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子規とアンパン               草深昌子

 秋風が吹きはじめると、正岡子規がしのばれてならない。
 子規は、明治三十五年九月十日、三十五歳で息をひきとった。その死の直前まで、およそ一年間の病床を綴った「仰臥漫録」は私の最も愛読する随筆集である。いつだったか、司馬遼太郎が「私は子規が好きである。子規のことを考えていると、そこにいるような気がしてくる」と語ったときは、私の気持ちを言い当てられたような思いがした。「仰臥漫録」を幡くと、いつでも「そこにいる子規」と出会うことができる。
 子規は、「食い過ぎて吐きかえす」「大食のため下腹痛くてたまらず」「煩悶を極む、頭脳苦しくなる」「歯茎の膿を押し出すに昼夜絶えず出る」等という病苦に悩まされながらも三度の食事、間食を欠かさず書きとどめていった。食欲旺盛だった。好物のさしみや果物のほかに、連日飽かず食べているのは菓子パンである。ちなみに、筆を起こした明治三十四年九月二日は十個ばかり。三日、数個。四日、二個。五日、数個。七日、十個ばかり。八日、朝数個、間食数個。九日、三個。十日、六、七個… という具合である。八日は、四個のパンの色彩画があり、それぞれに、「黒きは紫蘇」「乾いてもろし」「あん入」「柔か也」と注釈し、「菓子パン数個とあるときは多く此数種のパンを一つ宛くふ」としている。ココア入り牛乳とともにパンを齧る子規の顔は、子供のような好奇心にあふれていたのではないだろうか。
 私の子規好きは、俳句を学びはじめて年毎に募ってきたものであるが、アンパン好きのほうは子供の時からである。パン屋さんの向かいで生まれ育ったおかげで、たえず焼き立てパンに恵まれていた。そのせいか今では、旅先などでアンパンを食べないでいると手が震えて、体がひとりでに要求するほどになっている。だが果して、子規のように、モルヒネを打つほどの重病におちいったときも、アンパンを欲するであろうか。考えただけで喉がつまってしまう。
 子規は、命旦夕に迫りながら、最期まで強い意志をもってアンパンを食べつづけた。まこと命がけのアンパン好きである。私にとって、子規の偉大さも、子規のなつかしさも、この命がけのアンパンを通して伝わってくる。
 彼がもぐもぐと口を動かしている刹那は、そのまま彼の生き得た、ぬきさしならぬ刹那であったのだ。そのことを思い合わせていると、生にたいする気迫の凄みはもとより、境涯を悠然と楽しむゆとりごころが何とも切実に、愉快に実感できるのである。
 秋風にさそわれるように、銀座の木村屋に出かけた。子規のアンパンは明治創業の木村屋のものであっただろう。その小ぶりのアン入りを、秋の日差しに溢れた二階で、「そこにいる子規」と一緒にしみじみといただいた。
 じわーっと、あたたかくもなつかしい味がしみわたった。

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(1999年9月9日発行・「赤いペン」第5号所収)
by masakokusa | 2007-06-20 18:57 | エッセー2 | Comments(0)
迷信          草深昌子
    
