史上の一句・加舎白雄          草深昌子
 
  
   人恋し火ともしころをさくらちる      加舎白雄

 「夕桜を見ませんか?」と、句会の後、男性にさそわれた。
 桜の並木通りは、勤めを終えて家路を急ぐ人々の靴音が響くばかり。花は咲き満ちながら、一とひら、二ひら絶え間なく散りかかって、まさに満目の落花だった。黄昏の薄墨とさくらの淡い色合いが渾然一体となって胸にかむさってきた。過ぎ行くもの、流れ行くものに、何かとどめをささねばならないようなもの思いにふけりながらついていつた。二人はただ黙って、大きな桜の木の下に佇んだ。
 ふいに眼前の背中に孤愁を覚えた。奥様を亡くされ、一人暮らしをされている背中は、不幸ではないことを自覚している倖せというものが滲み出ていた。今はもう八十何歳であろうか、その方の過去が栄光に彩られたものであったことを仄聞している。男性の胸に去来した思いはどのようなものであったろうか。探るべくもないが、振り返った眼がなつかしかった。ゆるい坂道をもう一度来たように引き返して駅につくと軽く礼をして別れた。
 灯のともる頃の感傷が、桜の散る頃の感傷と重なった、数年前の静謐の時間を忘れることは出来ない。今思えば、白雄の一句の世界を私なりの世界に再現してみたかのようないっときだった。
 どう幸せに生きたとしても、どう苦しみぬいたとしても一人に一回きりの人生はたそがれる。やがて真っ暗闇となる。あるがままの現在を惜しまずして何があるだろう。その日たしかにそう認識したらしい。

  くらき夜はくらきかぎりの寒哉   白雄

 この句の実感を得たのもその後のことである。

 掲句は、二百数十年も前の作品であるが、市井に生きた人間の視点が、そのまま今を生きる人問の視点となって切実に蘇ってくる。
 「姿を先に情を後にすといふも初学の事也。情を先に姿を後にすといふはもつともいはれなき事也。姿情は天地のごとし。姿情の論にまどはず、例のよく万物に応ずる事をおもふべし」
まこと、「よく万物に応ずる」一句となっている。
 人間が感じるように花も感じる心をもっている。人間が花を美しい、いとしいと感じることによって花はいっそう美しくなる。ものを写し取るということは、感じるこころの往還である。物恋しいのは、作者、人間自身でありながら、さくら自身でもある。灯ともしころを散りゆく桜は、ふっくらと香気を放っている。まるで意思をもってこの世を別れてゆくかのように。
 白雄の死に際し、親交のあった榎本星布の嘆きは尋常ではなかった。
  
   白雄翁のなつかしき此の夜
  長き夜や思ひあまりし泣寝入り   星布

史上の一句・加舎白雄          草深昌子_f0118324_20402658.jpg


(平成15年1月1日発行・「晨」第113号p59所収)
by masakokusa | 2007-01-03 17:16 | 俳論・鑑賞(1)
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