昌子365日(自平成29年12月1日~至12月31日)

       12月12日(火)      凩やあはれむとなく人の杖


       12月11日(月)      色に咲きこゑに鳴きけり十二月

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       12月10日(日)      行きながら蜜柑をもらふ山路かな


       12月9日(土)      おでん酒見合はすたびににつこりと


       12月8日(金)      冬日いま分厚き雲を割つて出て


       12月7日(木)      松の幹曲りて八つ手咲くところ


       12月6日(水)      柊の花と知れたる夜風かな      

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       12月5日(火)      長屋門くぐると冬の鵙のこゑ

       12月4日(月)      吉野川きらめくお講日和かな

       12月3日(日)      褞袍着て星をいただく吉野かな   

       12月2日(土)      湧水のあぶくのほかは冬ざるる

       12月1日(金)      はつきりと見えて遠くに山眠る



# by masakokusa | 2017-12-31 20:30 | 昌子365日 new! | Comments(0)
『青草』・『カルチャー』選後に・平成29年11月       草深昌子選
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大牡蠣や縮みて鍋の底にあり         中原マー坊


 「大牡蠣や」と大きく打って出た、果たしてどんなにすばらしい牡蠣であろうかと思いきや、鍋の底に小さく縮んでいるというのである。

思わず笑ってしまうが、この笑いには庶民の哀感をそそるものがある。

見るからにぷっくりしていても、うっかり煮すぎると縮んでしまって見る影もないというのは牡蠣の特性であろう。

 それにしてもこの牡蠣鍋は、ささやかにも楽しいものであったに違いない。



朝時雨逃れて蝶の廂かな           栗田白雲


時雨は急にパラパラと降る初冬独特の雨であるが、この句は、単なる時雨でなく「朝時雨」であるところがいい。

朝という詩情のきらめきが蝶の身にふりかかって見事に美しい。

朝時雨は大山を越えて、裾野のあたりを束の間濡らしたのであろう。

「蝶の廂」とは、なんとも心憎い。

ふとした温もりを想わせて、作者の心象ともども蝶々をクリアに見せるものである。



   カーブして冬の空より車来る         日下しょう子


冬の空から自動車が飛び出してくるなんて、何というスピード感、おっと危ないではないかという迫力がある。

カーブしているのは高いところに架かっている高速道路と思われる、真っ青な冬の空以外に作者の目には何も飛び込んでこなかったのであろう。

ここには作者の驚き、作者の嘘偽りのない見方がある。

大胆な省略であるが、たまにはこれぐらいのことを言ってみたいと思う。

絵画には描けない、空白を大きくとった俳句ならではの描写である。



水量を計る人あり冬の川           新井芙美


冬の川で水量を計っている人がいるという以外、何もわからない。

一体どんな人が、何のために、どんな方法でやっているのか。

冬の川は渇水期であるから流れも細くなり、河原の草々もすっかり枯れてしまうだろう。