  
 祖父には早く死に別れたが、祖母とは中学三年まで一緒に暮らしていた。祖母の暮らしぶりは、迷信あるいは格言によって万事が回っているといっても過言ではなかった。一方、母は大阪の師範学校で専攻した哲学を支えに、理性的に進歩的に生きようとしていたから、二人はよく意見の衝突をしていたのを覚えている。
 しかし祖母が、はばかりで倒れて急逝した折、その直前に玄関を鬼門に向けて改築したのがいけなかったのだと親戚から噂されたことは、遺されたものの悲しみをいっそう深くしてしまった。そのことから、私は迷信をおろそかに出来なくなった。
 現在の家を買う時も、八卦見に真っ先に相談した。
「今年の三月、西南の方位は吉。東に川、南に海、北に山あるは吉なり」に符合する物件を迷わず契約し、後からお金の工面に慌てたものだった。しばらくして、設計図による回答書が封書で届いたが、開けてびっくり、地相はともかく家相は悪いところだらけだった。
 主な悪相は、三つあった。先ず、家の中心に階段があること。「お金がどんどん出ていって、 中心空虚の支配が襲いかかります。これを避けるためにはご主人は出張を多くなさること」
 二番目に、便所が裏鬼門にあたること。「臭気排除、掃除は十分過ぎるほど心がけて」
 三番目は、玄関が乾(いぬい)にあり、「欠け」になっていること。「乾は主人という意味の代名詞です。毎日、ご主人の頭の上をふんずけて出入りすることになり、ご主人の世間的名誉を踏みにじります」
 家中を解体するわけにもいかず、そのまま生活は出発した。
幸いにも、夫は出張の連続だった。が、お金も出る一方だったのは、相当空虚だったのだろうか。当初は、玄関の出入りをそろりそろりとまるで抜き足差し足、できるだけやわらく踏むように心がけていた。だが、貧乏ひまなしの暮らしはいつしか慌ただしく出入りするようになり、踏むというより引き摺る具合になっていった。果たして、夫の頭髪はみるみる後退していった。確かに見かけの名誉は台無しである。
 そして、便所。ある日新しい解釈に目覚めて吹っ切れた。迷信の便所は和式の話である。我が家は洋式トイレであるから、用を足すときは裏鬼門に背を向けていることになる。それでなんとかウンに見放されないのではないかと、せっせと背を向けた。
 以来、二十年も経った。あちこちガタがきて、あと何年もつだろうかという状況になってしまった。家のみならず人間の方もである。人と家は運命共同体であった。
「吉相の家に、吉相の人が住むのが大吉」という建築家の言葉はつくづく頷かされる。
 大病も大過もなく、これまでのところはやってきた。だが、小さな疵は満身にある。
 「それなりの家に、それなりの人が住んで末吉」ということであろうかと、見果てぬ夢をささやかに繋いでいるところである。
 ともあれ、迷信を信じてきたことに悔いはない。迷信は、非力な私がこの世に生かせてもらうための「祈り」のようなものだったと思っている。
 そしてなにより、厳しくも優しかった祖母のことを思い出す「よすが」であった。

(1999年12月15日発行・横浜エッセストクラブ「風笛」第一号・所収)
by masakokusa | 2007-06-15 23:16 | エッセー2 | Comments(0)
白浜海女まつり・海女夜泳     草深昌子          
                                          
 「うみはなほゆゆしと思ふに、まいて海女のかづきしに入るは憂きわざなり」ーー今から一千年の昔、清少納言が「枕草子」に記している。古語「憂き」は、「浮き」に通じ、なにがなしはかなさを覚えることばである。
 その海女の仕事は、四月に花畑を鋤き返して田んぼに作り変えるころから始まる。従って「海女」は、春の季題となっている。ところが、千葉の俳人たちの間ではもう一つ別に、安房白浜の海まつりのイベント「海女夜泳」を夏の季語として定着させていることを知って俄かに旅心が湧いた。
 東京から、ビューさざなみ特急に乗ると二時間で館山に着く。そこからバスで三十分行けば、安房白浜である。白浜町は、房総半島の最南端にあり、日本ではもっとも古い洋式灯台である野島埼灯台を中心に、峨峨とした礁が、太平洋の白波を迎え撃つかのように拡がっている。椰子の木がとびとびにそびえ、トロ箱に咲かせたカンナの黄はもえさかり、ここにもそこにも浜木綿の白が眩しい。

