いま三つ
冬晴や羊の群はいま三つ 大峯あきら
「いま三つ」、なんて楽しい表現だろう。茶目っ気すら感じられる、少年のような純粋感動は、「羊の群は三つなり」と言い切らなかったことにあきらかだ。その感動をひきついで読者は連想する。
まさか二つに減らないでしょう、五つ六つと増えてほしい、ほらほら日差しも濃くなって・・。作者と読者が共有できる冬晴の世界のなんとはるかで、透明感にあふれていることだろう。
〈みちのくのいづこで付きし草じらみ〉も同様、ほんの少しを提示して、その先の想像は読者にゆだねてくださった。
ひるまへに終ってをりし松手入 山本 洋子
庭師の手際に逡巡がなかったのだろう。松の姿が美しく立ち現われると同時に、読後にしんとした時空がひろがってくる。庭師ならぬ俳人の松手入によせる焦点の絞り方にも凡百の迷いがない。
流木を歩く体育の日の鴉 中嶋 鬼谷
鴉といえども、足腰を鍛えるのであろうか。少しシニカルな視線は生きとし生けるものへの作者の愛情であろう。そして体育の日であることに気付かされた自虐がほんのりとゆかしい。
赤い山青い山山鷹渡る 蔵田美喜子
「青い山山」が晴れやかである。大らかな鷹の飛翔がリズムにのっている。色彩感とともに、感動が調子にのって奥行きが生れた。
その真紅幻ならむ烏瓜 中田 剛
烏瓜の真っ赤な色彩を、たとえ火の玉と言ったとしてもそれは事実の一端に過ぎないように思われる。「その真紅幻ならむ」という表現からは、にわかに発光してやまない烏瓜が典雅にゆらめく。
受賞者はみな白髪や菊日和 東條 未英
「みな白髪」という発見が見事である。思わず微笑んでしまったあとに、切なくも明るい菊の香気をしみじみ味わった。受賞者へ対する畏敬の念がなければこうは詠えないであろう。
人は、生老病死という道筋を避けては通れない。悲しいことも苦しいことも、俳句の目で見れば、嬉しいこと美しいことに取って代わってくれる。ほのぼのと豊かな俳句の群れに幸せをいただいた。
吾亦紅大きな月に驚きぬ 宇佐美魚目
花野なり名の無き花の美しく 藤 勢津子
冬座敷末席といふあたたか味 角 光雄
文机へ木犀の香のまたたき来 田島 和生
コスモスを飾りどのジャムいただかう 西川 章夫
蜂の子飯赤子めでたく名を貰ひ 本村 蠻
道問へば稲架の終ひを右へ行け 堀江 爽青
(平成18年3月1日発行・「晨」第132号p63所収)