「青草の会」・秀句抄(平成26年10月)       草深昌子選
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   一息に押せる落款鵙の声       二村幸子

 絵画であろうか書道であろうか、上々の仕上がりに、落款印を押す。
 折角の作品を落款で仕損じてしまってはならない。緊張感を持って押したその時、鵙が高らかにキイーキイーと鳴いたのである。
 「一息に押せる落款」は、あたかも「鵙の声」の比喩のようでもある。
(花野会)


   峰々の真中大山柿日和       間正一

 ここ厚木市はどこからも大山が見渡される。その大山は、幾つも峰のある丹沢連峰の真ん中にあるのだという。
 「峰々の真中大山」という、この堂々たる口ぶりがいい。市民の誰もが持っている大山に対する誇らしさが、自ずから表出されているのである。
 柿は秋の代表であり、日本の果物の代表である。いわば日本のふるさとのようなもの。誇らしい気持ちに輪をかけるような柿日和が何とも晴れやかである。
(木の実)
 
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   連れ立ちて行くハイキング雲は秋       後藤久美子

 ハイキングは連れ立って行くものに決まっている、なんて言う人がいるかもしれない。だが俳句は最後まで読み終わらないとわからない。
 下五に至って、「雲は秋」とこう納められると、何でもないことのよろしさが、ぐっと立ちのぼってくる。
 ちなみにこれが「秋の雲」であったら、只事に終わっていただろう。
 「雲は秋」の変幻自在さを味わいたい。一句のリズム感も歩く速度にかなっている。
(花野会)


   数珠玉や指切げんまんまたあした       堀場ゆふ

 数珠玉と言うとまず思い浮かぶのは、濁った川のほとりに傾いている姿であるが、ある時、武蔵野の民家の庭に婦人がさも楽しげに数珠玉を採取されているのに出会ってから、何やらなつかしいものになった。あの数珠玉は、今頃はお手玉になって、かわいいお孫さんに愛されているだろう。
 私のこんな数珠玉の印象に寸分の違いもなく、「指切げんまんまたあした」という跳ねるような措辞がやってきて、一読驚かされた。
 子どもたちのやさしさは時に荒っぽい仕草となって、健やかに今日という日を終える、そして又きっと明日も元気だ。
 念珠のイメージもひそやかにありながら、この艶ややかさは際立っている。
(草原)


   瑞垣や赤み増したる椿の実       石黒心海(ここみ)

 瑞垣は、玉垣ともいう。どこの神社の瑞垣であろうか。
 「瑞垣や」という打ち出しに、荘厳なる静けさに打たれている作者のありようが伝わってくる。
 深閑たる風景の中に見つけた椿の実の赤々とした光りが嬉しい。やがて椿の実は熟れて、黒い種を覗かせるようにして割れることだろう。
 何も語らずして、ただそこに在るものを呈示する。切れの効用を信じて、瑞垣という神聖なるものの奥行きをよく引き出している。
(草原)


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   縄文の祭祀遺跡や初紅葉       鈴木一父(ぴんちゃん)

 相模川と中津川に挟まれた台地の東側に、縄文時代の祭祀遺跡があることを、この句から初めて知った。
 祭祀遺跡は、神を祭った遺跡で、石製模造品、勾玉、土師器など、祭祀関係の遺物がさまざまに出土しているという。
 そんな「縄文の祭祀遺跡」に「初紅葉」を付けただけの、シンプルこの上もない句である。それでいて何と鮮やかな世界が描かれているものであろうか。
 紅葉の、わけても初紅葉の印象が原始のそれとかなさなって、ほのぼのと赤らむのである。
 (草原)


   秋の山自分の色に染まりたる       黒田珠水

 俳句は生まれて初めてという作者の一句。
 俳句のセオリーにとらわれたものには、もうこんな清々しい俳句はできないだろうと思う。
 秋になって、粧いはじめた山は、思い思いに自分の色に染まっているというのである。
 「自分」という、いわば日常的な、通俗的なことばが、生き生きと発色していることに驚かされる。
(草原)


