昌子365日(自平成29年10月1日~至10月31日)

      10月19日(木)      駒場とはわけても木の実降るところ
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      10月18日(水)      深川の蚊に刺されもし秋惜しむ

      10月17日(火)      船頭の漕ぐか漕がぬか蘆の花

      10月16日(月)      降り出して水引草に降りしきる

      10月15日(日)      色鳥のめっきり寒くなりにけり  
   
      10月14日(土)      秋雨の林の径を深くしぬ
 
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      10月13日(金)      御不動の片目のくわつと秋ともし 

      10月12日(木)      水澄んで鳰の潜りの深からぬ

      10月11日(水)      桟橋といふほどもなき野菊かな
  
      10月10日(火)      藁屋根に草生えしきる暮の秋
  
      10月9日(月)       素十忌の茸を一つ抜きにけり

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      10月8日(日)       秋風にいちいち鯉は口ひらく   

      10月7日(土)       まつ黒にまつ赤に秋果盛られたり

      10月6日(金)       名月の琵琶の音色となりにけり

      10月5日(木)       紀伊国屋書店の釣瓶落しかな

      10月4日(水)       栗御飯安乗灯台見て来たる                                            
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      10月3日(火)       今抜きし茸の指に粘りたる

      10月2日(月)       国分寺その裏山の栗落つる

      10月1日(日)       秋晴の大きな松の影にゐる

# by masakokusa | 2017-10-31 23:30 | 昌子365日 new! | Comments(0)
草深昌子句集『金剛』・書評抄録(その5)

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「俳句饗宴」201710(第752号) 鈴木八洲彦主宰



推薦図書

草深昌子句集『金剛』

 「物に語らせる」作風   小泉 潤



 本書『金剛』は「青草」主宰草深昌子氏の340句を纏めた第三句集である。

 氏は「あとがき」で以下の言葉を述べられている。

 「恒例の吉野の桜吟行の折、山桜の宿で先生はじめ句友の皆様と共に、だだ黙って金剛山に沈んでゆく美事な夕日を眺めたことは生涯忘れられない。

金剛こと金剛山は、吉野のある奈良県と私が生まれ育った大阪府の境に立つ主峰。

懐かしさが重なり句集名とした」と。


  金剛をいまし日は落つ花衣


 又、氏は吉野、近江、伊勢志摩などの日本を代表する風光明媚な地を永きに渡って吟行、幸せな歳月を作品として残してこられた。


   声はおろか顔も知らざる墓洗ふ

   掃苔の大東亜とぞ読まれたる


 太平洋戦争終末までの15年間の戦い、即ち大東亜戦争の「大東亜」の文字だけが判読されたのだろう。戦没者の墓と思えば見知らぬ墓ではあるが懇ろに洗ったのだ。


   消えなんとしてなほ左大文字


 大文字の火は8月16日に京都如意ケ岳の中腹で焚かれる送り火であり、その壮大さゆえに広く知られている。それが終りに近づく頃左大文字に、京都周辺の山々に焚かれ繋がっていく様はさぞ壮観であろう。

   

   破蓮ほどにも酔うてきたりけり

   湯気のものもとよりうまし冬紅葉

   寒晴や鼈甲飴は立てて売る

 

 破蓮の納得のゆくおかしみ。

 「湯気」と「冬紅葉」の相乗効果。

 鼈甲飴の琥珀色が眩しい。立ててあれば尚更である。

 梅の花も又、眩しさ故であり、白梅とも。


   この谷戸を深く来て会ふ涅槃像

   かりそめに寝たるやうなる寝釈迦かな

 

 はるばると来て拝した涅槃像は、膨よかにして今にも起き上がりそうな気配すら。

 

   入園の子や靴脱いで靴置いて

   遠足の子に手を振ってゐる子かな

 

 子供以外の情報は何もなく、繰返すことによって子供のあどけない仕草がより鮮明に見えてくる。

 平明に詠むことの強さと思う。


   銀蠅を風にはなさぬ若葉かな

   松風の少しつめたき武具飾る

 

 対象物と季節との取り合わせによって斯くも詩情の高まりを豊かにしてくれるのだ。


   ぬかるんであれば梅散りかかりたり


 春泥であれば梅も散ってしまうのか、と逆説的であり梅の花と一体となった作者がいる。


   蝌蚪の来て蝌蚪の隙間を埋めにけり

   水のあるかぎりにお玉杓子かな


 蝌蚪の強い生命力を素朴に詠まれて二句。


   子規の顔生きて一つや望の月

   初桜一字一句に子規は生き

   子規思ふたびに草餅さくら餅

 

 写生俳句を首唱した子規。氏の子規への敬拝の心の表出した三句である。

言葉は限りなく易しく平明であるのに、対象物が鮮やかにして動かない。

俳句本来の「物に語らせる」を徹底されている氏の作風に肖りたく、自分の句を省みる機会をいただいた。(ふらんす堂刊)

   

  

