カテゴリ:『邂逅』書評抄録1( 14 )
毎日新聞  ・  新刊欄

 草深昌子句集『邂逅』
 
 平成3年から12年間の作品を収めた第2句集。原裕に師事した後、大峯あきら氏と出会い、句風に広がりをみせた。吉野山中の自然詠など叙情を抑制した中にも思いの濃さが現れる。<花散るや何遍見ても蔵王堂> 
 (ふらんす堂・2,400円) (S)



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by masakokusa | 2007-06-15 08:51 | 『邂逅』書評抄録1 | Comments(0)
『俳句研究』・新刊句集渉猟  2003年11月号

 草深昌子『邂逅』・平成15年6月ふらんす堂

 作者は昭和18年、大阪生まれです。「雲母」「鹿火屋」を経て、現在は「晨」「ににん」の同人です。平成3年から14年まで、12年間の句を収めた第二句集です。
俳句に対するまじめさと才気を感じさせます。ことばで作る句もあり、実景を見ようとされている句もあり、いろいろなやり方を試されています。一つだけ言えば、まじめさが裏目に出てユーモラスな句は少なかったということがあったかと思いました。
 この方の姿勢にはものすごく真剣なものを感じます。
 ですから、実直に直球でという感じです。いちばんいい句だと思ったのが、
  青田風とは絶えまなく入れ替はる
  青田風が入れ替わって、つねに新しいということがよくわかります。
 いままで「青田風」の例句でなかなかいいのがみつからなかったのですが、これはいい句です。
 素直にものを見ているのが、
  一本の棹を頼りの蓮見かな
蓮見船の情景でしょう。<一本の棹を頼りの>という切り取り方をする。それでいながら情景は素直に伝わってくる。うまい人です。
  鮟鱇のだんだん平べったくなりぬ
 大胆な言い方もできる人です。
  こんこんと水湧く春の水の中
 長谷川擢さんの<春の水とは濡れてみるみづのこと>を思い出させます。水の中で水が湧いているという、かなり言いにくいことをさらっと句にしておられます。
  往診の医師に道問ふ桐一葉
 複雑な内容なのに、これだけのことばから旅先の古い町並みが見えるような句です。
 ユーモラスな句もあります。
  花散るや何遍見ても蔵王堂
 でも、企んだユーモアではない。花を見られなかったという気持ちがあって、それが読み手にはユーモアに感じられるのでしょう。
 共感がもてます。名所旧跡に行くと、何遍見ても、これが本当にそうなんだよなというふうに見る。そういうところはとらえていますね。ちょっとユーモアを感じたのは、
  茅屋を緊緊(ひしひし)鳴らす更衣
妙に真実味があって、<緊緊鳴らす>がおもしろく感じました。
  猪喰うてさっさと別れゆきにける
 それほどユーモラスな句ではないけれど、よくわかります。俳句らしい表現だと思いました。でも、こういう言い口は他にもあるかもしれません。一つの系統の俳句としてこういう言い方はいつも出てくるなという感じがしました。
 わかりづらかったのが、
  流灯のまっすぐゆける血筋とは
 下五の言い方が変わっています。ご先祖のことを思ったのでしょうか。
 <まっすぐゆける>で切れて、す一つと遠ざかって行くのが見えて、そのときに<血筋>という思いが浮かぶ。
 作者の最後の呟きでしょう。この言い方はあまり見たことがないので心に残りました。
 栞で岸本尚毅さんが挙げていらした、
  おしなべて秋草あかきあはれかな
 「あ・あ・あ」でつなげた、しらべがいい句です。<あはれ>ということばを使っていて、この人の抒情をよく表しています。抒情を抑えたところによさがあると岸本さんが栞に書いておられたので、よけい印象的でした。
 全体にうまいですね。
 俳句らしい俳句といえば、
  ぼうたんに非のうちどころ無くはなし
 好きだった句は、
  たれよりも靴を汚してあたたかき
 やや、平凡でしょうか。でもここに一俳人の、泥に踏み込んだりする姿も浮かんで来ます。それを外しても鑑賞でぎます。この方のよさがいちばん表れていると思います。
 作者らしさを感じます。私は好きな句でした。
 俳句らしい俳句を突き詰めていくと無個性になっていく危険があるのですが、この句集はそうではなくて、この人の個性を感じるので、とても親しみを覚えました。
 うまいし共感もできますが、うまいで止まってほしくないですね。うまいけれど心に響かないところに行きそうな句もありました。
  篝火の衰ふ鵜縄はづしつつ
きれいに景がまとまっていて、これ以上先へ行けないのではないか。
 下手をすると類型に陥ってしまう危険があります。そのぎりぎりのところをやっていってほしいです。
 今後を期待しましょう。