そういうイメージを持ちながら、この句を読むと、案外冬の川の様相は違うようでもあり、いろいろ想像させられるものがあって面白い。

俳句の魅力は、このように何も言わないところにある。

かくかくしかじかと因果関係を述べてしまってはおしまいである。


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太公望冬の静けさまとひけり         平野翠


「太公望」という言葉だけで一句が成り立っていると言っていいほど、太公望が効いている。

太公望は、周代の斉国の始祖。初め渭水の浜に釣糸を垂れて世を避けていたが、文王に用いられ、武王を助けて殷を滅ぼしたという。

そういう故事から、太公望は釣師の異称となっている。

この句、「釣人は冬の静けさまとひけり」ではさまにならない。

太公望としたことで、まことの太公望のイメージを重ね合わせることができるのである。

それによって、冬そのものの静けさが、どっしりと人のようにも、水のようにも、大公望と一枚になって感じられてくるのである。



寒菊や何匹となく蜂と蠅           石堂光子


寒菊の異名に冬菊があるが、冬菊と詠う場合は、秋の菊の花が冬になっても咲いている、遅咲きの菊というイメージで詠うことが多い。

この句は、冬菊ではなく断然「寒菊」ならではの風趣を引き出している。冬になって咲く菊の品種で、色は黄色である。

「何匹となく」という措辞が巧い。蠅や蜂の入り組んだ動きが想像され、そこには寒菊の濃い黄色が明らかに浮き出てくるのである。



水の湧くところ好きらし鴨一羽        坂田金太郎


池であろうか川であろうか、その一角には水の噴き出すところがあるのだろう。

そのあたりを一羽の鴨が来ては去り、来ては去り、どうかすると、なかなか去らないでずうっと漂っているという光景のようである。

実は、鴨より、作者こそが、湧水の美しいしぶきや、その音に魅かれているような感じが伝わってくる。

人の気持ちが鴨の気持ちに乗り移っているのである。



昭和史をたぐる小春の講座かな        古舘千世


先般、輝き厚木塾における「昭和史の講座」は、「青草」編集長の松尾守之氏が受け持たれた。

そこに参加された作者の満足感とともに、昭和史そのものに寄せる悲喜こもごもが「小春」に託されている。

さらっと詠われているが、読者もまた昭和という時代のある一面をふと回顧するような気分に誘われるのも「小春」の働きである。


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公園の隅まで紅葉煙草吸ふ          川井さとみ


近年、喫煙者にはなかなか厳しい状況が続いている。

公園では、隅っこの方に喫煙所があるのか、あるいは一人で、ちょっと遠慮気味に吸っておられるのであろうか。

何れにしても、そこにはあかあかと紅葉が照っているのである。

さぞかしゆったりとおいしい一服であろう。煙草の小さな火種も見えるようである。



   水鳥のくわんくわんと餌漁り         菊竹典祥

   靴底の厚くありけり冬初め          大本華女

   蜜柑狩ビニール袋はち切れて         菊地後輪

   物干しに玉葱乾く冬の里           奥山きよ子

   裸木や林の奥は日当たりて          佐藤昌緒

   冬日和忽とあらはる黒き雲          藤田トミ

   冬の蟹フロント越えてロビーまで       湯川桂香

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   湯たんぽを抱へてみたりはさんだり      柴田博祥