   


# by masakokusa | 2017-10-31 20:05 | 第3句集『金剛』NEW! | Comments(0)
『青草』・『カルチャー』選後に・平成29年9月     草深昌子選
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酒瓶に秋七草の一重かな       栗田白雲


秋の七草は奈良時代の歌人山上憶良が万葉集に詠いあげて選定したもの。

すなわち、萩の花、尾花(芒)、葛の花、撫子、女郎花、藤袴、桔梗(朝貌の花)であり、いずれも秋のもの静かな風趣を誘いだす美しい花々である。

作者は、このうちのどの花であろうか、ただ一つ、あるいは花そのものの美しさをほんの少々活けたというのであろう。

それもれっきとした花瓶にではなく、愛飲の酒瓶にふと気まぐれに挿してみたような雰囲気がいかにも風流である。

酒瓶はスリムな色ガラスのものであってもいいが、私には沖縄の抱瓶のようなものが想像されて楽しい。

よきお酒をたしなまれる白雲さんならではの美意識に貫かれている。




数珠玉や風の立ち初む夕間暮       石堂光子


地味な数珠玉に目が行くのは、まさに「風の立ち初む夕間暮」である。

先日、曼珠沙華に目を奪われていた折に、しばらくして、その後ろの薄暗がりに数珠玉の一叢があることに気が付いたのも、そんな感じの頃だった。

秋になっても蒸し暑い日などあって、夕方ふと風が起こったとき、そこには数珠玉の葉擦の音がかすかにも立つのである。

その実を沢山結ぶのは秋も深まったころであるが、「あら、こんなところに数珠玉が」と、思わず作者も一息つかれたのであろう。そういえば、この実を、数珠に連ねて遊んだこともあったっけなどと、なつかしい思いにふけられたのかもしれない。

緊密なる韻律に詠いあげた一句は、さりげなくも作者の内面にまで及んでその光景を深く見せてくれるものになっている。




虫の夜や五種の薬をたなごころ       森田ちとせ


何の病であろうか、五種類もの薬を飲まねばならない日々はさぞかし、つらい事であろう。だが、この句からはそんな悲壮感が感じられなくて、そういう今の状況を心静かに肯っておられるようである。

そうでなければ、「虫の夜や」という落ち着いたもの思いには至らないであろう。

また、下五の「たなごころ」には穏やかにも繊細なる神経が行き渡っている。

いろいろの色やかたちの薬が、そのままあたかも秋の夜の種々の虫の音のように見事に照応している。

人の日々はつくづく大自然のもろもろに癒されていることに気付かされるものである。

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一徹な店主と聞くや秋簾       日下しょう子


 一徹というと、「頑固一徹」「老いの一徹」などが、即座に思い起されるが、そんな店主ならばこその、信用ある老舗なのであろう。

夏が去って、そろそろ仕舞うべき簾が、まだ秋の日差しの中にややも古びた感じに掛かっているのが「秋簾」であるが、この簾はどうやら片付ける気もなさそうである。

「一徹な店主」だと言い切らないで、「と聞くや」という、もってまわった言い方が飄々たる味わいを醸し出している。



 

渡り鴨降り立つときの荒々し       坂田金太郎


秋もたけなわの頃となると北方から多くの鳥が渡ってくる。

それらを総括して「渡り鳥」という季題になるのであるが、この句はあえて「渡り鴨」と、きっちりと鴨に焦点をあてたところが文字通り際立っている。

季語の現場に立った句は、臨場感とともに勢いがある。

同じ作者の、


沢渡る牝鹿目で追ふ牡鹿かな    金太郎


も迫力がある。

「鹿」というと鹿の声を詠うことの多い中で、この句は声を発しないところが不気味にも寂寥感を漂わせる。

「俳句は頭で作らない、俳句は足で作る」という原則を、地で行くような句である。



      

萩の花その襟元の二重なり       泉 いづ


秋の七草のうちでも昔から多くの人々に愛されるのは萩の花が筆頭であろうか。

折からの風に揺れやすく、その花をこぼしながら優美に枝垂るるところなど、大雑把に詠いあげられがちであるが、この句はまことしみじみと萩の花そのものに目を見開いて接写している。

「その襟元の二重なり」と言われてみると、あらためて楚々とした可憐な美しさが、ほのかな色気さえ漂わせるようではないか。



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独り居の指差し確認蚯蚓鳴く       古舘千世


蚯蚓は実際鳴くのかどうか、螻蛄が鳴くのを蚯蚓と誤認したのだという説もあるが、俳人独特の感性が「蚯蚓鳴く」という季題を生み出したのであろう。

〈蚯蚓鳴く六波羅蜜寺しんのやみ 川端茅舎〉の句はあまりにも有名であるが、この句など蚯蚓は本当に鳴いているとしか思えない。

そういう季題に、千世さんは「独り居の指差し確認」を仮託されたのである。

火元ヨシ、戸締りヨシなどと確かめながらも、どこか不確かな気分が、ひそやかにも蚯蚓の声を聞かすのである。




竹の春梢は風の中にあり         石原虹子

 