 この連載の対談者は岩田由美氏石田郷子氏

 
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(2003年11月1日富士見書房発行、「俳句研究」2003年11月号(通巻第70台巻第12号)p226~228所収)
   
by masakokusa | 2007-06-14 17:08 | 『邂逅』書評抄録1 | Comments(0)
結社誌『河』・書評~句集散策        齋藤石雲
                        
 『邂逅』 草深昌子

 1943年大阪市生れ。1978年月植村通草(飯田蛇笏の高弟)に師事、「雲母」入会。同85年「鹿火屋」入会、同88年鹿火屋新人賞受賞、「鹿火屋」同人。同89年近松顕彰全国俳句大会文部大臣賞受賞。同93年第一句集『青萄葡』刊行。『平成俳人大全集』共著。同95年鹿火屋奨励賞受賞。同99年原裕主宰の逝去に伴い「鹿火屋」退会。現在「晨」、「ににん」同人。俳人協会会員。

    棚糸瓜仰ぐは子規をあふぐなり
    万太郎の露こぼれたるやうな字よ
    牡丹焚火人おびやかすときありし
    校門の前は小走り浴衣の子
    花衣脱ぐといふより辷りたる


 一句目、子規には有名な末期の三句の他に病床吟として「枯れ盡す絲瓜の棚のつらら哉」「落葉掻き小枝ひろひて親子哉」がある。この日、窓外を見れば親子連れらしい。自分も病んでいなければと思ってその親子を見ていた。やがて、子規の家に近くなったがこちらをいぶかるように去って行った。この時の子規の胸のうちはどうであったろうかと、著者は子規を悼んでいるのである。
 二句目、著者は前々から万太郎の文字に興味をもっていた。体格に似合わずやさしい文字を書く人だと。次の句に添え書きがある。「八月二十六日は諏訪神社祭礼なり。『かまくらをいまうちこむや秋の蝉』」万太郎は江戸ッ子、祭は大好き。鰻屋も盛えている。筆で大きく祭と書いたものが欲しい。
 三句目、樹齢を重ねた牡丹の枯れを焚くことを牡丹焚火という。須賀川牡丹が有名。春によい花を見せてくれたが、この無愛想ではと掃除をしはじめた。ふと目をはなした間に牡丹の根ちかくの落葉が燃えだした。人手がない。これでは危険と処置したというのである。
 四句目、街の祭に家の者が皆、行っている。そちらへ行くにはどうしても学校の前を通らねばならぬ。級友に見られると間が悪い。今まで嘘など言ったこともなかったがと思案投げ首、やがて学校近く、思いきり駆けだした。見れば学校には誰もおらず、見えるのは雲の峰、駆ける浴衣の裾が足に絡まるというのである。
 五句目、観桜といえば今もそうだが出かけるには女性は和服が多い。杉田久女に「花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ」があるが、久女の句は、一日中花の中にいて、家に帰りついて、さてこれからわが家の諸事をせねばならずと疲れをかこっているようだ。しかし、掲句にはそのような様子はさらになく、私はまだ若いと、早速普段着に替えた。始末する和服の衣ずれを気にしながらというのである。

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 (2003年9月1日発行・「河」9月号p106所収)
by masakokusa | 2007-06-14 17:04 | 『邂逅』書評抄録1 | Comments(0)
結社誌『谺』・書評~我田引句       平田雄公子


 草深昌子氏(晨・ににん)の第二句集『邂逅』(平成15年6月、ふらんす堂刊)を取り上げます。

    お砂場の山高くある端午かな

 子供たちが作る砂の山。掲句、当り前のよく見かける景でありながち、時は「端午」なのである。気のせいかこの砂山は、五月の節句の意気を示す高さであるばかりか、出来栄えもなかなか。作った子も何時ものように、帰りがけに壊して仕舞うことはしなかったらしい。