   鍬止めて腰を伸ばせば鶴渡る         狗飼乾恵

   母の忌のあたたかくあり神の留守       東小薗まさ一

   稜線や雲と出合ひて冬景色          石原由起子

   濁流の根まで呑み込む秋の川         長谷川美知江

   鉄橋の音跳ね返す冬日かな          宮本ちづる

   冬麗の葱の切つ先立てにけり         二村結季

   枯歯朶や水のかそけく湧くところ       森田ちとせ


# by masakokusa | 2017-12-31 18:47 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
草深昌子作品論評・現代俳句展望         

 現代俳句展望         太田かほり



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赤子はやべつぴんさんや山桜      草深昌子

あめんぼう大きく四角張つてをり      〃



句集『金剛』より。

一句目。

「ろうたし」「うつくし」「なまめかし」等など、女の美しさを表す古語は、多感な高校生の頃に『源氏物語』の「若紫」の巻などを通して知る。

だが、これは物語の話であって現実の普通の生活感覚ではあからさまな容貌の表現は口にするのは憚れる。

ただ、赤子に限ってはどんなに形容しても害はなく、赤子を理想的に育てるのにはかえって効果的に働くものである。

中でも「べっぴんさん」は文字通り別格の響きがある。

口にして阿るようなニュアンスはなく、普通名詞「べっぴん」に接尾語の「さん」をつけることで親しみの感情が加わり、同時に軽いユーモアを醸し出す。

「美人」よりも「美人さん」、それより断然「べっぴんさん」に真実がある。

たとえ並の顔かたちであったとしてもよもや反語に受け取られるということはない。

関西圏の言葉ではないが関西的な柔らかさを含んでいて耳に心地よい。

赤子とは、どの子も愛らしいものである。

この句は世俗的は語彙を用いているが「若紫」の巻をひもとくような雅さがあるのは季語「山桜」によるものか。

そういえばこの巻は「北山の春」に始まる。


二句目。

スケッチを見せられたように水馬の姿態が鮮やかに見えてくる。

簡潔明瞭にその習性が描かれた。

本当は足は六本であるのだが、中の二本は意識から欠落しているためか、六角形を描くことなく四角で納得していることに気づかされる。

だから、これはスケッチという写生によるのではなく全体を瞬時に見て把握した大まかな水馬ということになる。

省略という手法ともやや異なって、これが作者のものの把握の仕方なのだろう。

水の上で四角く踏ん張って静止し、流されそうになると跳躍してまた着水するあのよく見知っているつもりの水馬像にぴたりと重なる。

痛快な描写である。


(平成29年12月号『浮野』所収)


# by masakokusa | 2017-12-31 17:57 | 昌子作品の論評 | Comments(2)
『俳句界』2017年12月号  特集・平成俳句検証


特集・平成俳句検証

    平成を代表する句、平成を代表する俳人



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「俳人アンケート」   草深昌子の回答



あなたが選ぶ、平成を代表する「句」


いつまでも花のうしろにある日かな  大峯あきら


推薦理由

今という永遠がなつかしい。静けさの幸せに包み込まれるようである。


あなたが選ぶ、平成を代表する「俳人」


大峯あきら


推薦理由

俳句の宇宙性。その力強さとやさしさ。


結果発表


平成を代表する「句」


おおかみに蛍が一つ付いていた    金子兜太

一瞬にしてみな遺品雲の峰      櫂未知子

まだもののかたちに雪の積りをり   片山由美子

双子なら同じ死顔桃の花       照井 

他 以下略


平成を代表する「俳人」


金子兜太  宇多喜代子  鷹羽狩行  田中裕明  有馬朗人

関 悦史  高野ムツオ  稲畑汀子  正木ゆう子  池田澄子

茨木和生  今瀬耕一   大峯あきら  櫂未知子  片山由美子

岸本尚毅  安井浩司  飯田龍太 

他 以下略






# by masakokusa | 2017-11-30 23:20 | 俳論・鑑賞(2)NEW! | Comments(0)
昌子365日(自平成29年11月1日~至11月30日)

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      11月30日(木)       ここに柚子向かうに蜜柑人の庭

      11月29日(水)       マスクしてかしこさうまたやさしさう

      11月28日(火)       栓抜いて木の葉時雨にビールかな

      11月27日(月)       晴れがましすぎはしないか干蒲団

      11月26日(日)       冬麗の女は背中見せにけり
      
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      11月25日(土)       大山の晴れてマントの黒きこと

      11月24日(金)       主亡き襖の桜紅葉かな

      11月23日(木)       谷崎の墓に扉や雪蛍

      11月22日(水)       冬麗の樟の大樹を曲がりけり

      11月21日(火)       引つ掛かるところかまはず木の葉かな      

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      11月20日(月)       雲水の冬あたたかにつぶやきぬ
      
      11月19日(日)       一茶忌のもの食ふ列につきにけり

      11月18日(土)       大熊手買うて背中の突つ張れる

      11月17日(金)       町を行くやうに墓地行く冬うらら
      
      11月16日(木)       鈴買うて十一月の巣鴨かな
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      11月15日(水)       生立ちのどこからかしら隙間風

      11月14日(火)       神発ちて曙杉は曲がらざる
      
      11月13日(月)       踏みごたへあるは櫟の落葉かな

      11月12日(日)       アカペラの冬の灯しを明かるうす

      11月11日(土)       墓打つて弾んで苔に木の実落つ

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      11月10日(金)      小綬鶏のただひと声の初時雨