 竹は春に筍を生長させるため親竹は生気を失い、黄色くなって葉が落ちたりする。

 秋になると回復して葉もあおあおとしてくる、これが「竹の春」である。

 この句の「梢」はあたりの木々の梢であってもいいが、作者は竹そのものの枝の先々のありよう風の中に詠いあげられたのだろうと思われる。

ものを見る目に、真っ正直な、静けさがあって、また対象物への愛情がなければこのように淡々とは言い切れないものである。




ドナウ川漁夫の砦に懸る月        松尾まつを


 ブタペストにある「漁夫の砦」からはドナウ川が一望されるという。

「ドナウ川」も「漁夫の砦」も知らない選者が一読して、現地に誘われたようなはるけさをもって、思わず月の明りを仰いだのであった。

 まこと俳句の妙である。

この地球という小さな惑星のどこにあっても皎々たる月光は同じものに違いない、ドナウ川という固有名詞の響きがよく効いている。

漁夫の砦からは、漁業で生計を立てるものの堅固な砦を想像させられたが、事実、その王宮の丘には、魚市などが立ったようである。


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その他の注目をあげます。


  幾度も男の沈む稲穂波          瓜田国彦

   鬼灯の小さきままに熟しけり       平野翠

   星月夜隣の夜泣きおさまらず       中原マー坊

   二人して田に立つ二百十日かな      中澤翔風

   大雨の一夜に過ぐるちちろ虫       間草蛙

   露けしや日の出る前の草葎        熊倉和茶

   喫煙所電子たばこや鰯雲         末澤みわ

   自転車に二百十日の風強し        山森小径

   閂を指し込み二百十日かな        高橋まさ江

   あの山は秋の七草揃ふなり        石原由起子

   初秋刀魚大きな目玉こちら見ゆ      加藤洋洋

   讃美歌の壁を流るる蔦紅葉        上野春香 

   蔵の壁ひび割れてゐる法師蝉       新井芙美

   朝日子やどの草も露頂きて        中園子

   秋風やパーマ屋裏の青タオル       黒田珠水

   あの友もこの友も無事敬老会       田淵ゆり


# by masakokusa | 2017-10-04 20:26 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
『青草』・『カルチャー』選後に・平成29年8月     草深昌子選
 
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  独り居の日々の気ままや秋の蠅    松尾まつを  

 一人暮らしは自分の思うまま自由にはかどってゆく、その感慨が上五中七とストレートに読み下されるが、下五に至って、「秋の蠅」とくると俄かに作者がそのまま秋の蠅に成り代わったようなやるせなさがぴたっと寄り添ってくる。
 あの命盛んな夏の蠅は、いまや秋の蠅となって、澄み切った空気の中に、一抹の哀愁をきらっと光らせているのである。



   夏深む駅前書店閉ぢしまま     奥山きよ子 

 本厚木駅南口には立派な本屋があったが、潰れたのか改築なのか、閉じられたままである。
 何処の駅でもこのようなことは昨今よくある光景であろう。  
 駅前であるから、往き来するたびに目が行ってならないのである。
 一向に再開しない書店の先行きはどうなるのだろう、「夏深む」はごく自然に感受されたもの思いであろう。
 その心情は、ブティックやレストランでなく、書店であるからこそのものである。
 作者はカルチャー教室に入会されたばかりだが、その感性は鮮やかである。



   新涼のラジオ体操第二かな      佐藤健成  

 「涼し」は夏の季語、「新涼」は秋の季語である。
 一般的にいつも行われているラジオ体操第一では新涼にはならない。
 「ラジオ体操第二かな」、それだけで「新涼」を詠い切ったのである。
 夏の暑い日々を乗り越えて、いま何ともすっきりした気分でラジオ体操をやっている、その心地よさが「第一」ならぬ「第二」に遺憾なく発揮されている。
 何も言わない、ただ省略する、これが俳句である。
 
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   新涼の水に浸すや米二合       山森小径  

 「米二合」がいい。
 慎ましくも清々しい暮らしぶりまで窺われて、まさに新涼の水が冷たく透き通っている。
 秋になって初めて感じられた涼気が、日常の生活のうちにあった。
 文字通り手触り満点の句である。



   踊子のレース飾や小さき村      佐藤昌緒 

 「踊」といえば盆踊、「踊子」と言えば盆踊の踊り手のことである。
 この句は旅先のものであろう、どこか地方の山裾の村の盆踊であろうか。
 そこで出会った踊子が浴衣でなく、レース飾の服装、あるいは髪飾りなどが、いかにも愛らしかったのであろう。
 「小さき村」という下五から受ける印象がひそやかにして清潔である。

