の子、跡取りの誕生はいかばかり狂喜したことであろう。こんなにめでたい初幟があるであろうか。読者もまたご同慶の至りというほかはない。
 それにしても、「五女ありて後の男や」と簡潔に言いきって句意によどみがないところ、厄月にしてかくも晴れやかな五月の空を詠いあげるとは、子規の才覚を敬うばかり。



   ざぶざぶと白壁洗ふ若葉かな     小林一茶

 「ざぶざぶと洗濯する」とはよく言うが、その洗濯物がなんと白壁だというあたり飄逸としてスケールが大きい。そこで若葉かな、とくるからにはもう目の覚めるようなさみどりとまっしろな対比、存分の水の透明感がどっと印象されていかにも快適である。
 一茶終焉の地を訪れたのはもう20年も前になるが、一茶旧居の土蔵はたしか白壁だった。家にまつわりついたしがらみもろとも洗い流すような、ひたすらの壁洗いであろうか。力強く、さぞかしスカッとしたであろう仕上がりである。
 「若葉かな」、季題が光っている。



   父想ふことが力よ新樹行        星野立子

 「立子は海が好きであった。海のブルーが時にはエメラルド色に変わる時もあり穏やかな由比ケ浜の海岸は虚子も好きでありよく散歩されたものであった。風に吹かれて立っている立子に沖の波は繰り返し声援を送っていたのに違いない。私はその海の色を立子ブルーと言いたい。」、と立子の長女、星野椿が『星野立子句集 レクイエム』のあとがきに記している。
 虚子をして「立子に学んだ」とまで言わしめた立子の俳句は、どれも虚子の力をわが身の力として歩んだあかしでもある。
 掲句のみずみずしい立木のみどりは、立子の芯にあるもののイメージをはからずも引き出している。


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   万緑や死は一弾を以て足る     上田五千石

 なつかしい句である。初学時代に共鳴したということもあるが、やはり内容そのものがなつかしい。
 「死は一弾をもって足る」というフレーズは、死へのはるけき憧憬があればこそ言いきれるもので、ここには青春の匂いが立ちこめている。だが、この句を成したときの作者は、そんな物思いとはうらはらに、今の私は絶対死にはしない、という確信があってこそ詠いあげられたのであろう。「死は一弾を以て足る」という危うさを以て、「万緑」という季語に錘をかけたのである。
 「一弾」の凄みを架空に秘めて、いっそう溢れんばかりの生命力が緑濃くおおいかぶさってくる。


   白きもの隠しおほせず柏餅      鷹羽狩行

 柏餅を手にしたとたん、もう子供の心になっている。粒餡がいいの、漉し餡がいいの、いや東京人は味噌餡ですよ、なんて好みを言い合うのも楽しい。
 柏餅が句会のお茶受けに登場すると、兼題は「柏餅」に決まりである。そこで浮かびあがってくるのは、<てのひらにのせてくださる柏餅 後藤夜半>の一句である。
 かねて、このシンプルにまさる柏餅はない、と決め込んでいたのだか、掲句の「白きもの隠しおほせず」に出会って、久々に夜半句同様の感銘を覚えた。
 葉っぱの端っこからは、文字通り真っ白な餅肌がのぞいていて、その艶やかな白さを新茶の緑とともにまず目で味わうのが常だったからである。全く「その通り」としか言いようのない句である。
 歳時記を繰ると<柏餅古葉を出づる白さかな 渡辺水巴〉もあったが、やはり掲句の率直こそがおもしろいと一呼吸入れたところで、もう一味隠されていることに思いあたった。
 この「白きもの」はご自身の白髪でもあるのだろう。古来男子の節句に欠かせない柏餅たるものの味わいをしかと味わっているのである。年齢を意識したとしても、気持ちがスカッとして明るいところ、さすがダンディーな柏餅である。


   声かけし眉のくもれる薄暑かな      原 裕

 「薄暑とはどのような暑さをいうのか?」と聞かれたら、「声かけし眉のくもれるような暑さです」、と答えることができる。たまたま行き会った人に声をかけたら相手の眉がくもった、そのことで薄暑が認識されたのであり、あるいは、薄暑の折であったから、相手の眉がくもったともいえるだろう。作者の微妙な感覚が薄暑に後押しされるように、間髪を容れずに仕上がったものである。
 人生という暮らしの日常と自然という時節のありようが、すばやく一身の中で一体となった。「俳句とはなつかしさの発見である」と言いきった作家の面目躍如たる一句である。


