師系燦燦 五               草深 昌子
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 「夏草」の系譜――山口青邨を師として

  祖母山も傾山も夕立かな     青邨

 「青邨は単純で一本調子で質実で感情の襞がおおまかである。風生が女性的なのに対して、青邨は男性的である」、山本健吉の言だが、はたしてそうであろうか。

  みちのくの雪深ければ雪女郎 青邨 
  初富士のかなしきまでに遠きかな 〃
  紅粉の花おはんの使来れば剪る  〃
  初花の紅粉花をいとしみ人に秘す 〃


 山口青邨は、明治三十年五月、五歳になったばかりで母に死に別れ、叔父夫妻の下に育った。いとしみこそ母への思い。青邨には自然をいとおしむ句が多い。かなしさもまた自分の力ではとても及ばないと感じるいとおしさである。恋の句が多いのも、母恋であろう。

  唖蝉も鳴く蝉ほどはゐるならむ  青邨
  雪の野のふたりの人のつひにあふ 〃


 感情の襞がこまやかで、内部に愛憐の情を隠し持っている。こういう抒情があればこそ、いかにも一本調子のようでありながら質実剛健の句が成せるのである。

  雪深く南部曲屋とぞ言へる  青邨

 調べそのものに強い心情、詠嘆が打ち出されている。雪深くの凄み。この省略。みちのく出身、青邨のもっとも特徴的な一句と思う。

 青邨は、大正十一年高浜虚子に師事し、秋櫻子、風生、誓子らと東大俳句会を興した。昭和三年、ホトトギス講演会で「どこか実のある話」と題して虚子の前で、秋櫻子・素十・青畝・誓子のイニシャルから四S提唱をしたことはあまりに有名である。秋櫻子と素十の確執に対しその両立を叫んだ青邨であったが、虚子は素十に軍配をあげたのであった。折しも昭和四年、虚子は「花鳥諷詠」を明快に、完成された俳句観として世に示した。
 青邨は、昭和五年、盛岡で「夏草」を創刊。ドイツ留学を経て昭和十四年東大教授に就任した。

  銀杏散るまつただ中に法科あり 青邨
  こほろぎのこの一徹の貌を見よ  〃


 東大の正門を入ったら俳句のハの字も言わず、昼飯抜きで研究室にこもった青邨は、独自の心の躍動を抑えることなく果敢に実直に俳句に立ち向かった近代俳人である。
 山本健吉の「青邨は男性的である」は、けだし至言に違いない。

            ☆

 深見けん二氏の『日月』(平成十七年二月十日刊行)は、
氏の第六句集で、詩歌文学館賞を受賞。昭和十六年、高浜虚子に師事。昭和十七年、東京大学に入学、山口青邨に師事。平成三年季刊誌「花鳥来」創刊主宰。

  先生は大きなお方龍の玉  

 けん二氏が十九歳で入門した時、虚子はすでに六十七歳、ほぼ半世紀の年齢差がある。まさに雲上人でありながら、「俳句座談会」での面授を通じて師弟間の心理的距離を縮められたのであろう。昭和十六年の虚子の句に、
 <之を斯く龍の玉とぞ人は呼ぶ>、〈燭を継ぐ孫弟子もある子規忌かな〉、昭和十四年に〈龍の玉深く蔵すといふことを〉がある。
 龍の玉は文字通り画竜点睛の光りである。

  俳諧もこの世のさまも青邨忌
  青邨忌までのしばらく十二月


 「俳句も年々進歩している。時代と共に進んでいる。ただその動きは極めて徐々で、氷河の動きみたいなものだ。俳句は、十年も百年も先走りできる詩ではないようだ」というのが青邨の俳句観である。ダイナミズムを感知する俳人をしみじみと偲んでいる。青邨は昭和六十三年十二月、九十六歳で長逝。

  野遊の弁当赤き紐ほどく
  真ん中の捧となりつつ滝落つる
  朝顔の大輪風に浮くとなく
  覚めて又いつからとなく浮寝鳥


 メリハリが利いてかつ悠々としている。目に見えて、音に聞えて、感触があって、美しくゆかしく臨場感そのものである。ゆえに、一瞬これなら私にも出来そうだと思わせる。これこそが名句の条件である。だが金輪際できない。どこが違うのであろうか。「平凡な表現に深い心を湛へる句。それは授かる句である」は昭和二十四年のけん二氏の言葉である。

  ゆるむことなき秋晴の一日かな

 パーンと張った帆布の如き清涼感はどうだろう。作者の風貌そのもののようである。句歴六十有余年をかけて、花鳥諷詠とは季題の文学、俳句とシノニムであると繰り返し巻き返し虚子から直伝されたことを、一心に磨いてきた光と力強さにあふれている。まさにゆるむことのない確固たる信念の人にして授かり得た名句である。

