ひらかずに傘持ち歸る~北野高校からの出発・田中裕明小論    草深昌子
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     紫雲英草まるく敷きつめ子が二人
    今年竹指につめたし雲流る
    菜の花や河原に足のやはらかき
    梅雨に入り藤棚の下人もなく


 田中裕明の処女句集『山信』の冒頭四句である。まるく、つめたし、やはらかき、人もなく、これらの主調が生涯の作品に貫くものであることに不思議を覚える。

 『山信』(昭和五十四年刊行)は、十八歳から二十歳までの百句を自ら筆写した十部限定の私家版であったが、師の波多野爽波をして、自身の若書きに比して「勝負あった」の一言に尽きると言わしめたほどのものである。
 裕明は、大阪府立の名門である北野高校の時代、短詩型同人誌「獏」に参加の後、昭和五十二年、三年生になって波多野爽波主宰の「青」に入会した。「青」の学生メンバーによる「がきの会」は、島田牙城を発行人として同年九月季刊誌「東雲」を創刊している。図らずも、「東雲」を五号まで、連衆の方から拝借することが出来たことを契機に学生俳人裕明の俳句をたどってみたい。
 創刊号はてのひら大のガリ版刷りであったが、二号からは、タイプオフセットA5版となった。平均年齢十八歳全国一若い結社の誌代は三百円(高校生は半額)であった。高校生裕明は、第一次石油ショック後漸く落ち着いた高度成長下にあって、素うどん一杯分ほどの誌代を払って実作に打ち込んでいたのである。

  菜の花や河原に足のやはらかき
  水眼鏡とらず少年走り去る
  放たれし犬の速さの枯野かな


 手元の「東雲」では、〈菜の花や河原の足にやはらかき〉、〈水眼鏡とらず少年走り来る〉、〈放たれた犬の速さの枯野かな〉、であった。『山信』への登載にあたり推敲されたのはこの三句だけである。俳句は助詞の一字で印象が一変すること、俳句は平面でなく奥行きがほしいこと等、すでに俳句の基本を知悉している。そして、「詩の中心を言葉で射抜く」と言った裕明の詩情は青春そのものであった。

  炎天下起重機少し傾いて

 掲句に対して、上野一孝(裕明より一年上、当時東大生)が、問題提起をしている。「炎天下」では読者の視線は始めから下を向いている、「炎天や」で上を向かせてそれからドスンと傾くに視線を一気に落すのはどうか、「傾いて」も口語で音便形を採るより「傾きて」と音の硬さをそのままにしておいたほうがいいのではないか、と。早速『山信』を確かめたが、この批評を容れての変更はなかった。
 ここに裕明の周到の句作りと、誰よりも自らに問い掛ける姿勢がよく現れている。俳句に、少しでも裕明らしくないポーズが入るのを嫌ったのであろう。「炎天下」は炎天に密着した、炎天に抗しきれない起重機がイメージされ、対象への愛憐さえ感じさせるものがある。尚、上野一孝は、再考を促した後、「掲出句の方がいいというなら文句はない」と述べている。学生同士の研鑚の場は爽やかである。

 裕明による会員作品評もある。「批評を依頼されるとは何たる身の不運」にはじまって、筆致はすこぶる伸びやかで、的確さには舌を巻くばかり。
 「〈神主は藁屋に住まふ薺かな〉、〈寺の庭蛇口が硬し初桜〉、この二句、上十二と下五の結びつきが勝負。いや結びついてしまっては負けになってしまいます。所謂、季語を大切にする勉強とは、このあたりの事だと思います。二句とも成功していると思いますが、寺の庭の方は、上五中七下五とぶちぶちっと切れてしまっているような感じがします」
 大勢の作品を批評した後は、「読み返してみると、日頃の選句の下手さがそのまま出ています。誉めてあるのも、けなしてあるのもあまり気にしないで下さい。結局自分の句を方向づけるのは自分なんですから。」と締めくくる。
 この文章はそのまま当時の裕明の作句姿勢を語っているといえよう。

  口笛や沈む木に蝌蚪のりてゐし
  えんどうや網戸が水に浸りをり
  水澄むや梯子の影が草の中


 「や」を媒介にして、イメージの繋ぎ合わせに成功している。裕明は現実から詩の断片を絶えずゲットしている。それらは季語と輻輳してジグソーパズルめくのだが、はぐれた一片がピシッとはまり込んだ瞬時にある物語的な世界、無心の世界を垣間見てほほえむのであろう。意味のない世界の心地よさといったものが伝わってくる。
 一生が長くあれ短くあれ、自分の仕事をきっちりと仕上げた作家はスタートから違うのだった。自分にあるものを自分の言葉で書く、この態度こそが生き方として追求するものであった。俳句に対する謙虚と自負がこの時期すでに定まっていることは驚きである。
 後年の句である〈萬人の好む句いらず朴の花〉に通じるものである。朴の花は下から見ても広葉にさえぎられてよく見えない、だが高みに上って見えるべきところに出ると初めて大輪の花が見える。朴の花は清浄感そのものである。