   夏木立少年の尿遠くまで          辻 征夫

 何と爽快な光景であろう。青葉濃くなった木々の影を踏まえて、少年の放尿は清流の如き響きを伴っていかにも涼しげでありかつ健康的である。小便小僧のあの身の反りの印象もあれば、幻想的な絵の趣もあって、夏木立を切なくも際立たせている。


   鳴き出せる声はるかなり時鳥       松瀬青々

 「伝統を負う季語への挑戦を」と題して茨木和生が松瀬青々の「ほととぎす」の句の多作ぶりを示していた。そこに、中上健次の発言として、「パッと作らず<体験>から<経験>に通底したときに大きなものが飛び出してくる」とあったように記憶している。中上健次の発言はさながら掲句のような一句に結び付くものであろうか。
 作家のほととぎすへのあこがれを思う。生まれたときからすでに古い、古いものが何よりいま新しい、そんな時鳥の声である。


   泰山木乳張るごとくふくらみぬ       阿部みどり女

 阿部みどり女は明治19年生まれ。虚子に師事し、写生を体得するために素描も学んで春陽会展に入選する腕前であったという。デッサンの眼がここにも大きく開いている。掲句は遺句集にあったもので、90歳を超えての作品と知れば、この馥郁たる情感、愉快さ、たおやかさ、瑞々しい命に驚くばかり。
 他に、<九十をいつか越えたりいつか夏>、<ばら愛すごとわが生涯愛すかな>、<握手してこぶしに秋の涙かな>


   二階にも薔薇を咲かせて留守らしく     原田 暹

 「バラが咲いたバラが咲いた真っ赤なバラが、さびしかった僕の庭にバラが咲いた、、、」、一世を風靡したマイク真木の歌を思わず口ずさんだ。まことフオークソング調の少し影ある明るさがが滲んでいてほほ笑まされる。あいにくの留守ながら作者は十分にこの家の友人と心つながった思いに立ち去ったのであろう。歌もこう続く、「、、僕の心にいつまでも散らない真っ赤なバラが、、」。
 歌はさておき、二階にも、むろん玄関回りにも庭にも丹精込めたバラの花を静けさの中に咲かせて美しい一句である。
 読めばふっと明るくなる句は作者の独壇場である。


   蕾はや天と語りて桐の花           加藤信吾

 桐の花といえば思い浮かぶ名句は、<電車いままっしぐらなり桐の花 星野立子>、<通るとき落ちしことなく桐の花 中村草田男>、<曇天にまぎるる桐の咲きにけり  相馬遷子>、<桐咲いて雲はひかりの中に入る  飯田龍太>などである。かにかく、桐の花は咲ききっているときさえ定かには捉えにくい花である。その靉靆たるところがなつかしさを呼び覚ます情緒として詠われることが多いのであろう。
 しかるに掲句は、天上高く蕾をさしだしている梢がくっきりと見えてくるものである。
 いましも花咲かんとしてほぐれそうなる蕾を詠いあげた視点のあたらしさこそが、穢れなく清楚なる桐の花をイメージして堂々としている。

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   地面よりつめたき風や蝸牛       中村夕衣

 平明だが臨場感のある句にはふと立ちどまされる。そこに居る蝸牛の命のさまはいかにもいとしい。「つめたき」だからこその蝸牛、しかも何に比較してのつめたかさと言えば「地面」、この目線の低さがあればこその「蝸牛」である。なまあたたかい風であればたちどころに蝸牛の輪郭は失せるであろう。
 作者の師であった俳人田中裕明の句に<穴惑ばらの刺繍を身につけて 裕明>がある。この句はいつ読んでも、まるで蛇が薔薇の刺青しているような錯覚を覚えて思わずニヤッともゾッともするのだが、中村夕衣もまたこの句について、蛇の姿の映像としてとらえたが、人間が身につけている「薔薇の刺繍」と理解する方が自然かもしれないとし、――どちらにしろ、穴惑という季語が配されることによって、「薔薇の刺繍」というものがもつ秋の季感が引き出されてくる。そのことに驚かされ、そして納得する――と述べている。
 この感想からあらためて掲句にもどると、地面にはたっぷり水が満たされているようなみずみずしい潤いが感じられて、立ち去りがたくなった。
by masakokusa | 2008-05-01 17:31 | 秀句月旦(1) | Comments(0)
秀句月旦・平成20年4月               草深昌子

