「青草の会」・秀句抄(平成27年4月)        草深昌子選
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   筍はここぞとしるしたてにけり     二村幸子

 作者は竹林を持っておられて、毎年一族総出の筍掘りに出かけられると聞いている。
 足の裏に神経を集中させると、筍が顔を出しそうな感触がさっとつかめるそうだ。そこには、すかさず、竹の枝か、棒切れか目印を立てていかれるのだろう。
 「ここぞとしるしたてにけり」、この大らかな詠いぶりには誇らしい喜びがあふれている。
 筍泥棒の手にかかったような筍ではない。まことまるまると、柔らかくて歯あたり抜群の瑞々しいものであることは間違いない。
 筍は感覚的には夏の季語であるが、味覚としては春のものである。 
(花野会)

       
   義理姉妹花の下なる散らし鮨     齊藤ヒロ子

 「義理姉妹」、この上五の打ち出しに目を見張った。
 満開の花の下で、散らし鮨に箸を運んでいる光景の、何とまた味わい深いものであろうか。
 実の姉妹なら当たり前で、絵にもならない情景が、義理の姉妹であるという、ただそれだけで、一段と花も美しく鮨も美味に感じられるではないか。
 自身を客観視することのできる、心配りのある作者ならではの幸せがにじみ出ている。
(花野会)


   抹茶立ていつとき無言春うらら     伊南きし子
 
 お友達同士であろうか、家族であろうか。
 お抹茶を立てていただく機会は、ちょっと気分までもがシャンと立つような感じがする。
 そんな抹茶の味わいは、格別であるが、何より、それぞれがしみじみと感じるのは、この静かなる時の流れのゆたかさではないだろうか。
 「いつとき無言」といい、「春うらら」といい、何ということもない正直な物言いが、何より上質の趣を感じさせてくれるのである。
(花野会)
 
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   黒土に蒸気たゆたふ畠の春     平野翠

 黒々とした畑の土のいちめんに水蒸気が漂っているのであろう。
 「ただよふ」でなく「たゆたふ」からは、よりゆらゆらとした感じを十分に見届けている作者のよろこびが感じられる。
 この黒土は、やがてあふれるような収穫を生み出してくれるのであろう。
 蒸気から感じ取った春の息吹が文字通りしっとりと行き渡っている。
(花野会)


   鶺鴒の地虫啣へて振り回す     間正一

 鶺鴒は「石叩き」とも言われるように、水辺などで絶えず長い尾を上下に動かしている鳥で、歳時記では「秋」だが、近辺では冬にも春にも、よく見かける、身近にあって美しい鳥である。
 この鶺鴒が、なんと地虫を啣へて振り回したというのだから、一読してあっと驚かされた。作者の出会いの驚きがそのまま読者の驚きとなったものである。
 誰よりも驚いたのは、春に誘われるように地中から顔を出した地虫の方であろう。
 一句は、自然界のダイナミックな生命の営みを愉快にも切なく伝えるものである。
(木の実)
 
 
   犬は吠え鯉は隠るる春の雷     中澤翔風

 「犬は吠え」「鯉は隠るる」、この対比のおもしろさはどうだろう。
 はてさて、それでどうしたの?と読者は期待をもって読み進む。
 そこで「春の雷」というオチが付くと、そうかそうか、春の雷ならば、それはそうであろうと、読者は妙に納得する。ことに鯉の姿がいとおしい。
 不意を衝かれながら、長くは続かない春雷の艶なる響きが実感されてくるのである。
 俳句は、実景をそのままに描写すべしといえど、どこを描いてどこを描かぬか、その瞬時の判断が難しい。 その点、一句はまこと的確に決まっている。
(木の実)


   花種蒔くいつも余ってしまひけり     山森小径

 秋に咲く花の種を蒔くのは、春のお彼岸前後のことである。
 作者も毎年、春の楽しみの一つとして、種を蒔かれるのであろう。
 「いつも」という、俳句としては冗長なる言葉が、ごく自然にさりげなく出ていて、「余ってしまひけり」という、ため息交じりの断定には余情がよく引き出されている。
 「花種蒔く」という季題からは、それこそ、いつも、

  〈生えずともよき朝顔を蒔きにけり    高濱虚子〉

を思い出すのであるが、小径さんの心中にもこれに似た気分が漂っているのかもしれない。
(木の実)

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   夕暮れてさくらさくらの中に居る     上田知代子

 作者は見たもの、感じたものを何の飾り気もなく詠いあげる方である。
この句も、そんな句であるが、そのひっそりとして、少しばかり冷たいあたりの空気感や、桜のほんのりとした色合いを十分に感じさせてくれる。
 一日を充実して過ごされたのであろう、あっという間に過ぎ去った時を惜しむような気持ちが、「さくらさくら」のひらがな書きに無意識に表出されているようである。
(木の実)
 

