○春夏秋冬帖②   梅見    草深昌子

  梅は一人か四五人で見る花か   雅人

 十年ほど前に知ったこの句は私の心から去らない。そして、いまだに「一人で見る花ですよ」とも「いや、四五人で見る花ですよ」とも答えられないでいる。作者自身はそのどちらをも肯定しながら、あえて自問の形でなげかけられたであろうことを承知しながらも、この一句は解き得ぬ謎のようで年毎に考えさせられるのである。

 梅は百花に咲きがけて春を告げるが、どこにも誇らしさがない。寒気の中で、ただおのが香りの中に凛然と籠りいる。「唯我独尊」を思い出さずにはおれない咲きようだ。二月生まれの私にとって、梅は幼な心にも好きな花であったが、このごろは枝ぶりにひかれている。水平に伸びた枝がいきなり垂直に伸び上がって天を突くかと思えば、ゆるやかな曲線を描いて観音のひねり腰を思わせるものもある。剛直にして柔軟なのである。近づきがたいばかりの気品も好きだが、その気品を決して損わずにのびやかな自在さと素直さがあるのを知ってからはいつそう親しみのある花となった。

  梅白し暖かき日も寒き日も    石鼎

 石鼎のこの梅の孤高に思いをめぐらしていると、梅は一人で見ても四五人で見ても、結局はひとりで見る花ではないだろうかと思われてくる。梅はその芳香の沈黙の雄弁が魅力だと言った歌人がいた。実際、梅はひとりであることを寂しがらせたりはしない。むしろひとりであることに心足らいを覚えさせられるのである。

 さて最近になって、この梅に関して私にもあらたなる自問がわいて答えられないでいる。それは梅は近づいて見る花か、それともはるかにして見る花かということである。
冬も終わりに近づくと、私達俳句仲間は早々と探梅行に出かけるのが常である。日当たりのよい岨路に一輪の梅を見つけたときのときめきは、金剛を見つけるにもまさるのである。私は睫毛が芯に触れるまでかかとを浮かせる。睫毛をしばたかせると、蕭々としたあたりの景がにわかにくっきりとピントを合わせばじめるのである。

 早春の野をそぞろ歩いていると、思わぬ古寺に足を踏み入れていたりする。私はおちこちの梅へいそいそと近づいていくと梅の一粒一粒へ口づけていくのである。寺の縁に足を垂らし、瑞瑞しくも柔かな日差しに包まれていると、身の芯がほぐれて、誰にも彼にも素直になっているのに気がつく。

 はるか向こうの山に目を遣ると、梅林がほの白くほの紅く薄日の中に茫洋とけぶっている。あたりの裸木はお互の体をぬくめあうかのように枝々をからませあって突っ立っている。いつかどこかで見たことのある風景だ。

 遠い昔に住んでいた地のようでもあり、夢の中で見た地のようでもある。ともあれ、遠景に梅のあるこの風景は私の一身を包みこんで放さない。身内があつくなるまでたたずんでいると、かたわらの竹藪から一陣の風が吹き抜ける。その風のつめたさがここちよい。
一歳のときに父を亡くした私は、父に抱かれた記憶を持たないが、このときばかりはまぎれもなく父に抱かれている思いにひたっている。
どうやら私は、梅を近くに見るときは愛するということを、梅をはるかに見るときは愛されるということを思うらしい。

 (「鹿火屋」1992年2月号所収)
by masakokusa | 2007-06-01 16:29 | エッセー1
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