福寿草今年は無くて寝正月 原石鼎 大正11年
大正10年、石鼎は35歳。ちなみに35歳といえば子規の没年である。
この年、石鼎は小野蕪子発行の「草汁」を譲り受け、5月「鹿火屋」と改題して、虚子の許しを得て主宰となった。
「鹿火屋というのは山中で秋になると鹿や猪などが闇夜に田畑を荒しに来るのを防ぐため、山人が小高みに小さな番小屋を立て終夜火を焚き銅鑼を代わり合って叩く。それが山にひびいていとど秋の夜長の淋しさを増す。その淋しさを生涯忘れまいとして誌題とした。」
と「鹿火屋」に書きとどめている。
石鼎の生涯は、この決心の通り、淋しさをひしと抱きしめて離さないものであった。
「鹿火屋」主宰になることも決して手放しの喜びではなかったであろう、それは必然のように、石鼎の淋しさが引き受けさせたものに違いない。
しかし、このことが病弱であった石鼎の命を、最期まで俳句の命としてまっとうされる原動力になっていった、そう思うと、やはり「鹿火屋」主宰原石鼎の誕生は運命的であった。
その大正10年が明けた大正11年のお正月は、寝正月であった。
寝正月と言えばそれで済むものを、枕上に見当たらない「福寿草」をあえて書き上げるところが、石鼎の旺盛なる俳諧精神をうかがわせる。
では、次の年から数年間ほどは、どんなお正月であったのだろうか。
正月2日感冒に臥して月の終り漸く床を払ふ
元日の満月二月一日も 大正12年
松上にしばし曇りし初日かな 大正13年
草庵や屠蘇の盃一揃 大正14年
竹馬の羽織かむつてかけりけり 〃
萬歳の戸口を明けて這入りけり 大正15年
遣羽子や下駄の歯高く夕べ出て 〃
正月退院、二月湯河原に療養
ほの赤き梢々や春の雪 昭和2年
やはり、病気との縁は切れなったようである。それでも、
「竹馬」の句のおもしろさ、ことに「萬歳」の句の悠揚迫らぬ味わいにはめでたさがこみ上げてくる。
お正月の句はともかく、それぞれの年の名句を掲げて、今年もまた石鼎の淋しさをわが淋しさとして寿ぎたいと思う。
神の瞳とわが瞳あそべる鹿の子かな 大正11年
白魚の小さき顔をもてりけり 大正12年
音たてて落ちてみどりや落し文 大正13年
ささなきのふと我を見し瞳かな 大正14年
暁の蜩四方に起りけり 大正15年
火星いたくもゆる宵なり蠅叩 昭和2年