『青草』・『カルチャー』選後に・平成29年9月     草深昌子選
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酒瓶に秋七草の一重かな       栗田白雲


秋の七草は奈良時代の歌人山上憶良が万葉集に詠いあげて選定したもの。

すなわち、萩の花、尾花(芒)、葛の花、撫子、女郎花、藤袴、桔梗(朝貌の花)であり、いずれも秋のもの静かな風趣を誘いだす美しい花々である。

作者は、このうちのどの花であろうか、ただ一つ、あるいは花そのものの美しさをほんの少々活けたというのであろう。

それもれっきとした花瓶にではなく、愛飲の酒瓶にふと気まぐれに挿してみたような雰囲気がいかにも風流である。

酒瓶はスリムな色ガラスのものであってもいいが、私には沖縄の抱瓶のようなものが想像されて楽しい。

よきお酒をたしなまれる白雲さんならではの美意識に貫かれている。




数珠玉や風の立ち初む夕間暮       石堂光子


地味な数珠玉に目が行くのは、まさに「風の立ち初む夕間暮」である。

先日、曼珠沙華に目を奪われていた折に、しばらくして、その後ろの薄暗がりに数珠玉の一叢があることに気が付いたのも、そんな感じの頃だった。

秋になっても蒸し暑い日などあって、夕方ふと風が起こったとき、そこには数珠玉の葉擦の音がかすかにも立つのである。

その実を沢山結ぶのは秋も深まったころであるが、「あら、こんなところに数珠玉が」と、思わず作者も一息つかれたのであろう。そういえば、この実を、数珠に連ねて遊んだこともあったっけなどと、なつかしい思いにふけられたのかもしれない。

緊密なる韻律に詠いあげた一句は、さりげなくも作者の内面にまで及んでその光景を深く見せてくれるものになっている。




虫の夜や五種の薬をたなごころ       森田ちとせ


何の病であろうか、五種類もの薬を飲まねばならない日々はさぞかし、つらい事であろう。だが、この句からはそんな悲壮感が感じられなくて、そういう今の状況を心静かに肯っておられるようである。

そうでなければ、「虫の夜や」という落ち着いたもの思いには至らないであろう。

また、下五の「たなごころ」には穏やかにも繊細なる神経が行き渡っている。

いろいろの色やかたちの薬が、そのままあたかも秋の夜の種々の虫の音のように見事に照応している。

人の日々はつくづく大自然のもろもろに癒されていることに気付かされるものである。

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一徹な店主と聞くや秋簾       日下しょう子


 一徹というと、「頑固一徹」「老いの一徹」などが、即座に思い起されるが、そんな店主ならばこその、信用ある老舗なのであろう。

夏が去って、そろそろ仕舞うべき簾が、まだ秋の日差しの中にややも古びた感じに掛かっているのが「秋簾」であるが、この簾はどうやら片付ける気もなさそうである。

「一徹な店主」だと言い切らないで、「と聞くや」という、もってまわった言い方が飄々たる味わいを醸し出している。



 

渡り鴨降り立つときの荒々し       坂田金太郎


秋もたけなわの頃となると北方から多くの鳥が渡ってくる。

それらを総括して「渡り鳥」という季題になるのであるが、この句はあえて「渡り鴨」と、きっちりと鴨に焦点をあてたところが文字通り際立っている。

季語の現場に立った句は、臨場感とともに勢いがある。

同じ作者の、


沢渡る牝鹿目で追ふ牡鹿かな    金太郎


も迫力がある。

「鹿」というと鹿の声を詠うことの多い中で、この句は声を発しないところが不気味にも寂寥感を漂わせる。

「俳句は頭で作らない、俳句は足で作る」という原則を、地で行くような句である。



      

萩の花その襟元の二重なり       泉 いづ


秋の七草のうちでも昔から多くの人々に愛されるのは萩の花が筆頭であろうか。

折からの風に揺れやすく、その花をこぼしながら優美に枝垂るるところなど、大雑把に詠いあげられがちであるが、この句はまことしみじみと萩の花そのものに目を見開いて接写している。

「その襟元の二重なり」と言われてみると、あらためて楚々とした可憐な美しさが、ほのかな色気さえ漂わせるようではないか。



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独り居の指差し確認蚯蚓鳴く       古舘千世


蚯蚓は実際鳴くのかどうか、螻蛄が鳴くのを蚯蚓と誤認したのだという説もあるが、俳人独特の感性が「蚯蚓鳴く」という季題を生み出したのであろう。

〈蚯蚓鳴く六波羅蜜寺しんのやみ 川端茅舎〉の句はあまりにも有名であるが、この句など蚯蚓は本当に鳴いているとしか思えない。

そういう季題に、千世さんは「独り居の指差し確認」を仮託されたのである。

火元ヨシ、戸締りヨシなどと確かめながらも、どこか不確かな気分が、ひそやかにも蚯蚓の声を聞かすのである。




竹の春梢は風の中にあり         石原虹子

 

 竹は春に筍を生長させるため親竹は生気を失い、黄色くなって葉が落ちたりする。

 秋になると回復して葉もあおあおとしてくる、これが「竹の春」である。

 この句の「梢」はあたりの木々の梢であってもいいが、作者は竹そのものの枝の先々のありよう風の中に詠いあげられたのだろうと思われる。

ものを見る目に、真っ正直な、静けさがあって、また対象物への愛情がなければこのように淡々とは言い切れないものである。




ドナウ川漁夫の砦に懸る月        松尾まつを


 ブタペストにある「漁夫の砦」からはドナウ川が一望されるという。

「ドナウ川」も「漁夫の砦」も知らない選者が一読して、現地に誘われたようなはるけさをもって、思わず月の明りを仰いだのであった。

 まこと俳句の妙である。

この地球という小さな惑星のどこにあっても皎々たる月光は同じものに違いない、ドナウ川という固有名詞の響きがよく効いている。

漁夫の砦からは、漁業で生計を立てるものの堅固な砦を想像させられたが、事実、その王宮の丘には、魚市などが立ったようである。


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その他の注目をあげます。


  幾度も男の沈む稲穂波          瓜田国彦

   鬼灯の小さきままに熟しけり       平野翠

   星月夜隣の夜泣きおさまらず       中原マー坊

   二人して田に立つ二百十日かな      中澤翔風

   大雨の一夜に過ぐるちちろ虫       間草蛙

   露けしや日の出る前の草葎        熊倉和茶

   喫煙所電子たばこや鰯雲         末澤みわ

   自転車に二百十日の風強し        山森小径

   閂を指し込み二百十日かな        高橋まさ江

   あの山は秋の七草揃ふなり        石原由起子

   初秋刀魚大きな目玉こちら見ゆ      加藤洋洋

   讃美歌の壁を流るる蔦紅葉        上野春香 

   蔵の壁ひび割れてゐる法師蝉       新井芙美

   朝日子やどの草も露頂きて        中園子

   秋風やパーマ屋裏の青タオル       黒田珠水

   あの友もこの友も無事敬老会       田淵ゆり


by masakokusa | 2017-10-04 20:26 | 『青草』・『カルチャー』選後に
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