 ところで、作者は海外旅行が多いから、この句も海外詠かもしれない。
 ふと、高野素十の〈づかづかと来て踊子にささやける〉が思い出される。
 これは海外詠で盆踊の句ではないとされたが、いや本当に新潟の盆踊風景だという説もある、どちらであってもいい、盆踊として鑑賞しうるかどうかであろう。
 素十の句は、盆踊の句としてまこと名吟である。




   炎昼や胸に抱く子の指しゃぶり     芳賀秀弥  

 燃えるような夏の暑さの真昼である。
 赤子の指しゃぶりと炎昼の間に何の因果関係もないのであるが、
この二つが合わさることによって、生きとし生ける物の身に猛暑が静かに及んでいることを感知するのである。
 作者の眼差しは、指しゃぶりでもって無心に耐えている赤子がなんともいじらしく思われているのだろう、そういう作者の心中までもが察せされる。

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   百姓の肩に来て鳴く秋の蝉      二村結季  

 単なる蝉であれば平凡なる情景が、「秋の蝉」によってしみじみと、風趣あるものに感じられる。
 自然のなりゆきにそって働き通しの百姓に一抹の慰めをあたえるような一瞬である。
 作者のものを見る目に愛情がこもっている。



   鬼百合の雨を溜めたる花の反り     伊藤波   

 これも、ただの清楚な白百合の花ではおもしろくない。
 「鬼」という名をかむせらた鬼百合ならではの咲きようである。
 「鬼百合」であるからこそ「雨を溜めたる花の反り」が効いているのである。
 このように、ものをよく見て作った即物具象の句はどこまでも嫌味がなく、何度読み返しても鮮やかに景が浮かび上がるものである。



   花芙蓉せめて夕日の沈むまで     栗田白雲  

 何と甘美な表現であろうか。だがその調べこそが、思わずうっとりとしてしまうような芙蓉の花の美しさを見せてくれるのである。
 作者自身が相当、芙蓉の花の美しさに惚れこんでいなければ、こうは言えない。
 「沈むまで」、物言いをここに止めてしまったような下五も巧い。



   雨止みしどの巌頭も霧立てり     森田ちとせ

 霧を詠いあげて何とスケールが大きく晴れやかなるものであろうか。
 作者は高峰を登山する方であるから、巷を東奔西走しているような私には想像もつかない世界を体験されていることだろう。
 霧一つとっても、後退りするような厚みがある。

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 その他、注目句をあげます。

   パソコンに天眼鏡や今朝の秋       末澤みわ  
   炭坑節待って輪に入る踊りかな      泉いづ  
   落し文亡き友のこと夫のこと        大本華女
   盆唄や今宵ますます名調子         中園子
   鳴き尽きて蝉のころがる路傍かな     矢島静
   丹沢の峰も恥じらふ西日かな        中野はつえ
   秋蚕飼ふ今宵も母は寝もやらず      田野草子
   君とゐて風鈴の音のただ一つ        柴田博祥
   濁流の鴨を呑み込む雷雨かな        狗飼乾恵
   富士川の流れ穏やか盂蘭盆会       藤田トミ
   簾揺らしゴーヤ震はすはたた神       東小薗まさ一
   音もなく庭に搖るるや白芙蓉         木下野風
   蜻蛉の影の過ぎゆく用水地          森川三花
   里芋や葉は日に向かひ大開き        菊地後輪
   赤ん坊の唇むらさきに夏の海        湯川桂香




# by masakokusa | 2017-10-01 15:20 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
昌子365日(自平成29年9月1日~至9月30日)
       9月30日(土)       秋風や長寿まんぢゆう二た色に

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       9月29日(金)       鉄砲も艦も露けき模型かな

       9月28日(木)       仲秋やおほむね白き人の服

       9月27日(水)       露けしや飛蝗の上に飛蝗乗り

       9月26日(火)       破蓮皿回しなど思はるる

       9月25日(月)       説法の跡はここらの秋の蜂

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       9月24日(日)       お悔やみを受くる石榴の下にかな

       9月23日(土)       秋彼岸猿の臭ひを放ちけり

       9月22日(金)       小鳥来る梢のどれも欅かな

       9月21日(木)       落ち合うて府中の昼や曼珠沙華

       9月20日(水)       壁ぢゆうに落書台風来つつあり
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       9月19日(火)       蚊に喰はれどほしの子規の忌なりけり
         
       9月18日(月)       としよりの日のまつさをな窓の色

       9月17日(日)       木は朽ちて石は穿ちて水の秋

       9月16日(土)       ちかぢかと寄れば色ある草の花
 
       9月15日(金)       いなり坂にはかに急や曼珠沙華
 
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       9月14日(木)       足もとにたまに手もとに秋の蝶

       9月13日(水)       蝉鳴いて蟻は走つて蓮は実に 

       9月12日(火)       秋の蠅輪ゴム跨いで来たりけり

       9月11日(月)       錠前に錆をつくしてつづれさせ

       9月10日(日)       露けしや城垣高くビル高く

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       9月9日(土)       大方は墓場の寺や猫じやらし