      11月9日(木)       沢へ出て沢の音聞く小春かな

      11月8日(水)       蜂翅をたたみあぐねて石蕗の花

      11月7日(火)       今朝冬の水無川の水綺麗

      11月6日(月)       月影の園や一舟浮かびたる
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      11月5日(日)       団栗の落つる鼓動を聞いてをり

      11月4日(土)       戸を引けば鈴鳴りにけり十三夜

      11月3日(金)       紅葉して音の大きな古時計
      
      11月2日(木)       雨を来て石鼎庵の白障子
 
      11月1日(水)       川なくて渡し跡とや末枯るる

# by masakokusa | 2017-11-30 21:06 | 昌子365日 new! | Comments(0)
『青草』・『カルチャー』選後に・平成29年10月       草深昌子選

10月は「青草」吟行に於ける佳句を逍遥いたします。

先ずは、神奈川県座間市にある「谷戸山公園」です。




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   切株にむっちり山の茸かな       山森小径

 谷戸山公園は縄文時代から人の暮しがあったところで、森あり谷あり池あり林ありという風土がそのまま残っています。切株に茸が生えていたという、ただそれだけのことですが、ここには里歩きの思いがけぬ楽しさが驚きをもって受け止められています。「むっちり」もさることながら、「山の」と続けるあたりにもスキがありません。食べられそうにないシロモノであっても茸はやっぱり山の輝きを放っています。




沢胡桃落ちて水鳥驚かす       神崎ひで子


 この句も「水鳥驚かす」と言ってますが、誰よりも作者が驚いたのではないでしょうか。

 単なる胡桃でなく「沢胡桃」と認めたところが見事です。

 サワクルミという、文字通り爽やかな語感が、よき音となって水鳥に響くのです。

一瞬を言い止めて、綺麗な水輪が余韻として残ります。



浮島に草の明るき秋の昼       奥山きよ子


 吟行は生まれて初めてという作者にこんな佳句が生まれました。

 池の中には小さな浮島がありました、そこで「浮島」を素材にした句はいくつもありましたが、浮島に生い茂った草を見届けたのは作者だけです。

 雨の中にあっても、作者の気持ちがとても晴れやかであったことを、私は一番喜びました。

 素直な発見が、「秋の昼」を物語ります。




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   標本は蛇の衣や小鳥来る       二村結季

 小鳥たちは山から里へ下りてきたのでしょう、高い木々のどこからも、その明るい声を震わせていました。

 作者はその喜びをもって、句会場となったパークセンターに入りました。

何とそこには、超長い蛇の抜け殻の標本があったのです。

標本という古くも遠い過去のものに、小鳥来るという現在ただ今の明るさが吸い寄せられるように合体したのです。


 

掛稲や雀も来ぬか雨の中       石原虹子


 「雀も来ぬか雨の中」という調子の張った言い方はそう容易すくできるものではありません。作者の集中力の高さが思われます。

刈り取った稲は乾かすために天日に干すのです、だが今日は雨に濡れしきっています。

そんな哀れな掛稲になり切ったような気分がひしひしと伝わってきます。


 

浮島の向うに鴨の三羽かな       潮雪乃


 一羽でも、二羽でもいいのですが、何故か浮島の向うなら、三羽がちょうどいいような気がします。

何でもない光景を具体的に示すことが、俳句の要です。



茶の花の垣根の先や葱畑       東御園まさ一


 誰しもが、こんな風景に出会ったことがあるでしょう。

ふと故郷に帰ったような、懐かしさを感じさせてくれます。

「茶の花」と「葱」と、共に冬の季題ですが、事実に即して詠えばこうなるのです、一向にかまいません。

 