   入学児に鼻紙折りて持たせけり    杉田久女
   栴檀の花散る那覇に入学す       〃


 子供の小学校入学に際し、若き母親はいささかの緊張とともに冷静にやさしく鼻紙をきちんと折って持たせた、頑是ない子もきちんとそれを握りしめた様子である。
 「ハンカチと鼻紙」はセットであるからここは「ハンカチ」でもよかった、だが久女はハンカチでなく「鼻紙」を選び取った。ここに俳句に対する久女の天性の信頼がうかがわれる。鼻紙であればこその入学児のあどけなさ、母親ならではの頬ずりしたくなるような情愛がにじみ出るのである。絶えず鼻をすするのが昔の子供の表情であったが、入学に際し子供の顔もちょとあらたまった感じである。
 
 センダンノハナチルナハニ、このダイナミックな調べは、「入学す」という下五に凝集されて、堂々としている。引き締まった顔立ち、そこには胸を張ってまっすぐに歩みはじめた子供の意志すら感じられてくる。久女ここにありという気がする。
 「花(ハナ)」が「那覇(ナハ)」を尻取りのように誘いだすことも韻律をいっそう弾ませているようである。栴檀の花は本州では5月か6月に咲く薄紫の花であるが、南国那覇では4月にもう咲いて散るのであろう、いかにも温暖な感じの栴檀の花がスケールを大きくしほのぼのとしている。  「栴檀は双葉より芳し」と、大成する人は子供の時から優れているということばを思い出すまでもなく利発な入学児である。

 前句の細やかさ、やさしさ、後句の大きさ、強さ。両方とも久女のものである。表がやわらかであっても裏には強さがあり、表が強くあっても裏にはやさしさが控えている。物を見通す力の凄味とともに、比類なき愛情の深さが思われる。


   さまざまの事おもひ出す桜かな     芭蕉

 先日、満開の桜をくぐりぬけて、百歳にならんとする母を見舞ったが、すでに母はボケていて私が誰だかわからなかった。数年前には姉と二人で両脇を支えながら、きれいな―きれいなーと言いながら、ここ高田川の土手の桜を堪能したというのに。あんな幸せな花見はなかった。そう思いだしながら夢幻のごとく私はやはり母の手をひいて花の下をゆっくりゆっくり歩いているのだった。「さまざまの事おもひ出すさくらやなー」とつぶやいていた。はっとした、あっ、これは芭蕉やったなー。
 なんてすごいことだろう。三百年以上も前の芭蕉の言葉がいま私の気持そのものとなって、私の眼前に繰り広げられている光景そのものとなって〈さまざまの事おもひ出す桜かな〉と反芻してやまないのだ。
 私のことなどわかっても、わからなくても、もうそんなことはどっちでもいい、桜にまみえることの幸せに涙がにじみ出るばかり。
 毎年、標語のように口ずさんでいた芭蕉の一句は、命あることばとなって今年いまここに、しんじつよくわかった。私は、母もろともに本当のことばを泣きたい思いで抱きしめていたのである。

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   大いなる春日の翼垂れてあり   鈴木花蓑

 花蓑というと、〈団栗の葎に落ちてくぐる音〉、が先ず浮かぶ。かにかく緻密に徹底した写実こそが花蓑と思いきや、はたして、「春日の翼垂れてあり」という、この大いなる転換にはあっと驚かされる。発想の転換などというものではない、じっくりと観察する時空の中からある時じわっとつかみ取った実感、自然へのいれこみであろう。
 春の太陽は、燦燦たる陽光でありながら、どこかけだるさ、ものうさを感じさせられることが、「翼垂れてあり」という周到の修辞によく出ている。
 蕪村の〈春の海ひねもすのたりのたりかな〉にどこかかよっている。蕪村の海にしても、花蓑の太陽にしても、紛うことなき大自然の春そのものの色や味わいを悠然とかもしだしているのである。