   蒲公英や鬼の来たらぬ隠れん坊     大本華女

 隠れん坊遊びも遠い昔になってしまったが、この句を読んでなつかしさがよみがえった。
 そういえば、息をつめて隠れているのだが、いつまでたっても見つけてくれなくて、肝心の鬼さんは、一体どこへ行ってしまったのかという不思議が多々あった。
 こんな風景のあたりには、思い切り黄色を濃くした蒲公英があっちにこっちに鮮やかに咲いていたっけ。
 人の世の足元に咲く蒲公英は、いつの時代にも褪せることことのない愛らし花である。
(木の実)


   春の宵がつつり飲んで盛升     江藤栞

 厚木市七沢には「盛升さかります」という酒蔵があって、なかなかの銘酒と評判である。
 作者は厚木市外からわざわざやってきて、あるいは、丹沢ハイキングの帰りかもしれないが、酒蔵直営のレストランに寛がれたのであろう。
 「がつつり」といういまどきの言葉がものの見事に春宵に調和している句である。
 「がっつり」という俗語は、「たっぷり」「しっかり」「思い切り」「思う存分」というニュアンスを醸し出す、なるほど盛升のうまさに酔いしれたさまがよく伝わってくる。
 ここはイタリアンレストランであるから、若い人たちでにぎわっていたのだろう、隣り合わせた人から、ふと漏れ聞いた言葉が、栞さんの感性にストレートに届いたものに違いない。
(セブンカルチャー)

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   ゆで卵するっとむけて春うらら     菊地後輪

 〈ゆで玉子むけばかがやく花曇  中村汀女〉は、私の初学時代にもっとも感心した句で、以来ゆで卵はこの句以外には使ってはいけない等と、思い込んでしまっていた。
 40年ぶりに出会った「ゆで卵」はするっとむけて、「春うらら」だという、これもいいではないか、素直にそう思った。
 「コウリン」と名乗ったその人は、女性にあらず、初老の男性であったことも新鮮なる驚きであった。
 思えば、「むけばかがやく」には少しの気取りがある。だが、この句には何の構えもない、ただするっと剥けたことの快感がうららかに直結するだけである。
 やはり男性ならではの、青春性が生きている。
(セブンカルチャー)


   死に際を思ふときある桜かな     河合順

 西行は、「願はくば花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」と詠んだ。
 芭蕉は、「さまざまの事思ひ出す桜かな」と詠んだ。
 日本人なら誰でも、桜には死者の魂が宿っているように思うのではないだろうか。
 作者もまた、桜の散り際に重ねて、ふとわが身のそれを感じられたのであろう。
 死を思うことは、生きて在る命を思うことでもある。
 私の大尊敬する俳人大峯あきらに、

   〈花咲けば命一つといふことを  大峯あきら〉

がある。
 人生一度きりだから愛惜しようという意味ではない。どんなに多くの個体の命があっても、命は個体の枠をあふれでて唯一つ。その大きな宇宙的生命が、私を私にすると同時に、花を花にしているのだという真理である。
 順さんの命は、今一段とかがやいておられる。
(セブンカルチャー)

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   病む夫に花一輪の力欲し     矢島静
 
 静さんは長い間、ご主人様の看病に尽くしておられる。
 時はめぐって、巷にはまた美しい桜の花が咲きあふれる頃となった。
 静さんの眼をとらえてはなさなかったのは、太々とまた黒々とした古木の幹から、まるで簪のようにぐいと咲きだした一輪の桜であった。
 ああ、こんな力強い桜のエネルギーが、わが最愛の夫にも通ってくれますように、快方へ向けてただただ祈るばかりであった。
 どんなに苦しくても、どんなに多忙の日々であっても、自然と共に生きる理性と情感を失わない作者である。
(セブンカルチャー)


   麗かや車をかすめ鷺の羽根     田淵ゆり

 とある春の日、車でお出かけしていたら、いきなり窓に当たらんばかりにすれすれに鷺が飛んで過ぎたのだという。
 その真っ白い羽根が何とも逞しく感じられたことだろう。
 心動かされた、その瞬間を見逃さずに、きちんと一句に収められた。
 万象ことごとくうるわしい春の様子が、うそ偽りのない、心の様相となっていることに感嘆する。
(セブンカルチャー)


   生命線ぐんぐん伸びる木の芽雨     吉岡花林
 
 春になると、さまざまの木の芽がふくらんでくる。柳の芽、楓の芽、桑の芽など、早かったり、遅かったりしながらも、一斉に芽吹くころには、「芽起しの雨」がまたよく降り続くものである。
 掲句の生命線は、いわゆる手のひらに刻まれた筋が長く伸びて寿命を伸ばすのだというように考えてもいいが、私にはもっと大きな生命線といおうか、天地万物の生命線がぐんぐん伸びるのだというように鑑賞したい。
 生命の力を感じさせる木の芽雨がいかにもたのもしく表出されている。
(セブンカルチャー)
by masakokusa | 2015-04-30 23:11 | 『青草』・『カルチャー』選後に
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