○春夏秋冬帖⑪    熊手    草深昌子
              
 高張提燈の下をぐぐると、急にうす暗くなって、醤油の焦げるにおいが漂っている。
 季節はずれの台風の接近で、ときおり激しく雨がしぶくというのに、この三の酉のにぎわいはどうだろう。
 裸灯の煌々とした七味屋で、大辛を調合してもらっていると、ふいに背後で、「いよおっ――」と、声が上がった。振り向くと、店の人が総出で手締めをとって、拍子木を打った。そして深々と一礼すると、中からぬぅつとささげもたれた熊手が現れ出でた。
 松竹梅、鶴、亀、大判小判、宝舟、おかめ、なんとまあ、あるだけの福を取り込んで、めでたさもこぼれんばかりの熊手だこと。
 句帖を手に、興味津津の眼を光らせている私にも、店の人は「どうだい!」と、しきりに声をかけてくれる。だけど、ついに、
「さっきから、いったい何を調べてんだい」
 と、怪訝な顔を向けられてしまった。
「へぇっ、酉の市が俳句になるのかねえ……」
 と、笑顔になると主は、「昔は五穀豊饒を祈ったのさ、だから、熊手のおまけにこれをつけてやるのさ」
 と、稲穂の束をゆすって見せてくれた。

 色白の中年の女性が、熊手をためつすがめつ見ていると、半纒の人が、「五万八千円のところを五万!」と、五本の指を広げた。
 ながめていた私の方が、「ええっ」と、思わず高いというような不満の声を洩らしてしまったが、女性は買うことに決めたらしく、黄八丈のような大風呂敷をひろげはじめた。
「奥さん、熊手は包むもんじゃないよ。ピニールかけてあっから雨だって大丈夫さ。こうやって、高々とかかげもっていくのさ」と、店の人が女性の手に熊手を持たせた。
「いよおっーシャシャシャシャシャシャシャシャシャッシャン!」
 それは、通りのだれもが振り向くような、力強くも鮮やかな手締めだった。
女性は、熊手を恥ずかしそうに胸元にひきよせ二歩、三歩進んだところで、砂利に足をとられてよろけてしまった。
 「おや、旦那さん。旦那さんがいるなら、これは旦那さんが持つんだよ」と、店の若い衆が大声で言った。みると、かたわらに、いかにもやさしそうな男性の顔が、ビニールの傘に透けて見えた。奥さんは、頬をかすかに染めて嬰児を抱くように熊手をかかえ直すや、旦那さんがすかさず傘をさしかけて、二人は足早に去って行った。
 <みちのく>それとも<秋田おばこ>などという暖簾をかけて、居酒屋を開いているのだろうか。熊手さん、どうぞお幸せに!
 あっ、またこっちでも売れたらしい。
「いよおっ一」と、しぼり出したあとに、売り手と買い手の喜びが弾けてとんだ。
 今度の熊手さんは、さっきの熊手さんの十分の一くらいのささやかさだけど、この手締めの勢いにはどうやらかわりはないようだ。
 私は小さな祠で浄財を納めると、巫女から熊手をさずけられた。それは、竹の耳かき棒をつなぎ合わせたようなかぼそさだった。
 銀ねずに暮れ初めた空へ、私は思いきり、背のびをして、二度、三度、宙を掻き寄せた。
すると、真紅に彩づいた紅葉が、しずくを伴って、いっせいに舞いおりてきた。
 胸のうちに、小さなよろこびが沸きあがって、いまにも、名句が生まれそうであった。

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(「鹿火屋」1992年11月号 p93 所収)
by masakokusa | 2007-06-08 14:28 | エッセー1
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