   自転車に大き足ヒレ夏休み    あき子

 海女まつりは、海の日の七月二十日と、翌二十一日の二日間にわたって行われる。海女の 安全と豊漁を祈るものである。
 会場までの磯伝いの舗装路には、浜砂がどっと吹き混じってスニーカーでさえシャクシャックと涼しげな音をたてる。まして月見草のあたりで、打ち鳴らす宿下駄の音は涼味満点である。
午後7時半、白浜音頭の総踊りが佳境に入る頃、海女がいっせいにバスから降りるところに出くわした。急ぎ駆け寄ったものの、その足運びの速いこと、ついぞ追いつけなかった。
 タルに腰かけて広場で出番を待つ海女に皆さんはめっぽう明るい。神輿担ぎの青年に、「浜ちゃん、ねえ、どう、かわいい?」と、ポーズをとっている。白ずくめの潜り着はすんなり伸びた足も、むっちりした胴体も包み隠さない。「白浜にこんな人出ははじめてじゃ」、答えにならない答えを言って青年は照れている。
 海女夜泳がお目当ての百数十人は、漁港に向かって傾斜になった地べたを桟敷席にして、ただひたすらになって海女の出番を待っている。待つほどに、星の数が増え、地べたの温もりが熱くなってきた。
 八時五十五分、いよいよ祭りのハイライト、海女の大夜泳の始まりが告げられると、見物客は一瞬どよめいて、すぐさましんと鎮まった。総立ちになった百名の海女の勢ぞろいは思わず息を飲み込んでしまう。圧巻である。海女の潜り着は闇の中では、いっそう蒼白になって炎のひらめきにあぶられていてこる。年齢など不詳のことである。
さっきまでの間延びした盆唄ももう耳に入らない。どこからか、板戸を叩くような音がひびくばかりである。
 松明を手に手に筵を敷き詰めた花道を確かな足取りで一人また一人、海へ降りてゆく。頭巾をすっぽり被った隙間から覗いている眼も口も、肝っ玉母さんのように笑っていた。

  討ち入りのごとし夜泳の海女の群  喜代子

 底に足をつけてしゃがみ歩きをしているように見えたのは、波が半ば固形のようにつるつるとうねって松明の炎が何ともなめらかに海面を滑ったからだ。「泳いでる!」、揃って叫んだ。タルの上に腹ばいになって泳いでいる。まるで純白の翼をひらめかすがごとき典雅さは、女神そのものである。
 何周をしたのか、時を忘れていた。吸い込まれるようにわが身のたましいも、真っ暗闇の海に浮遊していたのだった。
 海近く七色の花火が炸裂して、まつりはフィナーレである。海女の濡れ身から滴り落ちる雫がピカピカ光った。
 テレビ局の青年が、マイクをむけた。「明日から豊漁になりますか?」「別に・・」「水に潜っている間は何を考えていますか」「さあ・・」「来年も泳ぎますか?」「ずうっといつまでも」この問いにだけはきっぱりと答えられた。泳ぎ終わったばかりの数人の海女は、寡黙であったが、受け答えの間中、お仲間同志眼と眼を合わせ、微笑んではうなずきあって、海女小屋に喜びも悲しみも共有している絆の深さをうかがわせた。海女は、青芝にぐいっと火をもみ消して去っていった。名残を惜しむかに打ち上げ花火が何度も開いた。素朴な花火の美しさが、なつかしい。

  灯台へ行きて戻りし髪洗ふ     昌子

 夜、寝床でふと、引き上げ際に足を滑らせた海女の瞬時の痛みがわが身のそれのように身を走った。習い出しの海女だったのだろうか。
 海女は浮上して苦しい胸の息を吐き出すとき、ヒユーと口笛を鳴らす。その磯笛を、磯嘆きという地方があることを思い出していた。

 海女まつりの明けた朝は、蒸し暑かった。はるかに海女の浮き沈みを発見。すぐに少しでも海女の潜りに近づこうと試みたが、礁は、あまりに難所であった。一行は、思い思いの岩に腰をおろして黙って沖を見つめた。ゆうべの祭りの姿とは違う、真剣な海女の姿を思いやっていたのである。

(2001年7月25日 吟行記)
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by masakokusa | 2007-05-25 20:34 | エッセー2 | Comments(0)
400字エッセー