    手にしたるものみな舐めて初節句

 成長心理学では口唇期とも言うらしいが、一歳に満たない赤ん坊には何でも舐めてみる時期がある。「初節句」とあって、何かと玩具などの祝儀ものが手の届く、身の回りにあり、それらをせっせと確認的に舐めまくる幼子。その子の成長を見守る周囲を含めての目出度さの句。

    橡咲くやときに東大廃墟めき

 大学研究室を象牙の塔とも言うが、一般社会から見れば非生産的で後ろ向き、一種異端・高踏の世界であろう。橡の枝の先に、円錐状の白っぽい花が、三四郎池のほとりに盛大に咲くのは、五月頃であろうか。キャンパスは流石に広いが、概ね人通り閑散で、人気の全く感じられないブロックも多い。そのくせ、殊に近年安田講堂を埋め尽くすように無闇と威圧的な高層ビルが、密に建ち並んでいる。掲句の「廃墟」が、外観だけを指すものであって欲しいものだ。

    薫風や泣く子見てゐて泣き出す子

 青葉の風薫る中、さわやかなエールの交換。「泣き出す子」の情緒の絶対評価は難しいが、公園デヴューならぬ幼児期の学習行動の一つでもあろうか。

    九月十一日地球けぶりたる

 二年前のニューヨーク。全世界が見守る中、パクスアメリカーナの象徴とも言うべき巨大なツインビルが崩壊した。世界史観から見て、いろいろの分析がなされているようだが、その殆どは事後的な物言いである。あのリアルタイムでの凄絶な衝撃は、「地球けぶりたる」のフレーズによって、見事にかつ辛うじて現出・表現された。

    一木か一人か後の月の影

 十五夜とは違い、十三夜の月見はより風流かつ閑寂なもの。見ると、動かぬシルエットがひとつ。木なのか、同病の風流人なのか、もしや物の怪そのものなのか。

    マフラーの遠心力に捲かれたる

 婦人用の長めの「マフラー」が、細い首を締めている。それ自体一幅の絵だが、やや放心の危さすら見て取れる。それにしても、「遠心力」が働いているとは。

    寒梅や知恵の一つに人見知り

 余り社交的でない日本人には、「人見知り」は多いのかと思うが、それは「知恵の一つ」と仰る。日本人に最も欠けている危機管理意識を補う、知恵であるのか。「寒梅」の、自己抑制の利いた姿勢を、下敷きにしている句。

    赤ん坊紙風船を鷲づかみ

 冒頭に鑑賞した「お砂場の」や、「手にしたる」の句と同様、成長の通過点としての、ハイライトを謳う。それにしても掲句、可愛い景を捉えたものではある。

    涼しさは橋のかからぬ向う岸
 
 句集では掲句の少し後に、類想ではないにしろ同巧異曲と思われる「対岸へまはりて春を惜しみけり」が登場するのだが、掲句の方が想像の世界に遊ぶ分、面白くよりポエジーを湛えているようだ。

    ときに地図さかしまにして夏野かな

 心理学者の説を鵜呑みする訳ではないが、女性は地理感覚に乏しいようだ。まして掲句のように、余りランドマーク的な目標物のない地形では、誰しものこと。あちこちを見回すだけでは足りず、「地図」をさかさまに見る羽目になって仕舞った。地図より、勘の方が良さそう。

    鮭打つや一棒にして一撃に

 北海道の千歳川や、十勝川の漁場で見聞したことであるが、これは捕獲された「鮭」それも雄鮭であろう。揚句のように、棍棒で「一撃」して即死させる。一方、雌鮭の方は抱卵・孵化の関係から、生簀へ丁重に放り込むのだ。鮭の遡上というロマンの裏にある現実を、漁師の手練に即して謳ったもの。

