「青草の会」・選後に(平成27年7月)        草深昌子選
 
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   半夏雨少女の前歯抜けにけり      大本華女
 
 半夏は太陽暦の7月2日頃、カラスビシャク(半夏)の生える時期である。
 半夏雨は、この頃に降る雨であるが、梅雨も終わりの頃で、大雨になることが多い。
 掲句の「半夏雨」と「少女の前歯抜けにけり」の間には何の因果もない。
 だが何と、「少女の前歯抜けにけり」という、その一事が、「半夏雨」という季題の世界を大きく深く明らかに見せていることだろう。
 歯が抜けるということは忌まわしいことではあるが、少女なら、それは必然的な成長の一つとして肯われることであり、むしろ微笑ましい感じがする。
 暗がりの中の、歯抜けの明るさが、半夏の雨脚をきらきらと光らせている。
 半夏が古来農事に深くかかわって、物忌みをしたり、農凶を占ったりした時節であることを知っていると、この偶然の出会いがまるで必然のように感じられるのも不思議なものである。
 自然との出会い、人との出会い、物との出会い、一期一会を大事にする華女さんの姿勢あってこそのものだろう。
(木の実)


   夕立のあとの夕日の宗教画      瀧澤宣子

 すさまじい夕立の、何もかも洗い晒した後の清々しさはたとえようもない。
 折から、あかあかと差し込む夕日は、まるで宗教画を見るように神々しく、どこまでも透き通っている。
 宗教画は長く作者の記憶の中に眠っていたものから引き出されたものかもしれない。
 あるいは、実際に、家の壁にかかっているのかもしれない。
 日常見慣れた、少々古びた絵画に、夕日はまさに後光の如く差し込んできたのであろう。あらためてしみじみと見直しているのである。
  「夕立のあとの夕日や宗教画」、「夕立のあとや夕日の宗教画」も考えられるが、
 「の」を連ねて、一息に詠いあげた宣子さんの気持ちがここにはよく現れている。
(木の実)


   前のめり巣立ちの朝の燕の子     熊倉和茶

 句会の誰もが共鳴し、いつかどこかで見た光景を鮮やかに見せてもらえた喜びを口々に語り合った。
 この句は行き掛かりに出来た句ではないだろう。
 やはり作者は、駅構内に作られた燕の巣を、来る日も来る日も見守って、観察し続けられたそうである。
 そんな旺盛なる好奇心そのもののような「前のめり」である。
 まさに、一字一句、かけがえのない作者のものである。
(木の実)

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   三叉路の空地三角立葵      山森小径

 三叉路の空地は三角に決まっている、そこをもう一度念を押して、「三叉路の空地三角」と言い切るところ、胸のすくように気持ちがいい。
 図らずも、作者の喜びが表出されているのである。
 葵の花は、派手なものではないが、白く赤く、ときには青く、一メートルあるいはそれ以上に下から順々に咲きのぼっていく花である。
 こんなところに咲いている、何といじらしい花であることよ、何とやさしい揺らぎようであろうか、しばし立ち止まって、梅雨時の鬱陶しさを癒されているのである。
(木の実)


   早蕨の塩漬け梅雨に入りにけり      間正一
 
 6月の句会に、新潟出身の方が、地元のワラビを塩漬けにしたものをお持ちくださった。
 その辺のスーパーで買うことも、料亭でいただくこともかなわないような、さっぱりとした味わい、その歯触りの小気味よさに、一同喉を鳴らしたのだった。
 ちょうど梅雨入りの宣言された、その日のことであった。
 「早蕨の塩漬け」が美味いとも何とも言ってないが、美味いに決まっている。
 何だって、この美味佳肴をもって、梅雨を迎え入れる心を定められたのだから。
 正一さんは、今年の長雨を元気に乗り越えられるに違いない。
(木の実)


   払っても私を慕ふ藪蚊かな      菊地後輪

 大方の読者は、「ナニ、コレ?」って思われるかもしれない。
 でも、私には魅力的な句である。
 ここには、およそ俳句を、俳句らしく上手に作ろうという構えがない。
 作者の真面目な、本当の心から発せられたものであるところに、自ずから面白さが滲み出ている。 
 吸血の藪蚊も心得ていて、そういう後輪さんにこそ慕い寄るのではなかろうか。
 作者は、この新鮮な感覚にどう磨きをかけてゆかれるのであろうか、今後が楽しみである。
(セブンカルチャー)


   梅雨晴間待合室は老いばかり      田渕ゆり

 待合室は医院のそれとは限らないが、さしずめ思い浮かぶのは整形外科あたりの光景である。
 「老いばかり」と嘆く作者もまた高齢に違いないのだが、この言い切りにはどこか微笑ましく、どこか明るさが感じられる。
 梅雨のさなかにあらずして、「梅雨晴間」であるところに救いがあるのである。
 何気ないが、「老い」の措辞には、句歴の長さがにじみ出ている。 
(セブンカルチャー)

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   通勤のバス少し空く更衣      松尾まつを

 更衣は、昔は陰暦4月1日と決められていたが、今は個人によってまちまちのようである。
 会社や学校など一般的には6月1日であろうか。
 作者が真っ白なシャツに更衣をしたその日、いつもとはバスの混み具合が違っていた。
 乗客の数が少なかったというのではない。
 更衣という、その姿が軽快になったことによってもたらされた作者の直感のように思われる。
 「少し空く」という穏やかな表現が、スカッとした衣更えの清々しさを表している。 
 窓外には新緑が一面に輝いていただろう。