     新年の祈り

 いつだつたか、テレビで、「ほめことばの使い方講座」というのがあった。
ためしに女優が脚本家を褒めた。流暢に、「心のあたたかな方ですね」と言ったとき、抽象語は使わないようにと注意された。今度は大阪のお笑いタレントが女優を褒めた。ぶつきら棒だったが、「あなたに会うと元気が出てくるのですよ」と、しめくくった。講師はそのほめ方を、それこそベタボメだった。
 言葉が、関東は伝達だが、関西は表現なのですねえと、しぎりに感心されるので、大阪生れの私は嬉しくなると同時に、あらためて言葉について考えさせられたのだった。
俳句も、十七音が単なる伝達に終わってしまっては残念だ。人に伝えたいと思う一番大事なことが表現されているものでありたい。
 「あなたの俳句に会って、元気が出ましたよ」、そう言っていただけるような、私の言葉が、私の内側から引き出せますように。
 ――ちょっぴり欲張って、新年の祈り。

 (1999年1月号「鹿火屋」 p6 所収)

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     与謝野昌子

 古い話だが、結婚したばかりの頃、夫は一度ならず私を晶子(あきこ)と呼んだ。「昌子」の字面から、つい与謝野晶子の「晶子」をイメージしてしまうのだと夫は平謝りだった。思えばそれほどまでに、淡いおつきあいだったのだ。
 ところで先夜、私家版「みだれ髪」(与謝野馨編)を読んでいて、はっとした。
 <初版本「みだれ髪」の奥付に著者 鳳昌子 とあるのは晶子の誤まりにつき、訂正する>とあるではないか。晶子は激しい恋愛の陶酔を「みだれ髪」に官能的に詠いあげている。昌子と誤植された晶子の落胆が目に見えるようである。
 それにしても、「日」が一つ足りないばかりに昌子は、才能は言わずもがな、その燃ゆる情熱において、晶子と何たる違いであう。
 だが、晶子が束の間でも昌子であった事実を知って、私の胸はほんのり赤く染まった。今さらあやかるべくもないのだけれど・・・・

  ああ皐月仏蘭西の野は火の色す
   君も雛罌粟(コクリコ)われも雛罌粟   晶子

 (1997年5月号「鹿火屋」 p7 所収)

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     長寿のおすそわけ

 八十八歳の母から、「長寿のおすそわけ」と書かれたポチ袋が届いた。開けると、五千円が入っていて、敬老の日に大和高田市からいただいた「お祝金」の半分だという。ビールをお飲みくださいと、書き添えてあった。
 過日、私は一週間ほど入院した。にわかに老いを覚えてしょげていると、母から、「早く処置してよかったね。あなたの人生はこれからですよ」と手紙が来た。これからだなんて…と、一瞬疑った。でも母の齢からみれば本当に先は長いのだと、素直に励まされた。
 二十年前、「夫の給料を無駄遣いせんように、広告の紙の裏と鉛筆があればできる趣味やから」と、俳句を勧めたのも、母である。
 あかんたれでやんちゃでと、幼い頃よく言われた私の本性が、今も俳句に隠しようもなく浮かびあがってくる。俳句を通して、自分を見つける喜びを与えられているのである。
 「長寿のおすそわけ」は、まだビールに換えないで、雛を抱くようにあたためている。

 (1997年9・10月号「鹿火屋」 p7 所収)

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by masakokusa | 2007-03-27 13:35 | エッセー2 | Comments(0)
 冬の苺                        草深昌子
           

 阪神大震災の直後のことである。テレビを見ていたら、まだ足の踏み場もない避難所にレポーターがやってきて、二人の主婦にインタビューをした。
 「今いちばん何が欲しいですか?」の問いに、一人は、「家!」と答え、もう一人は、「苺!」と答えた。
 思わず、「いきなり家なんて贅沢」と、私はあきれた。夫は、「そんなことを言うもんじゃないよ」と、たしなめた。同席していた大阪出身の友人が、「家より、苺の方がもっと贅沢で、あつかましいわよ。私たちでも冬の苺なんて高くて食べられないのに。水とか、おにぎりとか言うなら普通でかわいいけど、あれはホンマに関西人や!」と、言い放ったのでみんなつい「ホンマ!」と同調してしまった。
 それにしても主婦はけなげだった。災難にもめげず、まるで質問を楽しむように、「イエッ」とか、「イチゴッ」とか、気合を込めて単刀直入に答えたものだから、見ているほうもすっかり同情を忘れて、こんな会話になってしまった。

