こち向き浮く鳥ややにこち向き浮寝鳥 原石鼎 大正6年
何とも読みにくい句である。
だが、もう一度読み直してみると、「本当にそうだなあ~」と、一人微笑んでしまう。
大山の麓、わが家からの散歩圏には、水鳥の棲んでいる池や川があちこちにあって、句作りに最適だが、今しがた出会った浮寝鳥の姿は、石鼎の一句にばっちりはまってしまって、他に何も言うことがなくなった、お手上げである。
午後二時過ぎであったが、その日射しはまるで夕日のように、水面に染み入るようにあかあかとしていた。鴨たちは、即かず離れず、少しずつ向きを変えながら水に浮いているのだった。
浮寝鳥と作者は共に黙りこくってありながら、心の通いが微妙に伝わってくる。
絵にすれば幾何学的なものに、またモノトーンの映像にもなりそうではあるが、絵にも映像にもならない空気感が読み手の想像力を刺激してくれる。
「コチムキウクトリヤヤニコチムキ」と、遅々としたもの言い、ついには口ごもってしまいそうな、唇を小さく付き出したまま停滞してしまう感じがそのまま浮寝鳥のそれなのである。
一字一句に、ぬきさしならぬ石鼎の本当があって、それを何の臆面もなく表現できる、それが浮寝鳥というものの本質に迫ってくるあたり、何とも天真爛漫である。
石鼎には、
雪に来て美事な鳥のだまり居る 昭和8年
等、押しも押されもせぬ鳥の句が多々ある中で、「浮寝鳥」の如き、見事ならざる鳥の姿もまたみごとに活写するのが、凄ワザと言おうか。
鳥は、花のようにじっとしていないので詠い上げるのは難しい。
鳥の色かたちはもとより、その習性もよく知らずして安易に鳥を詠うのはどうかという飯田龍太の声も聞こえてくるのだが、石鼎はやはりよく鳥を観察していて、一句における鳥のおさめ方が決まっている。
その代表的なものに、
鶲来て色つくりたる枯木かな 大正6年
がある。
一読、殺風景な枯木に鮮やかな色がぱっと灯るのだが、さて鶲とはどんな鳥だったかしら、と後で思う。
知識のないものにまで、瞬時に感銘を与えてくれるのも石鼎ならではである。