       9月8日(金)       雨の来て笑はぬ案山子なかりけり

       9月7日(木)       濠にして沼めく秋の蓮かな

       9月6日(水)       あばらやの隣あばらや白木槿

       9月5日(火)       秋の蚊のここは千代田区九段下

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       9月4日(月)       拳骨に載せて飛蝗を見せらるる

       9月3日(日)       野分過ぐ花屋の前の豚カツ屋

       9月2日(土)       木のそよぎやまざる二百十日かな

       9月1日(金)       めいめいのことして一家爽やかに 
       
        
# by masakokusa | 2017-09-30 23:59 | 昌子365日 new! | Comments(0)
『青草』第二号・2017年秋季号
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 結社誌「青草」は船出したばかり。
 その第二号に、図らずも草深昌子自らの句集『金剛』の特集が組まれることに、いささか躊躇った。
 でも、今はこれでよかったと感謝しています。
 皆さまから寄せていただいた鑑賞文の数々、これは私への激励だけではなく、我らが「青草」会員の一人一人にとりましても、得難く学ばせてもらえるものであることを、確信したからです。
 先日ふと、三木清「人生論ノート」を再読しました。
 「死者が蘇りまた生きながらえることを信じないで、伝統を信じることができるであろうか」は、もとより、
 「人生は運命であるように、人生は希望である。運命的な存在である人間にとって生きていることは希望を持っていることである」に、はっとさせられました。
 だからこそ、俳句という芭蕉の文学を一生懸命に学ぶ価値と喜びがあるということでしょう。
 希望をもって生きる者はいつだって若い、その心意気で、静かにも明るく歩んでいきたいと願っています。
                                   
                草深昌子

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草深昌子句集『金剛』特集


  草深昌子句集『金剛』書評       岩淵喜代子

      文体を獲得した作家          

 
 俳句の未来はどうなるのかという話題は、絶えず浮上する。しかし、云いつくした論を漉し器に流し込んでみれば、最後に残るのは写生しかないのである。
 芭蕉の「即刻打座」も、虚子の「客観写生」・「花鳥諷詠」にしても、この写生ということばを下敷きにしなければ成り立たない。俳句だけではない。文芸のすべては、この手堅い写生を駆使することこそが基本なのである。
 草深昌子さんの俳句は、まずはこの写生力という点で際立つ俳人だとかねがね思っている。

   秋風のこの一角は薔薇ばかり
   綿虫に障子外してありしかな
   対岸の椅子に色ある残り鴨
   一束は七八本の苧殻かな
   あめんぼう大きく四角張つてをり

 一句目(秋風の)は、ゆったりと平らな地形が広がる中に突然薔薇園が現れる。秋風の吹く虚の景から薔薇園を焙り出したような巧さがある。
 二句目(綿虫に)は誰でも知っているように小さな虫である。
人がそれに目を止めるのは、純白の綿を纏ってふわふわ飛んでいる様子が詩情を誘うからだ。
(綿虫)に続く(障子外してありしかな)によって、真白な綿虫がより真白く、小さな綿虫が大きく見えてきて、不思議さを誘うのである。
 三句目(対岸の)もまた淡々と視覚が捉えた景である。対岸という漠とした景に椅子を置いて、さらにその椅子に色がある、と叙述したときに風景の焦点がきちんと定まったのである。
そうして椅子と残り鴨に、有るか無きかの響き合いが生まれはじめて景が語り始めるのである。
 四句目(苧殻)は盆の迎え火や送り火のために用意されたもの。
買い求めてきた苧殻を眺めながら、これが彼岸のはらからたちの迎え火になるのかと思いながら眺めていたのが感じられる。
その想いが、一束が七八本だという極めて沈静な、そして極めて即物的な叙述に置き変わった。
 五句目も視覚が捉えた発見である。四角張っているのはその輪郭ではないのである。
身体から伸ばした長い四本の足が押さえた足先を点として結んだ空間なのである。
句集にはこの作者独特の視覚の発見が随所にある。

   七夕の傘を真つ赤にひらきけり
   蝶々の飛んでその辺みどりなる
   いつかうに日の衰えぬ梨を剥く

 さりげなく読み進んでいく中で、ふと意表を突かれて立ち止まるのが一句目である。
 普通に言えば赤い傘を開いたという叙述なのだが、その赤いという形容詞を動詞的な使い方をしているのだ。
 そうしてこの作者が詠むと(傘を真つ赤にひらきけり)となる。
 まるで開くたびに様々な色に変化させられるかの如く。この巧みさは、七夕の季語斡旋からはじまっている。
 この季語によって、いよいよ傘の赤さが際立つのである。
 作者の文体と言える表現方法である。
 二句目の蝶々の飛ぶ先々がみどりだとする断定、三句目の梨を剥くにいたる叙述、ことさら変わっているようにも見えないのに独特な文体である。

