『青草』・『カルチャー』選後に・平成29年10月       草深昌子選

10月は「青草」吟行に於ける佳句を逍遥いたします。

先ずは、神奈川県座間市にある「谷戸山公園」です。




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   切株にむっちり山の茸かな       山森小径

 谷戸山公園は縄文時代から人の暮しがあったところで、森あり谷あり池あり林ありという風土がそのまま残っています。切株に茸が生えていたという、ただそれだけのことですが、ここには里歩きの思いがけぬ楽しさが驚きをもって受け止められています。「むっちり」もさることながら、「山の」と続けるあたりにもスキがありません。食べられそうにないシロモノであっても茸はやっぱり山の輝きを放っています。




沢胡桃落ちて水鳥驚かす       神崎ひで子


 この句も「水鳥驚かす」と言ってますが、誰よりも作者が驚いたのではないでしょうか。

 単なる胡桃でなく「沢胡桃」と認めたところが見事です。

 サワクルミという、文字通り爽やかな語感が、よき音となって水鳥に響くのです。

一瞬を言い止めて、綺麗な水輪が余韻として残ります。



浮島に草の明るき秋の昼       奥山きよ子


 吟行は生まれて初めてという作者にこんな佳句が生まれました。

 池の中には小さな浮島がありました、そこで「浮島」を素材にした句はいくつもありましたが、浮島に生い茂った草を見届けたのは作者だけです。

 雨の中にあっても、作者の気持ちがとても晴れやかであったことを、私は一番喜びました。

 素直な発見が、「秋の昼」を物語ります。




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   標本は蛇の衣や小鳥来る       二村結季

 小鳥たちは山から里へ下りてきたのでしょう、高い木々のどこからも、その明るい声を震わせていました。

 作者はその喜びをもって、句会場となったパークセンターに入りました。

何とそこには、超長い蛇の抜け殻の標本があったのです。

標本という古くも遠い過去のものに、小鳥来るという現在ただ今の明るさが吸い寄せられるように合体したのです。


 

掛稲や雀も来ぬか雨の中       石原虹子


 「雀も来ぬか雨の中」という調子の張った言い方はそう容易すくできるものではありません。作者の集中力の高さが思われます。

刈り取った稲は乾かすために天日に干すのです、だが今日は雨に濡れしきっています。

そんな哀れな掛稲になり切ったような気分がひしひしと伝わってきます。


 

浮島の向うに鴨の三羽かな       潮雪乃


 一羽でも、二羽でもいいのですが、何故か浮島の向うなら、三羽がちょうどいいような気がします。

何でもない光景を具体的に示すことが、俳句の要です。



茶の花の垣根の先や葱畑       東御園まさ一


 誰しもが、こんな風景に出会ったことがあるでしょう。

ふと故郷に帰ったような、懐かしさを感じさせてくれます。

「茶の花」と「葱」と、共に冬の季題ですが、事実に即して詠えばこうなるのです、一向にかまいません。

 

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雨しとど泡立草に道迷ひ       伊藤波


 この泡立草は、かの外来種の背高泡立草でしょう。

あまり好まれない茫々たる荒草であればこその道惑いが実感されます。

しかも「雨しとど」です。

 正直に詠って、読者を納得させてくれます。



次は、厚木市「依知」地区です。



秋草や星井戸に寄る女たち       柴田博祥


 厚木市中津川のほとりに日蓮星下りの御寺と言われる妙純寺があります。

日蓮上人は、佐渡へ流罪となる前に一か月ほどこの地に滞在したそうです。

日蓮ゆかりの星井戸は、屋根のついた厳かな井戸で、代わる代わるのぞき込んで遠くを偲んだのでした。

この光景を詠うのに、「秋草」が、しっとりと哀れにも華やかに多くを物語ってくれます。

あとは「星井戸に寄る女たち」と軽く流したような言いぶりにとどめて、晩秋の余韻を静かにも曳いています。


 

