鶏頭に夕日永しと思ふなり 細見綾子 日の暮れが早くなったが、ここ鶏頭の赤い花には夕日がいつまでも燃えている、いやいつまでも赤くあって欲しいという願望かもしれない。
先ごろ、ふらんす堂の「365日入門シリーズ」の9巻目として、岩田由美著『綾子の一句』が刊行された。
掲句はこの著作の10月1日の一句。
岩田由美はこう鑑賞している。
「―実際にはそれほど長い時間でなくとも、感覚的には永遠のように永い。鶏頭に夕日の当たる光景を作者は何度も見ただろう。何百年も繰り返されてきた光景でもある」
「鶏頭」といえば、〈鶏頭の十四五本もありぬべし 正岡子規〉が思われてならない、そういえば、その昔、子規の見た鶏頭がここにもあかあかと生きているということが、あらためて気づかされる鑑賞である。
ちなみに、9月29日から10月4日まで、「鶏頭」の句ばかり、6句掲載されている。
鶏頭を三尺離れもの思ふ 見得るだけの鶏頭の紅うべなへり 鶏頭に夕日永しと思ふなり 思ひ出す事あるやうに鶏頭立つ そののちも鶏頭の花赤からん 鶏頭の襞にこもれりわが時間 二句目、「――見尽して、紅さこそが鶏頭の本質であり、鶏頭はこうでなくては、と納得したのだろう。満足感がある。鶏頭を詠むのではなく、自分の心を詠む」とある。
スパッとした率直な物言いが、細見綾子の清新な句風によく添っている。
己が庵に火かけて見むや秋の風 原石鼎 「人間の暗い情念を詠んだ句だ。わが庵に火をつけてみようかと詠う。秋風の中で庵が燃え上がるさまを見たい。刹那の官能のためならば、庵の一つや二つ焼けてもかまわなぬ、というこの句には、危ない匂いがする」
と鑑賞するのは俳人岸本尚毅。
その著『名句十二か月』から引かせていただいた。
さきの岩田由美とは、鴛鴦俳人夫妻である。
ところで掲句は、大正3年、原石鼎28歳の時のもの。
父母のあたたかきふところにさへ入ることをせぬ
放浪の子は伯州米子に去って仮の宿りをなす
秋風や模様の違ふ皿二つ
瞑目して時に感あり、眼開けば更に感あり 二句
秋風に殺すと来る人もがな
己が庵に火かけて見むや秋の風
鶏頭ならぬ「秋風」も赤い。模様の違う皿も赤絵など赤い色のものではないだろうか。
朝風は芙蓉の白にありあまる 大峯あきら
一瞬、画面は真っ白になり、よく見ると、その真っ白はゆっくりと大きく、とぎれもなく揺らいでいる。
汚れなき芙蓉の白さであると気付くまでのたっぷりとした時間が何とも美しい。
「ありあまる」というような、ごく平凡な日常の言葉が、たった17文字にして、まさにありあまるような詩情豊かなものに変現することに唸らされる。
ひんやりとした朝風が、芙蓉をゆらしてやまないのである。
そういえば、新田次郎の「芙蓉の人―富士山頂の妻」にみるように、富士山のことを芙蓉と形容するのだった。
ことに白芙蓉は、富士の雪の白さにかよっているのであろうが、そんな白の印象が掲句にもかぶさってくるものである。