   一枚の朴の落葉を預かつて
   秋の蟻手のおもてから手のうらへ

 朴の句は、思わず口元が緩んでくるような面白さがある。
 冬になると大きな朴の葉が根元に散乱していることがある。
 そんな朴の一枚が、誰かの手から作者の手に預けられた。
 ただそれだけのことなのだが、預かった手にある大きな朴の葉がさらにクローズアップされて、置くことも仕舞うことも出来ない戸惑いが(預かつて)に発揮されている。
 その、対象物を拡大して提示させているのは、二句目の蟻にも言える。
 句集を開きながら、しばしば巧みな作り手だなーと感心するのである。

   蝌蚪の来て蝌蚪の隙間を埋めにけり

 最後になってしまったが、私の愛唱してやまない一句である。
 小さな生き物を覗き込んで、その生き物の動きを追う。
 静寂な視線で見据える無心な作者がいる。その無心さが見事である。


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# by masakokusa | 2017-09-30 23:59 | 俳句結社『青草』NEW! | Comments(0)
「青草」第二号・草深昌子句集『金剛』特集 ・ 一句鑑賞
  
  大木あまり
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 草深昌子さんのことを、私はひそかにマダム!と呼んでいる。
 それは、洋服のセンスが抜群に良くて芦屋のマダムのようだからー。
 そのマダムが句集『金剛』を上梓された。
 写生の昌子と呼ばれるだけあって、
 作句の修練によって培われた写生眼の確かな句が随所に見られる。
 格調の高い句集である。
 あれこれ選に迷ったが、
 独特の視点と遊び心のある二句を鑑賞させていただくことにした。

   七夕の傘を真っ赤にひらきけり     昌子
 
 七夕とは、五節句の一つ。
 天の川の両岸にある牽牛星と織女星が、年に一度会う七月七日の夜、星を祭る行事のこと。
 星祭は子供でも知っている庶民的な行事だが、よく雨が降る。
 この句は、「傘を真っ赤に開きけり」で雨の七夕の情景を簡潔に表している。
 傘の色が白や水色では付きすぎだし、趣が無い。
 「真っ赤に」に艶やかさがあるのだ。
 シンプルに詠んで鮮烈な印象を与える七夕の句である。


   銀蝿を風にはなさぬ若葉かな     昌子
 
 強風で動きの取れない銀蝿が、青い葉にしがみつくようにじっとしている。
 それを発見した作者は、対象を凝視することでこのような一句に仕立てた。
 着眼点の良さもさることながら、軽妙酒脱。
 物を見てその「物」に語らせつつ作者の遊び心を感じさせる。
 なんとも「風にはなさぬ」の措辞が艶だ。




   榎本 享
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   露けしやかたみに払ふ蜘蛛の糸     昌子

 草深い径を誰かと歩いていたのでしょう。
 仲間の髪にくっ付いている蜘蛛の糸に気づいてつまんであげた。
 「あら貴方にも」と笑いつつ手が伸びて、肩先の糸を払ってくれる。  
 そんな誰にでも経験のある一瞬を「露けし」という季語が、
 しっとりと描き出す。
 ささやかな出来事をも心から楽しめる余裕が、昌子俳句の豊かさである。
 「かたみに」という仮名書きの言葉に、その響きに、人の温もりが感じられる。


   夏館ものの盛りは過ぎにけり

 籐椅子も簾も飴色の艶を持つ親しい味わい。
 ベランダから望む木々の緑も、その枝を吹き渡る風も晩夏の風情。
 視野に入るものだけでなく、その家の空気も自身の体調さえも、盛りを過ぎたという思い。
 寂しさではなく、全てを肯定し、受容する大らかさなのだろう。
 「夏館」をこんな風に詠んだ作品に初めて出会った。
 読み手に対する信頼が、省略を利かせた深みのある作品を生み出すのだろう。
 昌子さんは本当の大人である。
 純な子ども心を持ち続けている稀有な大人である。

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  藤埜まさ志


   
   小春人ただ道なりに行けと言ふ     昌子
 

 吟行にでも出掛けていて途中で道を尋ねたところ
 道なりに行けば着きますよと教えられたという。
 解かりやすいようだが、芭蕉の実質的に辞世の句とも言われている、
 「この道や行く人なしに秋の暮」の句に呼応しているとも思える。
 俳聖芭蕉の「この道」とは当然俳句の道だが、その言葉に昌子さんは、
 「自分は自然体で道なりに俳句の道を歩むだけです」と応えているかのようだ。
 それは「外の風物とわれわれ自身をも貫く宇宙のリズムに従え」
 と説く師大峯あきらに繋がる姿勢なのであろう。
 小春人とは大峯あきらであり宇宙のリズムそのものなのだ。
 中村草田男の句に「真直ぐ往けと白痴が指しぬ秋の道」がある。
 白痴とはドストエフスキー的な聖白痴をいうが、
 その指さす「真直ぐ」は己の信ずるところを真直ぐにという己が勝った意味合いが強く、
 肩肘張っている。
 ニーチェ的主知的西洋風であり、
 「道なり」とする昌子さんの東洋的な柔らかい態度とは少し違うように思えて興味深い。
 対象へ注ぐ柔らかく独自の視点と把握、無理のない表現、
 そうだからこその溢れんばかりの詩情、「金剛」は昌子俳句のこれまでの見事な到達点である。
 今後「道なり」の昌子俳句の一層の成熟から目が離せない。