  流燈を置きて放さず川流れ
  糸瓜忌や虚子に聞きたる子規のこと


 虚子が子規から「自らを恃む」ことを感化されたように、けん二氏もまた虚子から信念を曲げぬことを引き継いだ。俳句の選手を作るよりも、人間としての完成を望んだ子規に『日月』は応えるものであろう。
 「川流れ」は日月であり、代々継がれてゆくこころざしの光陰でもある。

  家訓とてなくて集まる二日かな
  社運かけ二十数名初詣
  はるばると通ふ効能土用灸


 ユーモラスな句にも気品がただよう。

  人はみななにかにはげみ初桜

 俳人協会賞を受賞した『花鳥来』の中の、愛唱してやまない句である。私に俳句を勧めた母は初めにこう言った、「主観を客観で言うのが俳句ですわ」。その一言以来、私は客観という即物具象の裏には、何か伏せたものがあらねばならないと考えた。主観と客観にこだわりすぎたかもしれない。ここには「客観を主観で言う」ともいえる俳句がある。主観も客観もない、自他一如。季題に何を見たか、読者にかくまで伝わるのは言葉が言葉だけのものではないからだ。胸の底からこみあげてきた一瞬のひらめき。人と初桜のあざやかな出会いが花鳥諷詠の恩寵にほかならない。

  今日に如く冬麗はなし友来り

 一面識もないにもかかわらず、存じ上げているような錯覚に陥るのはけん二氏の俳句からは、けん二氏がたちのぼってくるからであろう。まるで、花鳥諷詠は、深見けん二氏その人とシノニムであるかのように。

            ☆

 斎藤夏風氏の『禾』(平成十七年六月刊行)は、
氏の第五句集。職場吟行会の機縁で山口青邨に師事。昭和二十八年「夏草」入会、昭和四十年同人、以来平成三年終刊まで「夏草」編集を担当。昭和六十年「屋根」創刊主宰。

  霜晴や津々浦々といふ言葉

 霜晴がすばらしい。何物にも置き換えられないと思われる。何故そう思うのか。その答えは夏風氏自身が語られている言葉に尽きる。
 「頭で考えただけで表現された言葉と、思いがけず出くわした事実から表現された言葉とでは同じことばでも読み手の方で、つくりものか、事実としてのものか自然に判ってしまう。そうした本能を人間は本来的に生得して生まれてきた」、だから少ない言葉で眼に見えぬ感情すら感得できるのだという。この発言は、『禾』であきらかに立証されている。

  六十の春は運動靴履いて

 フットワークのよろしさは格別である。
 前書きをみると、尾瀬、黒羽、琵琶湖、福井、遠野、最上川、比叡、奈良、北上、花巻、見沼、山寺、淡路、阿波、備前、熊本、阿蘇山、富山、伊勢、五島、釜石等など、まさに津々浦々。「現場立ち」なる理論の実践である。

  赤米の禾のさやかを露に見し
  出穂といふひたに縮みてゐたるもの
  すこやかな種は沈みぬ種浸し
  田植機に豊かに乗りて名もなけれ


 わけても稲に関わる「現場立ち」の句群は、瑞穂の国の瑞穂の尊さをひそめて『禾』の味わいを豊かに醸し出している。〈さやか〉〈ひたに〉〈すこやか〉〈豊か〉、噛むほどにうまみを増し、飽きることのないお米の味わいである。ことに田植機の句は斬新、農に携わる人の颯爽たる姿に感動する。
 
  鴨鍋のたぎりの渦といふがあり
  御宿帳埃もあらず黴びにけり
  夕蝉や泣きしおつるの朱が綺麗
  阿波をどりの手のつき出しの猛稽古


 旅という非日常にあっても夏風氏は常住の如く落ち着いている。行き届いた観察は寂寞として風土への郷愁をさそう。

  この子まだ襁褓はとれぬお年玉
  初花や魚を描いてベビーカー
  水羊羹この子食べ方うつくしく


 非日常の句群のところどころに句読点のように打ち込まれた日常吟に心からやすらぐ。それらは初々しい透明な光を放っている。
  
   北上 雑草園
  師の居間といふ気安さに春障子
   盛岡
  紅粉花の盛りを挿して師のお墓

 杉並区にあった青邨宅「三艸書屋」は、紅粉花も栽培した「雑草園」と共に北上市の日本現代詩歌文学館に移築された。「三艸書屋」は、青邨の選鉱学である固体・液体・気体の三つの相を研究する書斎、つまり三相書屋を文学的に三艸と称したものである。夏風氏もまた「屋根」一号から三艸文の掲載を継続、すでに『三艸春秋』一書にまとめられている。