 ところで、家と苺はどちらが贅沢だろう。物価から言えば家に決まっている。なのに、苺が顰蹙をかったのは何故だろう。
 水やおにぎりそして家、それらは差し迫って必要な現実性のあるものだけれど、冬苺は少し現実から離れている。そこのところが、顰蹙の原因だろう。
 苺と答えた方は、その非現実の方を求めた。あの、真っ赤でみづみづしい苺を、本当に一口でもいいから、口に含んでみたかったのに違いない。後になって、その心の希求に打たれた。
 一粒の苺を口にしたら、嘆きの人は元気百倍になることが出来るのだ。私は、一粒の苺の美しさや尊さを日常のなかですっかり忘れてしまっていた。冬苺の真っ赤な雫は、命の雫になり得るのだった。究極の不幸の中から欲したささやかな雫・・・
 「苺」と答えた女性の凄さに改めて脱帽した。
俳句をしているということは、あの悲惨な状況の中にあって、「苺が欲しい!」というのに似ている。
 雑多でとりとめもない日常、満たされることのない現実の中から、きらりと光る鮮紅色を見つけたいと願うのが俳句である。
 私の俳句は、わたしのいのちの色でなければならないことを教えられた。

    
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   (2001年4月・芽の会50回記念文集・所収)
by masakokusa | 2007-02-11 19:04 | エッセー2 | Comments(0)
何のかんのと冒険者                草深昌子


 早春のある日、旅のついでに奈良県にある実家に泊まった。明け方、枕もとを通して、ローカル線の列車の振動が徐々に伝わってくる目覚めはなんとも心地よい。ガタゴトガタゴトという音のはるけさにいつまでもほのぼのしていると、「長き長き春暁の貨車なつかしき!でしょう」と姉が朗々と呼びかけた。「あっ、楸邨の句ね」まさに私の気持ちを代弁するものだ。しみじみするわねえ、と感嘆しあった。
 「枯れゆけばおのれ光りぬ冬木みな」「その冬木誰も瞶めては去りぬ」「短日やわれらおのおの悔を持ち」「こがらしや女は抱く胸を持つ」「木の葉ふりやまずいそぐないそぐなよ」……姉と私は、高校時代によくそうしたように、お互いにそらんじている句をいくつも言い合った。
 さて帰って、旅の句をまとめようとして、はたと行き詰まった。姉と口誦しあった人間探究派の名句が重たくのしかかって、一句も作れなくなったのだ。
 そこで気分転換に俳句雑誌を捲っていると、こんな句が飛び込んできた。

  雪見酒なんのかんのと幸せよ   星野椿

 楽天的で幸せな句だと評者は絶賛している。作者は虚子の孫に当たる女流俳人だ。うーん、なるほど、この単純明朗はいかにも捨てがたいものとおもわれてきた。
 私は、人生の辛苦の何たるかも知らないで、ただ深刻ぶって俳句を難しく考えているのではないだろうか。
 二十数年前、俳句初学の頃は、ほとんど直感で作っていた。そんな句が、大胆と評された。師は、「これから大いに暴れなさい。どんどん冒険してください。いやでも五十歳になったら落ち着きますから」と言われた。
 その落ち着く歳をとっくに過ぎた今、振り返ってみると、たいした冒険はしていなかった。大真面目に取り組めば取り組むほど、冒険からは遠いものになっていったようだ。
 さらにページを繰ると、時評氏が、「人間である前に俳人であれ」と述べている。「俳人である前に人間であれ」、ではない。
 ――私たちは俳句を作ることが無条件に楽しいのではないか。句会で席題が出たとき、「人間探究派を目指す」だろうか。そんなことは意識しないで五七五音の表現に熱中するはず――
その通り。人生いかに生きるべきか等と、俳句一辺倒に向き合っていると、人間も人生も卑小化するだけということであろう。
 なんのかんのと幸せよ、それぐらいあっけらかんと言えたら、それこそ幸せだろう。冒険者たらんと気張ったところで、名句は生まれない。年齢を積んでわかったことはそれぐらいである。
今後は肩の力を抜くこと、自我を捨てることが、わたしの課題、いや私の冒険となるであろう。思い立ったが吉日、再び「十七音の冒険者たらん!」
 オッと、そんなに力んではいけなかったのだ。なんのかんのと、、、まだまだ修行がたりませぬ。