    人間を辞めたくはなし日記購ふ

 人が、日記を購う動機をずばり言い当てたもの。尤もこれでは、買っても殆ど書き込まないことの説明は、どう付けたら良いのものか。日記が、護符になるのかも。

    桜咲くふしぎ男のゐる不思議

 桜が、年々爛漫と花を結ぶ「ふしぎ」。さて掲句の言うように、女にとって「男のゐる」ことは、もっと「不思議」なことか。生物学的には、「男」が半端な余計者であるらしいのだが。ところで、<女のゐる>ことは、不思議でも何でも無いのだろうか。

    二人ゐて二羽ゐて二頭ゐて麗ら

 創造主の思惑が奈辺にあろうと、生きとし生きるものにとっては、カップルが相応しい。間柄の具合は兎も角、二人・二羽・二頭で、やっと一人前なのだから。

    手を髪にいくたび触れて春惜しむ

 男の立場からは、あのしょっちゅう髪に手をやる女の仕草に、常々欝陶しい違和感を抱くもの。掲句はそれを惜春の情のなせるものと弁護するが、果たしてどんなものか。<髪フェチ>的な要素は措いて、髪に手を添えることが一種癒しに当たるものとして、掲句を納得しよう。

    こころざしありとせば立葵ほど

 一寸の虫にもの誓えのとおり、誰しも何らかの「こころざし」を持って、生きている。しかし、それがその人の全人格・生命を賭けたものであることは、滅多とない。掲句は、その辺の事情を汲んで、立葵と仰る。「立葵ほど」のぼんやりさ・優さに加え、若干の健気さがあれば、必要かつ十分だとするらしい。

    鈴蟲の躬をゆさぶって更けにける

 鈴虫(雄)は飼われた箱の中でも、まるで使命に殉ずるように、羽を震わせて懸命に鳴く。秋の夜長を鳴き通す鈴虫には、それなりの相応しい所作=パフォーマンスが、用意されているのだ。

 以上総じて作者が、控え目な表現ながら言うべきことを尽くすことに長けていることに、注目したい。その辺、作句手法の一つの模範答案になっていそうである。かと言って、類型=ステロタイプに陥らず、断然たる個性=プロトタイプを発信しているのは何故か。ここでは立ち入った分析までは出来なかったが、端正な句姿に濃厚な情念を見せる上掲作品から、是非感得して頂きたい。

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 (2003年9月5日・山本一歩編集発行・「谺」通巻第125号p16~18所収)


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『谺』・受贈句集御礼  山本一歩
 
 『邂逅』 草深昌子(晨・ににん)

  セーターの黒の魔術にかかりけり
  探梅の電波届かぬところかな
  ぼうたんに非のうちどころ無くはなし
  音の雨音なしの雨梅は実に
  一連の真珠を首にして寒し

 
(平成15年12月5日発行 山本一歩主宰「谺」平成15年12月号 p13所収)
                        
by masakokusa | 2007-06-14 17:01 | 『邂逅』書評抄録1 | Comments(0)
結社誌『澤』・書評~窓 俳書を読む   内田菫一 
             
 草深昌子句集 『邂逅』

  『邂逅』は、昭和18年生れ、昭和53年「雲母」入会、57年「鹿火屋」入会。現在は「晨」「ににん」同人の、草深昌子氏の第二句集である。平成3年から14年までの作品が、ほぼ逆年順に収められている。

    ものを言ふ身をのり出して春の潮
    老いてなほ靨深しや金魚玉
    帰省子に階段ひとつづつ鳴りぬ


 的確、確実な写生句はもちろん、

    初つばめ一度光に消えしより
    待宵の卓球台の平らかな
    ひぐらしの貌は皺苦茶かもしれぬ
    ゲーテ座へ行くなら獏の毛皮着て


 このような独特の着眼から生まれた句にも、十七音に決して負担をかけず、正面から俳句に取り組んでいこうとする作者の態度を窺うことができる。

    万太郎の露こぼれたるやうな字よ

 久保田万太郎の、原稿や色紙の字は小さい。しかしこの句の本意は、字の大きさにはないだろう。親炙した作家、戸板康二の『久保田万太郎』に描かれているように、万太郎はその令名の高さとは異なり、家庭人としては幸福な時間をあまり持てなかった。そういうひとりの文学者に、作者は思いを馳せているのである。

