○春夏秋冬帖③    ものの声    草深昌子

  <通り過ぎた風景>と題する絵には、ゆがんだ金網や雑草、そして板の切れ端などが断片的に散在している。画家はそれら道端の草や廃物に「待ってろよ。いま絵にしてやるからな」と呼びかけて描いたと言う。抽象的な絵ではあるが、世の片隅の何げないものの声が聞こえてくるようで強く心をひきとめられた印象が忘れられない。

 花と緑の博覧会で見た小倉遊亀のく紅梅と古鉢>の日本画にも感動した。いびつでいまにもかしいでころびそうな古鉢に、私は思わず右手の指を揃えてそのふちをつかもうとした。その脇に紅梅の小枝が置かれていた。置かれているというより、首をもたげてまるで生きもののように古鉢の方へ歩みよろうとしているのである。紅梅と古鉢はあたたかな息を吐き合って何やら語っている。その中へ、私も首を突っ込んでなかなか抜けなかった。

 ピカソは絵を見たとおりに描かないで、感じたとおりに描いた。飯田龍太は、「写生は感じたものを見たものに表現する一方法と考えている。その逆でもよい」と、言った。そこで絵になるためには、いや俳句になるためには、見るというより感じるということが先決になるのかもしれない。


  馬は瞳で我に応うる言葉もつ人より深く広くかなしく

 いつか朝日歌壇にのったこの歌のように、ことぽをもたない動物が人よりも豊かにものを言うのを感じることが多い。
 <通り過ぎた風景>や、<紅梅と古鉢>から、動物はもとより、生きものでない物ですら、いつも声を出して人に呼びかけてているのだということに気づかされる。その声を感知した人こそが美を感じうるのであって、美は客観的ではありえないのである。それらの絵は物にいのちを与えたということになる。俳句もまた、そうでありたい。

 いつか、「天声人語」に、美術の先生の面白い教え方が出ていた。「想像で松の木を描きなさい」という。先端の方が細くなった幹、左右に張った枝、出来上がった絵はいかにも松である。「今度は写生をします」という。写生の絵は必ずしも先細りの幹でなく、枝は左右だけでなく前後にも伸びている。微妙な陰影が重なり合う。「自然の複雑な変化、まとまり、予想を許さぬ展開、それらをたしかめ自然から学ぶ必要を悟る」のが写生のねらいである。それにしても想像の絵の何と松らしく、何と実物から離れていることか。しかし、二枚の絵はどこかしら似ている。本物をなお手持ちの観念の目で見るからだという。
 天声人語氏の言いたいのは、既成概念でものを見るのでは感動も発見もないということであろう。

 私はここで俳句における写生と観念を考えあわせてみた。さっきの生徒にかぎらず、観念でものを見ない人はいないだろう。しかし、俳句で観念という場合、既成概念ということばに置きかえるだけでは元も子もない。そこで俳句でいう観念は広辞苑でひくところの「観察し思念すること、佛陀の姿または真理を思い浮べてよく考えること」にあたるようだ。ことばなきものの声を真に心象的に聞きとめて、ことばとして表現し得たときは、観念の句といえども人の心にひびくことになるのではないだろうか。
 それは見たとおりにかかないで、感じたとおりにかいた結果ともいえる。

○春夏秋冬帖③    ものの声    草深昌子_f0118324_20373883.jpg

 (「鹿火屋」1992年3月号所収)
by masakokusa | 2007-06-01 16:33 | エッセー1
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