   からからと石段駆ける黄葉かな       滝澤宣子

 10月のはじめに、秋晴の飯山観音へ吟行した。
 今年は紅葉が早いようで、ここ飯山観音の参道も桜をはじめ、ナラやクヌギなど様々の雑木が秋色を溢れさせていた。
 道幅の狭い凸凹した石段には風に吹かれて舞い落ちる黄葉が後を絶たない。
 「からからと」、まさにこれ以外のなにものでもなかった。
 率直な心に捉えた飾り気のない擬音が、澄み切った大気を感じさせてくれる。
(木の実)
 

   吊り燈籠灯す御堂や秋の声       山森小径

 飯山観音の本堂には、紫の僧衣も鮮やかに一心に読経する僧がいた。
 沢山の吊り燈籠はあかあかと灯ともされている。
 作者はそこに一人静かに瞑目されていたが、その時の心に聞こえた、あの世この世のものとも知れぬ天地の間の声を感受されていたのだろう。
 ともすれば観念的になる「秋の声」であるが、この句は、一つの具象をもって、声明にも似たかそけき音を確かにひびかせてくれるものである。
(木の実)

 
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  萩盛り三色饅頭うまかりし     江藤栄子

 萩は秋の七草の筆頭に数えられ、古来日本人好みの花である。
 私も齢をとるほどに愛着がつのって、初秋ともなると萩寺詣でを欠かさない。
 この句の萩も寺であろうか、名園であろうか、今を盛りと咲き溢れるしなやかな萩の光景にほれぼれと見入っている。
 その喜びが、「三色饅頭うまかりし」に言い尽くされている。同時に、秋の日差しもたっぷりと感じられる。
(セブンカルチャー)


   掛稲や遠くに山のうっすらと     菊地後輪

 刈り取ったばかりの稲は、稲架を組んで、天日に干される。
 ここ丹沢山系の麓でも、そんな稲を干す風景がここかしこに広がっている。
 遠く大山がくっきりと鮮明に見える日もあるが、この作者は霞がかかってうっすらと見える様子をいかにも掛稲の風景としてふさわしいものに感じられたのであろう。
 遠景をぼかしたことで、近景の掛稲の重量感がいっそう明らかに、たのもしく感じられる。
(セブンカルチャー)


   灯明の如きひとむら曼珠沙華     矢島静

 曼珠沙華は、秋の彼岸が近づくと、いっせいに畦や土手や藪のなかに赤い花を咲かせる。
 彼岸花ともいわれる、そんな曼珠沙華を、「灯明のごときひとむら」と簡潔明瞭に言い切った。
 蕊の長い、真っ赤な花のひとかたまりが、まるでお灯明を灯しているようだというのは、視覚的にも、心象的にも、納得させられるものである。
(セブンカルチャー)

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   満月の雫の欲しき今宵かな     河合順
 
 仲秋の満月を賞でた作者は、皓々たる月光のしたたるような感覚に魅せられたのだろう。満月の雫が欲しいとはまた何とゴージャスな願いであろうか。
 あまりに強い月光に、思はず洩らした若々しい感受性はうらやましいばかり。
 「今宵かな」の座五がさりげなくていい。
(セブンカルチャー)


   運動会目立つ靴下穿かせたり     吉岡りほ

 一読、わが孫の小さい頃の運動会が思い出された。娘に、「太郎は、真っ青な靴下を穿いているから、よく見ていて」なんて教えられて、先づ足下に気を付けると、なるほど大勢のなかでもすばやく見つけられた。
 作者もまたそんな体験をおもしろく思われたのだろう。
 若いお母さんになりきって、運動会の一つの側面をさらっと詠い上げられた。
 家族ぐるみの楽しさが滲みでている。
(セブンカルチャー)


   湧水に笹舟揺るる涼新た     田渕百合

 湧水に子供が笹舟を浮かべて遊んでいる。あるいはもう子供が帰ってしまって、笹舟だけが静かに浮かんでいるのかもしれない。
 水は透き通って、笹舟の緑がちらちらと揺れている。
 それは、ちょっとひやっとするような今年初めての秋の涼気であった。
(セブンカルチャー)
by masakokusa | 2014-10-30 23:32 | 『青草』・『カルチャー』選後に
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