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  岸本尚毅



   晩秋や薔薇の疎らに明らかに     昌子


 「疎ら」「明らか」というありきたりな形容が無造作に使われている。
 読者は、晩秋の薔薇の寂しげな風情をすんなりと感得出来る。
 この句集の一つの読みどころは、力まずに使った形容語の巧さである。
 たとえば「やはらかになつてきたりし踊の手」の「やはらか」は、
 だんだんこなれて来た踊り手の動きをよく表している。
 「だんだん」などという野暮な副詞を使わずに、
 動詞と助詞・助動詞だけで「なつてきたりし」としたところも巧い。

 「蜂来たり秋の日傘に狂ほしく」の「狂ほしく」も、じつにピッタリの形容である。
 「狂ほしく」が生きるためには、
 上五の「蜂来たり」が無造作であること、また、
 「秋日傘」ではなく「秋の日傘」であることなど、
 言葉が周到に選ばれていることが必要である。 
 「蜂が来る秋日傘へと狂ほしく」だったら、この句は全然ダメなのである。

 「甘茶仏少しく肥えておはしけり」の「少しく肥えて」も良い。
 だから「おはしけり」という少し気取った言葉が生きるのである。

 「鯵刺や紙の如くに白く飛び」の「紙の如く」はもちろん巧いが、
 「白く」を連用形で使ったところがもっと巧い。
 「鯵刺の白きが紙の如く飛び」ではイマイチなのだ。
 俳句は技術や巧さより「こころ」や人間性が大切だという声も聞くが、
 もしかすると、そういう物言いは綺麗ごとに過ぎないのかもしれない。
 いわゆる「へたうま」も含め、俳句は巧ければ巧いほうがいいと思う。

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 中西夕紀



   金剛をいまし日は落つ花衣    昌子
 

 金剛とは、奈良県と大阪府の境にある金剛山のことで、
 金剛山地の主峰であり、標高一一二五メートルの美しい山だ。
 花の吉野山から大阪の方を眺めると、
 ひときわ雄々しいのがこの山で、夕日の山容の美しさは格別である。
 草深さんは、毎年大峯あきら先生と山本洋子先生を中心に集まった晨の同人達と、
 花の時期の吉野山へ登っている。
 吟行コースは、桜の開花状態や宿によって変わるのだが、
 観光客の歩くコースはなるべく通らないで、
 畑の中や、細い山道を自由自在に歩き回る。
 そして、そこで生活している人達との会話を楽しみ、
 時に庭を見せてもらうこともある。
 私も晨に参加していた数年間この吉野吟行にご一緒させて頂いた。
 草深さんは非常に多作な作者である。
 句会場に着くと、大学ノートを開き、
 一行も空けずに小さな字で、句を一心に書き続ける。
 やがて、ノートの開かれたページは余白がなくなり、
 その中から十句短冊に書き写されるのである。
 他の人達はというと、歩き疲れてうたた寝をしていたりするのだが、
 草深さんだけはいつも黙々と作り続けていたように記憶している。
 俳句にも関東風と関西風がある。
 関西風ははんなりした風合いで、
 関西生まれの草深さんの句は、典型的な関西風であり、
 流麗で、濡れた艶を見るような語感である。
                 

(平成29年8月21日発行「青草」第2号所収)
# by masakokusa | 2017-09-30 23:06 | 俳句結社『青草』NEW! | Comments(0)
課題詠   兼題=紅葉・露      草深昌子選
   特選

   家族みな同じ紅葉の樹を愛す     大槻一郎
 
     作者の真情が読者に力強く響いてくる。
     逆に言えば、紅葉に輝かされている家族の幸せではないだろうか。


   朝露をついばんでゐる雀かな     天野桃花
 
     雀の可憐な仕草によって、朝露を宿したあたりが清らかに光りはじめる。
     生き生きとした命の夜明である。
 

   露の子の歩みのらくらしてゐたり     池上李雨
 
    「のらくら」には凛とした露のイメージが覆るような微笑ましさがある。
     露の世のわけてもいじらしい子供。

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   秀逸 

   露の世に兄弟といふ縁かな      川西恭子
   紅葉して闇深くなる箱根山       小堀紀子
   鞍馬駅まづは紅葉の濃かりけり    中岡ながれ
   虫くはへ鶏の走れる紅葉かな     山内利男
   露けくて吾輩といふ顔の猫       西川章夫