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雨しとど泡立草に道迷ひ       伊藤波


 この泡立草は、かの外来種の背高泡立草でしょう。

あまり好まれない茫々たる荒草であればこその道惑いが実感されます。

しかも「雨しとど」です。

 正直に詠って、読者を納得させてくれます。



次は、厚木市「依知」地区です。



秋草や星井戸に寄る女たち       柴田博祥


 厚木市中津川のほとりに日蓮星下りの御寺と言われる妙純寺があります。

日蓮上人は、佐渡へ流罪となる前に一か月ほどこの地に滞在したそうです。

日蓮ゆかりの星井戸は、屋根のついた厳かな井戸で、代わる代わるのぞき込んで遠くを偲んだのでした。

この光景を詠うのに、「秋草」が、しっとりと哀れにも華やかに多くを物語ってくれます。

あとは「星井戸に寄る女たち」と軽く流したような言いぶりにとどめて、晩秋の余韻を静かにも曳いています。


 

天高し日蓮像の人を射る       鈴木一父


 門前に大きな日蓮像が立っています。

見上げるほどに、眉も目も大きく荘厳なる顔かたちです。

 「人を射る」という捉え方には、長年この寺の近くに住んで、日蓮像に合掌をおこたらない作者ならではのものと知りました。

 高く澄み切った秋の空が、悠々の時空を包み込んでいます。



   高塚や野菊は星の供へしか       栗田白雲


 相模川と中津川に挟まれた台地には、古墳時代前期の方墳がありました。

まこと古墳らしい、こんもりとした小高いものです。

「高塚や」という打ち出しには、この古墳への挨拶がたっぷり込められています。

その上に、「野菊は星の供へしか」というロマンを詠いあげたのです。

はるかなる思いが「星」を誘い出したのでしょう。

同じ作者の、


渡し場や名残はかなし蔦葛     白雲


も、情感の強いものですが、「もの」できっちりおさえているところが見事です。

渡し場のあとかたもなくなったところに、蔦が覆いかぶさっているのです。

「蔦葛」という蔦の古称が巧みです。



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公園は太古の住居小鳥来る       古舘千世


この縄文時代の古墳のありどころは、今は公園として整備され、人々の憩いの場となっているのです。

それをかくも的確にシンプルにまとめ上げました。

コウエンの「コ」、タイコの「コ」、コトリの「コ」の韻律が、明るくも歯切れよい口誦性を引き出しています。

小鳥の声もたくましく感じられます。



縄文の丘に上るや秋の蝶       坂田金太郎


古墳と言わずして「縄文の丘」とは秀逸です。言葉をよく噛みくだいています。

秋晴の古墳にはさまざまの蝶々が飛んでいました。

作者はこの数メートルの高さを一歩一歩噛みしめるように上られたことでしょう。それと同時に秋の蝶々もまたひらひらと上ったのでした。



   案山子見て行くや大山巡礼道       米林ひろ


もう稲刈が終わって、あたり一面は穭田となっていました。

ここは昔、霊場巡りの人々が歩いたという巡礼道でもあったのでした。

「案山子見て行く」には、そのことをしっかりと心に止めて、豊年の秋を堪能している作者の気持ちがさりげなく表出されています。



秋晴や塔婆も供花も濡れてをり       川井さとみ


空は真っ青、空気は澄んで、これ以上はないというほどの秋晴でした。

でも、卒塔婆や供花は濡れていたというのです。

よくぞ見届けたものと感心しました。

夕べは降っていたのでしょうか、あるいは墓参の湿りでしょうか。