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  (2001年4月・芽の会50回記念文集・所収)
by masakokusa | 2007-02-08 18:35 | エッセー2 | Comments(0)
〈あたたかさ〉からの出発         草深昌子


     犬ふぐり生ふ地どこまであたたかき   昌子

 初めて句会に出たのは、三十四歳のときでした。
 植村通草先生は七十歳をいくつか越えられていたでしょうか。飯田蛇笏の高弟で、当時飯田龍太の主宰する「雲母」の筆頭同人でした。 
  「犬ふぐり」という季題で俳句を作ってくるように言われた時は、その花がどんな花かも知りませんでした。句会に誘って下さった方が親切にも多摩川べりまで連れて下さって、「ほら、こんなにいっぱい」と指をさされたそこには、なんとも可憐ないとおしいような青い花が震えるように咲いていました。初めて自分の立っている地べたをしみじみと眺めたことでした。風は冷たかったのですが、足裏がこころもちあたたかく感じられてきました。
 〈犬ふぐり生ふ地にはあるあたたかさ〉、その日のつぶやきがそのまま十七音になりました。
はたしてこれが俳句になっているのかどうかもわからないまま出句しました。
ところが、この句が先生の特選になりました。
  「うーん、まいった。若さってすごいわねえ・・・」と何遍も感嘆されました。「私にはもうこんな句はできないわ」と、ため息交じりです。
「初心者ってこわい者知らずなのよねえ」と、二十人ほどの句座の方々は口々に褒めたり、素直に悔しがったりされます。嬉しさにぽーっとしていると、ふいに先生の声が末席の私に礫のように飛んできました。
 「犬ふぐり生ふ地どこまであたたかき、ですよ、ねっ、こうですよっ、これなら俳句です」
 威光を放つその凛然たるひびきに、ぴしっと身が引きしまりました。
 私の表現は、散文のきれはしでしかなかったのです。でも単純な若さをかってくださった先生のおかげで初回から、句会の醍醐味を味わったのです。
  ところでもう一つ、私にとって衝撃的な添削がありました。
〈一本の桜が山をさみしうす〉という句に対して、先生は「違うでしょっ、一本の桜が山を明るうす、です」といきなり正反対のことを仰いました。名乗り出た作者の方は「本当にさみしい感じがしたのです」と、かなりムキになって状況を縷々訴えられました。でも、何を言っても先生は平然としています。そしてもう一度、「桜が山を明るうすッ」ときっぱり言ったきりでした。そのときの先生の凄みのようなものを忘れられないのです。
 あれから、もう二十五年の歳月が流れました。
句作はままなりませんが、頭で分かっていただけの俳句理論が、ようやく私のものとして少しづつ腑に落ちてくるようになりました。
  この世に生きるということは、悲しみや苦しみやさまざまな困難にぶつかるということです。ところが、俳句を通してこの世を見つめたなら、悲しみも苦しみも、明るさや美しさにとって代わることが出来るのだと気付き始めたのです。生きる限り俳句を作ることのよろこびがそこにあるのです。
  俳句は季語です。季語は、愛情です。故に俳句は愛情です。
犬ふぐりといったら犬ふぐりに愛情を感じているのです。さくらといったら桜に愛情を感じているのです。そういう観点にたってみると、桜が山を淋しくする、ことはありえないのであって、桜が山を明るくする、と断定された心意気の勁さ、対象への愛情の深さがいまさらに身に染みるのです。
 〈一本の桜が山を明るうす〉、そう口ずさんだほうがうんと元気が出てきます。
初めて作った私の句も、そういう眼で見直してみると、まったくわれ知らずではありましたが、犬ふぐりへ愛情ある眼をそそいでいたことだけは確かのようです。
稚拙を問わず、感動するこころを掬い上げてくださった初学の師の尊さは今もって忘れることは出来ません。
 自然から人さまから、〈あたたかさ〉をいただいて私の俳句修行はスタートしたのでした。そして、いま尚、そのあたたかさにつつまれて俳句修行を楽しんでいることをつくづく有り難く思っています。