   入選

   弁当を配ることより紅葉狩        加藤あや   
   抜きんでて燃え立つ漆紅葉かな     碓井ちづるこ
   水落ちて清流となり紅葉山       中野陽典
   洛北を丹波に抜けてなほ紅葉     中村昌夫
   校庭に炊出訓練露しとど        二宮英子
   他70句省略

(平成29年9月号「晨」第201号所収)
# by masakokusa | 2017-09-30 21:20 | 俳論・鑑賞(2)NEW! | Comments(0)
選後に ・ 大峯あきら   山本洋子
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   大峯あきら選

   巻頭

   夏鴨の鳴いて日中を飛びにけり    草深昌子

 春が来ても北へ帰らないで、そのまま残っている夏の鴨を通し鴨とも言う。
そんな夏の鴨を見かけるのは涼しい木蔭なのであるが、これは日中の空を鳴きながら飛んでいるところである。
鳴き声で捉えたところが面白く、どこか濃い季節感がある。
〈鮎食うて相模も西に住み古りぬ〉
関西から関東に嫁いで相模の国の西に住んでいる作者。
鮎の季節が来ると西国のことを思う。


   山本洋子選

   次席

   木斛の花散るまるで雨のやう     草深昌子

 木斛は椿科のごく小さな五弁の花が咲く。
その花の散りようが「まるで雨のやう」と感じた。
散りざまを素直にのべてあるだけだが、一瞬感じた言葉が美しい。
〈鮎食うて相模も西に住み古りぬ〉
ただ相模の西に住むのでなく〈住み古りぬ〉で〈鮎を食う〉人が根強く住みついている感をもたらしている。


(平成29年9月号第201号「晨」所収)
# by masakokusa | 2017-09-30 13:43 | 昌子作品の論評 | Comments(0)
『はるもにあ』客人居 (まらうどゐ)     草深昌子
 客人居『雨のやう』
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      雨のやう         草深昌子


   木斛の花散るまるで雨のやう

   松をまへ楓をよこの花あやめ

   炎帝の蝗をつかみそこねたる

   蟻の列見てゐて息のととのふる

   ふつと日の林に落ちて涼新た

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  ☆はるもにあ集を読む/第61~62号より      草深昌子




   人の日やゴッホを見つめ見つめられ    番匠博雄

 ゴッホの絵はデフオルメであっても即物写生に違いない。
だからこそ見るほどに見つめられてくるきらめきがたまらないのだろう。
ゴッホに向き合うことと、人日という七種を祝う節句とは無関係でありながら、必然のようになつかしい詩情に引き寄せられている。


   黄を帯びて穴ひとつなき障子かな    満田春日
 
さんざんに日当たりに晒された障子、穴の一つもないという、ずんべらぼうのさまがあたたかである。  
陋屋であろうか、こんな穏やかな障子のありようが、人の世に安心をもたらしてくれるのである。


   寒晴や踏切開いて馬通る     松山ひろし
 
 あるがままを言葉に置き換えることのすばらしさ。
一見そっけないとも言える詠い方が、馬の速度に叶っていて、思わず顔がほころんでしまった。
野にあらずして巷の踏切を行く馬のさまは、寒中の大晴を伝えてあまりある。


   初場所や固く緊まりし蛇の目砂     鈴木かこ
 
 無駄のない、それこそ緊と引き締まった句には初場所の厳粛が漂っている。
蛇の目という言葉は神聖なる鋭さを思わせるが、力士の今年にかける意気込みをうかがわせるものでもある。


   法蓮草ポパイを知らぬ子に食はす     満田春日
 
 「あんたは菠薐草が足りないんだ」と主治医に叱られ、しょげていたその日、この句に出会って、いっぺんに元気をいただいた。
ポパイの菠薐草パワーがそのまま俳句の迫力である。
「食はす」という、愛情たっぷりの措辞にこそ救われたのだった。


   神足三丁目さへづりが弾けとぶ      川崎雅子
 
「シンソク」、そう神の足下なら、神通力さながらの囀であろうことよと、一読にして感嘆。 
二読してはたと、ここは京都府長岡京なる「神足」ではなかろうかと膝を打ったのだった。
しばし都が置かれた「コウタリ」ならではの「弾けとぶ」が、いっそう頷かされるのであった。
何れにしても固有名詞だけでもって美しい囀を聞かせるとは、奥ゆかしくも大胆。


   盆梅やたまに客来る煎餅屋      大木明子
 
 誰しもに思い当たる老舗の佇まいが既視感をもって見えてくる。商売っ気のない、ひんやりとした薄暗がりの空間。盆梅は格調高く座っている。


   切るたびに俎動く八つ頭      黒田はる江
 
 事実その通りを詠いあげてダイナミック。カチンコチンの手に負えないものの実体。
飯島晴子の〈八頭いづこより刃を入るるとも〉に勝るとも劣らない。

(2017年9月号『はるもにあ』(満田春日主宰)所収)



   
# by masakokusa | 2017-09-29 23:59 | 俳論・鑑賞(2)NEW! | Comments(0)