    柿点るきのふもけふも沙汰なくて

 すっかり葉の落ちた柿の枝に、実が一つ二つ残っている。晩秋の日ざしを過剰な程に浴びたその実は、夕暮れ時にかかって、なにか人工的な光を点しているようにも思えてくる。何の報せを待っていたのかは、わからない。西行と俊成の贈答歌を踏まえたという「猿蓑」の「市中は」の巻の有名な去来の短句(名残の折の折端)、「命嬉しき撰集の沙汰」では、返事が来た。しかしこの句では、昨日も今日も、なにごともなく終るのである。挟み込みの栞で、岸本尚毅氏は「もともとは叙情的な作家と思われるが、辛抱しながら俳句に忠実ならんとしている。その結果、表現に抑えの効いた佳句が生まれる」と書いている。本句集には叙情の勝った、その分、肩に力が入ったと思われる句も、ないではない。それはしかし、ぎりぎりまで作者が辛抱していることの、まさに証であるのだ。

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 (2003年11月1日「澤」俳句会発行・「澤」11月号第4巻第11号p31所収)
by masakokusa | 2007-06-14 16:59 | 『邂逅』書評抄録1 | Comments(0)
『八千草』(山元志津香主宰)・俳書紹介

   『邂逅』草深昌子句集   山元志津香 

 「ににん」同人。雲母、鹿火屋の新人賞など多くの賞を経ての作品群は岸本尚毅(天為・屋根同人)氏に、お世辞でなく、一読をお薦めし得る…と言わしめた一書。辛口の評論の氏が帯に「もともとは叙情的な作家と思われるが、辛抱しながら俳句に忠実ならんとしている。その結果、表現に抑えの効いた佳句が生まれる」と証言した。筆者の感銘句。

  岩洗ふたびに澄みゆく水ならん
  おしなべて秋草あかきあはれかな
  ぼうたんに非のうちどころ無くはなし
  春愁の紙の四隅を揃へけり
  人たれも背中忘れてゐる良夜

 
(平成15年8月10日発行、山元志津香主宰「八千草」No.27 p99所収)
by masakokusa | 2007-06-14 16:56 | 『邂逅』書評抄録1 | Comments(0)
『交響』(鈴木昌平主宰)・句集巡礼

 草深昌子句集『邂逅』 ふらんす堂刊  鈴木恭子 

 大阪生まれ。「雲母」「鹿火屋」に学ぶ。第一句集『青葡萄』の刊行は入俳後約十五年の後。その後「鹿火屋奨励賞」「深吉野佳作賞」を受賞。原裕主宰の逝去に伴い「鹿火屋」退会。2000年に「晨」と「ににん」に参加。俳人協会会員。この句集は第一句集の10年後の刊行ということになる。著者はまた、超結社の句会をかけがえのないものとし、その中心である岸本尚毅氏の栞文をいただいている。氏はその中で「この句集は、総じて言葉に対する制御が行き届いている。写生句の汲めども尽きぬ面白さは、言葉を微妙に操りながら、風景を手繰り寄せるように描く」とのべる。

  赤梨に田舎の目差しとぞ思ふ
  蟻穴を出づる出会ひの辞儀あまた
  ぼうたんに非のうちどころ無くはなし
  うしろ見るための鏡も夏の宵
  白梅のほかは夜空となりにけり
  人たれも背中忘れてみる良夜
  二人子に一つ四温の乳母車
  帰省子に階段一つづつ鳴りぬ
  ピーマンもトマトも赤く星逢ふ夜
  おしなべて秋草あかきあはれかな

 
 (2003年10月1日発行、鈴木昌平主宰「交響」2003年秋号 p44所収)          
by masakokusa | 2007-06-10 20:54 | 『邂逅』書評抄録1 | Comments(0)
『篠』(岡田史乃主宰)  辻村麻乃

  草深昌子氏句集『邂逅』を読んで
 
 『邂逅』は草深氏の第二句集であり、平成一二年から平成十四年迄の十二年間の作品を逆年順に収めている。岸本尚毅氏が栞文を書く。

 「蔵王堂」
  流灯のまつすぐゆける血筋とは
  もの書くも食べるも一人さはやかに
  かりがねや地球を巖とおもふとき
  探海の電波届かぬところかな
  花散るや何遍見ても蔵王堂