   花柄の今年こそ着るアロハシャツ   まつを

 こちらは原色の派手なシャツ、なかなか着るには勇気の要るシロモノである。
 力強い断定が、真っ赤な色彩を想像させて、その心意気や壮快。
(草原)


   迸る蛇口の水や子らの汗      古館千世

 健康そのものの子どもの汗である。
 まさに「迸る」ような勢いでもって一気に描き切ったところが、逞しい。
 水もろともに一句の汗は光っている。
(草原)


   朝焼や雨を待つ傘新しく        大塚眞女

 俳句教室の中でもとびきり若い眞女さん、その俳句も可愛らしさが全面に出ている。
 朝焼けがあるとその日は雨になるだろうという予測を、真つさら傘でもって、迎えようというのである。
 壮快なる朝焼けは、作者の初々しさの反映のようでもある。
(草原)


   夏帽子ひしやげてをりし縁側に      潮雪乃

 「夏帽子」の兼題で、ひしゃげている帽子を詠ったのは雪乃さんだけであった、その観点がすばらしい。
 この光景は、誰しもが郷愁をもって、思い浮かべるのではないだろうか。
 縁側のあたりには、さっきまでそこにいた元気な子ども、あるいはおじいちゃん、おばあちゃんでもいい、人の気配が思い思いに余韻をもって感じられるのである。
(青葡萄)

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   荒梅雨の廂を叩く音止まず      上野春香

 「廂を叩く音止まず」という、よどみなく言い切った表現が見事である。
 韻律がそのまま、まっすぐな雨の降り方であって、梅雨時の、押し寄せるような雨の激しさがいささかの不安感をもって迫ってくる。
(青葡萄)


   谷若葉大蛇の如き檜なり      河野きな子

 「谷若葉」と先づ打ち出して、一と呼吸入れ直して「大蛇の如き檜なり」という堂々たる叙法がすばらしい。
 読者は、その大樹を、作者の感動と同じ手順で感じ取ることができるのである。
 仮にこれが「檜若葉大蛇のやうでありにけり」であったならば、後退るやうな新樹の新鮮さは半減するであろう。
(草句の会)
 

   五月雨やテント一張り山の池     眞野晃大郎

 何と言っても「テント一張り」がいい、距離感がありながら、眼にははっきり見えるのである。
 それにまた「五月雨や」の季語が生きている。これが「五月晴」などではつまらない。「山の池」という留めも、しっとりと落ち着いている。
 かにかく秀句というものは、どの一字一句も全体に作用して抜き差しならぬように納まっているものである。
(草句の会)


   赤潮や格子模様に漂ひぬ       森川三花

 「赤潮」という季語は、歳時記によって「春」であったり「夏」であったりするが、要は水中のプランクトンの大量発生によって海水が赤くなる現象であるから、その赤潮に直面したときに詠いあげればいい。
 作者は伊豆半島に旅行されることが多いから、その折のものであろうか。
 簡潔明瞭に描写して、赤潮というものを知らない者にも不思議さをもって想像されるのものである。
 何でもないようだが「漂ひぬ」には、作者独自の目が光っている。
(草句の会)

 
   朝ぐもり大海原を船が行く     齊藤ヒロ子
 
 夏の朝の曇り空は、昼にはギラギラの炎天がやってくることを暗示するかのように、いかにもどんよりとしている。
 そんな朝ぐもりの本情を、「大海原を船が行く」という作者の認識によって、ゆるぎなく打ち出している。
 
   入院す藪の老鶯さやかなり     ヒロ子

 ヒロ子さんは、大磯の海を見渡せる病院に入院されたという。
 入院に対しても潔い気持ちがあって、余裕が感じられる。
 そういうヒロ子さんだからこそ、「朝ぐもり」の秀句をものにされたのであろう。
 俳句の姿勢というものを教えられる思いである。
(花野)

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   花一つ浮ぶ蓮見の大勢かな      二村幸子

 蓮見に出かけたところ、いささか時期尚早であったようだ。
 それでも、蓮見舟に乗るなどして、大勢が楽しまれたのであろう。
 たった一つきりの蓮の花であるが、このように詠われるとかえってこの蓮の花がくっきりと浮かびあがって、まこと清浄である。
 花の一つを恨まずに、その一つをよろこぶ姿勢が句柄を大きくしている。
(花野)


   青嵐お鉢めぐりに背を丸め     伊南きし子

 お鉢めぐりというのは火口壁の周縁をまわることで、富士山のお鉢めぐりはよく知られる。
 数年前の冬に、三原山のお鉢めぐりを体験したが、風に吹き飛ばされそうになって、引き返した思い出がある。
 万緑のよき時節であっても、やはり風はきついのであろう、臨場感満点である。
 青葉を吹き抜ける荒々しい風の全貌が人の背をいよいよ小さく屈めさせるのである。
(花野)
 

   早苗田の影追ふ姉と弟と       平野翠

 姉と弟は喧嘩もするが、弟は姉をよく慕っているのではないだろうか。
 俳句は、人物が描けると、おのずから風景が立ち上がってくるものである。
 早苗田の初々しい青さも、水中に生きる小さなもものの命も、ひとしく姉と弟の命に通っているのである。
 「影」という言葉の綾も美しい。
(花野)
by masakokusa | 2015-07-31 23:58 | 『青草』・『カルチャー』選後に
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