この句によって、秋晴というものがいっそう天に筒抜けのように感じられます。



山並を背に穭田のどこまでも       田野草子


大山を筆頭に丹沢の山々が連なります。

遠くまで見晴らしながら、私たちは歩き続けました。

歩いても歩いても、稲を刈り終わった田の一面には、青々とした穭が生えているのです。

今さらに厚木という風土をすばらしく思い直したことでした。



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 その他の注目句をあげます。


葉から葉へおんぶ飛蝗は小さく跳び       新井芙美

秋風や肩出し歩く人のあり           湯川桂香

初鴨の艦隊通る荻野川             菊竹典祥

ぼうつーとゐてただぼうつーとゐて秋日和    菊地後輪

ぐい呑みはこれと決めたり秋の夜        中原マー坊

薯掘りや車三台並びたる            藤田トミ

業終へて巣に鎮もりぬ秋の蜂          泉いづ

秋の日や足だけ覗く立呑み屋          中園子

栗の実の頭に出でて産毛かな          河野きなこ

瓶詰にならないものか秋の空          吉田良銈

畑道を一人歩くや月明り            福山玉蓮

菊の酒差しつ差されつ更けにけり        石原由起子

国後島見えて峠の鹿ぞ跳ぶ           間草蛙


# by masakokusa | 2017-11-22 21:12 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
題詠選     兼題=笹鳴・茶の花      草深昌子選

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 特選 


   笹鳴の西へ西へと移りけり     芝田 太


西へ西へという、ただそれだけの不思議がダイナミックです。笹鳴は金色の夕日に染まっているのでしょう。



   茶の花が咲いてをり空凪いでをり     山内利男


 ゆったりと天地を押し広げたような表現が、初冬の清らかにもあたたかな日和を存分に感じさせてくれます。




   茶が咲くときまつて母のことを言ふ     田中美由紀


 白々として慎ましやかな茶の花。でも、その蘂は、はち切れそうな金色に輝いています。まるで母のように。



   秀逸


    しののめの笹鳴今日の吉兆に      長尾美保子

   茶の花に顔近づけし夕べかな      上野鮎太

   茶の花のひとつこぼれてつづかざり   山内節子

   茶の花の大きく咲けり神宮寺      藤岡薫

    水分や実生育ちの茶の咲ける      吉永佳子

   

   入選


    犬の子に茶の花日和つづきけり     天野桃花

   茶の花や鈴鹿連峰よく見ゆる      久田草木

   年寄りの話筒抜け茶の咲けり      前田摂子

   柴山は在所のはづれ笹子鳴く      貴田寿美子

   茶の花や真昼の月の高くあり      二宮英子

   柔道着干され茶の花日和かな      森山久代

   他60句


 選を終えて


私は句会が大好きです。自分の俳句の不出来はさておいて、人さまの俳句に敬意を表する場としての句会は、楽しくてなりません。つまり選句の緊張がたまらないのです。そんな私に、題詠選という喜びの機会をいただき、気合を入れました。果たして、皆さまの渾身の俳句を前に、たじろぐばかりでした。今さらに、俳句の鑑賞と実作は、背中合わせであることに感じ入った次第です。


(「晨」平成29年11月号所収)