   その辺の草を歩いて啄木忌    大峯あきら

 一句からは、石川啄木の歌がたちどころに浮かび上がってくる。
〈不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心〉、あるいは〈その昔小学校の柾屋根に我が投げし鞠いかになりけむ〉、だれの胸にも思い出の底にその歌とともに芒洋と存在する天才歌人啄木を彷彿と引き出してくれる。そのなつかしさが一句を気持ちよく清々しく朗誦させる。
 「その辺の」、「草を歩いて」、何でもない平明な言葉の連係が濃密に読者のこころに響いてくるのは、作者その人が本当に心の底から湧きあがってきた啄木を偲ばずにおれない気持ちの濃さにほかならない。
 その辺の草一つにしてもあだやおろそかに見ているのではない、本当の詩人のことばは本当の詩人の胸にいまあきらかに伝わっていることが、なぜだかわかるのである。
 夭逝の啄木になりかわって喜びたい気分である。


   田に人のゐるやすらぎに春の雲   宇佐美魚目
 
 春の雲があるべきところにあるべき姿をして浮かんでいる句である。つまり「春の雲」の本情のままに美しい情景である。広々した空間に一点景として人がいる、そのことがぽっかりと浮かぶ白雲をみるからに春の情趣に包み込んでいるのである。
 風景は不思議なもので人を容れるとふいに輝きはじめる。一句の息遣いからは、人間もまた花鳥同様、自然の中に循環する命を持っていることを気づかされる。
 「やすらぎに」という「に」の助詞のはたらきが美的に静かに作用していることはいうまでもない。


   春の燈や女は持たぬのどぼとけ   日野草城

 女の喉が白いとか、すべすべであるとか、その美しいさまを述べたら平板な事実にすぎない。
「女は持たぬののぼとけ」とわざわざそこに見えない喉仏を引き出してくるあたりが凡手にはできない。喉仏がないとまで言うからには、近々と相寄ったのではないだろうか、肌触りまでも想像させるあたり、俄に奥行きがましてくる。
 男が見つめている女、ここには艶なる何かを感じさせるものがある。それはとりもなおさず「春燈」という朧なる夜のともしびのありようである。


   永き日や波のなかなる波のいろ  五所平之助

 昭和55年3月発行の月刊誌『太陽』は「俳人とその職業」を特集している。その表紙を飾った写真は今もよく覚えている。富士山を背景にロケ中の俳人・五所平之助の悠然たる姿であった。五所平之助は、昭和期の映画監督として有名であったが、初代「伊豆の踊り子」を撮ったことでよく知られている。
 「僕の映画には必ず季節感をとり入れた」「光と影と、前者が映画監督の道とすれば後者は俳句の道。二つの道は表裏一体だ」、という言葉がそのまま、掲句の印象にかさなってくる。
 春のあたたかな一日、なかなか暮れようともしないのんびりとした感覚を逆にシャープに切り取っているあたり、まさに光と影の陰影をかもしだしている。微妙なところを捉えた鋭敏な感覚もさることながら、「永き」、「波のなかなる波のいろ」と「ナ」音をたたみかけてひっぱってゆくあたりの表現も、永き日という空気感を眼前に打ち出して、まこと映像的である。


   臍の緒を家のどこかに春惜しむ  矢島渚男

 「臍の緒」ということばがすでに懐かしい。赤ちゃんと母胎をつないでいた柔らかな命の管ともいうべき小さな名残り。子を産んだあと真新しい桐の小箱に納められた、それを桐のタンスに大事にしまい込んだ記憶はあるが、さて何十年も経ったいまはどんなふうに眠っているのであろうか。
 掲句の「家のどこかに」が何ともゆかしい言い回しであって、かすかに切なさを漂わせる。はっきりとさせないで、芒洋とさせておいて、なおたしかに存在しているであろう一塊のくらがりを読者に想像させるものである。
 「春惜しむ」ということは、言いかえればこのような、なにかはっきりしないけれど、胸にふっと湧いてくる淡い感傷的な思いに違いない。そして何よりソフトな感覚である。


   ただひとりにも波は来る花ゑんど   友岡子郷

 真鶴半島を歩いてさらに福浦漁港に立ち寄った折、白波を向うに、支柱にワンさと這い上がった白いえんどうの花が揺らいでいた、その時、数人が期せずして掲句を口ずさんだ。
 「いいわねー」とみな目を細めた。一つの風景が一句と結びついて、一人一人の胸にたたみこまれていった浦風の静けさは忘れられない。
 この句は意味的に「ただひとりにも波は来る」と、すっと読み下したくない。ここはやはり五七五の調べを意識し、「ただひとり」であるかなきかの間をおき、「にも波は来る」とすかさず明瞭に続けて、「花ゑんど」とドスンと抑える。あとは余韻余情にたっぷりひたるばかり。
 何でもないように見えて緊密な構成が、寄せては返す波の詩情にかぶさってくる。