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  (2002年12月・芽の会文集・所収)
by masakokusa | 2007-02-07 23:53 | エッセー2 | Comments(0)
運動会                  草深昌子

                          
  青蜜柑横目の牛が通りけり   桂 信子

 青蜜柑が店先に並び始めると決まって小学校時代の運動会を思い出す。
一年生入学時の私の身長は、九十何センチだったか、とにかく一メートルに届かなかった。チョーチビで、チョー運動能力の劣った子供だった。卒業するまでの六年間、駆けっこは、前方に大きくかけ離れたびりっけつだった。
 全校注目の中でよたよたとゴールに達すると、「よう走った、よう走った」と、だれかれが青蜜柑をすばやく剥いてくれた。
 PTA役員の母たちがテントの下で青蜜柑を山と積み上げて売っていたのだ。「歯をくいしばって、いかにも一番という顔してたけどなあ、足がアカンかったなあ」アハハ「回れ右したら一等賞やったのに、惜しかったなあ」アハハ。
 近所のオッチャンやオバチャンが私の走りで盛り上がるのは、照れくさいけれどなぜか嬉しかったのを覚えている。「なめくじの東京行き・・ですわ。いつ着くかわかりません。私はリレーの選手でしたのに、なんでやろなあ・・・フッフツフッ」、母も豪快に笑った。
 ハアハアあえぎながら、母の真っ白な割烹着に顔をうずめて甘えたことは、まだ皮の固い青蜜柑の雫が、秋日の中にきらきら飛び散っていた記憶とともに、甘酸っぱく思い出される。昭和二十年代、運動会は家族も近所もひっくるめて最大の楽しみであったようだ。
 そんな私が、母親になった。昭和四十八、九年であったろうか、わが子の初の徒競走は一等賞だった。隔世遺伝ではないかと眼を疑ったが、すぐに種明かしがあった。事前にタイムを測って、同じ程度の子供たちを一団ずつに分けて走らせていたのだ。まさに、どんぐりの背比べをやっていたのである。
 運動能力の違いはイヤというほど見せ付けられてもいいと思う。それが、スポーツの爽やかさなのだから。私には、ビリの恥ずかしさより、友達の見事な走りがわが事のように誇らしく脳裏に焼き付いている。
 そして平成の時代。道で出会った小学二年生の子を持つお母さんがため息交じりに運動会の実情を訴えた。
「うちの子、きっと一等賞になるから見に来てね、というので楽しみにして出かけたら何と五等賞でした。予行練習のとき、よその子は全力で走らないで本番に備えてこっそり力を抜いてたんですって」

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   (2003年12月・芽の会文集・所収)
by masakokusa | 2007-02-07 23:42 | エッセー2 | Comments(0)
匙の味                     草深昌子
                         

  ひもじきとき鉄の匂ひの秋の風   山口誓子

 秋風にさそわれるよに、ある禅寺を訪れた。寺のしおりに、こう書いてあった。
「匙というものは一日何回となく汁の中につけられるが匙には汁の味がわからない。
しかし、人間の舌は汁の一滴をたらせば一度で味がわかる。どんな立派な人に接しても、立派な書物を読んでも、匙のように無感覚ではいつまでたっても何もわからない。高等教育を受けても学問が身につかないのでは何にもならない」
 一つのことが思い出された。あのオウム事件で、坂本弁護士一家の遺体が発見されたあと、母堂が記者会見された時の話である。
 「私は昔から良寛の歌が好きだったのですが、〈この里に手毬つきつつ子供らと遊ぶ春日は暮れずともよし〉という歌を、捜索中の孤独のうちに私はよく歌っていました。骨になった龍彦に、この歌を聞かせてあげました」。胸を衝かれた。
 過ぎた日の怨みを一切言わず、麻原に対しても殺してやりたいとは言われなかった。「人間と思っていないから、何を言っても通じない」と。悲痛な面持ちに胸が締め付けられた。
 ニセ宗教の起こした凄惨きわまりない事件は忘れられない。
涙に暮れるしかない母の心をかそけくも癒してくれたのは、二百年前の托鉢僧の一首であった。良寛は、子供らと手毬をつきつつ無心の法楽を見出した歌人である。その良寛のこころに慰めを求められたのである。ぶつけどころのない怒りを、自らの力でもって慰藉する方向へ向わしめたのは、母堂が若き日に受けられた教育を真に自己のものとして身につけておられたからこそである。
 犯人たちは最高学府を出ながら、一体どこでどんな教育を受けたというのであろう。まさに人間の舌を持たない、匙でしかなかったというのであろうか。


