「俳句四季」2017年7月号 ・ 忙中閑談
 
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   生きている子規               草深昌子


 
横浜に初桜の咲いた日、「生誕百五十年正岡子規展―病牀六尺の宇宙」を観た。
 会場入口のビデオには子規庵の二十坪の庭が映し出されていた。
 亡くなる五日前のこと、「余は病気になって以来今朝ほど安らかな頭を持て静かにこの庭を眺めた事はない」というくだりに早くも涙ぐんでしまった。
 そうかと思えば、「ごてごてと草花植ゑし小庭かな  子規」に、たまたま居合わせた女性と顔を見合わせて笑ってしまった。
 「ごてごてと」こそが子規の本領である。
 私は大好きな子規にまたここに会えたことを喜んだ。

   初桜一字一句に子規は生き       昌子

 私が俳句を始めたのは四十年昔、同時にこの頃のギックリ腰がきっかけで、私の俳句の日々はいつも腰痛をひっさげている。
 子規はこう言う。
 「ガラス玉に金魚を十ばかり入れて机の上に置いてある。余は痛みをこらへながら病床からつくづくと見て居る。痛い事も痛いが綺麗な事も綺麗ぢや」、この声にどれだけ叱咤激励されたかしれい。
 子規の凄惨なる痛みを思えば我が痛みなど、何ほどのことがあろうかと、子規をおろがむような気持ちで、俳句にはまっていったものである。

   名月やどちらを見ても松ばかり       子規
   名月や小磯は砂のよい処

 明治二十二年、子規は大磯に保養中の大谷是空を訪ね、滞在先の旅館・松林館で大尽扱いをされ、大いにもてなされたという。
 早速、この所在を知りたく、大磯に出向いた。
 郷土資料館に訊ねると、松林館は、文字通り松林の中にあったものの、その後に建った長生館も消失して、今は跡形も無いことがわかった。
 それでも、東海道線「大磯駅」に近く、大磯丘陵が線路に迫ってくるあたりは古びに古びながらも頑丈そうな石垣が残っていて、旅館はここだろうと直感した。
 沿線には古木の桜が、ひときわ美しく満開であった。
 子規は、月光の松林を抜けて、海水浴場として名高い照ケ崎あたりを歩いたのであろう。

 もう十年も前になるが、松山市を再訪したときも、
 子規の「故郷はいとこの多し桃の花」、「鳩麦や昔通ひし叔父が家」などの出処を尋ねて歩いた。
 たどり着いたのは余戸中四丁目、昔町長をしていたという家の前に立つと、「森」の表札がかかっているではないか。
 思い切ってインターホンを押すと、「森円月は遠縁にあたると聞いていますが、今は父も亡くなりまして」という物静かな婦人の声が返ってきた。
 この時も、子規の幼なじみ森円月の生家はここだと独り合点したのだった。
 「ともかく紙に何かを書くのが好きな子でした。一日中でも書いてなさった。子供の頃から半紙はたくさんいる子でした」と母八重は語っている。
 そんな幼い子規が仲良しの森円月と往き来したであろう土を踏みしめているなんて、懐かしくてならなかった。 
 今ここ大磯では、青春真っ盛りの二十二歳の子規が、湘南の風に吹かれている。
 そう思うだけで、春の日差しがいよいよあたたかくなってくるのだった。

 子規は、いつの時も、すぐそこに居て、親しくも明晰なる眼を向けてくれる存在であった。
 子規がいなかったら、三日坊主の私が、俳句を続けることは出来なかったであろう。 
 正岡子規は、今もって静かにも力強く生きているのである。


(2017年7月号「俳句四季」所収)
by masakokusa | 2017-07-30 23:58 | 俳論・鑑賞(2) | Comments(0)
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