『青草』・『カルチャー』選後に・平成29年8月     草深昌子選
 
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  独り居の日々の気ままや秋の蠅    松尾まつを  

 一人暮らしは自分の思うまま自由にはかどってゆく、その感慨が上五中七とストレートに読み下されるが、下五に至って、「秋の蠅」とくると俄かに作者がそのまま秋の蠅に成り代わったようなやるせなさがぴたっと寄り添ってくる。
 あの命盛んな夏の蠅は、いまや秋の蠅となって、澄み切った空気の中に、一抹の哀愁をきらっと光らせているのである。



   夏深む駅前書店閉ぢしまま     奥山きよ子 

 本厚木駅南口には立派な本屋があったが、潰れたのか改築なのか、閉じられたままである。
 何処の駅でもこのようなことは昨今よくある光景であろう。  
 駅前であるから、往き来するたびに目が行ってならないのである。
 一向に再開しない書店の先行きはどうなるのだろう、「夏深む」はごく自然に感受されたもの思いであろう。
 その心情は、ブティックやレストランでなく、書店であるからこそのものである。
 作者はカルチャー教室に入会されたばかりだが、その感性は鮮やかである。



   新涼のラジオ体操第二かな      佐藤健成  

 「涼し」は夏の季語、「新涼」は秋の季語である。
 一般的にいつも行われているラジオ体操第一では新涼にはならない。
 「ラジオ体操第二かな」、それだけで「新涼」を詠い切ったのである。
 夏の暑い日々を乗り越えて、いま何ともすっきりした気分でラジオ体操をやっている、その心地よさが「第一」ならぬ「第二」に遺憾なく発揮されている。
 何も言わない、ただ省略する、これが俳句である。
 
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   新涼の水に浸すや米二合       山森小径  

 「米二合」がいい。
 慎ましくも清々しい暮らしぶりまで窺われて、まさに新涼の水が冷たく透き通っている。
 秋になって初めて感じられた涼気が、日常の生活のうちにあった。
 文字通り手触り満点の句である。



   踊子のレース飾や小さき村      佐藤昌緒 

 「踊」といえば盆踊、「踊子」と言えば盆踊の踊り手のことである。
 この句は旅先のものであろう、どこか地方の山裾の村の盆踊であろうか。
 そこで出会った踊子が浴衣でなく、レース飾の服装、あるいは髪飾りなどが、いかにも愛らしかったのであろう。
 「小さき村」という下五から受ける印象がひそやかにして清潔である。

 ところで、作者は海外旅行が多いから、この句も海外詠かもしれない。
 ふと、高野素十の〈づかづかと来て踊子にささやける〉が思い出される。
 これは海外詠で盆踊の句ではないとされたが、いや本当に新潟の盆踊風景だという説もある、どちらであってもいい、盆踊として鑑賞しうるかどうかであろう。
 素十の句は、盆踊の句としてまこと名吟である。




   炎昼や胸に抱く子の指しゃぶり     芳賀秀弥  

 燃えるような夏の暑さの真昼である。
 赤子の指しゃぶりと炎昼の間に何の因果関係もないのであるが、
この二つが合わさることによって、生きとし生ける物の身に猛暑が静かに及んでいることを感知するのである。
 作者の眼差しは、指しゃぶりでもって無心に耐えている赤子がなんともいじらしく思われているのだろう、そういう作者の心中までもが察せされる。

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   百姓の肩に来て鳴く秋の蝉      二村結季  

 単なる蝉であれば平凡なる情景が、「秋の蝉」によってしみじみと、風趣あるものに感じられる。
 自然のなりゆきにそって働き通しの百姓に一抹の慰めをあたえるような一瞬である。
 作者のものを見る目に愛情がこもっている。



   鬼百合の雨を溜めたる花の反り     伊藤波   

 これも、ただの清楚な白百合の花ではおもしろくない。
 「鬼」という名をかむせらた鬼百合ならではの咲きようである。
 「鬼百合」であるからこそ「雨を溜めたる花の反り」が効いているのである。
 このように、ものをよく見て作った即物具象の句はどこまでも嫌味がなく、何度読み返しても鮮やかに景が浮かび上がるものである。



   花芙蓉せめて夕日の沈むまで     栗田白雲  

 何と甘美な表現であろうか。だがその調べこそが、思わずうっとりとしてしまうような芙蓉の花の美しさを見せてくれるのである。
 作者自身が相当、芙蓉の花の美しさに惚れこんでいなければ、こうは言えない。
 「沈むまで」、物言いをここに止めてしまったような下五も巧い。



   雨止みしどの巌頭も霧立てり     森田ちとせ

 霧を詠いあげて何とスケールが大きく晴れやかなるものであろうか。
 作者は高峰を登山する方であるから、巷を東奔西走しているような私には想像もつかない世界を体験されていることだろう。
 霧一つとっても、後退りするような厚みがある。

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 その他、注目句をあげます。

   パソコンに天眼鏡や今朝の秋       末澤みわ  
   炭坑節待って輪に入る踊りかな      泉いづ  
   落し文亡き友のこと夫のこと        大本華女
   盆唄や今宵ますます名調子         中園子
   鳴き尽きて蝉のころがる路傍かな     矢島静
   丹沢の峰も恥じらふ西日かな        中野はつえ
   秋蚕飼ふ今宵も母は寝もやらず      田野草子
   君とゐて風鈴の音のただ一つ        柴田博祥
   濁流の鴨を呑み込む雷雨かな        狗飼乾恵
   富士川の流れ穏やか盂蘭盆会       藤田トミ
   簾揺らしゴーヤ震はすはたた神       東小薗まさ一
   音もなく庭に搖るるや白芙蓉         木下野風
   蜻蛉の影の過ぎゆく用水地          森川三花
   里芋や葉は日に向かひ大開き        菊地後輪
   赤ん坊の唇むらさきに夏の海        湯川桂香




by masakokusa | 2017-10-01 15:20 | 『青草』・『カルチャー』選後に
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