 後に知った事であるが、掲句は平成7年、阪神大震災後、安乗岬での作品であった。「青海原から寄せてくる波を見ながら、私は自己の孤心を思い、それから震災死者たちの無念を思った」と作者は記されていた。


  子のくるる何の花びら春の昼   高田正子

 伊東静雄に「春浅き」という詩がある。
―あゝ暗と  まゆひそめ  をさなきものの  室に入りくる   いつ暮れし  机のほとり  ひぢつきてわれ幾刻をありけむ   ひとりして摘みけりと  ほこりがほ子が差しいだす  あはれ野の草の一握り   その花の名をいへといふなり  わが子よかの野の上は  なほひかりありしや   目とむれば  げに花ともいへぬ  花著けり ―
 しみじみと、ああいい詩だな、と思う。
 掲句はまたしみじみと、いい俳句だなーと感じ入る。
 愛らしい幼な子がうら若き母のたなごころにあまやかに触れてくる、そのささやかなスキンシップは、「春の昼」の情感そのものである。
 どこかけだるいような肉感、幸せならばこそのふとした愁いをそっくり季語に包み込んで、ただ寡黙に十七音を提示するのみにとどめている、これが俳句である。


   われもゐし妻の若き日桜貝     大屋達治

 「われもゐし妻の若き日」、何となくそっけない口ぶりだが、「桜貝」に仮託した心情は結構ごちそうさまである。
 古い写真をみると、妻のうしろに写っている脊中、「あら、これあなたじゃない?」なんてことはよくあるだろう、俳人はそんな微妙な郷愁を瞬時にすくいあげる。
 結婚するなんて思いもよらなかったあの頃、でも後ろから見守っていたオレだよ。甘いばかりではない、そこはかなとなき時空の不思議さ。
―ほのぼのと薄紅染むるは  わが燃ゆるさみし血潮よ  はろばろと通う香りは  君恋うる胸のさざなみ―「桜貝の歌」も当然下敷きにあったであろう。


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by masakokusa | 2008-04-01 09:41 | 秀句月旦(1) | Comments(0)
秀句月旦・平成20年3月              草深昌子

  苗札の夕影長く曳きにけり     てい女

 私の手元にある三省堂版の虚子編歳時記は平成13年増訂68刷発行(初版は昭和9年発行)のものであるが、これに載っている一句である。この「てい女」なる俳人が阿波野青畝の妻、貞であることを知ったのは、自句自解・阿波野青畝句集からである。
 青畝に、<苗札がひとりたふるることありて>がある。苗札が全く自然に倒れている、それを青畝はまた挿しなおしたのだが、それは「けだるい春の日が私にささやいた一つの動きだったように眺めた」と書いているが、このとき、数年前に36歳で亡くなった前妻のおもかげを見たのではないだろうか。続けて、「苗札といえば、前の妻は<苗札の夕影長くなりにけり てい女>の唯一句をホトトギス雑詠に登録した。当時は作者の号だけ書き、姓は無かった。ついでながらのことを発表しておかないと、亡き妻は一句も世に残さなかったと思われるから」と記している。
 青畝と貞の間には昭和3年長女多美子が生まれた。だが、多美子は23歳にして亡くなっている。多美子は歌に<苗札の夕影長くなりにけり実母の残せし文字のつたなく>を遺している。5歳にして生母を亡くした多美子にとって苗札の一句こそは母その人をしのぶ恋しい恋しいよすがであったのであろう。青畝が<夕影長くなりにけり>と自句自解で誤記?しているのは、この多美子の歌の印象が濃くあったのかもしれない。
 掲句は朝でも昼でもない、何より「夕影」が美しい。今日という一と日の安堵を伝えて、いとけなきものへの祈るようなまなざしがうかがわれる。


