草庵や屠蘇の盃一揃 原石鼎 大正14年
「草庵や」という打ち出しに、正月を迎えた厳粛な佇まい、すっと伸ばした背筋のほども見えるようである。
正座の前には、朱塗りであろうか黒塗りであろうか屠蘇器の一揃いが正しく置かれている。
屠蘇を入れる銚子には年神様よろしく水引が結ばれ、屠蘇をいただく盃は大中小の三つが美しく重ねられている。
屠蘇台には松竹梅が大きく彩られていることだろう。
「一揃」とは、あたりの邪鬼を一切祓って、いまここにあるのは淑気そのものだと言い切っているのである。
草庵といえば、文字通り草の庵、粗末な家ということであるが、この草庵こそは石鼎にとって最も胸の張れる居場所であったに違いない。
隠遁というほどではないが、脱俗的生き方がわが家を草庵と言わせるのである。
草庵であることが、目出度いのだ。
質素であっても、伝統に繋がって生きる者の豊かさに自負を匂わせている。
ひそかにも満ちたりた思いがふつふつと込み上げたことであろう。
年配の趣すら感じられるが、この年、石鼎は39歳。
一年数カ月前には、関東大震災の大ショックを受けたばかりであった。以後に来たした神経衰弱も、ここには鎮められている気配である。
関東大震災の前、大正10年には、明るい正月風景が詠いあげられている。
打ちあげし羽子翻るとき日の光 大正10年
外れ羽子の大注連に添うて落る時
つきあげし羽子の白さや風の中
外れ羽子の斜にとんで風の中
遣羽子の聊かの色を好みけり
遣羽子の影いづれともなく逃げし
色羽子の咲くごとく生きて松へくだる
「屠蘇」の句も、「羽子」の句も、としどしの正月を迎えるその心は、天地への敬虔なる思い一つのように感じられる。
天地をいたはりみるや去年今年 昭和7年
神経衰弱に端を発したかのような病気の正体は何であったのだろうか。
石鼎の年譜を見ると快方に向かっては又悪化するというような記述に終始している。
天地が健やかであれば石鼎もまた健やかであり、天地が病めばまた石鼎も病むというようなところが正直な日々であったろうか。
石鼎の精神は常に、天の神地の神に投じられていた。
自身の養生と同様に、天地へ寄せる心根も又一途に慈しむものであったのであろう。