 対象を鋭い観察眼で自分の中に詠み込んでいく。そのためには「平静な心」が必要であり、そこには虚偽や虚飾は一斉存在しない。

 「恋文」
  はつなつや貝を洗ひて水の音
  出目金に寝しなの声をあさあさと
  ちぎらんとすれば蓮に力かな
  水澄むや「いきもの係」「はな係」
  障子貼つて一つ灯にゐる二人かな


 配合の手法での季語が充分に生かされている。独白の視点から見る、その句の客観性には生活を楽しむ様子が窺える。

 「極楽寺一丁目」「深吉野」
  河馬は濡れ象は乾きし冬日向
  鮫麟のだんだん平べつたくなりぬ
  極楽寺一丁目金魚提げて来る

  大空は大穴なりし雲の峰
  ひとり子にある夜二匹の兜虫
  うしろ見るための鏡も夏の宵
  家禽の日暮はじっとしてをれぬ


 寂光とは静寂な涅槃の境地から発する知慧の光である。、光を瞬時に捉えて句にしている。  

 「あしたある方へ」
  風光る転びたがる子転ばせて
  白梅のほかは夜空となりにけり
  あしたある方へ向きたる紅椿
  邂逅のハンカチーフをかがやかす
  人たれも背中忘れてみる良夜
  柿熟るる人しのばれてならぬ空


 「寂光」「子規居士」
  生き死にのこと言ふマスク純白に
  香水にふと寂光のありにけり
  羽織りたるものの重みも月夜かな
  兀然と日は鶏頭に当たりける
  子規の忌の雨号泣す大笑す


 「邂逅」とは、思いがけなく出会い、巡り合う事である。師である母の紹介で、岩淵喜代子氏主宰の「ににん」に入会した。そこで出会ったのが草深氏である。このような句集との出会いに感謝して、これからも勉強を続けていきたいと改めて思った。
 (住所 〒351-0014 朝霞市膝折町5-8-59-407 辻村麻乃)

 (2004年1月20日「篠の会」発行、岡田史乃主宰「篠(すず)」2004年1月号 Vol.116 p35 所収)
by masakokusa | 2007-03-27 14:16 | 『邂逅』書評抄録1 | Comments(0)
『琅玕」(手塚美佐主宰)・読書室     村田修太

 句集『邂逅』草深昌子
 
 昭和18年大阪市生まれ。昭和53年植村通草に師事。「雲母」に入会。昭和60年「鹿火屋」入会。昭和63年鹿火屋新人賞受賞。鹿火屋同人。平成11年原裕主宰の逝去に伴い、「鹿火屋」退会。平成12年「晨」同人。「ににん」同人。俳人協会会員。
 本書は著者の第二句集である。原主宰亡き後に、「晨」の大峯あきら氏、山本洋子氏らに多くの示唆を与えられたとある。また岸本尚毅氏が「ありがたいことに私の俳句仲間には俳句の上手な人が多い」と栞を書いている。読んで得する句集である。

  引っ張れば伸びる耳朶露けしや
  秋風の赤子に眉の出できたり
  河馬は濡れ象は乾きし冬日向
  はつゆめのにぎりこぶしをひらきけり
  たれよりも靴を汚してあたたかき
  笑まふとき全円となる海月かな   
                
  
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 (平成15年8月1日発行「琅玕」平成15年8月号 p33所収) 
by masakokusa | 2007-02-16 22:54 | 『邂逅』書評抄録1 | Comments(0)
『阿夫利嶺』(山本つぼみ主宰)・句集紹介

 『邂逅』草深昌子句集  発行所・ふらんす堂

  春風の人の背中へまはりたる
  山羊鳴きしあとに鈴鳴る日永かな
  涼しさは橋のかからぬ向う岸
  田遊びのごたごた言ふが唄らしき
            
 
 (2003年10月1日発行、山本つぼみ主宰「阿夫利嶺」平成15年10月号 p10所収)       
by masakokusa | 2007-02-16 22:11 | 『邂逅』書評抄録1 | Comments(0)