  雛の軸おぼろ少女と老女寝て    原 裕

 床の間には雛の絵の掛け軸がかかっている。雛に見つめられて、その座敷には祖母と孫が相寄って、すやすやと眠っている構図である。
 一句のまんなかにはさまれた「おぼろ」という措辞が文字通り朦朧として一句全体に行き渡っているところ韻律と言い内容と言い、なつかしさにあふれている。
 原裕は「自然物であれ、生活であれ、心の奥になつかしさを呼び覚ますものを詠みたい。なつかしさは過去にかかわるならば原始的ななつかしさを、現在にかかわるならば身を切るなつかしさを、そして未来にかかわるならばいのちの尊厳にふれたなつかしさを」という持論をくりかえした。一句の頭にまず「なつかしや、、」と置いてみて、よくひびく句はいい句だよ、と言われたこともある。
 掲句はそのような深き思いに至るべくひたむきに実作に取り組まれていたであろう頃の37歳の作品である。時空のやすらぎにほのぼのと目を細めている作者の温顔が目に見えるようである。ちなみに、雛の軸は原石鼎の描いた内裏雛、老女は原コウ子、少女はその孫、当時幼稚園児であった原朝子であろうと思われる。
 茫茫40年、原朝子は平成19年第一句集「やぶからし」を刊行された。

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  鳥雲に入るおほかたは常の景    原 裕

  「鳥雲に入る」は、秋から冬にかけて日本にやってきた渡り鳥が越冬して、やがて春になって北方へ帰ること、つまり「鳥帰る」という季語と同じことである。だが、「鳥帰る」よりはいっそうはるけさを誘い、リアルにしてなお余情があるようである。これはひとえに雲の一字の働きでもって具体的に目に見えるかたちとなっているからであろう。これを感傷的にゴタゴタと捉えてはつまらない。
 「おほかたは常の景」というぶっきらぼうな、ある種突き放したような言い方が、より季語の世界を拡大して生活者たる人間の寂しさを暗黙のうちに感じさせる。鳥は来て、鳥は去りゆく、そういう移りゆく季節への思いがしんかんとひびいている。
 簡潔な言い方にこそ俳句の魅力がつまっている。読者がこの短さあとの思いを埋めてゆくのである。


  春の雪薪の上につもりけり     大峯あきら

 雪はどこにでも降る。川の上、崖の上、屋根の上、塔の上、木々の上、雪は降るところを選ばないできりもなく落ちてくる。だが作者は、もろもろに降りかかる春の雪のなかでも、薪の上につもりゆく雪にほーっというほどの明るさを覚えて引き寄せられたのである。そしてその素直な感動をそのまま表出するにとどめた。何とあたたかな視線であろう。読者もまたその視線にゆったりと導かれる。
 谷あいの山家であろうか、しろじろと花びらを積み重ねたような穢れない淡雪もさることながらそこにはぎっしりと整えられた薪の切り口までもが見えてくる。薪水という言葉を思うまでもなく、薪は燃料として暮らしに欠かせざるもの、やがては竈に焼べられて焔となるものである。「積りけり」でなく「つもりけり」には、そっと畳み置かれたようなやわらかさが感じられる。
 春雪の落ち着きどころとなった薪棚の薪はしっとりとして静寂そのもの、それでいてどこか刹那の交歓にはなやいでいる気配が漂う。


  帆を立てて近江堅田の春しぐれ      橋本榮治 

 上五の「帆を立てて」が何といっても一句の気分を高揚させる。固有名詞の「近江堅田」も堅牢である。この隙間のなさが春の情趣を奏でて雨の糸を目に見えるように描いている。
 堅田は、〈湖もこの辺にして鳥渡る 高濱虚子〉と詠われた浮御堂のあるところ、琵琶湖の東西両岸の幅がもっとも狭くなるあたりである。芭蕉七部集の「猿蓑」に、〈いそがしや沖の時雨の真帆片帆 去来〉がある。―ー去来曰く、猿ミノは新風の始、時雨はこの集の美目なるに、此の句仕そこなひ侍る。―ー等はともかく、沖がしぐれてきて出漁の舟が真帆にしたり片帆にしたりあわただしく動いているというのは冬の情景そのもの。
 片や春しぐれの掲句は、堂々としていささかの躊躇もしない帆舟である。いさり舟であれヨットであれ、この帆かけは真っ白で、時雨の中に春色をきらめかすのである。