   (2003年12月・芽の会文集・所収)
by masakokusa | 2007-02-07 23:39 | エッセー2 | Comments(0)
法然院の紅椿       草深昌子


 数年前のことになるが、大阪で姪の結婚式に出席したあと、夫と別れて一人で法然院を訪れた。法然院は、浄土宗をひらいた法然上人の念仏三昧の地である。
 山門をくぐると砂を盛り上げた壇があって、修行僧が箒を手に、白い砂で流れる水の模様を描いている。ふと人の気配がして、「私にかまわずに一人で歩いて下さい」とささやかれたのは風の声だったのかもしれないが、「どうぞ一緒に歩いて下さい」と答えると気配の人はそっと私に寄り添って一人旅の連れになってくれたのだった。
 本堂に来ると、寺男であろうか、「ちょっとどいたって。お参りの人がいやはるよって」と、廊下に腰かけていた数人の少年をさっと追い払った。少年に軽く会釈して、阿弥陀如来の前にすすみ出ると、「須弥壇に二十五輪の椿の花が散華してますやろ、二十五菩薩をあらわしてますのや」と肩越しにさっきの男性の声がした。目を凝らすと、黒光りする塗の床に花首だけの真紅の椿が放射線状に点々と鎮もっているではないか。荘厳そのものの美しさに、「ほおっ」と声をあげると、ふいに、私は独りではないのだという思いがこみ上げて涙が出そうになった。三月のやわらかな日差しの中から雨粒がこぼれ落ちたのはそのときだったから、まなうらを濡らしたのは春の時雨のせいだったのかもしれない。
 忘我の時が経った。山門をくぐって出ようとしたら、連れがくるりと首を返した。つられて振り向くと、真っ赤な椿の花が五つ六つ、白砂壇の上に置かれてあった。流れる水へいましがたはらはらと落ちてきたようにみづみづしい紅の色だった。あっ、と私はかすかな息を漏らした。ねっ、というように連れも頷いた。阿吽の息づかいが赤く染まったような一瞬だった。入った時にはなかったのに、いまここにある紅のぬくもり。
 白砂壇に置かれた大輪の椿は、人生の長い道のりの間にいつしか忘れてしまっていた、かけがえのない思い出のひとこまを再現してくれたのだった。思い出は、いま此処にいる思いと重なって、鮮やかに白砂の上に息づいていた。真っ赤な椿は、誰とも知れぬ気配の人にいただいたのだ……ありがとうございます……われしらず、椿に頭を下げていた。
 今まで、人はひとりで生きなければならないと気張ってみたり、人はひとりで生きていくしかないと嘆息してみたり…だった。人はそれだけではなかった。人はうしろから大きな力で支えられ、許され、生かされているのだと、今このとき知った。一人であっても、独りではないという静かな思いに私は満たされていた。
 あの日、山門を出てから拾い上げた二輪の椿は、愛用の辞書の底で押し花になった。すっかり茶褐色になった花弁だが、てのひらに載せるといまも紅色が蘇ってくる。法然院を訪れた一人旅は、私の後半生に生きる勇気を授かった旅として忘れることはないだろう。

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 (2000年12月12日・斎藤信也発行「赤いペン」第6号 p62所収)
by masakokusa | 2007-02-06 14:32 | エッセー2 | Comments(0)