            ☆

 黒田杏子氏の『花下草上』(平成十七年十月刊行)は、
氏の第四句集。山口青邨に師事。平成二年、「藍生」創刊主宰。第一句集『木の椅子』は、現代俳句女流賞、俳人協会新人賞。第三句集『一木一草』は俳人協会賞。
 
  一介の老女一塊の山櫻

 青邨に〈一茎の水仙一塊の冬菜かな〉がある。絵に見るような静謐な世界が描かれている。杏子氏の句は、見えるというより気息を固体に凝縮したようなかたまりが感じられる。並列でなく重層的である。表現から訴えてくる実在感の強みは共通しているが、その表情は全く別仕立である。青邨のオブザベーションは、杏子氏の自己観照でもある。

  おへんろのわれ花の下草の上
  濡るるともなき花冷の山河かな


 杏子氏は、大学入学と同時に青邨に指導を受けたが、卒業、就職を機に俳句とは縁を切った。二十代にして、自分の一生を貫くに足る表現形式は何であるかと自らに問い掛け、十年の中断の後に再び俳句を選びとったのである。以来多年にわたる桜花巡礼、遍路吟行等ゆっくり・じっくり・焦らず・のんびり、自己発見の「行」はいま尚続いている。

  なほ染めぬさみだれ髪でありにけり
  原稿は手で書くゆふべ水打つて
  五十九のわれにおどろく菊根分

 
右顧左眄することなく私流の生き方を貫く姿勢は清々しい。髪を染めないのは、精神性の高いおしゃれ。打水は書き物にひと息が付いた実感であり、水茎がいかにも涼しい。そして、〈初老とは四十のをんな浮寝鳥〉の衝撃的な一句からはや還暦へ、「私」はより切実に、より美しく自身の手を土に汚している。

  三光鳥大瑠璃小瑠璃閑古鳥
  阿彌陀経山水鳥語蓬餅
  女書生老婆山姥飛花落花


 氏のもんぺスーツはつとに有名である。その直線裁ちの装飾をほどこさない機能的なスタイルは、そのまま杏子俳句のスタイルでもある。「俳句は人なり」あらためてその文体の潔さに感じ入った。名詞尽くしの名吟は枚挙にいとまがない。読者に感動を投げ打ったようなところが愉快、爽快である。

  隠岐にありやがて散りゆく花にあり
  はるかなる火の音はるか大文字
  栗ごはんぎんなんごはん流れ星

 
 ときに流麗、ときに悠久、ときに明快、絵巻風に展開してみせるリフレーンの絶妙。

  瀧落ちて月光那智にあふれしむ
  瀧音の秀衡櫻とぞ申す
  螢火のひらいづみとはなつかしき


 これらの固有名詞の一句全体にしみ通る主情の冴えは、無機質のようで豊かな詩情を蓄えている。感覚の冷たさが上質の情緒。

  水澄んでこの世永しとおもひけり
  真清水の音のあはれを汲みて去る


 一集は出会いと別れを宝物とする一途さに貫かれている。〈水澄む〉、〈真清水〉の透明感は、昨日今日に始まったことではなくて、二十代からの人生への思いの深さの延長線上、ひたすら継続して感受されたもの。

   古舘曹人大兄は
  亀鳴くと孤りの筆を折られけり
 
 杏子氏が聞き手となった『証言・昭和の俳句』には読むたびに感動がある。これによると、曹人氏は昭和二十九年、三十四歳にして「夏草」編集長に抜擢され、平成六年、句作の筆を折って小説に取り組まれた。
 曹人氏は、その編書『山口青邨の世界』に青邨文学一代論の章をこう締めくくられた。
――青邨の生きざまがまさに西行の「蹤跡なし」ということで、足跡を残さない青邨のことが私は最近になってわかってきた。世の毀誉褒貶の中で、死後に備えず、死後を考えずに生きることが、最も潔い生涯なのである。「文台引き下ろせば即ち反古なり」芭蕉の一期一会がまさに「蹤跡なし」なのであるー―

 青邨につながる人々の感慨は深い、まこと「師弟は三世」を思わないではいられない。

 (2006年10月5日発行、「ににん」第24号p64~67所収、文頭の山口青邨の写真は日本現代詩歌文学館(盛岡市)提供)
by masakokusa | 2006-11-23 17:59 | 師系燦燦
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