  象谷に恋する蝶として生まれ      山本洋子

 象谷(きさだに)に二匹の蝶がもつれあうように舞っている。それを目の当たりにした作者は「恋する蝶として生まれ」と瞬時に詠いきられたのではないだろうか。そんな勢いのある句である。勢いはとりもなおさず蝶の飛翔そのものでもあった。
 ひらひらといのちをひらめかす蝶々は子々孫々、蝶々として生まれ、蝶々として生き、蝶々を生んできた。ああ、いまここにもまた命が引き継がれようとしているのだ。
 おおらかな感動のほとばしりがまこと率直に「恋する蝶」の直感につながっている。象谷であればこその直感である。
 象谷は、宮滝遺跡から吉野川を隔てて、象山と三船山の間にある狭い谷間である。
〈み吉野の象山の際の木末(こぬれ)にはここだも騒ぐ鳥の声かも〉と山部赤人に詠われた万葉の時代をとどめる象の小川をたどりつつ、敬虔にしてこころ大きく解き放たれた女人ならではの一句。
 万葉集に蝶は一首も詠われなかったというが、まぎれもなく万葉の息吹を伝える蝶である。

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  姉ゐねばおとなしき子やしゃぼん玉     杉田久女

 久女には二人の女の子がいた。長女昌子と次女光子は五才離れている。
 久女の子供に限らなくても思い当たる仲良し姉妹のありようであり、しゃぼん玉はほほえましくも愛らしい光彩を放っている。若き母親の一息ついたのどけさも味わいである。
 このような子育て最中の大正八年、久女二十九歳の時に、〈花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ〉の代表作が生まれている。
 紐いろいろ、を解釈しながら「此句の如きは女の句として男子の模倣を許さぬ特別の位置に立っているものとして認める次第である」と虚子が評言したものであるが、しゃぼん玉もまた女親ならでは観察眼が利いている。


  卒業の涙を笑ひ合ひにけり     加藤かな文

 卒業のはれやかさがこんなにも気持ちよいものであったのだと、今さらに思う。すばらしい卒業のありかたである。
 卒業とは別種のものも含めて人の世の別れを思うとき、いつも幸田文の文章が思い出される。「別れだの終りだのは、事のしめくくり、情緒の栄養剤、生活の清涼剤ではなかろうか。あえて意地のわるいことをずけずけいうなら、そんな軽い別離ではなく、もっと重くずんと身にこたえる、別れの哀惜、終りの悲嘆に出逢ったとき、人はみがかれると思う。私たちの胸には、日常ああ思いこう思う、いわば情念のごみみたいなものが山と積もっているが、別れや終りにはそれを吹きはらってくれる、冷えた風のように私は思う。傷みを伴うけれど、別れとはいいものである。」


  かたくりは耳のうしろを見せる花     川崎展宏

 この句に出会ったときの驚きを忘れられない。そして未だに初めて出会ったときと変わらぬ新鮮さをもって片栗の花といえばもうこの句しか浮かばない。一切の手あかを排除した潔癖なつややかさは、ひやっとした感覚をもって、ついつい大らかに口誦したくなる。そして、堅香子色に透き通るような季節感がただよって、すぐそこにいる乙女、いやすぐそこにあるかたくりの花に跪くのである。
 この客観にして鋭敏な対象への迫りかたは、高濱虚子を論究してやまなかった展宏の花鳥諷詠であると同時に、やはり人間探求派加藤楸邨門ならではの巧みさであって、まさに鬼に金棒というほかない。


   赤い椿白い椿と落ちにけり    河東碧梧桐

 初学より印象鮮明という点で忘れられない句である。何十年経ってもいよいよ鮮明に蘇るのは、この句ほど即物的なものはないからかもしれない。
 紅い椿がぽたっと落ちて、そのあとにまた白い椿がぽたと落ちて、また赤い椿がぽたっと落ちて、動画を見るように眼前に赤い椿と白い椿が舞い踊るのである。しかし、実際の解釈としては赤い椿が散り敷いていて、白い椿もまたひとところに散り敷いているという光景であろう、とは思う。そんな静けさにある絵画的なものでなく、より過激的に色彩がゆらいで見えるのは「落ちにけり」という、言葉が作用しているからであろう。生き生きとしてかつ重量感のある椿である。
 三尺の童子が作ったようでいて、なお冷徹な俳句ではある。
 河東碧梧桐は、松山市生まれ。子規の俳句革新運動を助けて、その没後高濱虚子と俳壇の双璧をなした。碧梧桐の新傾向俳句は一世を風靡したが、次第に衰退し、昭和8年には俳壇を引退し、昭和12年に没した。
 <たとふれば独楽のはじける如きなり 虚子>は、前衛俳句に散っていった旧友をしのんで高浜虚子がたむけた弔句である。ここにも、私には、赤い椿白い椿が一色になって急回転しているような勢いを感じるのである。

