一度吐きし餌にまたよりし金魚の瞳 原石鼎 大正11年
かつて、水槽に飼っていた金魚はいつもこうだった。
金魚とはそういうものだと決めてかかっているものにとって、これが俳句になるとは思いもしなかった。
それがどうした、と言われればそれまでのような句ではあるが、何故だかハッとした。
そのハッとが、すでに詩になっている証拠ではないだろうか。
人間であっても、食い意地のはったものは、餌のある限りは餌を食わんとするものだが、一度口から吐き出したものを再度口に入れようとするだろうか、しないだろう。
いや、赤ん坊の頃は、金魚同然であったかもしれない。
いのちの原始を見せられたようで、「金魚の口」でなく「金魚の瞳」というあわれさに、しばし惹きつけられてしまった。
掲句は、創刊百年記念『ホトトギス巻頭句集』から引いた。
大正11年7月号「ホトトギス」の巻頭を飾ったのは以下の8句である。
暮れてなほ浪の蒼さや蚊喰鳥 東京 石鼎
岩藻皆立ちてゆれゐる清水かな 同
清水掬んで底の形やしかと見し 同
一度吐きし餌にまたよりし金魚の瞳 同
荒馬のつぎ荒牛や初夏の路 同
麦笛を懐ろの裡に吹く男 同
滝を見し心さむさや杜若 同
抜き捨てし一茎岸に菖蒲池 同
ちなみに、掲句は『原石鼎全句集』には、「一度吐きし餌に又よりし金魚の瞳」とあり、原石鼎自選句集『花影』には、
一度吐きし餌にまたもよる金魚の瞳
となっている。
「餌にまたよりし」が断然いいと思うが、どうであろう。