  末枯に屈みゐる人大きな穴
  試験場裏の窓より冬の墓地
  冬ばらや荷の鉄材を投げあげる


 三句とも、受験勉強も追い込み中の心境が窺われる。
 二句目、生きて今ある風景に遠からずある死後の風景。後年の〈生年と歿年の閒露けしや〉という抽象画の下地になるようなスケッチである。
 三句目、たとえば〈冬薔薇石の天使に石の羽根 草田男〉のピタッと決まった句と比べてどうであろう。裕明の方は冬ばらでなくてもよさそうな雰囲気を漂わせながら、やはり冬薔薇ならではの戦ぎが見えてくる。ここにも裕明その人がいるというほかない。どの句も、理屈なしに信じた構図はすばやく言葉にのせるのが裕明のリリシズムである。

  ひらかずに傘持ち歸る花あやめ
  朝顔やよべは裸で寝てしまひ
  この橋は父が作りし蝉しぐれ
  泳ぎ女のすぐに上がりし芋の秋
  寢かせある根釣の竿を跨ぎけり
  ラグビーの選手あつまる櫻の木


 昭和五十三年、京都大学工学部電気系学科に入学した。真空管がトランジスタに代わって、ミクロンやナノ単位の微小世界を追求するようになっていた当時、この研究分野は工学部の中でも最難関の花形学科ではなかったろうか。理数系出身が俳句に傑出するのはよくあることであるが、観察眼の鋭さに加え、理数系であるがゆえに尚更理屈で割り切れないこの世の真理を信じている人なのであろう。
 掲句のどれも、息遣いや体温が季題に溶け込んでみずみずしい。私など、俳句は瞬時の断面をみせるものという初学の教えに執着して、未だに、時間や空間さえもひろげて見せるという芸には難航するばかりであるが、裕明はそんなセオリーにこだわることなく、悠悠迫らぬリズムをもって描ききる。絵画にも音楽にも置き換えられない「ことば」による芸術とはこういうものであろう。
 一句目、〈ひらかずに傘持ち歸る〉はいやがうえにも花あやめを浮かび上がらせる。俳句自体は堂々たるものでありながら、一歩引いた物言いにこそ情趣の深さがしのばれるのである。〈忍ぶれど色に出でにけりわが恋は物や思ふと人の問ふまで 平兼盛〉、の如きふところ深い息遣いが現代青年のものであったことにためいきが洩れるほどである。
 二句目、『山信』には登載されなかったが好きな句である。「よべ」の巧みさ「裸」の美しさ。深い闇を湛えながら、今し、ひやっとした清涼を感じさせてくれる。青年は朝顔になりきっている、若気の至りという俳句ではない。かにかくに裕明の俳句はなべて垢にまみれなかった。どこかしらはにかんだユーモアと共に明瞭簡潔であった。

 思い出されるのは「守破離」という言葉である。人間が成長していく上での基本的態度として初めは師匠の教えや価値観を頑なに「守り」、やがてその教えを少し「破り」、最後は自分の型を目指して師匠から「離れ」ていく。創作するものの王道である。花あやめの存在感は、そんなオリジナリティーへの萌芽のようでもある。
 やがて裕明は京大を卒業したばかりの昭和五十七年、最年少で角川俳句賞を受賞する。受賞時の感想を述べた「夜の形式」の次の言葉は忘れることができない。
 「(前略)芸術における形式と内容について思いをこらしていたある夜に、ふと夜の形式という言葉が浮かんでしばらくの間頭を離れなかった。(中略)夜は次第に明けてゆくのだけれども、時間がそちらの方向にだけ流れていると思うのはおかしなことで、今日見た朝の空と昔見た空が寸分かわらぬ顔をしているのは時間が逆流していることの証にほかならない。こう言えば夜の形式というのはかなり複雑なもので、それは時間と非常にふかい関わりをもっている。(後略)ほんとうにずいぶん前にも考えていたことなのだが、いま手にしているのは夜の形式ではないようだ」
 その思考や精神をおもんばかるに、早熟な裕明はすでに「離」の段階に達している気配である。裕明の最後の句集名が『夜の客人』であったことを思うと胸が詰まるようである。ついには夜の形式を手にしたというのであろうか。詩人はスタートから運命的な死を意識するのであろうか。裕明は今も、あの漆黒の眼をくるくる回しながら「夜の形式」と「昼の形式」を眠れぬまま思いをこらしているだろう。いつか逆流して帰ってくるように思われてならない。

  大學も葵祭のきのふけふ

 昭和五十四年、二十歳の句である。葵祭ならでは絢爛たる若葉の季節に照応して「大学」はいっそう清新である。「も」は荘厳におさえて華麗にくりひろげる要の一字である。「きのふけふ」、その解き放ったような時間の表出にも一流の風格がただよう。京都の大学生はアルバイトとしてこぞって祭りに参加する。古式ゆかしい装束にこめてたっぷり京都を体得した感性は、その後の裕明俳句の京風を交響させてやまない。

  春暁のダイヤモンドでも落ちてをらぬか 爽波

 爽波三十歳の句は、ダンディーな軽みと諧謔が東京風である。爽波から裕明流へ「離」たらんと勉学にいそしんだ裕明の品性の句といかにも対照的で楽しい。

 裕明の詠う対象がいついかなるときも〈ひらかずに傘持ち歸る〉如く、一身にあたたかく包み込むものであったことに思いをいたす時、一続きの一つの生きた命が発した言葉に生涯一貫するものがあることには何の不思議もない。

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  (2007年1月5日発行・「ににん」第25号「ににん六周年記念特集」 p36~39所収
   文頭写真は平成16年6月27日「晨」20周年記念大会に於ける田中裕明)
by masakokusa | 2007-01-01 09:54 | 俳論・鑑賞(1) | Comments(0)
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