# by masakokusa | 2017-11-06 21:26 | 俳論・鑑賞(2)NEW! | Comments(0)
原石鼎俳句鑑賞・平成29年10月

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貝屑に蛼なきぬ月の海    原石鼎   大正5年



貝屑は貝殻であろうか、人々が食べ捨てたものでありながらさっきまで生きていた貝の成分がそこはか付着していそうなもの、そのあたりに蛼(こおろぎ)がいてもいい。

だが、この「貝屑」は、生きている貝に思われてならない。

例えば、取るに足らないちぎれちぎれの和布を「若布屑」というように、この「貝屑」もまた、こまごましたものではあるが、今もって命を保っているものではないだろうか。

そんな貝屑の中に混じって、蛼がひそやかにも鳴いたというのである。

浜辺の索漠たる光景ながら、ここには月の明りがたっぷり注がれていて、冷やかな夜気の中に反響する命の共存がいとおしい。

蛼の声はどこまでも澄み切っている。

この蛼の声を絶妙に聞かせるのも、「月の海」という大いなる展開、際立った省略があってのことだろう。

大正5年というと、石鼎は三十歳。

ホトトギス社で高濱虚子の口述筆記などの手伝いをしていた頃である。

翌、大正六年には、 


うろを出し金魚にひろし月の池


もある。

蛼に「月の海」、金魚に「月の池」、何れも、哀れにも小さなるものに対して、揺るがぬもの、大いなるものを打ち出している。


ところで、虚子は、昭和二十三年刊行の『石鼎句集』に序文を寄せている。

「石鼎君を思うと、すぐ吉野時代を思い出す。それが石鼎君の最も優れた作品である許りでなく、俳句の歴史、少なくとも私等の俳句の歴史に於いて輝いた時代を形づくったものとして尚私の記憶にある」として、吉野一連の20句が掲げられている。

その中に、


花影婆娑と踏むべくありぬ岨の月

花の戸やひそかにや山の月を領す

山畑に月すさまじくなりにけり


まさに「山の月」が浸透している。

この他にも、深吉野時代には、


馬盥の底穿くばかり山の月

  夜々あやし葎の月にあそぶ我は

  或夜月にげんげん見たる山田かな


等がある。

春であれ秋であれ、吉野の月は文字通りすさまじく描かれていて、石鼎の感動が月の明りにひしひしと伝わってくる。

いや、月光は、石鼎の若さ、石鼎の生気そのものと言ったほうがいいかもしれない。

昭和二年、四十歳のとき、石鼎は麻布本村町に新居を構えた。


月明の障子のうちに昔在


もはや、しみじみと落ち着いている。

この「昔在り」には、当然、深吉野の月と過ごした昔があることであろう。


門の燈をそがひに仰ぐ無月かな


「無月」であっても、石鼎は「仰ぐ」のである。

石鼎の眼に、かの皎々たる吉野の月がかかっていないわけはない。



# by masakokusa | 2017-10-31 23:50 | 原石鼎俳句鑑賞 | Comments(0)
昌子365日(自平成29年10月1日~至10月31日)
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    10月31日(火)      茸狩やその先頭ののけぞつて

    10月30日(月)      柿の実も古墳もそつちこつちかな

    10月29日(日)      鵙晴の昼のビールを飲み干しぬ
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     10月28日(土)      ポケットに榠樝一つや終日

     10月27日(金)      顳顬に蜂来る柿を喰うてをり

     10月26日(木)      長安の世の銀杏のにほひとも

     10月25日(水)      屋根に鳩廂に鳩や秋出水

     10月24日(火)      手習ひの反古を障子に貼りにけり
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      10月23日(月)      台風に結婚式を挙げてをり

      10月22日(日)      くさびらのべつたりとして根方かな
     
      10月21日(土)      路地に旗立てて茶房や草紅葉

      10月20日(金)      秋風や一つ囲ひに豚と山羊

      10月19日(木)      駒場とはわけても木の実降るところ
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      10月18日(水)      深川の蚊に刺されもし秋惜しむ

      10月17日(火)      船頭の漕ぐか漕がぬか蘆の花

      10月16日(月)      降り出して水引草に降りしきる

      10月15日(日)      色鳥のめっきり寒くなりにけり  
   
      10月14日(土)      秋雨の林の径を深くしぬ
 
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      10月13日(金)      御不動の片目のくわつと秋ともし 

      10月12日(木)      水澄んで鳰の潜りの深からぬ

      10月11日(水)      桟橋といふほどもなき野菊かな
  
      10月10日(火)      藁屋根に草生えしきる暮の秋
  
      10月9日(月)       素十忌の茸を一つ抜きにけり

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      10月8日(日)       秋風にいちいち鯉は口ひらく   

      10月7日(土)       まつ黒にまつ赤に秋果盛られたり

      10月6日(金)       名月の琵琶の音色となりにけり

      10月5日(木)       紀伊国屋書店の釣瓶落しかな

      10月4日(水)       栗御飯安乗灯台見て来たる                                            
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      10月3日(火)       今抜きし茸の指に粘りたる