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    盥浅く鯉の背見ゆる春の水     正岡子規

 ある日左千夫鯉三尾を携へ来たりこれを盥に入れてわが病床のかたわらに置く。いう、君は病に籠りて世の春を知らず、故に今鯉を水に放ちて春水四沢に満つる様を見せしむるなりと。いと興ある言ひざまや。
 さらば吾も一句ものせんとて考ふれど思ふやうに成らず。とやかくと作り直し思ひ更へてやうやう10句に至りぬ。さはれ数は10句にして10句にあらず、一意を十様に言ひこころみたるのみ。
  春水の盥に鯉のあぎとかな
  盥浅く鯉の背見ゆる春の水
  鯉の尾の動く盥や春の水
  頭並ぶ盥の鯉や春の水
  春水の盥に満ちて鯉の肩
  春の水鯉の活きたる盥かな
  鯉多く狭き盥や春の水
  鯉の吐く泡や盥の春の水
  鯉の背に春水そそぐ盥かな
  鯉はねて浅き盥や春の水
  
                           (墨汁一滴 3月26日)

 今、あたかもそこに居る子規を何と身近に感じることだろう。そして、春水四沢に満つるさまをいかようにも見ることができる日々にあって、その実何一つ見ていないわが凡愚を恥じるばかり。
 それにしても10句中、どの一句にも、春、水、盥、鯉の4文字の漏れがない。まこと一意に徹してひるまいない精神である。病床六尺の子規は、盥の鯉になりきっている。この春日の一と日をまぎれもなく生きた子規、今なおここにありありと生きている子規である。


   春の山屍をうめて空しかり      高浜虚子

 高浜虚子『七百五十句』は、虚子没後に、高浜年尾、星野立子共選にて、「日本現代文学全集」第25巻『高濱虚子・河東碧梧桐集』に収録された。これの最後に次の6句が入集されている。昭和34年3月30日、虚子の最後の句会である。

    幹にちょと花簪のやうな花
    椿大樹我に面して花の数
    鎌倉の草庵春の嵐かな
    英雄を弔ふ詩幅桜生け
    春の山屍をうめて空しかり
    句仏17回忌
    独り句の推敲をして遅き日を

 虚子は二日後の4月1日に脳出血で倒れ、意識が戻らぬまま4月8日に永眠、85歳であった。「屍をうめて空しかり」も「独り句の推敲をして」も、てっきり虚子のことだと思いこんでいた。

 桜が咲き始めると、いつも見慣れた山々がにわかに親しみを増して、「春山淡治にして笑ふが如し」とは言いえて妙だと納得するのであるが、掲句からは、そんな春山と一体になった虚子がイメージされて、「空しかり」がいっそう胸にひびくのだった。
 絶句となった、句仏なる前書の俳人は大谷句仏上人であることを承知しながらも、句仏とは虚子が生きながら俳句の仏さまになったようなイメージで捉えられてならなかった。つまり70年にわたる句業の生涯は最後の最後まで、ペンを握って俳句を案ずることに他ならなかったという思いである。

 ところが、稲畑汀子の『虚子百句』(平成18年9月刊行)を読んで、「屍」は鎌倉の山に葬られた英雄、頼朝のものを指すこと、そして「独り」の句は完全な贈答句であって「孤独であっても信念を曲げずに」という句仏に寄せる虚子の深い情であることを緻密な検証からあらためて知ることとなった。
 ――「この生き生きと生動する鎌倉の春山の姿に比べれば、頼朝の屍を埋めたことなど大したことではない。現に750年の経過の中で、頼朝の墓所はすっかり源氏山の一部になってしまっているではないか。いかに英雄の埋葬という人間界の大事件と言えども宇宙の運行の前ではむなしいものである」といった程の意味であろう。――
 この解釈に感動を覚えながら、なお「屍」が虚子であり、「独り」が虚子であってもいいのではないか、そんなに大きな違いではないかと安堵の気持ちがわきあがるのは、汀子の鑑賞が、虚子の一句に対して、ダイナミックな「脇」になっているからであろう。

 花鳥諷詠の虚子に死の予感などなかった、とうに生死を超えたところにまみえておられたのだった。
 <幹にちょと花簪のやうな花>花鳥となった虚子はどこまでも初々しい。虚子没後半世紀、虚子の忌日がまたやってくる。

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by masakokusa | 2008-03-04 22:52 | 秀句月旦(1) | Comments(0)