『はるもにあ』のアルファベヅトを並び替えたら『花守』になりました。毎回お客様をお招きして、前号を散策していただきます。
岩間よリニ寸に満たぬ蓬かな 杉田朋子
「岩間」「より」「二寸」「満たぬ」・と言葉の連携プレーは、蓬に焦点をしぼって確かな映像を結んでいる。どの言葉も揺るぎないが、ことに「満たぬ」は「足らぬ」とは別種の上品な香りが立ちのぼってくる。客観的な描写ながら清流のつめたさまで感じさせてくれるのは言葉の選択に作者の感性が働いているからである。
亀鳴いて独座に雨の上がりけり 中島葱男
「独座」というもったいぶった物言いがすばらしい。これぐらい芝居がからないと亀鳴くという季語はまさに嘘っぽくなる。もちろん一期一会に思いをめぐらす作者は大真面目である。だからこそ俳諧味がかもしだされる。
影割れてふたりのごとし夜業人 牧タカシ
「影割れて」が言えるようで言えない。「割れて」というところに、「働けど働けど楽にならざり」とも言うべきペーソスが滲むのである。夜業とか夜なべは時代を背負う季語であろうが、〈夜業人に調帯(ベルト)たわたわたわたわす 阿波野青畝〉を思い起こすとき、その心情は現代も案外変わらないもののようである。
昔ならとうに老人秋刀魚焼く 大木明子
秋刀魚焼く煙はもくもくとして、浦島太郎の玉手箱のそれのようでどこか年寄りくさい。苦いか塩っぱいか、その味もまた孤愁の味わいのようである。だが、作者の秋刀魚は、俳句を楽しむエネルギーのみなもとになっているらしい。とびきり生きがよい。
ななかまど一人飲む茶の冷めやすし 春田のりこ
一読してななかまどが見えてくる。紅葉でも桐の実でもなく、ななかまどであることに理屈はいらない。ナナカマドというぎこちない発音も一句の情感である。
炊きたての飯結びをり霜柱 鬼野海渡
霜柱のざっくりと立つ朝、てのひらを真っ赤にしていのちの糧を握っているのである。あつあつの湯気は背筋の通った生活感、厳冬の季節感そのものである。
えき前はとてもさむいねいなかだね 菅野拓夢
都心などの出先から帰って駅前に降り立ったとき、思わずコートの襟を立ててしまう。丹沢山系の麓に住んで、何千回も感じたことを、そうよ、そうよと頷くばかり。拓夢ちゃんの、「いなかだね」っていう言い方はとてもやさしいね、いなかもうれしくなりました。
人のこゑ海に吸はるる施餓鬼かな 満田春日
「人のこゑ海に吸はるる」は他の季語にもつきそうである。だが施餓鬼というありようを心にしたとき、このフレーズは絶対のものとして動かない。つまり「施餓鬼」という季題の実体をまるごと把握した、靜かにもダイナミックな佳品である。不滅の水を湛える海を前にして、生者死者の別無く、阿鼻叫喚の何としんかんたるものであろうか。
(2007年5月6日満田春日主宰「はるもにあ」第6号p11~12所収)