秀句月旦・平成20年7月               草深昌子
 
   和歌に痩せ俳句に痩せぬ夏男    正岡子規

 明治18年春、子規は哲学を人間一生の目的と思い定めたものの、学年試験に不合格落第した。そしてその夏、初めて松山に帰省した。この時、子規は、桂園派の歌人井手真棹の邸をたづねて和歌の教えをうけた。俳句を作りはじめたのもこの年である。
以来、35年の生涯に遺した俳句は二万三千余句。
 和歌に俳句に徹底した男の凄絶な夏痩せがしのばれる。
「俳句講習 贈鳴雪翁」と前書して、<舌頭に千転するや汗の玉>もある。


   空と山画然として青田風         原 コウ子

 「画然として」は、はっきりと区別がついているという意味的なものもさることながら、漢字の固い印象やひびきが、よく山を際立てて、青田をはるかまで明瞭に見せてくれるものである。
 作者の居住した二宮は、南に相模湾、北に丹沢山地を控えて、風光よく温暖なところ。見渡すかぎりの青田を靡かせてゆく風は大らかでとても頼もしく思われる。

 
   米粒に跼んで拾ふ朝曇          古館曹人

 「米粒に」、「に」たる助詞の何と利いていることだろう。俳句の芸、ここにありと思う。これが「米粒を」であったら、ただのスナップに流れてしまうが、「に」という無比なる描写からは、拾う前からそこに落ちてある米粒を思わせ、米粒を白く見せ、人物のちよっと重たげな起居や心象までもがうかがわれるようである。朝から靄々としている生活の時間や空間がまるごと見えて、臨場感たっぷりである。
 こんな朝の日にかぎって日中は炎天になることを、「米粒に跼んで拾ふ」という自身の仕草にすでに感じ取っている作者は一句をもって気合いを入れ直されであろうと、そんなことまで思うのも余情である。


   木から木へこどものはしる白雨かな   飴山 實

 シンプルな構図は雨脚をあきらかに見せている。「こどものはしる」という平仮名書きは、豪雨というほどでもない村雨性のにわか雨が思われ、どこか童画的な雰囲気がかもしだされる。
 何より、「木から木へ」という動きのある打ち出しが気に入って、当時、無意識に○から○へというフレーズが出てきて困ったことも実作上のなつかしい思い出である。
 掲句は平成元年刊行の『次の花』に収められているが、ここには他に<湯豆腐のかけらの影のあたたかし>、<大雨のあと浜木綿に次の花>、<日の沈む国かや雁をわたしつつ>などがある。


   働くや大蟻小蟻中蟻も           高田風人子

 大蟻、小蟻という区別はまま見かけるが、「中蟻も」とは新しく、おもしろい。要するに蟻という蟻はすべて、およそ働かない蟻はいないのだということになる。そんな蟻の命をじっと見ていると、われわれ人の世の人の命も蟻同然、太陽を浴びて働くことに何ら変わりはないように思われる。そんな切なさが明るい。
 「四季は私にとって伴侶である。俳句はわが人生の軌跡である。」という作者の一句である。

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   草茂みベースボールの道白し       正岡子規

 子規は日本に野球が導入された最初の頃の熱狂的な選手であった。明治21年、「ベースボール程愉快にてみちたる戦争は他になかるべし」と説いている。自身の幼名であった「升(のぼる)」にちなんで「野球(のぼーる)」という雅号を用いたことから、子規が野球の名付け親との伝説は、碧梧桐や虚子の回想から喧伝されているが、ベースボールを野球と訳したのは、中馬庚(ちゅうまんかのえ)によるらしい。いずれにしても野球を俳句や和歌にとりいれたのは子規が初めてで、打者、走者、飛球、四球、直球などは子規の訳語で、現在に至るまでそのまま使われている。
 夏草の茂りをめぐらす広場に引かれた白線の鮮やかさ、炎天の眩しさ。回想による作品ではあるが、ここには颯爽たるユニホーム姿の子規が彷彿として、今に新しい句である。

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   いつの間にがらりと涼しチョコーレート  星野立子

 「がらりと涼し」、いかにも口をついて出たまでというふうな表現、「チョコレート」たる下五、だれも詠ったことのない素材に思わずはっとさせられて、一読すっと納得する。こういうところに目が働く神経がすでに涼しい。チョコレートをポンと割って、頬張った感触が「がらりと」に響きあうところなど天性のセンスであろう。
 立子の涼しさは、<白涼し紫も亦涼しく着>、<人目には涼しさうにも見られつつ>、<心静かに在れば涼風自ら>など、立子の生き方そのものの涼しさである。
 かにかく立子の句は平明で、一瞬これなら私にも作れそうと読むたびにほっとするようなところがあるが、やはり、その感受性の鋭さは独特で、逆立ちしてもこうは言えないものである。


   しばらくは膝にかしこき浴衣の子     伊藤通明

 日本画のように端正な情景が目に浮かんで、それこそしばらくは郷愁に目を細めるばかり。
広々とした夏座敷に夕風が吹きそめる頃であろうか、こわばった浴衣がまだ身になじまず母にそっと甘えているいとけなき心のさまがしのばれる。やがて子はヤンチャをはじめるのであろうが、しばらくは余所行きの顔になったところに、涼味満点の「浴衣」を見事に表現しているのである。
 抒情立志に満ちた氏の第五句集『荒神』所収、この句の前には、<うすものにこころにじみてゐたりけり>がある。


   母ひとり故郷にある大暑かな       高室呉龍

 今年の大暑は7月22日、夕刊には、「大暑に苦労」という見出しで、東京丸の内で暑さに顔をゆがめて通勤する人々の写真が大きく載った。暦の上では一年中でもっとも暑いとされる日であるが、まったくその通り、日本列島は各地で30度以上の真夏日となった。
 朝からぐったりというサラリーマンの姿は、かの名句、<念力のゆるめば死ぬる大暑かな 村上鬼城>を思い起こされるが、掲句の作者もまた心中に、「念力のゆるめば死ぬる」をひそかにつぶやかれたのではないだろうか。母上のご無事をお祈りする静けさもまた大暑のもたらす感慨である。


   金魚玉天神祭映りそむ          後藤夜半

 天神祭は7月25日、大阪天満宮の祭礼。神輿の川渡御を中心行事として江戸時代を通じて盛んであった。
 大阪の俳人には逸することのできない題目である、と山本健吉が言うように、大阪は曽根崎新地のまん中に生まれたのが後藤夜半。ホトトギスにあって、生涯、上方ならではの情趣にあふれた句、艶麗な句を生み続けたことで名高い。
 この句も水の都といわれるにふさわしい川筋の灯かりが色鮮やかに浮き出てくるものである。堂島川に面した軒端に吊られているのであろう、金魚玉に、渡御の船団の篝火がかっと映ってくるところである。「映りそむ」には、舟のすべるような動きが見えてくると同時に、いよいよ盛り上がってくる祭り気分を伝える、巧みなる表現である。
<射干の花大阪は祭月>、<鱧の骨上手に切れて祭膳>もある。天神祭に鱧は付きもの。

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by masakokusa | 2008-07-01 12:29 | 秀句月旦(1)
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