天高し日蓮像の人を射る       鈴木一父


 門前に大きな日蓮像が立っています。

見上げるほどに、眉も目も大きく荘厳なる顔かたちです。

 「人を射る」という捉え方には、長年この寺の近くに住んで、日蓮像に合掌をおこたらない作者ならではのものと知りました。

 高く澄み切った秋の空が、悠々の時空を包み込んでいます。



   高塚や野菊は星の供へしか       栗田白雲


 相模川と中津川に挟まれた台地には、古墳時代前期の方墳がありました。

まこと古墳らしい、こんもりとした小高いものです。

「高塚や」という打ち出しには、この古墳への挨拶がたっぷり込められています。

その上に、「野菊は星の供へしか」というロマンを詠いあげたのです。

はるかなる思いが「星」を誘い出したのでしょう。

同じ作者の、


渡し場や名残はかなし蔦葛     白雲


も、情感の強いものですが、「もの」できっちりおさえているところが見事です。

渡し場のあとかたもなくなったところに、蔦が覆いかぶさっているのです。

「蔦葛」という蔦の古称が巧みです。



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公園は太古の住居小鳥来る       古舘千世


この縄文時代の古墳のありどころは、今は公園として整備され、人々の憩いの場となっているのです。

それをかくも的確にシンプルにまとめ上げました。

コウエンの「コ」、タイコの「コ」、コトリの「コ」の韻律が、明るくも歯切れよい口誦性を引き出しています。

小鳥の声もたくましく感じられます。



縄文の丘に上るや秋の蝶       坂田金太郎


古墳と言わずして「縄文の丘」とは秀逸です。言葉をよく噛みくだいています。

秋晴の古墳にはさまざまの蝶々が飛んでいました。

作者はこの数メートルの高さを一歩一歩噛みしめるように上られたことでしょう。それと同時に秋の蝶々もまたひらひらと上ったのでした。



   案山子見て行くや大山巡礼道       米林ひろ


もう稲刈が終わって、あたり一面は穭田となっていました。

ここは昔、霊場巡りの人々が歩いたという巡礼道でもあったのでした。

「案山子見て行く」には、そのことをしっかりと心に止めて、豊年の秋を堪能している作者の気持ちがさりげなく表出されています。



秋晴や塔婆も供花も濡れてをり       川井さとみ


空は真っ青、空気は澄んで、これ以上はないというほどの秋晴でした。

でも、卒塔婆や供花は濡れていたというのです。

よくぞ見届けたものと感心しました。

夕べは降っていたのでしょうか、あるいは墓参の湿りでしょうか。

この句によって、秋晴というものがいっそう天に筒抜けのように感じられます。



山並を背に穭田のどこまでも       田野草子


大山を筆頭に丹沢の山々が連なります。

遠くまで見晴らしながら、私たちは歩き続けました。

歩いても歩いても、稲を刈り終わった田の一面には、青々とした穭が生えているのです。

今さらに厚木という風土をすばらしく思い直したことでした。



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 その他の注目句をあげます。


葉から葉へおんぶ飛蝗は小さく跳び       新井芙美

秋風や肩出し歩く人のあり           湯川桂香

初鴨の艦隊通る荻野川             菊竹典祥

ぼうつーとゐてただぼうつーとゐて秋日和    菊地後輪

ぐい呑みはこれと決めたり秋の夜        中原マー坊

薯掘りや車三台並びたる            藤田トミ

業終へて巣に鎮もりぬ秋の蜂          泉いづ

秋の日や足だけ覗く立呑み屋          中園子

栗の実の頭に出でて産毛かな          河野きなこ

瓶詰にならないものか秋の空          吉田良銈

畑道を一人歩くや月明り            福山玉蓮

菊の酒差しつ差されつ更けにけり        石原由起子

国後島見えて峠の鹿ぞ跳ぶ           間草蛙


by masakokusa | 2017-11-22 21:12 | 『青草』・『カルチャー』選後に | Comments(0)
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