小林実美氏が、「新聞記者、編集者として修羅場の三八年でした」と、眩かれたのは昨年九月に退職された直後のことである。初めてお会いしてから八年、いつお会いしても、はにかんだようなさわやかな笑顔を見せてこられた。別の横顔を見たのはこの時だけである。
厚木句会では開口一番、「今朝二時までの仕事で寝ていないので、頭がもうろうとしています。選句には自信がないのですが……」と、言われる。ところが睡眠不足に耐えて、句会への備えは万全である。会員一人一人への目配り気配りの周到さが、懇切な選評のなかでおのずと知れるのである。
厚木句会には高齢の方が多い。そして、様様の分野でのエキスパートが多い。実美氏はそうした方々のひたむきな俳句への姿勢に搏たれている。その執念の尊さに共鳴して選ばれた句々から、私もまたどれだけ励まされ教えられたか計りしれない。初学の破天荒な私の句も、「天真爛漫の昌子さんらしい」と、よく拾ってくださった。美辞麗句を並べる方ではないが、人を認めてくださる、こころ根のあたたかな方である。句会のだれもが絶大の信頼を寄せる所以である。
<俳句は下手が良い>という実美氏の持論は示唆に富むが、その言葉の裏に<文芸としての俳句>が意識されていないはずはない。実美氏は、民芸の父といわれる柳宗悦に傾倒しておられる。生活用具の中に芸術性を見出し、芸術のための芸術は認めないという宗悦の主張は、そのまま実美氏の主張につながっている。つまり技巧だけの句、作り手のにおいのしない句は認めないという確信である。
臘八会帰途立寄りし銀座かな 実 美
朝顔市法被に大輪咲かせをり
自販機の音しきりなる十三夜
一句目、「思索は行動なり」と言っているようである。実際、実美氏は忙しい日常にあって、思索して止まない人である。道元に心酔して座禅を組むかと思えば、職場につながる銀座に魅せられる。山登りが好きで、その経験も深い。一方で、祭りが好きで浅草へ足繁く通われる。人間と自然に対する興味が、実にバランスよく保たれているのである。
進取の精神に富みながら、古風を愛する実美氏の体臭は、東京の下町情緒そのものと言えるのではないだろうか。
ところで私はこんな実美俳句に魅かれる。
頭陀僧の肩に七星てんと虫 実 美
噴水の巨花に近づく揚羽蝶
童子のような愛らしさ、清潔感にあふれていて、とても修羅場に身を置いた方とは思えないのである。いや、だからこそ、純なるものを求めつづけずにはおれなかったのかもしれない。実美氏にとって俳句は、激務の中で自分自身を見失わないために、四十年間肌身離さず持ちつづけなければならないものであったのだろう。私は、その実美俳句の真実に畏敬と思慕を寄る。
この小稿を書かせていただくにあたって、私は生意気にも、「実美さんは、いまどういう俳句を考えられていますか」と、電話でお尋ねした。すると一呼吸おいて、「模索中です」と、答えられた。句作四十年にしての、この真摯な答えに私は弾かれたような思いがした。そして、実美俳句の新たなる道への期待に胸がふくらんだ。
(「鹿火屋」1993年2月号 所収)