      10月2日(月)       国分寺その裏山の栗落つる

      10月1日(日)       秋晴の大きな松の影にゐる

# by masakokusa | 2017-10-31 23:30 | 昌子365日 new! | Comments(0)
草深昌子句集『金剛』・書評抄録(その5)

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「俳句饗宴」201710(第752号) 鈴木八洲彦主宰



推薦図書

草深昌子句集『金剛』

 「物に語らせる」作風   小泉 潤



 本書『金剛』は「青草」主宰草深昌子氏の340句を纏めた第三句集である。

 氏は「あとがき」で以下の言葉を述べられている。

 「恒例の吉野の桜吟行の折、山桜の宿で先生はじめ句友の皆様と共に、だだ黙って金剛山に沈んでゆく美事な夕日を眺めたことは生涯忘れられない。

金剛こと金剛山は、吉野のある奈良県と私が生まれ育った大阪府の境に立つ主峰。

懐かしさが重なり句集名とした」と。


  金剛をいまし日は落つ花衣


 又、氏は吉野、近江、伊勢志摩などの日本を代表する風光明媚な地を永きに渡って吟行、幸せな歳月を作品として残してこられた。


   声はおろか顔も知らざる墓洗ふ

   掃苔の大東亜とぞ読まれたる


 太平洋戦争終末までの15年間の戦い、即ち大東亜戦争の「大東亜」の文字だけが判読されたのだろう。戦没者の墓と思えば見知らぬ墓ではあるが懇ろに洗ったのだ。


   消えなんとしてなほ左大文字


 大文字の火は8月16日に京都如意ケ岳の中腹で焚かれる送り火であり、その壮大さゆえに広く知られている。それが終りに近づく頃左大文字に、京都周辺の山々に焚かれ繋がっていく様はさぞ壮観であろう。

   

   破蓮ほどにも酔うてきたりけり

   湯気のものもとよりうまし冬紅葉

   寒晴や鼈甲飴は立てて売る

 

 破蓮の納得のゆくおかしみ。

 「湯気」と「冬紅葉」の相乗効果。

 鼈甲飴の琥珀色が眩しい。立ててあれば尚更である。

 梅の花も又、眩しさ故であり、白梅とも。


   この谷戸を深く来て会ふ涅槃像

   かりそめに寝たるやうなる寝釈迦かな

 

 はるばると来て拝した涅槃像は、膨よかにして今にも起き上がりそうな気配すら。

 

   入園の子や靴脱いで靴置いて

   遠足の子に手を振ってゐる子かな

 

 子供以外の情報は何もなく、繰返すことによって子供のあどけない仕草がより鮮明に見えてくる。

 平明に詠むことの強さと思う。


   銀蠅を風にはなさぬ若葉かな

   松風の少しつめたき武具飾る

 

 対象物と季節との取り合わせによって斯くも詩情の高まりを豊かにしてくれるのだ。


   ぬかるんであれば梅散りかかりたり


 春泥であれば梅も散ってしまうのか、と逆説的であり梅の花と一体となった作者がいる。


   蝌蚪の来て蝌蚪の隙間を埋めにけり

   水のあるかぎりにお玉杓子かな


 蝌蚪の強い生命力を素朴に詠まれて二句。


   子規の顔生きて一つや望の月

   初桜一字一句に子規は生き

   子規思ふたびに草餅さくら餅

 

 写生俳句を首唱した子規。氏の子規への敬拝の心の表出した三句である。

言葉は限りなく易しく平明であるのに、対象物が鮮やかにして動かない。

俳句本来の「物に語らせる」を徹底されている氏の作風に肖りたく、自分の句を省みる機会をいただいた。(ふらんす堂刊)

   

  

   


# by masakokusa | 2017-10-31 20:05 | 第3句集『金剛』NEW! | Comments(0)